トレーナーさんは眠らない(ガチ)   作:HK416

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ランキング入り、感想、投票ありがとうございます。
大変な励みと勉強になりますので、今後もお願いします。

そして今回は会長回。
気合い入れて書いてたら、なんか二万字超えてた。
次はもうちょっとサクっと読める量にしたいなぁ。



『捲土重来』

 

 

 

 

 

 彼の第一印象は何とも善良そうで、何とも優しそうな男、だった。

 

 

「えっと……あぅ……ここ、どこ……?」

「どうかしたのか? 私でよければ――――」

「おーい、どうかしたー? 大丈夫――――」

「「――――ん?」」

 

 

 初めて出会ったのは入学直後。

 広大な敷地で道に迷ってしまった同級生に声をかけたところ、私と同じことを考えていた彼も同じタイミングで話し掛けてきた、と記憶している。

 

 当時、彼は学園でもトップクラスのトレーナー、東条トレーナーにサブトレーナーとしてついていた。

 この学園では、それが習わし――実質的な規則と言える。

 新人トレーナーはいきなり個人を担当、チームを率いる訳ではない。必ずベテランの下で経験を積む。

 

 どれだけ知識を身に付けようと、実践はまた異なる。

 

 素人が野球選手の動きを頭で完璧に分かっていても、身体をその通りに動かせないように。

 そうした知識と実践の差異によって生じる弊害は、ことトレーナー業においては致命的。

 

 トレーナーとウマ娘間で生じる相互不理解、不和。

 相手方の意見ばかりを尊重し過ぎてしまう故の無理無謀の看過。

 何処を見ればいいのか分からず、些細な違いを見過ごしてしまった故の予後不良。

 

 皆、どれもが両者にとっての破滅に繋がるものだ。

 無論、ベテランとてその全てを把握しきれるわけではないが、新人よりも可能性は遥かに低い。

 そうした破滅を避けるためにベテランの補助から始まり、徐々に経験を積んでいく。

 

 ベテラン側も仕事が増えるだけ、不利益を被るばかりではない。

 若い感性、無知故の着眼点に触れることで、新たな視点を得ることもあれば、自らに足りぬ要素を知ることもある。

 

 互いに高め合う関係性は同一。されども、その手法は多種多様にして千差万別。

 自らの得意を言葉で伝える者もいれば、敢えて苦手分野に共に挑戦することで許される範囲での間違いを示す者もいる。

 

 その点、東条トレーナーと彼の関係性は異質ですらあった。

 彼女が自ら志願して彼を育てると理事長に宣言したにも拘わらず、全く指導している様子がなかったのだから。

 関わりの少なかった私から見ても奇異に映っていた。恐らく、彼女が当時担当していたミスターシービーを始めとする面々も同様だったろう。

 

 

「彼にはそれでいいのよ。見てるだけで十分。懇切丁寧に教えるよりも、見せてやらせた方がずっと早いから」

 

 

 不思議に思って東条トレーナーに聞いても、呆れと羨望が混同したような笑みでそんな言葉が返ってきた。

 

 不仲であったわけではない。

 余り感情を露わにせず、自他に対して厳しい彼女であったが、彼と話しているとふと笑みを零す瞬間さえあった。

 

 

「おい、私のフォーム見てくれ」

「何だよブライアン、突然だなぁ。そういうのはおハナさんに言った方がいいんじゃねえかな。オレが勝手やるのはなぁ」

「いいだろ、別に。まだるっこしい。あっちだってそういうのにお前が長けてるからサブトレーナーに置いてるんだろうが」

「じゃあ私も私も。お姉さんもアドバイスも欲しいし。後でドライブ連れてったげるから♪」

「えー、やだー。マルちゃんさー、カーブでアクセル踏むし、時々前見ないでこっち見て感想求めてくるじゃん。オレ助手席乗るのこわーい。しっかり仕事するのに罰ゲームしたくなーい」

「何よぉ、もー! 罰ゲームは酷くない?!」

「「酷くない」」

 

 

 そんな人柄故だろうか。

 東条トレーナーの下に集った者ばかりでなく、面識のあるウマ娘は皆一様に彼を慕っていた。

 

 少なくとも私は、彼ほど誠心の二文字に相応しい者を知らない。

 

 語り口調は軽快で、堅苦しさがなく話し易い。

 他者の悩みを受け止め、共に悩むか、解きほぐすかのように笑う姿は能天気には程遠く、誠実ですらあった。

 人を恨まず憎まず妬まず恐れず、陰口を叩くような真似もせず。

 指摘しなければならない欠点を見つければ、相手を慮った上で時に遠慮なく意見を口にする。

 道理さえ通っているのなら、相手の必死さを汲み取れば、伸ばした手を取ってくれる。

 

 正直に告白してしまえば、私は尊敬すらしていたように思う。

 

 どうにも、私は人との付き合い方が不得手だ。

 父と母から品と格を教えられ、私自身もそれを是とした。けれど、世の中の多くの人はそのような教育を受けてはいない。

 何を口にするにも堅苦しく、どれだけ相手を慮っても、そのつもりがないにも拘わらず威圧感や圧迫感を与えてしまう。 

 

 初めの内は何とかならないかと努力していたのだが、私の理想の理解者を得る内に適材適所と任すようになっていた。

 

 そもそも私が学園に入学した目的は、レースそれ自体に勝つことでも記録を残すことでもない。

 無論、勝利への欲求は他のウマ娘と同様に私の中にも強く存在していたが、あくまで夢の為の通過点。

 私の夢は、全てのウマ娘が幸福を享受し、笑顔で在る世界を創ること。そのためにはレースで名と実を得るのが一番の近道と判断した。

 

 

 その点、彼は私の夢を小規模ながら叶えてくれるような人物だった。

 

 

 私が気付くよりも早く、思い悩み、厳しい現実に苦しむ者に手を差し伸べる。

 私が頼むまでもなく、自分を客観視できなくなるほど追い詰められた者に声を掛ける。

 

 彼がやっていた行為は、言葉にすればたったそれだけ。

 だが、私にとっても、多くの人々にとっても例えようなく難しい。

 気後れも驕りも恐れもなく、当たり前のように他者に対して手を伸ばせる人間はこの世にどれほど居る事か。

 頼もしい、と両親以外で心の底からそう感じたのは、彼が初めてだったかもしれない。

 

 

「会長、トレーナーはどうするおつもりですか?」

 

 

 生徒会長の席に付き、私のトゥインクルシリーズ参戦前にも拘わらず“皇帝”と噂されるようになった頃。

 私が自ら選んだ右腕、『女帝』と称されるエアグルーヴは、そんな言葉を口にした。

 

 正直なところ、“そろそろ”とは思っていた。

 トゥインクルシリーズへの参戦はほぼ任意と言ってもよい。

 入学直後から参戦する者も居れば、必要な実力をある程度培ってから挑む者もいる。私は後者だった。

 

 参戦を認められる条件は比較的緩い。

 

 まずは選抜レースに勝利し、学園側に自らの実力と意思を示すこと。

 デビュー戦までの間にトレーナーにスカウトされて了承するか、トレーナーを自らスカウトして了承を得ること。

 そして、デビュー戦に勝利し、正当な参加資格を得ること。

 その後、トレーナーの手続きによって、最も重要な三年間が始まる。

 

 正直、トレーナーに関して不安はなかった。

 自信でも驕りでもなく私は事実として、学園の標語である“唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)”をその時点で体現できていた。

