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正直、会長にしちゃ女々し過ぎる、湿度高すぎるかなぁ、とか思ってましたが、公表で何より。
これからも主人公以外の視点で書いていくので、何かあれば指摘して下さい。
ライスは昔から良い事なんて何もなくて、周りに迷惑を掛けてばかり。
それでもいつかレースで見た子達みたいに、絵本で読んだ蒼い薔薇みたいに。
キラキラと輝いて、誰かを笑顔に出来る自分になりたくて、トレセン学園に入学した。
けど、やっぱりライスは何も変わらず臆病なんだと思う。
昨日、トレーナーさんが頑張るって、私達を担当してくれるって約束してくれたのに。
ライスは第一コースの端にある木の陰から動けなかった。
約束の時間までまだ30分近くあるのに、トレーナーさんはカメラを持って、もうコースの入り口で待ってくれていて。
……本当は、ライスの方が早く来ていた。
遅刻しないか不安で早めにジャージに着替えてきたけど、今度は別の不安で足が動かなくなった。
本当は、トレーナーさんもちょっと怖い。昨日、私達にではなかったけどあれだけ怒っていた人を見て、怖がらない人は凄いと思う。
でもそれ以上に、酷い目にあっているあの人を、もっと不幸にさせてしまいそうで怖かった。
「はぁ……流石に、もう一回会いに行かないと拙いよなぁ。あの二人も納得しないだろうし、オレも納得でき…………?」
「……あっ」
溜め息を吐いて少しだけ肩を落としたトレーナーさんが心配になって、木の陰から身体を出したらバッチリ目があった。
反射的に隠れることも出来ずに固まって、情けなさと恥ずかしさで泣き出しそうになる。
「おーい! こっちこっちー!」
でも、トレーナーさんは隠れていたことに何も言わずに、笑顔で手を振ってライスに呼び掛けてくれた。
…………いい、のかな?
大丈夫、かな? 迷惑、……かけちゃわない、かな?
不安とほんのちょっとの期待。
トレーナーさんの笑顔は涙が出そうなほど優しくて、でも少しだけ影があった。
何も知らないはずなのに、変わりたいと願ったライスを肯定してくれているような笑顔に応えたくなった。
心臓はバクバクしてる。手足は震えが止まらない。
それでも、変わりたいから、信じたいから……が、がんばるぞ、おー。
身体はカチコチ、右手と右足を一緒に出して、左手と左足が一緒に前に出る。
やっとの思いでトレーナーさんの方へ近づいていく。
近づけば近づくほどトレーナーさんの身長は大きくなって、すぐに見上げるくらいの差が分かった。
こんな見下ろされるくらいの身長差のある人は、あんまりあったことがない。や、やっぱり、ちょっと怖いかも。
「いやぁ、よく来てくれたな。昨日は悪かったよ。余裕なさ過ぎてさ、バカになってた。ほんっとゴメンッ!」
「あ、あわ……あの……その……」
トレーナーさんは怖がっているのが分かったのか、ストンと膝を折り曲げて、山のように大きかった身体がすっと縮む。
胴よりも足が凄く長いから、今度は私が見下ろすような形になる。そして、顔の前で両手を合わせると同時に頭を下げた。
其処まで気にしてくれているとは思わなくて、情けないけれど中々言葉が出てこない。
だから、大丈夫ですとも、気にしないででもなく――――
「あの、……大丈夫、ですかっ? ちょっと、辛そう、だから……」
「…………!」
そんな言葉を漏らしちゃった。
あ、あぁ、つ、辛くないわけ、ない……。
話が難しくてよく分からなかったけど、多分、ライスが同じ病気になったら部屋を出るのも怖くなる。
誰が知り合いで、誰が知らない人かも分からない。その日に起きた事も覚えられなくて、どんなに頑張っても無駄になる。きっとライスなら耐えられない。
トレーナーさんの気持ちを考えたら、涙が零れそうになって。
でも、トレーナーさんは一瞬だけ目を見開くと、すぐに首を振って、敵わないなと小さく言って笑ってた。今度の笑顔に影はなくて、心の底からほっとする。
「いや、ちょっと嫌な事……は卑怯か、人に嫌な思いをさせちゃってさ。どうしたもんかなぁ、って悩んでただけ」
「うぅ……ライスのせいかも、皆が不幸になっちゃうから……」
「ははっ、気にし過ぎ。防衛本能って奴だよ、同じ失敗を繰り返しちゃったら大変だろ? だから身体が次は気を付けようってしてるだけ。ほら、同じような不幸は連続したりしてないんじゃない?」
「そ、うかな……そう、か、も……?」
顎に指を当てて考える。
どうだろう。確かに皆が不幸になると思っていたけど、同じ不幸が連続していたような、いなかったような。
本当はどうなのか分からない。けど、トレーナーさんの笑顔を見ていると信じられる気がした。
「あっ……今日は、よろしくお願いしますっ!」
「うん、此方こそ。楽しみにしてる。期待してっからさ」
「ふわ……」
遅れちゃった挨拶のために、ぺこりと頭を下げる。
返ってきたのは私の欲しかった言葉だったかもしれない。
誰かを幸せに出来るように変わりたいと願ったことにじゃないけれど、今まで誰にも見向きもされなかったライスにはとてもとても嬉しかった。
その後に、褒めるみたいによしよしとゴツゴツとした手で頭を撫でられた。
お母さんの時とも違う男の人らしい硬さを感じたけど、お日様のような温かさに言葉に出来ない気持ち良さと優しさに、髪が乱れちゃうのも気にならなくて。
何だか
だ、だから、だから…………ライス、がんばるよ! うん、がんばるぞっ、おー!!
