斉藤恵那は、チワワを飼っていた。

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斉藤さんの犬

斉藤恵那とセックスをしたのは、ほんの成り行きだった。

本人がそう言っているのだから、きっとそうなのだろう。

僕と斉藤さんは、バイト先で知り合った。

コンビニのバイト。

地方都市のコンビニなんて、まぁ暇なもんだ。

適当な会話をしているうちに、なんか仲良くなった。

僕は、内心ちょっとうれしかった。

斉藤さんは割と可愛い。

クラスでは目立たない存在らしいけど、それはちょっと控えめな雰囲気だからだろう。

 

「斉藤さんってさ、なんかこうちょうどいいよね」

「ちょうどいいって何が?」

「ん、距離感とか」

「あはは」

 

斉藤さんが笑った。

 

「それは君も一緒だね」

「俺?」

「うん。なんかいつも適当に相槌打ってるだけだし。そういう感じがちょうどいいよ」

「バレたか」

 

適当に相槌を打つのは癖なのだ。

子供のころから、他人に立ち入りすぎるのが苦手だった。

原因はわからないけど、両親の離婚がきっかけかもしれない。

幼稚園児の時に家を出て行った父親は身勝手で孤独な人だった。

血を引いているのかもしれない。

だけど、自分の適当さを指摘してくる女子――斉藤さんは妙に気になった。

生まれて初めて、女の子と距離を詰めたいと思った。

ある雨の日、斉藤さんが傘を忘れた。

急な雨だったからしょうがない。

 

「傘、俺持ってるけど」

「え、ほんと?」

「一緒に使う?」

「うん」

 

相合傘になっちゃうけど、と言う暇もなく、斉藤さんがうなづいた。

地方都市の夜は薄暗い。

色の見えない雨は、帰路の途中で大降りになった。

僕たちは、バス停で雨宿りをした。

斉藤さんの服が雨に濡れていた。

髪も濡れて、肌に張り付いていた。

性的な欲求を感じた。

向こうも同じだったみたいだ。

僕たちは、特に互いの同意もなく、口づけを交わした。

濡れて張り付いたシャツに手をかけて、ボタンをはずす。

斉藤さんはちっとも嫌がらなかった。

行為が終わってから、僕は少し逡巡し、斉藤さんに言った。

 

「あのさ、これって俺たち、その、付き合うってことだよね?」

 

まだ雨が降り続いていた。

傾きかけた古ぼけたバス停の屋根を、たんたんと雨が打つ。

僕は斉藤さんを後ろから抱きしめていた。

肌がとても柔らかくて暖かく、他人とのゼロ距離を生まれて初めて感じた。

 

「んー」

 

斉藤さんが、考えるような仕草をした。

え、それって考えるようなことなの?と僕は思った。

 

「それはわかんないかな」

 

いつもと変わらない、どこかさばっとした声。

 

「え」

 

僕は驚いた。

え、マジで。

初めて、くれたじゃん。

ってか斉藤さん、初めてだったじゃん。

女の子の初めてって、そんな適当にあげていいものなの?

 

「ね。まだよくわかんないし。その、好きかどうかとかも。そんなんだったら上杉君だって、困ると思うし。ちょっと考えようかなって」

 

俺は何も困らないよ。

そういいたいが、言えなかった。

っていうか、斉藤さん。

シてる時、一回だけ言ったじゃん。

「好き」って、ぼそっと言ったじゃん。

喉の奥まで出かかって、でもその言葉も言わなかった。

言ってしまったら、斉藤さんとの関係性が全て壊れてしまうような気がした。

 

「それよりさ」

 

斉藤さんがガサゴソと、カバンを手探り、スマホを取り出した。

 

「実は私、犬飼ってるんだ。ほら、ちくわっていうんだよ」

 

そんなことは知っていた。

堤防で犬を散歩させているところを見たことがあった。

犬を連れた斉藤さんは、夕日に映えていて、すごく可愛かった。

僕は、サックスを吹く手を止めて、見入ってしまった。

趣味でサックスの練習をしていた。

でも、いまだ上手には吹けない。

 

「斉藤さん、犬、好きなんだね」

「うん、好き」

 

屈託なく笑う。

犬のことは好きって言えるのに、初めてセックスをした相手のことは好きって言えないのだろうか。

 

 

 

 

雨がやんでから、帰宅した。

ベッドに寝転んで、しばらくぼんやりしていると。

僕も斉藤さんに好きって言っていないことに気が付いた。

 

 

 

 