 トレーナー側にも様々な欲求や夢があり、担当し、育成したウマ娘が結果を出すことが自身の結果そのもの。

 ならば、有力かつ自身の適性と相性の良いウマ娘を探すのは当然。いずれ、そうしたトレーナーが私の前にも現れる。それを私が選ばせて貰えばいい。

 

 其処まで考えた時、ふと思い浮かんだのが彼だった。

 

 その時点で親しいと言える間柄であったのはエアグルーヴを始めとする生徒会の面々に、マルゼンスキーの他には彼くらいのもの。

 尤も、彼の方にとってはどうだったか。分け隔てなく誰とでも同じように接する彼にとって、私はその他大勢の一人であったかもしれない。

 

 ただ、期待はあった。

 或いは彼なら、真摯に受け止めてくれるのではないか、と。

 或いは彼なら、見えてもいない頂を目指して、共に歩んでくれるのではないか、と。

 

 

「はー、そりゃまた。語彙力がなくて悪いけど、凄いなそれ」

「不可能とも言わないし、笑わないのだな」

「そりゃねぇ。オレも誰かに夢を肯定して貰って此処にいるわけだし。それだけ壮大な夢なら、自分一人で頑張らなくてもいいし、自分が実現出来なきゃ次の誰かに託したっていいしね」

「ふむ、確かに。一人で気負い過ぎていたかな? そう考えたことはなかった、な……」

「まあ君は人より優れてるからさ。自然とそうなるんだろうけど、人を使う事と同じくらい、人に頼る事を覚えた方がいいと思うよ…………気に入らない?」

「……? どうしてそう思ったのか、聞かせて貰いたいな」

「だって眉間に皺寄ってる」

「……っ」

「ははッ。君さぁ、自分で思ってるほどポーカーフェイスでもないから気をつけな」

 

 

 悪戯っぽい笑みと揶揄うような言葉。

 けれど、その瞳に浮かぶ色は嘲笑には程遠く、真摯そのもの。

 指摘したのは私の弱さであり、青臭さを揶揄っただけで、私の夢を笑ったわけではなかった。

 

 私自身の堅苦しさ故に周囲から距離を置かれる私であっても、彼は何一つ変わらない。

 善人のまま、優しさのまま、ありのまま。私自身ですら知らない私を引き出して、共に笑う。それが堪らなく心地良かった。

 

 

「私の夢は語った。折角だ、君の夢も聞かせて貰おう」

「そっちが勝手に言い出したのに確定事項なん?」

「そうした強引さも時には必要なのでね。それで返答は?」

「……まあ別に隠してるわけでもないからいいけどさ。シンザンを超える娘を見てみたい、それだけだよ」

 

 

 遥か遠くの空を眺めて子供そのものの顔で笑いながら、照れるでもなく恥じるでもなくそう言った。

 

 特段、真新しい夢な訳ではない。非礼を承知で言うのなら、ありきたりでさえあった。

 この業界、我々の競い合う世界では、シンザンが現役を引退してから二十年以上経った今でさえ最強の名をほしいままにしている。

 史上初の五冠達成。残された爪痕全てが日本史上に燦然と輝く、至高にして神とまで呼ばれたウマ娘。

 

 “シンザンを超えろ!”。

 二十年前から中央にとっても、この学園にとっても、トレーナーにとっても、我々ウマ娘にとっても変わらぬ標榜として、常に掲げられている。

 

 彼が他と唯一違っていたのは、“育てたい”のではなく“見たい”ということ。

 彼のシンザン好きは有名だった。語り出せば何時間と止まらなくなるレベル。私も巻き込まれたことがあり、辟易としたほどだ。

 其処が唯一の欠点。同じトレーナーであれ、ウマ娘であれ、皆一様に呆れと共に口を揃えてそう言った。

 

 二律背反。

 誰よりもシンザンに恋い焦がれ、追い掛けようとトレーナーになった。

 だからこそ、誰よりもシンザンを超えるウマ娘の走りを見たいと同時に見たくなかったのだろう。

 

 そもそもの話、見るだけであれば、海外にでも見に行けばいい。

 ウマ娘は世界中におり、シンザンを超える者は現時点でも必ず存在しているはずなのだから。

 

 

「ふむ。では、私のトレーナーをして貰えないだろうか?」

「えっ? 今の話でそう持ってける要素あった? そもそもオレ、話を聞いて貰いたいからって来ただけなんだけど……」

「むっ……少々意外で、心外だ。これでも多くのトレーナーからは引く手数多だと思っていたのだが、そうも嫌厭されようとは……」

「いや、オレは話の流れが迷子になってない? って言っているだけでね?」

「何もおかしくはないと思うが? 私は私の夢を笑わずに受け止めてくれた君を同志としてトレーナーに迎えたい。君はシンザンを超えるウマ娘がみたい。ならば私のトレーナーになるべきだろう」

「言い切ったな」

「自信でも自負でもなく事実だよ。今この学園で私が最もシンザンに近い」

「まー、そりゃ学園見渡しても頭一つどころか三つも四つも抜けてるのは認めるけど、すげー自信だぁ……」

 

 

 驕りではなかった、と今も信じている。

 シンザンは必ず乗り越えねばならない高く聳える壁。

 越えるためであれば努力を惜しまず、如何なる限界をも超えていく所存だった。

 

 私にしては感情的になっていた。

 自信とは言葉で示すものではなく、態度に自然と表れるもの。そう両親から教えられてきたにも拘わらず、口にせずにはいられなかった。

 ただ、少なくともこの時の私は、その理由を理解しておらず、自覚すらしていなかった。

 

 思えば、もうこの時点で私は彼に惚れ込んでいたのだろう。

 トレーナーとしての能力は未知数であったとしても、彼は疑う余地のない善人で、発揮した誠心と重ねた善行の分だけ正しく報われて欲しかった。

 彼の夢を叶える一助となりたかった。そして、私の夢を叶えるために手を貸して欲しかった。

 

 そしてきっと、シンザンに嫉妬していたのだ、私は。

 そんな彼の視線と思いを独占する彼女に。

 

 

「………………一つ条件がある。このままだと公平(フェア)じゃない」

公平(フェア)……ふふ。そうか、そういうことか。確かにそうだな。ではトレーナー君、折り入って頼みがある」

「流石に話が早い。そう畏まらなくてもいいと思うけど」

「畏まるさ。大事だからね――――返事は、私の走りを見てからに」

「ああ、君の走りを魅せてくれ。オレも、死力(ベスト)を尽くすよ」

 

 

 僅かに悩むような素振りを見せた彼だったが、少ない逡巡で決断を下した。

 望んだのは、正しいトレーナーとウマ娘の出会い。互いを知り、互いに認め合った末の関係性と公平性。

 

 ――――そうして、私達は手を取り合った。

 

 

「凄いな。身体を作るトレーニングメニューに献立、それにフォームの改善計画まで。まだ組み始めて三日目だぞ?」

死力(ベスト)を尽くすって言ったじゃん。元々、拷問部屋で知識だけは詰め込んであったし。それにオレ、寝なくていいから他の人より時間あんの」

「確かに、君の噂は耳にしたことはあるが……この量は流石に信じざるを得ないな。と言うより、拷問部屋とは……?」

「ああ、オレが選んだトレーナー専門学校のこと。卒業率は他よりも圧倒的に低いけど、中央への就職率が異常に高くて選んだまでは良かったが、あそこの寮ヤバかったよ。毎晩毎夜、勉強し過ぎて発狂して叫び出す奴とかいんのに皆慣れ切っちゃって勉強し続ける地獄みたいな環境。此処卒業しただけで一目置かれるかな」