―――――
――――
―――
――
―
「…………はぁ」
私は、溜息と共に指定された第一コースに向かっていました。
体調が悪い訳ではなく、兎に角気分が重くて仕方がありません。
正直に申し上げれば、まだ選抜レースの前にも関わらずにお声がかかり、有頂天の極みでした。
だってそうでしょう? まだこの学園に入学したばかりの私を見初めて下さった。
私の実力が認められたも同然で、それがあの“皇帝”シンボリルドルフ会長を三冠にまで導いた御方とあっては、舞い上がらないウマ娘はいないでしょう。
メジロ家のウマ娘として恥じぬように、御爺様と御婆様の思い出のレースである天皇賞を制覇できるように生きてきた私にとっては正に好機。喜ばない筈もなく。
でも、蓋を開けて待っていたのは、自身ではどうにもできない事柄に苦しんでいる方で。
梯子を外された怒りはありませんでした。
部外者に過ぎない私ですら、彼の抱く怒りが自分自身へと向けられ過ぎていて心配になるほどでしたから。
理事長が仰ったトレーナーさんの境遇を考えれば当然の事。
そして、心底から優しい方なのは理解できた。でもなければ、もっと周囲を責めている。
理事長やスズカ先輩との会話の中でトレーナーさんは徐々に落ち着きを取り戻し、テンポイントの名を呟いた瞬間に顔を蒼褪めさせた。
私にとっては盾の栄誉の一つを手にした先達にして超えるべき壁でしたが、彼にとってその名が何を意味するかまでは分かりません。ただ、何か重要な意味を含んでいるのは確かで。
そして、私は人が蘇るのを、或いは生まれ変わるのを見ました。
そうして彼は私達のトレーナーになることを選択した。
トレーナーになるには、例えようもない狭き門を潜らねばならない。
メジロ家にもトレーナー志望の子は居た。あの子達が何を思ってトレーナーへの道を選んだのか、それは分からない。
けれど、寝る間を惜しんで、血反吐を吐くほどの努力をしていたにも拘わらず、今期メジロ家からトレーナーになれた者はゼロでした。
それを思えば、経験を失ったとは言え、三冠の栄誉を手にした彼の能力に疑う余地はなく、また疑ってしまえばあの子達の努力を否定する事になる。
そして、理事長やたづなさんの言っていた眠らなくとも済む体質。
インターネットで調べてみれば、確かに同じような事例はありました。俄かに信じがたいですが、あの二人が仰る以上は事実でしょう。
それらを考慮すれば、不安要素は並んではいますが文句などあろうはずもなく。それほど気高く、信じたくなるような光が瞳には宿っていた。
でも……でも、どうしようもなく、ただ単純に心配で。だから、だから――――
“………………不愉快ですッ! 私はメジロ家の者として成し遂げなければならない目標がありますッ! その邪魔をされたくありませんッ!”
「「あぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」」
過去の自分の暴言を思い出し、思わず頭を抱えてその場に蹲ってしまう。
もうちょっと、こう……その、もうちょっと何と言うか……何かそういうのがあったでしょうに私ぃッ!