次のバイトに出るのが億劫だった。

斉藤さんにどんな顔をして会えばいいんだろうか。

正直、なんかつらい。

でも、逃げるのもばからしいし。

かなり悩んでバイトに行くと、斉藤さんが屈託のない笑顔を見せてくれた。

 

「やっ」

 

にこっと笑って手を挙げる斉藤さん。

 

「よっす」

 

僕も習って手を挙げる。

 

「今日は寒いねー」

「そうだね」

 

僕のほうが少し年上なんだけど、斉藤さんはあまり敬語を使わない。

それはそれで、気を遣われていない感じがして好きだ。

斉藤さんは、いつも通りだった。

夕方から夜までのコンビニバイト。

適当な会話と、適度な距離感。

この時間帯はいつも二人きり。

そりゃまぁ、男女だし、二人きりだと仲良くなるわな。

仲良くなるような錯覚をするというか。

もしかして、僕でなくてもよかったのかもしれない。

僕は、ちょっと意地悪したくなった。

 

「ね、斉藤さん」

「ん。なに?」

「あのさ、斉藤さんが飼ってる犬」

「ちくわ」

「あ、ちくわ。その犬さ、もしもほかの犬だったらどうする?」

「どういうこと?」

「うん、例えばほら。めぐり合っていたのが、ちくわじゃない犬だったら」

「それはちょっとやだな」

「え、そう?」

「うん。そんなこと考えられないよ」

「そう」

 

僕は棚のポテトチップスを落としてしまった。

あの犬はあの犬じゃなきゃダメなのか。

それじゃ僕は?

 

「もう、落としたよ」

 

斉藤さんがかがんで、ポテチを取ってくれた。

ポテチの袋を手渡してくれる時、指先が触れた。

ちょっとためらいがあったけど。

引き寄せると、キスを許してくれた。

 

「強引だね」

 

非難をするけれど、嫌がらない。

 

「こういう場所は、やめようよー」

 

違う場所ならいいのか。

 

 

 

 

そんな感じで僕と斉藤さんは、たまにセックスをする友達になった。

場所はほとんど僕のアパート。

一人暮らしだから使い勝手が良かった。

斉藤さんは、僕のことをほとんど何も訊かなかった。

大学に行くでも就職するでもなく、一人暮らししてること。

部屋の片隅の安物のサックス。

今まで親しくなった人はみんなそういうことを問いかけてきた。

でも、斉藤さんは何も訊かない。

それが心地よくもあり、しかし距離感でもあった。

斉藤さんは、自分のことはたまに少しだけ話してくれる。

リンという仲の良い友達がいること、最近キャンプに興味があること。

 

「でも、やるかどうかはわからないかな」

 

のんびりとしたどこか乾いた口調でそう言った。

僕との関係と同じだ。

斉藤さんは、物事を宙ぶらりんにする。

それが彼女の生き方なのかもしれない。

僕はそれが息苦しかったけれど、口には出さなかった。

このころにはもう、斉藤さんの特質をわかっていたからだ。

彼女がいつも大切にしているのは、距離感。

近づきすぎると、きっと逃げてしまう。

僕が彼女を思う気持ちは、口に出さないほうがいいだろう。

 

 

 

 

ある日、堤防のベンチでぼんやりとしていると、足首に生暖かさを感じた。

驚いて足元を見ると、一匹のチワワが。

舌を出し、僕の足首をなめていた。

 

「こ、こらっ、ちくわ~」

 

斉藤さんがリード片手に駆けてきた。

手放してしまったらしい。

 

「ごめんなさい……ってあれ? 上杉君?」

「斉藤さん」

「よかった。知らない人だったら平謝りだったよ」

「……俺でもちゃんと謝ろうね」

「あはは」

 

愛おしげにちくわを抱き上げる。

ちくわの赤い舌が、斉藤さんの頬を撫でた。

 

「ひゃっ、くすぐったいよー」

 

ゼロ距離だ。

斉藤さんの距離感は、ちくわだけがぶち壊すことができる。

僕は首を振った。

違うだろ。

僕だって、斉藤さんとセックスするときは、ゼロ距離じゃないか。

数日前、僕の部屋でシた時の記憶がよみがえった。

冬だというのに、むわっとした蒸気が立つような性行為だった。

僕は思わず、頬が熱くなるのを感じた。

 

「ん? どうしたの?」

 

