マックイーンと別れ、向かった理事長室。
理事長は執務机に座り、その後ろには駿川さんが控えていた。
調度品は簡素で必要最低限の部屋だが、どれを見ても高級品。手入れも行き届いて清潔感に溢れていて、何とも言えぬ重厚さがある。
一にも二にも学園の生徒を想う理事長としてはこうしたところに金はかけたくはないだろうが、年齢と見た目もあって周囲や外部に舐められないための仕方がなしの処置と言った感じだ。
オレは机を挟んだ二人の正面に立ち、視線を受け止めていた。
既にオグリの件で伺うことは伝えてあったので、結論から伝えることにする。
「オグリキャップの件ですけど、軽度の過食症に近いです」
「「ファッ!?」」
開口一番の結論は、理事長にとっても駿川さんにとっても予想外であったのか、素っ頓狂な声を上げた。
予想外と言えば確かに予想外だろう。
地方から中央に殴り込みをかけたことといい、何を言われても動じない様子といい、メンタルの強さは折り紙付き。
なおかつ過食症は一般的に過度な痩せ願望に起因している場合に多く、体型など殆ど気にしているように思えないオグリの態度も相俟って、似つかわしくはない。
「詳細ッ! 聞かせて貰いたいッ!!!」
「元々よく食べる娘ではありましたけど……」
「其処が盲点だったんでしょうね。普段から異常なほど食べるから、誰も正常なラインを判断できなかったんでしょ。痩せの大食いも考えもんですよ」
案の定、理事長も駿川さんも即座に喰い付いてくる。
ハイセイコーの再来を潰すまいという打算はなく、純粋にオグリの身を案じていた。
話が進め易くて助かる上に、分かってはいたが親にも似た愛情をウマ娘に対して抱いていることが伺える。
「そういや出会ってすぐの頃、間食あんましてへんかった気ぃするなぁ……」
「あの子と話してみたけど、私とお喋りしてる最中は食べる手を止めてたわよ。でも別れた後は、途端に落ち着かなくなったと思ったら急に食べ始めてたのよねぇ」
「オグリちゃんねぇ、トレーニング前は腹八分でやめてたらしいわよぉ。お腹をぐうぐう鳴らしても我慢して。そう言えば最近、あの子の腹の虫聞いてない気がするわね」
「初めの内はカフェテリアで食べてたんだけど、あれだけ人目を集めればねぇ。今でも時々此処で食べるけど居心地悪そうさ。こっちももうちょっと環境整えてあげないとね」
タマちゃんマルちゃんを筆頭に、購買や食堂のおばちゃんその他諸々から聞いて集めた情報、自身で目にした彼女の状態。
何かを食べていない間の落ち着きようのなさ、強迫観念に駆られるように間食を続ける姿は間違いなく過食症のそれ。
但し、痩せ願望とは起因が異なる。あの間食はストレスを解消するための代償行為だ。
地方から中央への移籍。
慣れない環境下ながらも更新され続ける自己ベスト。
登録の問題でクラシックに出走できずとも、へこたれない腐らない。
周囲からの期待、望んでいない嫉妬や羨望。
地方出身という理由による嘲笑。
当人のやる気を削ぐ要素が多いにも関わらず、熱意にも意思にも変化が見られないのはオグリの精神力が人並み外れている事を意味している。
だが、人よりも優れた精神であったとしても、人よりも感じるストレスが少なかろうとも、決してゼロになりはしない。
「オグリキャップと話してみましたけど、郷土愛が強いみたいですね」
「肯定ッ! 私と初めて会った時も、故郷の皆に報いたいから中央でも走ると口にしていたッ!」
「話を聞く限り、周囲からも愛されていたようで…………原因は
「それも原因の一つでしょうけど、どうにも自分に対して興味が薄いと言うか、あまり頓着がないんですよね」
「同意ッ! トレーニングシューズも学園から支給しているものを履き潰しているようだが、常にボロボロだったッ!」
「過食症は自覚症状が薄いもんですけど、ストレスそのものも自覚してない。でも妙にそわそわしてたり、落ち着きがない姿を頻繁に見てません?」
「確かに、いつもと違う様子なので声をかけた時も何でもないと言って、その後に何時ものように食べていたのを見た事はあります」
「これまでの環境も相俟って、自分に合ったストレス解消方法を知らないんでしょ。で、無意識に選んでいるのが食べること、って感じですかね」
オグリと話してみて伝わってきたのは故郷への強い愛情。
何かを褒めるにしても、此方の預かり知らない故郷の誰かを必ず引き合いに出していた。
翻って、それらは故郷で大いに愛されて育ったことを意味し、彼女もまた自覚がある証左。