合わせる顔がないとは、まさにこの事。
トレーナーさんも私の気持ちを汲んでくれていましたし、理事長もたづなさんも理解してくれていましたが、自分の高飛車さと短絡さに情けなくなる。
いっその事、此方からお断りした方がいいか、とも思いましたが、私の方から走りを見て欲しいと言った手前、メジロ家の者として…………ん?
…………今なにか、私の声に重なっていたような?
「……あっ、マックイーンちゃん」
「スズカ先輩……も、ですのね」
「え、あ、そ、そうね……」
その場に蹲ったまま、スズカ先輩と目が合いました。
彼女もまた頭を抱えて、私と同じ心境の御様子。
当然かもしれません。
詳しくは分かりませんが、スズカ先輩から彼の方にトレーナーになってくれないかと頼んだようですし。
事情は知りませんが、自分を責めている、という点においては私と同じなのでしょう。
「い、行きましょうか……」
「そ、そうですわね……」
き、気まずい。気まずいですわ。
スズカ先輩との繋がりは薄く、挨拶以外は二、三言を交わしたことがある程度。
ストイックな方でしたし、噂では最近スランプに陥っているらしく顔も合わせなくなり、元々薄かった繋がりはほぼ無きに等しい状態。
つまり、会話の切っ掛けとなる共通の話題がない。
ただでさえ重い空気が、更に重くなったような気が……。
会話に苦手意識があったわけではないですが、この空気で口を開く勇気はちょっと……。
頭の中では昨日の自分の愚かしさに対する嫌悪とトレーナーさんに対する心配とスズカ先輩への気遣いがぐるぐると廻って混乱の極みにあるよう。
「…………ライスちゃん、大丈夫かしら?」
「どう、でしょう……随分、怯えていましたから」
スズカ先輩の方からようやくの思いで絞り出してくれたのは、ライスさんについて。
彼女ともさして繋がりはなく、ほぼ初対面も同然。恐らくはスズカ先輩も同様でしょう。
しかし、誰の目から見ても気弱で臆病と判断するには十分で。トレーナーさんの抱えた怒りと境遇を思ってか、気の毒なほど震えていましたもの。
でも、勇気がないとも思わない。
恐らく、トレーナーさんが自身を取り戻す切っ掛けとなったのは、真っ先に口を開いた彼女の一言。
土壇場でしか勇気を発揮できない、と言うよりも、気弱な仮面の下に隠された芯の強さが発露した、というところでしょうか。
同じトレーナーさんに指導を受けるとは言え、我々は本質的にライバル同士。あっさり追い抜かれないように気を張らなくては。
まあ、私もスズカ先輩も他人を気にしていられる状態ではないのですけど。
「い、急ぎましょうか……」
「そ、そうですわね……」
ライスさんが既に待っていることを考えて、二人で第一コースへ向かおうとしたのですが……。
スズカ先輩の足が止まれば私の足が止まり、私の足が止まればスズカ先輩の足が止まるの繰り返し。
引け目がある分だけ足が重く、自己嫌悪とライスさんへの心配で前に進む。
ようやくと言うべきか、とうとうと言うべきか。
兎に角、第一コースに辿り着いた私達は待ち受けていたものは――――
「そ、それでね……青いバラを綺麗だっていうお兄様が現れてね」
「へー、魔法使いみたいな役割かな? それでそれで?」
(物凄く仲良くなってらっしゃいますわーーーーーー!?)
――――何という事でしょう。芝の上に腰を下ろし、仲睦まじげに話しているトレーナーさんとライスさんの姿が……!
トレーナーさんはジャージ姿で両脚を投げ出したまま後ろ手を突き、ライスさんは膝を抱えてニコニコと笑っていて。
一見、大型肉食獣と小動物という危うい絵面ですのに、二人が仲良く笑みを浮かべているから物凄く爽やか、爽やかですわ……!
予想していなかった光景に、品もなく口をあんぐりと開けてしまいました。
スズカ先輩の入れ込みよう、私自身も僅かに会話をしただけで確かに受け取った誠実さを考えれば当然かもしれませんが、コミュニケーション能力が桁違い……!
正直、私は世間知らずなところがあって、クラスではやや浮き気味。
メジロ家の常識が世間での常識とは異なると理解してきております。ライアンやパーマーのように愛嬌があればまだ違ったでしょうが。
世間一般ではこれくらいが普通なのか、と隣のスズカ先輩を見るも、私と同じくポカンとしていらっしゃる。
ですわよね。あの臆病だったライスさんと秒で仲良くなるとか、誰も予想できませんわ。
「おっ、来た来た。話の続き、また今度聞かせてよ」
「な、なら、私の絵本貸すよ……?」
「え、ほんと? ラッキー。あ、そうだ。携帯持ってる? LINE交換しようよ。ほら、それならオレ忘れちゃっても後から確認すればいいしさ」
「う、うん……!」
(しかも流れるように連絡先の交換まで……!)