「………………因みに、他に卒業してるのは?」

「おハナさんだろ? 黒沼さんだろ? あと地元に居た時から後輩だった南坂ちゃんだろ? …………二つ以上の意味でヤベー奴しかいねぇな」

 

 

 トレーナーとしての彼の実力は、私の想像を遥かに超えていた。

 後に知ることになるが、東条トレーナーはさっさと担当を決めて正トレーナーになれ、と再三に渡って言い聞かせていたようだが、如何なる理由かは定かではないが、ずるずると先延ばしにしていたようだ。

 その話を聞き、私を選んでくれた優越を抱いたのは言うまでもない。お前はシンザンを超えられる、と言われているようでこそばゆかった。

 

 苦手を潰し、得意を伸ばす効率の良いトレーニング。

 欲を満たすと同時に身体を作りながらも、摂取の過多を見て安全マージンを確保した献立。

 そして何よりも、私自身ですら気付いていないフォームの問題点の指摘と改善。

 

 どれをとっても素晴らしいの一言。

 知識量は勿論の事、東条トレーナーの下で学んだ実践への応用と個人に合わせた調整は舌を巻く他なかった。

 東条トレーナーが見込んだだけあって、生まれ持った天性のみならず、努力すら一切怠らない本当の天才。

 

 だが、その本当の理由を私はまだ知らなかった。

 

 

「失礼するよ、トレー――――っ」

「……………………………………」

 

 

 それを知ったのは、確か私のデビュー戦直前。

 今の仕事部屋では手狭だと、倉庫を改装して作った彼と私だけのミーティングルームを訪れた時。

 

 “唯一抜きん出て並ぶ者なし(Eclipse first, the rest nowhere.)

 

 其処でその言葉が、何もウマ娘(われわれ)にだけ適用される言葉ではないと思い知った。

 

 一意専心。万里一空。勇往邁進。勤倹力行。

 いずれも何らかの事柄に全霊と努力を些かも惜しまずに注ぎ込む意を持つ言葉であり、その四文字に相応しい人物は皆称賛される。

 

 しかし、彼は余りにも凄まじ過ぎた。

 ミーティングルームに足を踏み入れた瞬間、総毛立つ。

 まるで大型の肉食獣の居る檻に、何も持たずに放り込まれたかのような気さえした。

 

 彼は、私のデビュー戦に挑んでくる者の映像記録を見ていただけ。

 瞬き一つせず、僅かな懸念も残すまいと相手の癖や得手不得手のみならず、思考様式や成長性すら見抜かんとするその視線。

 

 本気、真剣、全霊、死力の姿は否応なく恐ろしい。

 より異質だったのは憎悪も嚇怒もないままに発せられる、私が呼吸すら忘れてしまうほどの集中力と雰囲気。

 壁にはホワイトボードにも書ききれなくなった映像から読み取った情報の数々、情報から導き出した答えが正しいかを確認するための数式がびっしりと書き込まれていた。

 

 最早、天才などという言葉に収まりきらない姿と才気、独自の感性。

 異質、異常、異端、異類、異形。彼が息をするように行っている事柄が、常人ならば死力を尽くしても至れない境地そのもの。

 

 そこで、はたと気付いた。

 彼が東条トレーナーのサブトレーナーをしていた意味を。

 東条トレーナーが彼を見込んだのではない。東条トレーナー――――この学園におけるトレーナーの頂点でなければ、彼の天才性と異常性に耐えられずに潰されるのだ、と。

 

 穏やかな善性の人格の下に隠された、当人ですらどうにもできない本性。

 彼をそのように成長させた両親に感謝すべき、と本気で考えた。

 そうでもなければ彼はただ其処に存在しているだけで周囲に悲鳴を上げさせ、才能の差を自覚させるだけで圧し潰す怪物になっていたに違いない。

 

 それでも頼もしく感じていた、と思う。

 私も周囲が委縮してしまう点において、似たようなものだったから。

 何よりも、彼は私よりも遥かに上手く生きていた。

 私以上に周囲を圧力で潰してしまうはずの彼が、私よりも多くの信頼を獲得している姿を心底から尊敬し、同時に憧れていた。

 

 

「なー、もう勝負服作っちゃわない?」

「何を言っているんだ、君は。デビュー戦もまだなのに、そんなことが許されるはずないだろう」

「ところがどっこい、勝負服作ってる服飾担当と仲良くなっちゃってさぁ。お願いしたらいいってさ」

「…………君のコミュニケーション能力にはいつも驚かされるな。……うん、しかし、私だけと言うのは、な」

「え? 別にいいんじゃない? やってくれるって言ってるし。じゃあマルちゃんとかブライアン、エアグルーヴに声かけてみるかー。こっちの要求に対してどれぐらいのものをお出しされるか見ときたいし。勝負服で失敗すんのはちょっとなぁ」

「むっ…………い、いや、その三人に迷惑をかけることはないだろう? 私が行こう。実は私も考えていたものが既にあってね」

「お、乗り気になったな。どんなんどんなん?」

「こう、やはり“皇帝”と呼ばれるからには、それに恥じない威厳が欲しい。軍人の礼服のような、肩章や飾緒があるものがいいな。色は落ち着いたもので、肌は余り見せたくない」

「なら色は群青か、深緑がいいかなぁ。肩章と飾緒は金糸使って貰ってアクセントにしてさ。いや、それだけじゃ地味だな……マント付けない? 走行妨害判定されない短くて真っ赤な奴」

「ほう、それは考えていなかった。マント、マントか。うん、いいかもしれないな」

「後さ、軍服みたいにするなら勲章も付けようぜ。八大競走を制覇する度に一つずつ増やしてくんだよ。戦闘機の撃墜マークみたいにさ」

「ふふっ、随分と挑戦的と言うか挑発的と言うか」

 

 

 嬉しかった。

 一人でも成し遂げるつもりであったが、これほどまでの理解と支えを得られるとは思っていなかったから。

 

 

「済まないな、トレーナー君。君にまで生徒会の仕事を手伝わせてしまって。こういう時は…………忍びねぇな、だったかな?」

「構わんよ! …………なんだ、ニュース以外も見るようになったじゃん」

「君のような軽妙洒脱な会話には憧れていてね。相手の視座に寄せて考える重要性と、同じ情報を共有した方がいいと学ばせて貰ったよ」

「頭かった! 君さー、まだまだ頭固いよ。もっと頭柔らかくしな。じゃあちょっと謎々やってみようぜ。こういうの結構面白いし、効くんだよな」

「そういうものか……ふむ、では問題を」

「訪れる姿は羊の如く、擦れ違う姿は矢の如く、去った後は山の如く動かない。これはなにか?」

「まるでスフィンクスの謎かけだな……ふむ、羊に、矢に、山……それぞれ動物、道具、それから風景、いや地形かな? 一見、共通点は見当たらないな……うぅむ?」

「はい時間切れ。これくらい秒で答えないとな。答えは“時間”。ゆっくりとだが確実に訪れて、一瞬で過ぎ去って、その後はもう二度と手を加えられない。ほら、簡単」

「ほう…………いや、待って欲しい。矢はまあ分からなくもないが、羊は確実に此方へと向かってくるわけではないし、山も切り開こうとすれば出来ないこともない。君の出題のし方が婉曲的で抽象的であることに問題があるのではないかと言いたい」