金銭的にはいざ知らず、精神面での不足は一切なかった。
仮にあったとしても、周囲が意識しないままケアを行っていたのだろう。
それらから離れたことでメンタルケアの方法も分からず、ストレスの自覚は薄くとも溜まる一方。
このままでは危険、と感じ取った無意識が選択した代替行為こそ食べるという行為そのもの。
購買にやってきた時、落ち着きがなかったのはオレが居たからではなく、何かを口にしていなければストレスを解消できず、強迫観念に駆られていたからだ。
「早いとこメンタルケアや管理の得意なトレーナーを宛がわないと悪化する一方だと思います」
「承知ッ! と言いたい所ではあるのだが……」
思い当たるところがあったのか、理事長は殊の外すんなりと信じてくれた。
しかし、一時は五月蠅いほどの返事をしてくれたものの、その後に続く言葉は歯切れが悪い。
「其実ッ! オグリキャップ君のトレーナーが倒れたことは周知の事実ッ! 無論ッ! 何故倒れたのかもッ!」
「あー……それでトレーナー勢も腰が引けてる、と。じゃあ、理事長から名指しで指名するとか。東条トレーナーとか南坂トレーナーなら問題ないと思いますけど」
「東条さんの抱えている“リギル”は学園最大のチームです。所属には選抜試験を設けているほどですから不可能だと……南坂トレーナーはまだ新人に近い状態で“カノープス”を引き継いだばかりですから。どちらも難しいと思います」
「基本ッ! トレーナーとウマ娘は両者の合意の下に手を取り合うものッ! 強制ッ! は、私でも出来ないッ!」
倒れたトレーナーも主催者から指定されただけで、理事長は関わっていないのかもしれない。
マルちゃんから東条トレーナーとチームリギルの実情を聞いているし、南坂ちゃんは昔から心の機微に聡い奴だったからわざわざ名前を出したのだが。
と言うより、オグリのストレスを緩和、或いは解消してやるには、何処ぞのチームにぶち込んでしまうのが一番早いと思う。
代償行為を止めるには本人の意志力よりも周囲の理解と協力が不可欠。
ストレスそのものを軽減させるには多くの友人や信頼できる人物を用意して、故郷の環境に近づけてやるのが最も効果的。
となると、ライバルであると同時に仲間を得られるチームに入るのが理想だ。
が、どれだけ此方が気を揉もうとオグリがその気になろうとも、トレーナー側が納得しなければ意味がない。
トレーナーは横の繋がりが強い。情報の入手が遅れればスカウトの出遅れを招き、作戦が裏目に出兼ねない以上は当然だ。
そして、人と人の間では良い噂よりも悪い噂の方が巡る速度が断然速く、印象に残り易い。
メディアが事件をセンセーショナルに騒ぎ立てるのは、そうした理由で其方の方が金になるから。
今頃、トレーナー間ではオグリがどう噂されているか、少なくとも良い印象ではないことだけは確かだろう。
オグリはそもそもからしてトレーナーを探している様子はなく、トレーナーの方からスカウトする者も暫く現れまい。
そうなると、どんどん症状が悪化しかねず、体重の増減は更に激しいものになりかねない。
理事長に人事権はあれども強制はしたくはない様子。あくまでも互いの自主性を尊重するのが、彼女の方針だ。
どうにも八方塞だ。
だが、手の内にはこの状況を打破する
「じゃあオレがやりますね」
「じ、迅速ッ! 果断ッ!」
「は、判断が早いし、気軽過ぎますよっ!?」
オレの発言に理事長と駿川さんは悲鳴染みた声を上げた。
気軽とは失敬な。決して気軽なわけがない。
担当になるということは、オグリの競技者人生と未来を背負わねばならないことを意味する。
とてもではないが、相応の覚悟がなければ自ら買って出るなど口を開ける筈もない。
自分の身に起きている障害は理解していた。
そりゃ毎日、嫌と言うほど味わっている。不意に不安と恐怖で叫び出したくなる時さえある。
健忘に快方の兆しはなく、オレの未来に明るい展望はないままだが、およそ人生など誰でもそんなものだ。
一寸先は闇。
どれだけ順風満帆に見えても、些細な切欠で築いてきた全てが崩壊するなどよくある話。
オレなど正にそれだ。夢へ向けて走っていたかと思ったら、気が付けばスタートラインに戻っていた。その間の記憶すらなくなっている。
だが、決して無価値にも無意味にも堕ちたわけではない。
努力で得た財産は資料という形でまだ残っている。
ルドルフや他の娘達と育んだ絆が失われたわけではない。