昨日は分かりませんでしたが、何と言えばよいのか、本当に他人との壁を作らない方のようで。
しかも下心を全く感じないので、警戒心が全く機能しないのです。
傍目から見ればナンパそのものですが、彼の境遇を考えれば対応策としても正しい。
電話や会話では形に残りませんが、メールアプリなら後からいくらでも読み直せる上に、手帳に書き込む手間も省けてしまう。
そして、ライスさんを傷つけないように気を遣っている。
記憶を保てない人間に何かの貸し借りを行うのはタブーでしょう。何を貸したのか、何を借りたのかさえ分からなくなってしまうのだから。
普通であれば、丁重にお断りすればいいでしょうが、今度はライスさんが自分を責めてしまう。それら全てを解決するのが、彼の選択。
余りにも円滑な人間関係の回し方と頭の回転の速さに思わず舌を巻く。
何が凄いと言って、彼にとってはそれが当たり前に過ぎず、意識すらしていない点でしょう。
「何だったらさ、そっちの二人も教えてよ。後々楽だし」
「いえ、まだトレーナーをして頂くと決まったわけではありませんわよね?」
「んぁ? まあそっちが断る可能性もあるか。オレやる気満々なんだけど」
「そう言って下さるのは嬉しいですが……」
「そう? じゃあ君達の走り見た後で教えて? 嫌だったらいいけど」
この人、人見知りしないにもほどがありますわね。
驚きを通り越して尊敬すら抱いてしまいそう。
私も人付き合いは苦手ではありませんが、此処まででは。一流トレーナーとは皆こうなのかしら……?
私もスズカ先輩も驚きの余り固まっていると、彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
「……昨日は悪かった。みっともないところを見せちまった」
「い、いえ、そんな……私の方も事情も知らないで勝手なことを……」
「昨日も言わせて頂きましたが、お気になさらずに。事情を知らずに舞い上がっていたのは私も同じですから」
「じゃあ、お互い様ってことにしてくれるとありがたい」
「は、はい……っ!」
「あとさ、二人ともスズカとマックイーンでいい? ライスには聞いたんだけどさ、長いと舌噛みそう」
「もう、お好きになさって下さいな」
トレーナーさんは恥じるように視線を逸らしましたが、私達の返事を耳にすると屈託なく笑いました。
それだけで落ち沈んでいたスズカ先輩は持ち直し、私も随分と心が軽くなる。
私達に対する期待を隠そうともしない少年そのものの笑み。
余り無茶はして貰いたくはないけれど、既に私の心にあったのは走りに対する情熱だけ。
メジロ家のウマ娘としての矜持を忘れたわけではないですが、久しく忘れていた、ただ走ることの歓びを思い出したような気がして笑みを浮かべてしまう。
――――よくも悪くも
すっかりと心を開いてしまっているのを自覚して、私がトレーナーさんに抱いた印象はそれでした。
―――――
――――
―――
――
―
「はっ……はっ……はっ……!」
コースに敷き詰められた芝の上を駆ける。
トレーナーさんが私――――私達に出した指示は身体を温めること。
私達が集まったのは17時前で予定よりも少し早かったため、予鈴までは流すように言われた。その後は、コースを何周か回るように言われた。
本当を言えば、第一コースに来るまでは気分が重かった。
昨日、トレーナーさんを苦しめたのは他でもないこの私。
トレーナーさんにその気があったかは分からないけど、一度は助けてくれたから。
初対面の私の走り方も思いも尊重して期待してくれたのなら、きっと担当している子も同じだろうと羨ましくて。
だから、自分勝手な思いを押し付けた。
相手の都合や気持ちなんて一つも考えていなくて、あったのは自分の都合だけ。
その結果が、ミーティングルームで見たトレーナーさんのあの姿。
私と話していた時に何を考えて、担当を引き受けると言ってくれたのかまでは分からない。
でも、次に会った時の彼は、過去の自分の言動に怒り狂っていた。それこそ、直ぐにでも自分の首を吊りかねないほどに。
トレーナーさんが私の申し出を一度は断った理由に、どうして思い至らなかったのか。
前向性健忘なんて具体的な内容まで分からなくても、何か理由があって一度は断ったと考えるくらいは出来たはずなのに。