ちくわを抱きかかえ、斉藤さんが問いかけてくる。

その瞳には、僕が映っているようには思えなかった。

熱がこもったような気分の僕と対比するかのように、斉藤さんは無色透明。

網膜に確かに僕は映っているかもしれない。

が、それはただの像に過ぎないような気がした。

 

「別に」

 

僕はそっけなく答え、顔をそむけた。

 

「今日はいい天気だもんねー。空が青いね」

 

顔をそむけたのが、単に景色を見ているのだと思われたらしい。

 

「ひなたぼっこ?」

 

僕は、うなづいた。

せっかくだから今日もサックスの練習してればよかったと思った。

それなら、僕に興味を持たせられたかもしれないのに、もっと。

 

「斉藤さんは、ちくわのお散歩?」

「そうだよー」

「可愛いね、ちくわ」

「ありがとう。あ、そうだ。ちくわの写真撮る?」

「え?」

「ほら。大サービスポーズ」

 

ちくわを抱きかかえた斉藤さんが、ちくわの手を持ち上げ、おどけたポーズをとらせる。

 

「昨日バイトの時、スマホ買い替えたって言ってたでしょ。良いカメラ付いてるって」

「あぁ」

 

僕は、ポケットからスマホを取り出した。

そして、ちくわではなく、斉藤さんにピントを合わせて。

シャッターボタンをタップした。

 

 

 

 

家に帰り、斉藤さんの写真を眺めた。

片方の指を全部折れるほどの回数、体を重ねたのに、僕は斉藤さんの写真を一枚も持っていなかった。

バイトの帰り道、手を握ったことすらない。

 

「距離感」

 

僕はつぶやいた。

一人暮らしの狭いアパートに、声が響いた。

斉藤さんが欲しいのは何なんだろう。

友達?

恋人?

性欲を処理できる相手?

写真の片隅、映らないようにしようとしてもどうしても映ってしまったちくわが視界に入った。

斉藤さん、君は、僕とちくわどっちが大事なんだろう。

そんなことを考えてから、首を振った。

ばかげている。

犬と張り合ってどうするんだ。

でも、なんとなく、僕とちくわのどっちかを選べと言われたら。

斉藤さんはちくわを選ぶと思った。

僕は、パソコンにスマホの写真を移し、編集した。

ちくわの部分を切り取り、斎藤さんだけにした。

その作業を終えると、満足して眠ってしまった。

夢の中に、ちくわが出てきた。

僕は縄を持っていたので、ちくわの首に結び、ちくわを殺した。

 

 

 

 

次のバイトの日、斉藤さんは来なかった。

 

 

 

 

斉藤さんがバイトを休んだ日の翌日。

夕方に携帯電話が鳴った。

僕の携帯はめったに鳴らない。

誰だろうとディスプレイを見ると、斉藤さんだった。

いつもバイト先で会うから、携帯で連絡はしたことがない。

昨日休んだからかな、と思った。

若干、心が浮つく。

もしかして、会いたい、セックスしたい、とかいうんだろうか。

通話ボタンをタップする。

耳に当てると、沈黙が聞こえた。

沈黙。

電波が悪いのかと思った。

けれど、違った。

それはただの沈黙だった。

 

「……あの」

 

か細い声がようやく、耳に触れた。

 

「あのね、上杉君」

「うん、どうしたの、斉藤さん」

「あのね」

 

斉藤さんは、言葉を紡げなかった。

僕はじっと待つことにした。

他人をせかすのは好きじゃないから。

 

「あの……いまから。会えないかな」

 

やっと斉藤さんは、それだけ言った。

その言葉を探り当てるのに、地球の裏側まで行ってきたかのような声だった。

たくさんの言いたい言葉の中で迷子になり、ようやくとてもシンプルな言葉にたどり着いたという風情だった。

僕は、同意した。

 

 

 

 

夕暮れが強く射す頃に、斉藤さんがやってきた。

青色のダウンの下にクリーム色のシャツを着ていた。

菓子折りほどの箱を持っていた。

僕に促され、部屋に入る。

斉藤さんは、座布団の上にちょこんと座った。

この部屋で彼女と、何度かセックスをした。

彼女がここを訪れるのは、そのため以外にはなかった。

違う目的は、今日が初めてだった。

 

「あのね」

 

ことり、と、箱を床に置いた。

ガラス製品が入っているような、慎重な置き方。

ゆっくりとふたを開けて、言った。

 

「ちくわ、死んじゃった」

 

 

 

 

箱の中に、屈葬のような形でちくわだった生き物が横たえられていた。

丁寧に洗ったのだろう。

毛並みは整えられ、血もついていない。

だが、首筋のあたりがえぐり取られていた。

 

「ほかの犬に、かまれたの」

 

ぼんやりとした声で、淡々とささやく。

 

「大きな犬だった。なぜかわからないけど、急に怒って。仲良く、してたのに」

 

僕は首を振った。

僕は違うことを考えていた。

それは、ちくわへの皮肉だった。

この犬が死ぬ夢を見たんだ。

僕が殺す夢だ。

僕はこの犬を写真から削除したんだ。

そんな僕の部屋に、君は愛犬を持ってきたんだ。

そんな言葉が、口から出かかったけれど、言わなかった。

それを言ってどうする?

