『えんりょきんゆう』
遠い将来のことまで見通した深い考えをもって行動しないと、必ず身近なところでさし迫った心配事が生じるということ。
「遠慮」は先々まで見通した深い考え、配慮のこと。
「近憂」は身近に迫った心配事の意。
孔子の弟子が残した論語には「遠き慮かりなければ、必ず近き憂い有り」と語られている。
本日は雲一つない快晴。
風は徐々に強さを失っていき、気温も同じように日々上がっている。
春から夏への移り変わりを感じさせる節目。私は五月に入ってからすっかりと強くなった日差しに目を細めた。
我々、チーム“デネブ”はコースの隅にあるベンチに集っていた。
ミーティングルームで今日のトレーニング内容を打ち合わせをするはずが、開始もせずに移動したのだ。
全てはトレーナー君の指示――――なのだが、その意図は測りかねる。
キッカケは間違いなくサイレンススズカの見せた旋回癖なのだろうが、彼のそうまで慌てている理由は皆目見当もつかなかった。
いや、そうでもないか。
認めたくはないのだが、このチームを作った起点、もっと嫌な言い方をすれば
『……テンポイントになる』
流星の貴公子と呼ばれたウマ娘の悲劇的な結末。
その情景、或いは彼女の影をサイレンススズカに見出したのが、記憶を失った彼が再び立ち上がる理由の一つになったのは既に聞いた話。
与太話も大概にしろ、と言いたくなるが、我々とは見えている世界が異なるのではないかと思えるほどの観察眼を持つ彼の言であれば、私は疑わない。ただ彼の言葉と感覚を信じるのみだ。
そして、サイレンススズカもまた私の夢にある幸せになって貰いたいウマ娘であり、大切な後輩であり、様々な意味でのライバル。
普段はトレーナー君を奪い合う過程で詰まらない意地を張り、時に衝突することもあるが、それはあくまでも健全な関係性の上で成り立つが故。
レースでの勝敗にせよ、彼の隣を手に入れるにせよ。
誰に恥じることもなく手に入れるからこそ意味がある。強引な排除、彼女の不幸の末であっては何の意味もなければ、価値すら見出せない。
「やっぱりな……」
「あの、トレーナーさん、何が……」
ある程度、彼の不安を知る私は努めて冷静であったが、何も聞かされていない他の面々にしてみれば何一つ理解できまい。
事実、サイレンススズカを筆頭に、皆一様に彼の険しい表情に困惑しきっていた。
加えて言えば、彼の指示は奇怪と呼んでも差し支えない。
突然、此処にまで移動するや否や、サイレンススズカをベンチに座らせ、靴下まで脱がせて足を伸ばすように言ったのだから。
渦中にいる彼女は首を傾げて不安を募らせていたが、やや外れた位置に立つ我々は分かりかけてきた。
「足の、長さが違うな……」
「ルドルフの言う通りだな。少しだけ左脚が短い、それとも右脚が長い、のか……?」
「こうして揃えたところを見ると、はっきりと分かりますわね」
「お兄さま、これって、やっぱりさっきの……」
「ああ、多分左回りの旋回癖が主な要因。他には日常的な立ち方、重心のかけ方とかかな…………しかし、結構差がある」
「え、えぇ……そ、そんなに違いますか?」
脚を伸ばした姿勢になれば、その差は明らか。
視点の位置からして差が分かり辛いサイレンススズカは兎も角、見やすい位置に移動できる我々からは一目瞭然だった。
いわゆる脚長差と呼ばれるものだ。しかし、さほど珍しい症状ではない。
原因は様々であるものの、全体の70%以上もの人間に左右の脚の長さに差があるとされており、長さが揃っている方が稀と言われる、のだったか。
目の当たりにした現実に、かつて何かで手にした知識を掘り起こしている間にも、ある程度当たりを付けていたトレーナー君は次の行動に移っていた。
彼女が伸ばしたままキープした脚にメジャーを当て、脚の付け根から足裏までの長さをそれぞれ測る。
明確な数字となった差を目にした彼の表情はより一層険しさを増した。まるで一族郎党を皆殺しにされたかのような仏頂面だ。
失礼だが、彼は俗に凶相に分類される顔立ち。
それなりに整っていて男らしくはあるが、槍の穂先を連想させる目付きが全てを台無しにしている。
大半の人間では笑っていなければ目を逸らしたくなるほどだろう…………まあ、私は好きだが。
「差は1cmか……精密に測ればもうちょい差がデカくなりそうだな」
「トレーナー、それは酷いものなのか……?」
「いや、酷くはないかな。これくらいなら、日常生活にも歩行にも問題ないが…………すまん、スズカ。ちょっと触らせて貰ってもいいか?」
「は、はい。ど、どうぞ……」
オグリキャップはこの手の知識が何もない。
そもそも何の問題があるのかも疑問を抱いている素振りすら見せている。
そして、素直に疑問をそのまま口にしていた。
確かにトレーナー君の言うように、この程度の脚長差は珍しくはない。
私の記憶が正しければ、一般に3cm以上の差が生まれて初めて何らかの処置が必要になる、と言われていたはず。
トレーナー君は簡潔に説明こそしたものの、自らの懸念を消し切れていないのは明らかだった。
そして、サイレンススズカに断りを入れてから、新雪のような肌に包まれた脚に手を伸ばす。
足裏から足首。足首から脹脛。脹脛から膝へと昇っていく。