一人で舞い上がって、トレーナーさんに押し付けて。
本当に恥ずかしくて、申し訳なくて、情けなかった。あの時ほど自分自身が嫌になったことはない。
「……でも」
本当に良かったと思う。
私のやったことは許されないし、許されるべきでもない。
ただ、トレーナーさんが何を思ったのかは分からないけど。本人はもう覚えていないだろうけど。
私に初めて話し掛けてくれた時と同じ、子供のような笑みが戻ってくれて本当によかった。
私達への期待を隠そうともしないあの笑み。
何と表現していいのか、よく分からないけど…………その、素敵だと思う。
「……っ」
嬉しい。嬉しい。嬉しい。
私は今まで一人で走ってきたつもりだった。
誰にも邪魔されないで、熱くなった身体が風で冷まされていく感覚が、身体の中から聞こえてくる鼓動の音が、白く輝くような光景が好きだった。
レースの世界に足を踏み入れたのは両親の勧めがあって。自分から望んで踏み入れた訳じゃない。
でも勝利への欲求は常に心の何処かにあって、地元の大会で成績を上げて、トレセン学園に入学していた。
そして、今日初めて気が付いた。
何も奇を衒うことなく期待されることの歓びを。その期待に背中を押される高揚を。
そうした期待をかけてくれていただろう両親や地元の友人には、気が付かなくて申し訳なく思う。
同時に、気付かせてくれたトレーナーさんには感謝したい。
脚が軽い。心も軽い。
これまでの不調が嘘のように、面白いほど前へ前へと脚も身体も進んでいく。
こんな気分で走るのは本当に久し振り。
後ろに付いてきている二人には申し訳ないけど、この先頭でしか見れない景色を楽しみたい。
――――気が付けば、予鈴が鳴っていた。
どうしようもないくらいに独りよがりだった私に期待してくれたあの人に。
独りよがりな私でも担当してくれると言ってくれたあの人に。
感謝の気持ちを伝えたくて、彼が立っていた方向を見た。
「…………っ」
其処にあったのは、トレーナーさんとルドルフ会長が何かを話している光景だった。
夕日に照らされた二人の姿はまるで映画のワンシーン。
思えば、トレーナーさんは会長の担当を降りるとは言っていないし、理事長もたづなさんも何も言っていなかった。
普通に考えれば、三冠の栄光を手にしたウマ娘の担当なんて、続けられる境遇じゃない。
でも、あの人はきっとそうしないと思う。だって、あんなに誠実な人だから。
相手が拒絶すれば受け入れるけど、もし相手が望めば力の限り応えようとするに決まってる。
「……ちょ、ちょっと先輩!?」
「は、速い……!」
何だか自分でもよく分からないまま、思わず本気で地を蹴った。
心の底から嬉しそうに、綺麗な笑みを浮かべながらトレーナーさんから離れていく会長の姿を見て。
その背中を見送るトレーナーさんの優しい笑みを浮かべる顔を見て。
さっきまであんなに嬉しくて楽しかったのに、自分でもよく分からないまま無性に悔しくて腹立たしくなっていた。
芝の上を進む。
今日一番の最高速。多分、私の持てる限界速度。
トレーナーさんが立っている手前のコーナーを抜け、そのまま外柵のギリギリまで大きく膨らんでいく。
「うぉっ! はっやぁっ!? …………いや……速すぎる、か……?」
擦れ違い様、トレーナーさんは驚きの声を上げた。
すぐに後方に置き去りにしてしまって台詞の殆どが聞こえなかったけど、少しだけすっとした気分。
「……ふふっ」
そのまま、歩いていく会長に追い縋る。
けれど、追い越した私を見ようとすらしない。まるで歯牙にもかけていないかのように。
何だか分からないけど、レースもしていないのに負けた気分になった。
それが余計に腹立たしくて、もどかしくて、むかむかする。
結局、私は心を満たすそれが何かも理解できないまま、ペースも考えずに気が済むまで走り続けた。
「はっ……はぁっ……ス、スズカ先輩、少しはペースを考えて下さい」
「ふぅー……むぅりぃ……きゅう……」
「はっ……ふぅ……ご、ごめんね、二人とも」
走り終わった後は、私も含めて全員がへろへろになっていた。
測っていなかったから分からないけど、相当なタイムは出ていたと思う。
マックイーンちゃんは両膝に手を突いて、ライスちゃんはターフにへたり込んでいる。