「負けず嫌いだなぁ、君! こういうのは例えなんだからいいんだよ。そういうところだぞ」

「そんなことはないだろう。では、私からも、だ。…………月曜は煮え湯を飲み、火曜は水を飲み、水曜は土を喰らい、木曜は風を生み、金曜日は地に出でた。これは何か? ふふっ、ちょっとした力作だぞ?」

「ふーん、月火水木金ね。その順序だとぉ……分かった。答えは“生命”だろ? 生まれたばっかの地球はマグマの海だった、そこから細菌だのバクテリアが生まれて水生生物になって、植物が育って空気を生んで地上に陸生生物が現れる。そんな感じか」

「……くっ! 正解ッ!」

「ふふーん、よゆー。ってホント負けず嫌いだよね、君」

 

 

 楽しかった。

 勇往邁進。甘く愚かな夢は一時たりとて忘れたことはなかったが、君の前では心も身体も軽くなり、夢が実現可能な範囲にあるとさえ思えたから。

 

 

「ところで聞いてくれないか、トレーナー君。新作が出来たぞ」

「エアグルーヴも居るからやめなぁ? やる気下がっちゃう!」

「き、き、貴様ッ! 余計なことを言うなッ!」

「エアグルーヴもこう言ってくれている。構わないだろう?」

「すげーなコイツ。エアグルーヴが聞きたくてしょうがないって思ってんぞコイツ。意外と暴君なところあるよなコイツ」

「おほん……この前、栄養補給でバナナを食していたのだが、ふと思った。()()()を食べ過ぎれ()()キロは太ってしまうな、と」

「………………」

「ふっ、ふははっ、どうだったかな?」

「エアグルーヴの やる気が 下がった!」

「い、一々私を引き合いに出すのはよせ!」

「今のお前、バナナの皮より滑ってんぞ」

「ぶっ! く、ふ……ほ、本当にき、貴様はぁ……!」

「くっ、ずるいぞっ……私の渾身の冗句を横から奪っていくなど、まるで鳶だっ」

「会話もダジャレも下手すぎんだろ、どうなってんだよお前」

 

 

 喜ばしかった。

 私の知らない私を見つけてくれる度、呼び方が君からお前やコイツに代わって、心の距離が縮み、より同じ方向を向いていると感じたから。

 

 

「――――君ならば分かってくれると思っていたが。エアグルーヴも心配し過ぎだ」

「そりゃ気持ちは分からんでもないけどなぁ」

「夢のために、私は私に限界を超えろと命じる。そうしなければならない。この程度で壊れるほど柔ではないよ」

「じゃあ逆に聞くけど、夏の合宿で限界超える必要って何処にあんの? 限界超えるのが常態化したらぶっ壊れるわ。アホか、どうせ超えるならレースで超えろ。焦り過ぎだろ、一歩ずつ確実に行こう」

「そ、それは……っ!」

「限界を超えなきゃならない瞬間ってのは確実に来る。だが、それは今じゃないでしょーが。オレも自分もあんま舐めんなよ」

 

 

 苛立ちもあった。

 怒鳴り合うような真似こそしなかったが口論にはよくなった。その度に自身の焦りを優しさと呆れと共に指摘され、何も言い返せなくなって、より一層頼もしくも思った。

 

 

「まずは一冠。ま、これくらいは余裕だな。対抗できる奴もいなかったし。それより勲章、オレが作らせて貰ったんだよ。どう? どう? 結構巧く出来たと思うんだよなぁー」

 

 

 なのに。

 

 

「これで二冠。ちょいと思うところもあるが、言ってもしゃーないしなぁ。それよか、こりゃ早目に次の勲章作った方がいいな。ん? 無駄になるかも? バカ言うなよ、なる訳ないだろ?」

 

 

 ――なのに。

 

 

「流石にちょっと驚いたよ。見えてはいたが、無敗のまま三冠とは。いやぁ、だけど、そうだな。………………おめでとう、()()

 

 

 ――――両親しか知らなかった幼い頃の名を明かし、彼も呼んでくれたのに!

 

 

「…………あの、ところで、()()()()()()()()()

 

 

 ――――君は一人で、全てを忘れてしまった。

 

 

 その一言で全てを理解した。

 そして、生まれた時以外に泣いたことのなかった私が、誰にも恥じることなく生きねばならないはずの私が全てを忘れて、零れる涙を抑えることが出来なかった。己の脚で立っていることさえも。

 

 ただひたすらに悲しかった。

 君と共にあった嬉しさも、楽しさも、喜びも、苛立ちですら、全てを否定されてしまった気がして。

 

 ただひたすらに自分を責めた。

 彼が事故に巻き込まれたのは、私の三冠を祝っての席の帰り道。

 私も居た。エアグルーヴも居た。ブライアンも居た。マルゼンスキーも居た。東条トレーナーも居た。なのに、何も出来なかった。

 我々は動揺とは無関係に、最善の行動を取ったはず。エアグルーヴは救命救急に連絡を入れ、ブライアンは車の運転手の状態を確認、マルゼンスキーは事故の原因となった親子の無事を確認、私と東条トレーナーは考え得る限り完璧に近い応急処置を施した。

 だが。救急救命士ですら太鼓判を押してくれた処置でさえ、彼の記憶を守ってはくれなかった。

 

 そして何よりも――――彼は、この先どう生きていけばいい?

 

 きっと、彼は私以上に自身を責めるだろう。

 思い出は生きた証であり、絆そのもの。自身が記憶を失うことで、一方的に絆を断ち切ってしまう事実に思い至らない彼ではない。

 

 その上、前向性健忘まで。

 トレーナー自体は続けられるだろう。彼の体質と才能があればやっていける。

 けれど、彼はそれを選ばない。人に足を引っ張られても笑って許したが、人の足を引っ張ることを是としなかった。

 どうすればいいかも分からないまま、私自身がどうしたいのかも分からないまま、逃げるように生徒会の仕事に没頭し続けた。

 

 エアグルーヴもブライアンも今はいない。前者はレースに、後者は東条トレーナーとトレーニングを行っている。

 エアグルーヴは再三に渡って休むように言ってきたが、その言葉は全て無視した。何かをしていないと不安と焦燥に圧し潰されそうだから。

 ブライアンはただでさえサボリ癖があったが、更に生徒会に顔を見せなくなった。責めるつもりはない。見ていられるか、と吐き捨てるように出ていった彼女だが、確かに私を気遣ってくれていたのが分かったから。

 

 余りにも暗澹たる状況だ。

 両親から相応しい教育を受け、“皇帝”などと持て囃されながらのこの様に、何度自嘲したことか。

 

 そうこうしている内に昨日、彼は学園に戻ってきた。

 

 彼には、まだ会っていない。

 恐かった。見ず知らずの誰かへ向けるものと変わらない彼の視線を浴びるのが。

 分からなかった。どうすべきなのかは勿論のこと、どうしたいのかさえ未だに答えが出ない。

 聞きたくなかった。私のためを思って、私の隣から去っていく別れの――――

 

 

「ちょっと、大丈夫?」

「…………っ」

 

 

 気が付けば、目の前に心配そうに此方を覗き込むマルゼンスキーの顔があった。

 

 思わずぎょっとして思考の海から引き戻される。

 生徒会室の机に座り、書類を片付けていたのに、まるで進んでいない。

 あの日から、こうして手の止まる時が増えた。情けないにも程がある。私を信頼し、同時に心配してくれているエアグルーヴにも顔向けできない。

 

 