何よりも、皆のお陰でオレの心は蘇っている。
多くの担当を抱える利点はメンタルケアやトレーニング内容、レース計画も複数人で相談し、実行できることにある。
経験も知恵もあるルドルフは強い味方であるし、マックイーンには実家で学び実践してきた知識がある。
それだけではない。タマちゃんを担当している小宮山さんとも、かつては面識があったらしい。必要とあらば、彼女にも頼る。
「ぐっ、本気っ! なのだね?!」
「本気じゃなきゃ、こんなこと言えませんよ」
「で、でも、今の時点で四人も抱えて、更になんて……」
「それこそ今更でしょ。オレの境遇を考えれば、今ここに立ってること自体がおかしいんだし。そんなオレを信じると一番初めに言ってくれたのは二人じゃないですか」
途端に、二人は目を伏せた。
自分達の信頼が無責任にもオレを追い詰めたとでも思っているのか。
とんでもない。倒れそうな身体を支えてくれているし、背中を押してくれただけだ。
此処の所、駿川さんとは毎日顔を合わせて話している。
理事長だって、暇を見つけては顔を出すし、そうでなくともウマ娘を通じてオレの様子を確認しているのは知っている。
断じて無責任ではなく、常にオレを気に掛けてくれている。
無責任なのは寧ろオレの方だろう。
如何に覚悟が決まっていようが、症状が悪化すれば投げ出さざるを得なくなる可能性を見据えた上で、こうして更に背負い込むような真似をしている。
だから、万が一の備えは整え始めている。
オレの背負い込んだ彼女達が、オレが居なくとも健康無事に自らの夢を掴み取れるように。
さよならだけが人生だ。来るかも分からない別れを恐れるつもりはなく、いずれ訪れるだろう別れを惜しむつもりもない。やれるだけをやれるだけやればいい。
「…………了承ッ! その覚悟に応えよう!」
「よっしゃ、ありがとうございます」
「理事長、よろしいんですか……?」
「無論ッ! たづなにもサポートを頼みたいッ!」
「それは元々そのつもりですが……」
「追加ッ! トレーナー君、定期診断は必ず受けることッ! 忙しさにかまけて後回しは許さん、最優先事項だッ! 報告ッ! 結果は包み隠さず我々に明かすようにッ!」
「そりゃ勿論。親より早く報告させて貰います」
短い懊悩の末、理事長は許可を下ろした。
近い内に担当することになるだろう。直接スカウトしたわけではないが、オグリもトレーナーがいなければレースに出走できない。否が応にも首を縦に振るだろう。
元々、おハナさんや南坂ちゃんに方法を伝えて任せるつもりだったが、こうなっては是非もなし。
オレが無理をせず、皆に負担を強いることになってしまうが、方策を既に考えてある。
オレがやることは如何にオグリの気持ちを軽くして、ストレスを軽減するか。
要はよくコミュニケーションを取って、よく相手を見ること。この辺りは得意分野だ。
その前に、やることがある。皆への説明だ。
今日話したばかりのマックイーンは薄々オレの考えを察しているだろうし、説教や小言をくれようとも人の気持ちを踏み躙らない。無理に止めはしないだろう。
スズカとライスは心配をかけるだろうが、彼女達に素直に頼ると宣言した上であれば助力は惜しむまい。
ルドルフも他の三人と概ね同じだろう。ただ、説明するのならばいの一番にしなければならない。オレは覚えていないが、これまでの時間が彼女との間にはあるのだから。
―――――
――――
―――
――
―
時刻は20時半。
トレーナー君の下に集った私達はトレーニングを終え、ミーティングルームで本日の成果と反省をした後、解散となった。
そして今は彼と二人きり。
元々は今後の予定と計画を立てるつもりであったのだが――――
「………………」
「怒んないでよ。そりゃ昼間のオレが勝手に決めたのは悪いと思ってるけど、元からそのつもりもあったしさぁ」
「怒ってなどいない。呆れているだけだ」
「嘘だぁ。眉間にメチャクチャ皺寄ってるし、声も低いよ」
――――事もあろうに、彼はオグリキャップまで担当すると言い出した。
そして私は不機嫌の絶頂に至った。
今もその場所から降りられないでいる。
自分自身ですら騙せない嘘を吐いている時点で、我ながら冷静とは言い難い精神状態だ。
彼の言い分は理解できる。
オグリキャップの体重増減は目に余るどころか完全に異常な域にある。
トレーナーの誰かが何とかしてやらねば、取返しのつかない事態にまで辿り着いてしまう。