かく言う私も外柵に手を掛けて、何とか呼吸を整えている真っ最中。
「ど、どしたぁ? もしかしてオレ、17時前に変な指示とか出した?」
走り終わった私達を追って、トレーナーさんがやってくる。
誰の目からも明らかに困惑の色を帯びた顔に、大事なレースで掛かってしまったような恥ずかしさを覚える。
それから申し訳なく思う。トレーナーさんが困惑しているのは私のせいだったから。
「いえ、スズカ先輩が突然……」
「だよなぁ……びっくりしたー」
「ん、んんっ…………そ、それで、どうでしたか? 私……達の走り」
「いや、正直驚いたよ。三人ともそれぞれ違うけど面白いな」
背中に突き刺さるマックイーンちゃんの視線。
多分、おかしなペースをした上に付き合わされて、ジト目を向けてきているだろうけど、気付かない振りをする。
そして、咳払いを一つしてから、トレーナーさんに問い掛ける。
返ってきたのはあの素敵な笑みと、少しだけ胸の内がモヤっとするような返事。
「スズカは逃げが得意なん?」
「は、はい……得意、というか、ただ好きで……前のトレーナーとは、それで……」
「ああ、オレが余計な事したんだっけ?」
「余計だなんて、そんな……凄く、嬉しかったです。大逃げ、期待してくれるって言ってくれて……」
「まあ、適性が中距離っぽくてあのペースをアレだけ維持できればなぁ。そりゃ期待するよ。だが……」
褒めて、くれているの、かな?
それだけでモヤっとしていた心が晴れて、走って熱くなっていた身体が更に熱くなる。悪い気はしなかった。
でも、次の瞬間にトレーナーさんの目の色が変わった。真剣味を帯びたと言ってもいい。
それだけで文字通りに喉元に真剣を突き付けられたような気がして、一歩だけ後退ってしまった。
期待とは明らかに異なる犀利な光。
どんな感情を抱いているのかは分からないけれど、少しだけ怖かった。
「ま、何とかするさ…………それで、マックイーンは完全に
「はい。天皇賞を制覇し、盾の栄光を持ち帰ること。それが私の目標であり、夢そのものであり、使命でもあります」
「うん、いいね。明確な目標があると方向性も決めやすい」
マックイーンちゃんの鋼のような意思が込められた言葉にも、トレーナーさんは軽く笑う。
目標を笑っているわけでも、馬鹿にしているわけでもない。寧ろ、褒めてさえいた。
トレセン学園に入学しているからと言って、目標がある人ばかりではない。
その中で明確な目標を持つマックイーンちゃんは、私でも尊敬してしまう。でも……むむ。
「ライスは、何かある?」
「ら、ライスは、そういうのはなくて……あの、その、ご、ごめんなさいッ!」
「あー、ごめんごめん。責めてるわけじゃなくてさ。オレの所感じゃマックイーンと同じで長距離向きだと思うんだよなぁ。こりゃいいライバルになりそうだ」
「あら。ライスさん、負けませんわよ?」
「あ、あうぅ……」
逆にライスちゃんは困っていた。
この子は明確な目標がなかったのだろう。ただ、それだけで劣っているとは決めつけられない。
マックイーンちゃんは微笑みを浮かべながら静かな闘志と歓びを滾らせている。それはライバルとして相応しい素質を見出したからに他ならない。
事実、ライスちゃんは最後まで、僅かに遅れながらも付いてきていた。
トレセン学園に来る以前にメジロ家で厳しい訓練を積んできたマックイーンちゃんについていける時点で劣っているわけがない。
むむむ……でも……そのぉ……。
もうちょっと、私について何か言ってくれてもいいと思う。いえ、私の走りに一番驚いてくれていたけれど。
「よし、全員の走りは魅せてもらった。魅せられた。だからオレに担当させて欲しい。いいかな?」
「はいっ、勿論!」
「でも無理は禁物ですわよ? 私達も出来る限りサポートしますから」
「ライスも、頑張るね……!」
「よしゃ、んじゃま――――」
「「「「よろしくお願いします!」」」」
四人で声を揃えて頭を下げて互いに礼を尽くす。
尊敬すべき仲間にして、切磋琢磨するライバルを私は得た。
これがトレーナーさんと私達のチームの始まりで最初の一歩。
静かな喜びと湧き上がるような闘志。でも、私の心に一番大きく浮かんでいたのは――――
――――負けない。
そんな思いで。
でも、この時の私は何に負けたくないのか、まだ気づいていなかった。