「…………生徒会室に入るなら、ノックくらいすべきだろう」

「したわよ。でも無視されて、鍵もかかってないから入ってきちゃった」

「っ……すまない」

「いいわよ、これくらい。昔からそうなんだから、ちょっとくらい感情吐き出さないとくるくるぱーになっちゃう」

 

 

 苛立ちを吐き出すための、見苦しい八つ当たり。

 それでも彼女は真正面から受け止めて、私の所業は怒鳴りつけても許される非礼であったにも拘わらず、なおも微笑んだ。

 

 本当に、いい友人を持ったと思う。

 彼女とは学園に入学した当初からの付き合いで、随分と助けられた。

 私と気が合うと言うよりも寧ろ、彼女が誰とでも合わせられる人間性を持っているのだと思う。

 

 

「仕事、行き詰ってるみたいね」

「いや、考え事をしていただけだよ。すぐに終わるさ」

「だーめっ! どうせ同じ事繰り返すんだから、お姉さんと気分転換行きましょ?」

「…………ふっ、ドライブは御免だぞ?」

 

 

 トン、と柔らかい指先で額を押される。

 それだけで、随分と心が軽くなった気がした。

 

 マルゼンスキーはエアグルーヴと同様に、私を心配してくれている。

 生徒会に顔を出してくる機会が増え、昼休みの時間帯には引き摺ってでもカフェまで連れていく。

 それでもエアグルーヴのようにもうやめろとも、休めとも言わない。制止では意味がないと思っているのか、彼女も似たような状態なのか。

 

 いずれにせよ、彼女の言う通り。

 根を詰めても良い結果は得られない……そう言えば、そう教えてくれたのは彼だった。

 ふと、頭の隅を過ぎった考えを振り払い、鉛のように凝り固まった身体を椅子から立ち上がらせる。

 

 

「部屋の片付けも相変わらず、ああいうのってコツとかあるの?」

「小まめに行うのが一番だとは思うが、自分一人だと思うとどうしても後回しにしたくなる気持ちも分かる」

「そうよねぇ~。はぁ、何とか直さないとなんだけど、苦手意識がねぇ……」

 

 

 生徒会室を後にし、廊下を進む。

 その間、マルゼンスキーは私の苦手な他愛のない会話を繰り返してくれた。

 自身を慕う愛らしい後輩。最近食べたらしい美味しいスイーツ。私をして完璧に見える彼女の、本当は苦手な部屋の片付け。

 

 自然と笑みが零れたのは本当に久し振りで、強張っていた顔の筋肉が少しだけ痛かった。

 辛さや苦しさは未だ胸の内で燻っているが、普段の自分を取り繕うのに問題はなかった、のに――――

 

 

「…………よう」

 

 

 ――――校舎のロビーで、何の迷いもない穏やかな表情を浮かべて此方に向かってくる彼を見つけた瞬間、再び自分の全てが崩れていくのを自覚した。

 

 反射的に、逃げ出しそうになった。

 ただ、マルゼンスキーに手首を掴まれて止められた。予想はしていなかっただろうが、既にあらゆる覚悟を決めていたのだろう。

 

 心臓が、嫌な跳ね上がり方をする。

 レース前の心地よい高揚感とも違う、レース後の苦しさと興奮とも異なる、不安感ばかりが募って早鐘を打つ鼓動。

 

 しかし、同時に淡い希望と期待もあった。

 健忘にはかつての思い出に触れるのが肝要と聞く。

 この学園に戻ってきて数々の記憶に触れたことで、彼にとっても私にとっても都合良く、全てを思い出してくれたのではないか、と。

 

 

「オレは君の担当を降りることになった」

 

 

 現実は、彼からかつての記憶を奪い、これからの記憶すら奪い続けているのと同じに、甘くはなかった。

 彼は目の前に来ると一瞬だけ目を伏せ、其処からは二度と目を逸らすことはない。

 

 

「それから新しく担当に就く。皆、デビュー前の新人と入学したばっかの新入生でね。新人トレーナーには分相応だ。それも巧く出来るか分からないが、もう決めた」

「…………それ、は」

「謝るつもりはない。悪びれる気もない。恨んでくれて構わない。中途半端な自分は恥じるが、オレはオレのために君を裏切る」

 

 

 やめてほしい。気分が悪い。

 聞きたくない。眩暈が止まらない。

 消えてなくなりたい。胃液が喉元までせり上がってくる。

 

 何を選択するのか予想はしていた……してはいたが、彼の口から放たれたのは予想を遥かに上回る裏切りだった。

 

 彼が、私以外を担当、する……?

 在り得ない。そんな身体で、どうして自分を苛め抜くような真似をするのか。君にはゆっくりと身体を休めて欲しい。

 意味がない。昼の出来事を忘れてしまうのに、担当になった娘とどう絆を育むのか。それは人バ一体を標榜とする君の目指す道ではない筈だ。

 

 違う、間違っている、誤っている――――

 

 

「だけど、もし――――」

「分かった。もういい」

「ちょ、ちょっと、ルドルフ!」

 

 

 ――――気が付けば自分でも驚くほど冷たい声色で紡がれる言葉を斬って捨て、駆け出していた。

 

 マルゼンスキーが背後で何事かを叫んでいたが、よく聞こえなかった。

 

 嫌になる。

 立ち向かうことを選んだ彼と逃げ出した私。こんな小娘が“皇帝”などと笑わせる。

 

 嫌になる。

 確かな希望を見出して苦難の道を歩む選択をした彼を、私は一瞬でも恨んでしまった。

 

 本当に、嫌になる。

 そして何よりも、彼の言葉を聞いた瞬間、腹の底から湧き上がったドス黒い感情で、彼の選択を否定しようとした自分自身に反吐が出る。

 

 

「はっ……はっ……はぁっ…………は、はは……」

 

 

 逃げ帰った生徒会室の扉を乱暴に閉めて背を預け、思わず笑いながらずるずるとその場でへたり込む。

 

 呼吸が乱れる。心臓が暴れている。

 走ったのはレースに比べれば遥かに短い距離だったにも拘わらず、身体は悲鳴を上げている。

 

 いや、悲鳴を上げているのは心の方だ。

 私は、私が強いと信じていた。そう思ってきた。疑ってさえいなかった。

 私の下を去っていった者は少なくない。私の傍に居れば、高いレベルを常に要求される、強要してしまう。だから、来る者には覚悟を問い、去る者は追わなかった。

 

 だが、彼にだけは隣に居て欲しかった。

 彼の隣に立つのが私以外の誰かであることに耐えられない。

 

 嗚呼、なんて罪深い罰当たり。

 きっと彼なら、そう彼ならば、と。寄り掛かることだけ考えて、私は彼を支えてやることを考えてやったことがあっただろうか。

 

 ……なかった、のだろう。

 だからこうして彼の決断から逃げ出し、一人で膝を抱えて――――

 

 

「……いるわよね。何も、言わなくていいから聞いて」

 

 

 ――――その時、扉をノックすることなく、マルゼンスキーに声を掛けられた。

 

 何も不思議なことはない。

 逃げた私が何処に行くかなど、彼女にはお見通し。

 いや、これくらいはエアグルーヴやブライアンでも同じだろう。

 ただ、心配はしてくれても無理に私の意思を捻じ曲げようとしない。

 

 支えることよりも、寄り添うことを良しとしているからだ。

 いっそ迂遠とさえ言ってもいい優しさは、今は有難かった。

 

 

「彼と話してきたわ」

 

 

 扉の向こうから押し返すような圧力を感じた。

 彼女も扉を背にして床に腰を下ろしているようだ。

 