筋肉の付き方や関節の機能、骨の形を確かめるように。
その手付きに邪さなどまるでなく、ひとえに脚の状態を確かめているのは間違いないのだが――――
「……っ、ん……ぅ……」
「は、はわ、はわわわわ」
「……あっ、や……ん、んん……っ!」
「な、何だか……」
「だっ……あっ……ぁっ……!」
「エッチだ……」
――――その、サイレンススズカの口から漏れる声は、聊か嬌声じみていた。
確かに、彼女は女の私から見ても妙な色気がある。
儚さと憂いを秘めた表情と華奢な体躯は、得も言えぬ魅力を秘めている。
それが彼の手が生み出すこそばゆさと心地良さ、更には仄かな痛みに頬を上気させ、熱を帯びた吐息を漏らす。
煽情的、或いは官能的とでも表現すればよいのか。
くらりとする魔力か引き摺り込まれるような引力めいたものを感じる。
し、しかし、いくら何でも艶めかし過ぎではないかろうか。
メジロマックイーンとオグリキャップは仄かに頬を染めて魅入られている。
ライスシャワーなど顔全体を真っ赤にして両手で目を覆っているではないか……いや、指の隙間から覗いているな。
かく言う私も妙な気恥ずかしさと彼の手がそんな声を上げさせている事実に、強烈かつ醜い嫉妬を覚える。
我ながら何とも度し難い。二人にそんなつもりはないにも拘わらず、この心模様。
い、いかんな。泰然自若、冷眼傍観であらねば。そも彼は疚しい目的で行っているわけではなく、サイレンススズカとて誘ったわけではないのだから。
「膝から下の骨に然程違いはない。トモの筋肉にも大腿骨にも問題なし。となると――――」
「はっ……はぁっ……あ、あの、トレーナーさん……そんなに上は……っ」
膝から上へ移動した手はトモに至る。
指を深く沈めながら筋肉の付き方や骨の太さや長さも探っているようだ。
そして、遂には――――
「――――此処か?」
「ひ、ひわぁっ……ぅンっ、と、とと、トレ……っ!」
「悪い、少し黙っててくれ」
「はっ、はひっ…………ん、ンッ、んん~~~~~~~~~っっ」
――――両足の付け根、股関節に親指を押し込んだ。
かなり際どく、更に言えばデリケートな部分だ。
サイレンススズカ自身、異性どころか親にすら触らせたことはないだろう。
その初めて触れられる感覚に、痛みによるものではない悲鳴を上げる。
唇を噛み締めて瞼をきつく閉じ、脚をピンと伸ばす姿は何かに堪えているかのようだ。
彼の手付きに卑猥さはまるでなく、真剣そのものの表情だからいいものの、事情を知らぬ者が見れば危うい場面にしか映るまい。
「……成程」
「はぅぁ……はぁ……はぁっ……」
触診が終わるとサイレンススズカは息も絶え絶え。
胸に手を当て、必死に呼吸と動悸を整えようとしていたが、まるで巧くいっていない。
き、気まずい。酷く気まずい。
彼は全く気にしていないようであるが、あんな声を上げていたサイレンススズカも、見ていた我々も何と言葉を発すればよいのか。
対するトレーナー君は名残惜しむ様子も見せず、深く考え込みながらも立ち上がっていた。
邪心など微塵も感じさせない振る舞い。
実際に、考えているのは自らの危惧が現実のものとなるか否か。今の彼にそれ以外の事柄など瑣事に過ぎない。
……過ぎないのだろうが、いくら何でもあんまりではなかろうか。
これでは彼女にまるで女性的な魅力を感じていないと言っているも同然。そして、恐らくは私であったとしても全く同じ反応をするに違いない。
ライバルではあるが、いやライバルであるからこそ、同情を禁じ得なかった。
尤も、彼女は旅立ったまま
「……まず一つ。スズカのは器質やら解剖学的な脚長差じゃなくて、機能的なもんだ」
「えっと、お兄さま、それってどう、違うの……?」
「んー、すげー簡単かつざっくり言うと単純に左右の骨の長さが違うわけじゃなくて、関節の使い方と立ち方に問題があるタイプって感じかな」
「それは……僥倖、と考えても間違いありませんわよね?」
「ああ、それは確か。前者だったら洒落にならん。差にもよるけど手術しなけりゃどうにもならないからね」
脚長差は大きく分けて二つに分類される。
器質的、或いは解剖学的脚長差は先天性、また発育期の成長抑制、過成長、何らかの変性疾患によって骨格そのものの長さが違ってしまっている。
機能的脚長差とは、骨格そのものの問題ではなく、間違った関節の動きなどで身体に生じてしまった歪み。
どちらの場合であっても差が大きくなればなるほど歩行障害が起こる。
唯一の幸いは、機能的脚長差であったこと。
此方であれば、トレーナー君でも対応する術があると私は知っている。
持ち出したアイスホッケー用の防具は、そういった時のために用意したものだ。
しかし、トレーナー君の表情は曇ったまま。
そして、俯き加減で頭を掻いていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「まず結論から言う。隠しておくのも無理があるし、オレの方針としてもそれはないからな。スズカ、この状態のまま走り続ければ、お前の左脚がもたない」
「それは、どういう……」
「折れる。オレの個人的な予測でしかないが、信じるかどうかは任せるよ」
「――――え?」
彼の言葉は、我々を凍り付かせるには十分すぎる威力を有していた。