トレーナー側の心境や状況もまた理解できる。
例え事実無根であったとしても、良い噂のないウマ娘の担当など好きこのんでなりたくはあるまい。
根も葉もない噂に振り回されるなど言語道断。しかし、他に判断基準がなく、事実としてオグリキャップのトレーナーは倒れてしまっている。
良からぬ想像を膨らませる材料は揃っており、彼が任せられると太鼓判を押す東条トレーナー達も手が空いていない。
しかし、だからと言って仕方ないでは済ませられない。理解と納得は別だと今更ながら気付かされた。
理路整然、強理勁直に適うよう律してきたつもりではあるが、彼と居ると未熟な自分が顔を出し、普段の自分が取り繕ったものに過ぎないと自覚させられる。
思わず舌打ちをしそうになったが、寸でのところで堪えた。
余りにも品がなく、彼の覚悟を踏み躙るからだ。
それでも苛立ちと不安を何らかの形で発露したくて仕方がない。
「何も君がすべきでないのではないか? と言うよりも、君は自身の状態を本当に理解しているのか、と問いたい」
「理解してるつもりだよ。本当だったら、すぐにでも荷物を纏めて田舎に帰るべきだろうさ」
「それはまだトレーナーを続けて欲しいと言った私への嫌味のつもりか?」
「まさか。やると決めたのはオレで、支えてくれてるのは君の方だ。それにルドルフの夢にも添ってるとは思うけどな」
「…………それを言うのは卑怯だ」
卑下でも卑屈でもなく、正しい事実として彼は現実をそう認識している。
当然だ。彼の症例、体質、能力の要素が揃っているから故に形になってこそいるが、本来であれば療養するのが最善だ。
私の言葉に自覚できてしまうほど棘があるのは、不安と希望の二律背反があったから。
彼であってもという不安、彼ならばという希望。そして、私はまた寄り掛かっているだけではないかという不安、私なら――――私達なら支えられるという希望。
けれど、私の夢を引き合いに出されれば、力なく笑うことしかできない。
今ここでオグリキャップを見捨て、いずれ彼女に訪れるかもしれない出会いを待つことは、私の夢を否定する行為。
そして、苦しむ誰かに当たり前のように手を伸ばし、
「君も、こんな気分だったのか」
「……どういう意味?」
「いや、すまない。詮のないことだ。それから、私は君を犠牲にしてまで夢を叶えるつもりはない。誰かの幸福のために誰かが犠牲になるのは世の常だが、それでは私が納得できない」
自分でも愚かだと分かっていながらも、彼にも自分自身にも釘を差すつもりで心からの本心を口にする。
夢や幸福という名の椅子は常に全体よりも少なく用意されている。
だから誰もが懸命に生き、時には他者を蹴落としてでもその椅子に座ろうとする。
酷い理もあったものだ。
この世は初めから誰もが数少ない椅子を奪い合うように出来ている。
この構図を作り出したのが神だというのなら、かつて彼が神はクソ野郎だと口にした言葉は正鵠を射ている。
だが、その道理を捻じ伏せてでも私は進む。
私一人で不可能ならば、誰かに頼ろう。私が道半ばで倒れるならば、相応しい誰かに託すまで。他ならぬ彼が教えてくれたことだから。
同時に、かつての彼の言葉を思い出す。
時と場面を弁えずに限界へと挑もうとする私を諭すように、ウマ娘の故障は自滅にも等しい、と彼は語った。
恐らく、それは正しい。
何せ、何の故障もなくトゥインクルシリーズを終えるウマ娘は全体の実に0.3%以下。上位リーグまで含めれば皆無となる。
己の夢を追うよりも故障を嫌い、その可能性を潰すことに身も心も粉にしてきた彼は、常に不安と煩悶と戦っていたはず。
我々の脚はガラスに例えられるが、今の彼を例えるのなら
ウマ娘が夢や誇りのために故障すら考えずひた走るように、今の彼は失われた正常を補うために過去も現在も未来の悉くを燃やして、文字通りの死力を尽くしている。
立場が変われば見方も人も変わる。私が今まさに味わっているのは、かつての彼が味わっていたものと相似しているに違いない。
それでも諦めには程遠い。
私が望むのは何一つ欠けることのない幸福な結末。己との戦いで躓いてなどいられない。
「……しかし、最近休んでいないようだが?」
「そう言われてもなぁ。立ちっぱなしってわけでもないし、座り仕事が中心だよ」
「ああ、夜間警備員に教えて貰ったとも。だが、以前は眠らずとも横になって体力を回復させていた筈だ」
彼がトレーナーを再開してから常に注意を払っていた。