 どうやら置いてきた彼女は、彼と話してきたらしい。

 本当に、芯が強いのだと思う。私は全てを忘れてしまった彼と話すのが怖い。

 ふと漏らした思い出で、彼を傷つけてしまいそうで怖い。

 大切な思い出を、何も知らない表情で踏みつけられてしまいそうで怖い。

 

 彼女だって、彼を慕っていた。

 私も知らない多くの思い出があって、それは掛け替えのないものであったはず。なのに、どうして――――

 

 

「もうチョベリバよぉ、チョベリバ! こっちは夜も眠れないくらい心配してたって言うのに、自分は一人で忘れちゃって。ほんっと、酷い(ひと)で酷い話」

「……彼を、悪く言わないで、やって、くれ」

「そうね……でも私達は誰を恨んで、何を責めればいいのか。私達の気持ちや思いは、何処にぶつければいいのかしらね?」

 

 

 ようやくの思いで絞り出した声は、情けないほど震えていた。

 

 恨んでいい相手も、責めるべき相手もいない。

 敢えて言えば彼が巻き込まれた事故の原因となった者達であるが、罪の重さを計るのも重さに応じて裁くのも法の仕事。

 恨む事も責める事も倫理や道理は兎も角、心情として理解される。だが、我々がすべきはそんなことではない。最も多くの傷を負った者の多難な前途をより良くする事こそが……。

 

 

「彼、変わってなかったわよ。前と同じで困ったみたいに笑ってた。影はあったけどね」

「………………」

「私も何か言ってやろうと思ったんだけど、気を遣ってくれてありがとう、ですって。ほんと、酷い男。自分が一番辛いでしょうに、見てるこっちだって辛くなるわよ、あんなの」

 

 

 扉越しに聞こえるマルゼンスキーの声も震えている。

 

 いつか聞いた。彼女もまた学園の中で悩みを抱えて居たらしい。

 それがどんな悩みであったのかは分からないが、何か周囲に引け目を感じているような雰囲気は常にあった。

 

 けれど、何時の頃からかそんな雰囲気はなくなっていた。

 “怪物”と称されるほど他の追随を許さない速度と走りは、気高く優雅さまで携えているようになり、より多くの羨望と尊敬を得るようになった。

 

 だからきっと、その切っ掛けを与えたであろう彼との思い出は彼女にとっては決して失われてはならないもので。

 

 

「でも、私は覚えてる。彼が何を言ってくれたのか。私がどう思ったのか。全部……全部全部、覚えてる。彼は忘れてしまったとしても思い出が無くなったわけでも、無意味になったわけでも、無価値になってしまったわけでもないじゃない」

「…………っ」

「貴女は、それじゃ足りない?」

 

 

 足りない、はずがない。でも、私は、彼の苦しむ姿を―――― 

 

 

「私はそれでも構わないわ。じゃあ私は行くから。よくよく考えればチャンスよねぇ。おハナさんに相談して、彼のところ行ーこおっ♪」

 

 

 ―――――――――――――――――は?

 

 ちょっ……と、待て。少しだけ待って欲しい。

 マルゼンスキーは今、何と言った?

 

 彼のところに行く?

 それはつまり、彼をトレーナーとして指名するということか?

 な、何を、何を言っているんだ彼女は!?

 今の彼は新人も同然で、既に三人も抱えると決めているにも拘わらず、更に負担を背負わせるような真似をさせるなど……!

 

 

「あら、おかしい? そもそも新人の後輩ちゃんと新人トレーナーが組むのもおかしな話と思って。だってほら、真っ新な新人トレーナー君だったら、ある程度経験のある私の方が負担も軽いはずよねぇ?」

 

 

 意地の悪い、揶揄うような声色。

 だが、私としてはそんな事を気に掛けている余裕はない。

 

 た、確かにマルゼンスキーの主張にも一理ある。

 ある程度のレース経験とトレーナーから課せられるトレーニングを熟していれば、自分の限界も完璧ではないにせよ把握しているし、体調管理とて出来るだろう。

 必要とあれば、トレーニングの内容や量の問題点も指摘できる。出走するレースの相談も出来る。新人トレーナーとて巧くやっていけるだろう。

 

 恐らく、東条トレーナーも許可を下ろす。

 彼女も私と同様、来る者に覚悟を問い、去る者を追わず。

 厳しく管理はするが、ウマ娘の想いを蔑ろにする手合いではない。それは彼と出会ったことで加速している節すらある。

 

 だ、だが、それは――――

 

 

「……だ、駄目だっ!」

「きゃんっ……んもう、予想通りだけど、予想通り過ぎるのも考え物よね」

 

 

 気が付けば、悲観も懊悩も捨て去って扉を開け放っていた。

 扉に背中を預けていたであろうマルゼンスキーは支えを失って、そのまま生徒会室の床へと倒れ込む。

 唖然としているであろう私に対して、彼女はしてやったりと満面の笑みを浮かべると制服の埃を払いながら立ち上がった。

 

 

「答えは出た?」

 

 

 出た。

 これ以上ないほど明確に。私の意思とは無関係に。彼女に引き出して貰った。

 

 

「早くしないと、盗っちゃうぞ♪」

「…………背中を押してくれるにしては、頂点を狙う者の目だな」

「モチのロン! 順序と手順は守るけど、勝ち負けだけは話が別でしょう?」

「違いない…………行ってくるよ」

 

 

 マルゼンスキーは本当に強い。

 誰にでも誇れる自分を保ちながら、望んだものに手を伸ばしている。

 公正性を保ちながら、負けるつもりは微塵もない。

 

 誇りある最良の友に最大の感謝を。

 けれど、彼は私のトレーナーだ。その一点に関して、私もまた譲るつもりも負けるつもりもない。

 

 誰かが、トレーナーをこう喩えた。

 “大志へと続く道を共に歩む、信頼に足る杖”と。

 

 しかし、私にはそれでは足りない。人を道具呼ばわりする権利はないと信ずる故に。

 支えられるばかりでは据わりが悪い。我々の信頼は支え合ってこそ。

 仮令背負った重荷を肩代わりしてやれなくても、倒れそうになる身体を支え、倒れてしまった者に手を差し伸べることは出来る。

 私が辛い時、迷った時には君に倒れそうな身体を支えて欲しい。

 だから、君が辛い時、迷った時には君の倒れそうな身体を支えたい。

 

 君に、そう教えて貰ったから。

 

 私の求める頂きは余りに遠く、私自身が“皇帝”と呼ばれるには余りに弱い。

 だが、覚悟を決めたよ、トレーナー君。君が私の隣を離れると決断したように、私もまた決断を下した。

 

 かつての謎かけのように、過ぎ去った時間は巻き戻らない。

 山の如く頑として動かず、高揚や後悔、歓喜と寂寞の念と共に其処に在るだけ。

 だから、君が忘れてしまったとしても、決してなくならない。全て、この胸の内に残っている。

 

 我々は一蓮托生、人バ一体を旨として共に歩んできた。

 君の涙が涸れて声さえ尽きたのなら、共に泣く頬と喉をやろう。

 もしも血の一滴さえ残っていないのなら、この胸を裂いて全て捧げよう。

 

 何故なら君は、私の――――

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 ――――気が付けば、オレは第一コースの柵外に立っていた。

 

 感覚としては、寝起きに近いのだと思う。

 思考が鈍ることは全くないが、朝から夕方までの記憶が抜け落ちている様は、偶の休日に惰眠を貪ってしまったかのようだ。

 

 コースの中を見ればサイレンススズカを先頭に、メジロマックイーン、ライスシャワーの三人が流す程度に走っている。

 コースに限りがあるため、他のチームや担当のウマ娘と共同で使うことも少なくないが、今は三人以外の姿はない。どうやら理事長か駿川さんが気を利かせてくれたらしい。

 

 オレとの約束通り、彼女達は正しいウマ娘とトレーナーの関係を築くために自らの走りを魅せてくれている。

 

 其処から目を外すのは気が引けたが、まずは昼間に何をやっていたのか確認しなくては。

 

 

『スズカ、マックイーン、ライスと呼んでいいらしい』

 

 

 手帳を開いてまず目についたのは、その言葉。

 昼間のオレはそれなりに上手くやったようだ。

 昨日の失態は思い出したくもないが、どうやら何とかなったらしい。いや、彼女達の優しさに甘えたのかもしれない。

 それでも愛称というか略称というか、そういったもので呼べるようになったのは嬉しい。ウマ娘はみな妙に名前が長くて呼びにくいし、心の距離が縮んだ気がする。

 

 

『駿川さんにカメラを借りた。期限は無期限。壊したら弁償』

 

 

 チラリと横を見ると三脚の取り付けられたカメラがある。

 これは覚えている。駿川さんが今日は理事長と共に学園の外で用があるようなので、わざわざ朝の8時前に持ってきてくれた。

 有り難い。本当に助かる。映像として彼女達の走りを記録できるだけで大分違う。これで、例え記憶を失う、思い出せなくなるとしてもオレだけの武器を最大限発揮できる。

 

 本当に二人には頭が上がらない。

 恐らく、他のトレーナーからオレに対する寛大すぎる処遇と行き過ぎた優遇を不満と共に突き上げを喰らっているだろうに。

 結果を出す。そのために死力を尽くす。面倒な連中はそれで黙らせる。彼女達の将来を思い、オレに託したのならば、それを返礼とするのみだ。

 

 そして、最後に――――

 

 

『シンボリルドルフに伝えた。また泣かせたかもしれない。もう一度、会いに行こうと思う』

『マルゼンスキーにも会った。資料があったからまさかと思ったが、やはり知り合いだった。ルドルフのフォローをしてくれる上に、自分を責めないで、と気を遣ってくれた。改めて礼を伝えなければ』

 

「はあ……だよなぁ……」

 

 

 残された二行に身体が重くなり、同時に重苦しい溜息が出た。

 

 昼間のオレが上手くやれなかったわけではないだろう。何せ、今のオレも上手くやる自信がない。

 どうやって自身の裏切りを伝えて、傷つけずに済ませろと言うのか。土台無理な話だ。

 覚悟はしていたが、また病室で見た彼女の泣き顔を思い出し、臍を噛む。

 

 唯一幸いだったのが、マルゼンスキーがその場に居たらしい事。

 どのような関係性だったのか、どのような性格だったのか、どのような会話があったのかはもう思い出せないが、感謝してもしきれない。

 

 やはり失敗だった。

 昼間、シンボリルドルフとマルゼンスキーとの間にどんな事があったのか覚えていないのでは、余りにも今のオレは卑劣過ぎる。

 先にあったスズカ達の約束と筋を通す事を優先したかったからそうしたが、彼女達の下を訪れるのならば、覚えていられる時間帯に訪れなければ嘘だ。

 

 理解を得たい訳ではない。

 況してや許されたい訳でもない。

 単にオレが何をしたのか、自らの犯した罪を自覚しておきたい。それがオレに与えられるせめてもの罰だ。

 

 時計の針が17時を越える前のオレは、こんな気分だったのか。

 相変わらず壊れかけの自身に対する不甲斐なさはあったが、自己嫌悪はない。

 

 今は目的がある。

 スズカ達の未来に何が待ち受けているのかを見極める事。

 シンボリルドルフにもう一度会い、次こそは全てを記憶しておく事。

 マルゼンスキーに何を言ってくれたのか、何をしてくれたのかを聞き、心からの感謝を伝える事。

 やる事は山ほどある。落ち込んでいる暇など、在ろう筈がない。

 

 っと、いけねぇ。折角、カメラを借りたんだ。しっかりと記録しておかないと。

 

 手帳に落としていた視線を走る彼女達に向け、カメラを動かそうと手を伸ばした――――もふっ。

 

 

「…………?」

 

 

 んん? 何だ、この感触は。もふっ?

 最上級の絹のような触り心地。ずっと触り続けたくなるような感触だ。

 丸みを帯びた硬い何かの上に、細長い紐のような束、そして適度な反発力を持つ温かい何かがある。

 

 いやこれカメラの感触じゃねぇよ。何だこれ?

 

 

「………………っ」

「…………ひゅっ」

 

 

 見れば、隣には今し方、会いに行こうと決めたばかりの“皇帝”が、両手を胸の下で組んだシンボリルドルフが立ち、此方をジト目で睨み付けてきている。

 オレが彼女の頭を撫でるような形。びっくりしすぎて変な呼吸をしてから心臓が止まったかと思った。

 

 待て。ちょっと待って欲しい。

 ど、どういうこと、なの? オレ、17時直前まで彼女と話していた? いや、それなら話し掛けて来ないとおかしい。

 

 まるで状況が分からない。

 もう一度会いに行こうと決めていたのだが、心の準備は何事にも必要だ。

 混乱の極致に叩き落されたオレは――――訳の分からないまま、彼女の頭を撫で繰り回すという訳の分からない暴挙に出てしまった。

 

 

「…………い、いつまでそうしているつもりだ」

「ご、ごめんなさい」

「い、いや、君がそうしたいのなら……あっ」

「す、すみませんでした」

 

 

 どっと冷や汗が吹き出し、心臓が早鐘の如く尋常ではない速度で脈打つ。

 驚きすぎて、ちょっと過呼吸気味になった息を胸に手を当てて、深呼吸を繰り返して何とか平時へと戻す。

 

 まだ覚悟も心の準備も出来ていなかったが、会わなければならない相手がやってきたと言うのなら逃げるわけにもいかなかった。

 意を決して、オレが裏切り置き去りにした彼女に向き直る。彼女の顔が赤いのは夕日の所為ばかりではないだろう。羞恥か、照れか。怒りではないと信じたい。

 

 

「彼女達が、私を裏切ってまで担当したかった理由を聞かせて貰っても構わないか?」

「…………テンポイントになる。少なくとも、()()()()()()はそう感じたらしい。もう覚えちゃいないが、何か重なるものがあったみたいだ」

「そうか。それは大事だ。あの悲劇は我々としても、トレーナーとしてもあってはならないことだからな…………ふふっ」

 

 

 シンザンがオレの憧れとするならば、テンポイントは教訓だ。

 絶対にあってはならない悲劇。オレが誰かを担当する上で、何を置いても考慮に入れ、避けねばならない可能性そのもの。

 

 もう思い出せないが、かつてのオレもそうだったろう。

 故障は彼女達の輝かしい未来を奪うばかりではない。シンザンを超えるウマ娘を見るという夢そのものにも繋がっている。

 関節系の炎症、筋肉系の断裂、骨格系の破損。いずれにせよ、引退を視野に入れねばならない事態に発展しかねず、完治までの間、トレーニングに費やせたはずの時間が無くなる。余りにも効率が悪い。

 