尤も昼間は兎も角、彼が本格的に活動する時間帯も、活動できる長さも違う。
だから、監視というほど厳しいものでもプライベートを侵害するものではないが、夜間警備員に協力を願った。
トレーナー君と初老の警備員は知り合いであり、彼の性格をよくよく理解しているからこそ私の申し出を快く引き受けてくれている。
夜勤明け、日勤との交代時に時間を貰い、毎日様子を聞いていた。
私は指摘と同時に睨むように見据える。
彼は目を逸らしこそしなかったが両手を上げた。観念して降伏を示している。
未だ心配は尽きず何一つ問題は解決していないが、僅かばかりに気が晴れた。
何せ、かつては諭されるばかり。今日初めて彼を言い負かし、諭せたのだ。
負け続けの相手に一勝を挙げたようなもの、これで気分の悪くなる者はいないだろう。
その時、ふとした思い付きが頭を過ぎる。
悪戯染みてはいるが、ふむ……ふむふむふむ。いや、中々悪くないのではないだろうか。思い立ったが吉日という言葉もある。
彼は彼なりの信念があって行動している。諭した程度では意味があるまい。何らかの形で釘を差しておいた方がいいだろう。
「どしたの、突然」
「いやなに、私も人の事を言えた義理ではないと思っただけだ。生徒会と君のサポートで忙しくて、多少疲れている」
「それとこの距離感に、一体何の因果関係があるのでしょうか……?」
ソファから立ち上がり、そのまま彼の隣へと移動して腰を下ろす。
彼が指摘したように肩と肩が触れ合うほどの距離だ。心臓が僅かばかりに早くなるのを自覚する。
かつてもこれほどの距離に近付いたことはないが、今は可能な限り傍に居たい。一秒でも長く、彼を独占しておきたい。
今や、彼は私だけのトレーナーではなくなった。
かつては誰にでも躊躇なく手を差し伸べる在り方に敬愛すら抱いていたが、今はそれだけではなくなった。
別段、責めるつもりも否定するつもりもない。
彼女達がテンポイントと同じ末路を辿るとは限らないが、彼独自の感性が嗅ぎ取ったと言うのなら私にとっては耳を傾けるに値し、また私の夢の一助となる行為。
しかし、敬愛とは相反する筆舌にし難い感情があるのもまた事実。
我ながら難儀なものだと思う。
或いは恋とはこういったものなのか。未だに判然としない。
「すまないが肩を貸して欲しい。たまには休む必要もあるだろう?」
「休むなら寮に帰ってからの方がよろしいかと……」
「少しだけ。少しだけでいいんだ。だから君も少し休め」
露骨に困った顔をするトレーナー君を無視し、頭を肩に預けて瞼を閉じる。
優しい彼のこと、無理に振り払うことなどしない。
こうして無理にでも動けない状況を作らなければ、彼は無理を続ける。
しかし、私が覚えたのはどうしようもなく浅はかなもので。
服を通して肌から伝わってくる彼の体温を感じる度に、得も言われぬ法悦を覚える。
鼻腔を擽る彼の臭いを感じる度に、言葉に出来ない安らぎを覚える。
全く、愚かしいにも程がある。
彼のために選んだ行為だというのに、結局は私自身のためでしかなかったようだ。
「…………ほんとに寝ちゃった?」
勿論、寝たふりに過ぎないが、寝たふりだからこそ返答などする筈もない。
それきり彼は口を開かず、どれくらいの時間が経っただろう。
彼はそれ以上何も言わず、身動ぎもせずに私を受け止めてくれている。
これで少しは私の抱えた様々な思いが少しでも伝わってくれれば――――
「………………っ」
その時、彼の腕が動くのを感じて息を呑みそうになった。
私の背後に回り込み、男らしい節くれだった手を頭の上に乗せ、優しく撫でる。
「心配かけて悪いな。でも、ルドルフのお陰で何とかやっていけそうだ。助かってるよ、ありがとう」
私の髪を梳かし、耳の反発を楽しむように、手が頭を這い回る。
彼の力になれている事実が、彼の支えになれている実感が、彼の心からの本心が、溜まらなく心地良い。
全く、本当にどうかしている。
君の度し難い人柄も、全てを忘れて歓びに浸っている私自身も。
何一つ解決していないのにも関わらず、このまま何とかなってしまいそうな気さえする。
もう、いいか。
小難しい話は明日にでも。
私達だけでなく、他の皆も交えて考えることにしよう。
だから今は、この一瞬を、少しでも長く――――
なお、会長はこのまま本当に寝ちゃった模様。
トレーナーは起こさずにそっとソファへ横にして自分は退避。
その後? 会長は無断外泊で寮長のヒシアマ姐さんにひっそり怒られたよ!