 唐突に出したテンポイントの名前に驚かなかった辺り、本当にオレは彼女を信じられないようだ。

 かつて語って聞かせたのか。何かを説明する上で引き合いに出したのか。ともあれ、未だに三冠バのトレーナーだったなどという現実感はまるでない。

 

 一つ気になったのは、彼女が何故笑ったのか。

 与太と笑ったのではなく、況してや自身と比べてスズカ達を笑ったのでもなく、ただ嬉し気に微笑んでいて。

 

 

「マルゼンスキーの言ったことは本当だった」

「……?」

「君は何も変わっていない。自分も辛いだろうに、他人を優先してしまうその気質。嬉しいよ、そして心配だ」

「…………っ」

 

 

 凛とした彼女には似つかわしくない、けれど実際には何よりも似合った微笑み。

 

 その笑みを見て、不意に涙が零れそうになった。

 ずっと不安だったんだ。今のオレに連続性がなく、時間を跨ぐ度に死んでいるようなもの。

 かつてのオレと今のオレは本当は別人なのではないかとも考えた。

 

 記憶と情報は別だ。

 他人の頭で再構築された情報は、どれだけ詳細に伝えられようと決して記憶にはならずに情報のまま。

 だけど、彼女の肯定はそんな情報さえ、記憶に変えてくれているようで。

 

 

「実はね、トレーナー君。私は負けたんだ」

「――――それ、は」

「菊花賞の後のジャパンカップで3着だった。カツラギエースとベッドタイムに私は破れた。彼女達には張り手を貰ったよ、本調子ではなかったからね。アレは痛かったな。お陰で、次の有マ記念では何とか持ち直せたが」

 

 

 可能性としては想定していたが、調べようとは思わなかった。

 菊花賞の直後にオレは事故にあった。ジャパンカップが例年通りに開かれたのなら、時間は一ヶ月もなかったはず。

 ウマ娘とトレーナーは比翼の鳥にも例えられる。己が半身を失った状態では、四冠の栄光など手が届こう筈もない。

 と言うよりも、その状態から持ち直し、有マ記念で1着を取れたこと自体が信じ難い。

 

 カツラギエースにせよ、ベッドタイムにせよ、他のウマ娘にせよ、今期のウマ娘は精神的に強い。

 彼女達とて決して弱いウマ娘、遅いウマ娘ではない。この“皇帝”の実力を十二分に理解した上で真正面から挑み、打ち負かす腹積もりでいるのなら能力も相応のはず。

 

 だからこそ本気で怒り、手が出てしまった。

 腑抜けてしまった“皇帝”に勝つことは、彼女達の本意でなかったから。

 

 オレに責任があるのだろうか。

 ない、と多くの人は言うだろうが、オレは……。

 

 

「…………もう、君は覚えていないだろうが、私からトレーナーになってくれないかと頼み込んだ」

「オレ、を?」

「ああ、失礼な話だが能力的なところではない。君が尊敬に値する人だから、私はそう願った」

 

 

 オレが何を考えているのか察したのだろう。

 彼女は少しだけ申し訳なさそうに笑いながら、照れたように告げて話題を変える。

 

 やはり信じられない。

 オレが見た中でも最上級の実力を有している。シンザンに最も近い。

 現時点の状態から逆算したとしても、出会った時ですら周囲から頭が三つも四つも抜け出ていただろうに。

 そんな彼女がオレを。勝つためではなく、一体何のために。

 

 

「君がシンザンの影を追うように、私にも夢がある。私は、全てのウマ娘が笑顔で暮らせる世界を創りたい」

「それはまた、巧く言えないが、凄いな」

「ふ、ふはははっ、君はあの時も似たような事を言った。そして今と同じく、決して愚かだとは笑わなかった」

 

 

 他人の夢を笑う資格など誰にあるのか。

 更に言うのならば、夢のために半生を捧げたオレだが、自らの手では決して叶えられない時点で本質的に他人の夢に潜り込む寄生虫でしかない。

 だから、道半ばで倒れ実現できなかったとしても、一人で背負うには過ぎた夢であったとしても、オレには全てが光に映る。

 

 

「…………昼間、私の所に来た時、裏切りを告げた後に“だけど、もし”と君は言った。私はその時、耐えられなくて逃げた。どうしようもないほど愚かで、底意地の悪い質問だが、聞かせて欲しい」

「――――………………」

「君はあの時、私に何と伝えようとした?」

 

 

 本当に酷い質問だ。

 オレの事情が分かっているのなら、決して聞くべきではない。

 今のオレではどう足掻いた所で思い出せない答えなのだから。

 

 だが、思い出せずとも、分かるものはある。

 

 

「もし、もし許されるなら、君のトレーナーを続けさせて貰いたい」

 

 

 分不相応にも程がある愚かな願い。

 無敗の称号に傷がついてなお、気高く邁進する“皇帝”に経験を失ったオレが何を出来るのか。

 けれど、オレには目の前にいる少女は“皇帝”と呼ぶには余りに儚く、夢の重さと現実の残酷さに手折られてしまいそうに見えて。昼間のオレもそうだったろう。

 

 答えは出ない。

 ただ一つ分かったのは、オレはどうやら難しく考え過ぎていたらしいということだけ。

 

 

「――――嗚呼」

「だけど、いいのかな。正直に言うとさ、自信ないよオレ」

「いい。いいんだ。私は君でないと嫌だ。他の誰かに隣を預けるなど考えられない。君がいい。君だけが、いい。君は私の………………その、尊敬、する人だから」

 

 

 彼女の瞳から涙が零れる。

 頬に手を添え、涙を拭う。また泣かせてしまったな。

 けれど、花の咲き誇るような笑みに、幾分と気は楽になる。

 オレは彼女達に救われてばかりだ。せめてこの胸の内に湧き上がる思いを、結果として返したい。

 

 やりたいこととやるべきことが一致した。

 後は矢のように後先考えずに進むだけ。

 

 だが、今はその前に――――

 

 

 

 

 

―――――

――――

―――

――

 

 

 

 

 

 最後に、一つだけ嘘を吐いた。

 きっとこの胸に浮かぶ思いは尊敬などではない。まさか、と自分でも信じ難い。

 

 そういえば、彼と一緒に映画を見に行った時、恋愛映画も見た。

 あの時の私は、銀幕の向こうで起きている出来事を客観的に捉えるばかりで、劇中の人物に視座を合わせようとはしなかった。

 

 今はそれがほんの少しだけ理解できる気がする。

 それを言葉にしなかったのは、公平ではないから。私と同じように彼を想う者は他にもいるだろう。

 正々堂々、真正面から受けて立つ。彼の隣を譲るつもりはない。

 

 

「その前に一つだけお願いがある。このままだと公平(フェア)じゃないと思わないか?」

「ふ、ふふっ……ああ、その通り。公平(フェア)ではないな。では、トレーナー君」

「話が早いな。もしかして、前も同じ事言った?」

「ああ、言ったとも――――返事は、私の走りを見てからに」

 

 

 何度でも何度でも。

 同じところを何度回ったとしても、それは円環ではなく螺旋。

 少しずつでも前に進む。それこそが、私も彼も肯定した道だったから。

 

 そして、何時かは必ず伝えよう。

 君が何度忘れてしまっても、何度でも伝えよう。何度でも一からやり直しても。

 

 

「君の走りを魅せてくれ。オレも今度は必ず、死力(ベスト)を尽くす」

 

 

 ああ、魅せるとも。

 私の走りで君の隣と心を奪う。そして、君の憧れを独り占めにするシンザンを超えてみせよう――!

 

 

 

 

 

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