僕も斉藤さんも苦しむだけだ。

それに、僕は想像をしただけ。

僕はちくわを、殺してなんていない。

でも。

僕はちくわを見た。

ごっそりと切り取られた、首筋。

それはまるで、僕がフォトショップで切り取ったみたいに見えた。

僕はいたたまれなくなり、立ち上がった。

 

「どこへ行くの?」

 

斉藤さんが、涙目で問いかけた。

 

「外」

 

そうつぶやくと、斉藤さんも立ち上がった。

 

「そうだね。ちゃんと、埋めてあげなきゃ」

 

僕の言葉の意味を勘違いしたらしい。

 

「一人で埋めるのが、怖かったんだ。上杉君に手伝ってもらえたらなって、思ってた」

 

箱を両手で大切そうに持ち、僕の目を見据えて言った。

 

「ありがとう」

 

それは、僕が初めて斉藤さんからもらったお礼の言葉だった。

 

 

 

 

僕たちは、夕暮れの国道を歩いた。

いつもの堤防を越えて、小川の橋を渡った。

あぜ道を歩み、山のふもとの籔林にたどり着いた。

 

「小さいころ、いつもここで一人で遊んでた」

 

斉藤さんが、つぶやいた。

 

「もしも、ちくわが死んだら。ここに埋めてあげるって決めてたの」

 

もしも、死んだら。

その発想に少し驚いた。

 

「あの、最初から、死ぬときのこと考えていたの?」

 

つい口走ってしまい、僕は口を押えた。

言いたくない言葉を、初めて、言ってしまった。

 

「うん」

 

斉藤さんは、物静かなままだった。

 

「私ね、いつも最初っから、終わりのこと考えちゃうんだ。癖なんだと思う。誰かと仲良くなっても、最後を想像しちゃう」

 

僕の手を取った。

暖かくてやわらかくて小さな手だ。

セックスの時のような熱を帯びていない。

もっと穏やかなぬくもり。

 

「掘るの、手伝って」

 

僕はうなづいた。

スコップを持ってくればよかったと思った。

土は思ったよりも堅かった。

けれども、斉藤さんは、懸命に指先で土を掘った。

きれいに整えられた爪先が汚れてしまうことも、割れてしまうこともいとわない様子だった。

僕もしゃがみ込み、土を掘った。

土を掘りながら、こんなにも斉藤さんの内面に近づけたことは、今までなかったような気分になった。

30分ほどかけて、ちくわを埋められるほどの穴を作り終えた頃には、もう薄暗闇が空を覆い始めていた。

夕暮れが暗闇に取って代わられていく、薄明の時間。

紫色の闇が、世界を染めていく時間。

斉藤さんが、ちくわをそっと持ち上げた。

掘ったばかりの穴に、ゆっくりと、横たえる。

僕は、つぶやいた。

 

「斉藤さん、一つ、聞いていい?」

 

斉藤さんの視線はずっと犬を見ていた。

僕のほうを見ずに、答えた。

 

「うん。いいよ」

 

僕は、唾をのんだ。

 

「なんで俺を選んだの?」

「それって、答えなきゃダメ?」

 

斉藤さんの指が、ちくわの遺体の上に、土をかけていく。

 

「答えにくかったら答えなくていいよ、ただ、その、俺、言いたくて」

 

僕は、早口になっていた。

 

「あの、俺さ。実はその犬。殺したかった。だから、皮肉だなって。そんな俺が、最後に触れる人になるなんて」

 

斉藤さんが、やっと僕を見た。

 

「殺したかったんだ?」

「うん」

「……もう、死んでるよ」

 

斉藤さんが、笑った。

 

 

 

 

僕たちは、ちくわを丁寧に丁寧に埋めてあげた。

手を合わせ、誰だかわからない神に魂の安寧を祈り、真っ暗になった国道をまた歩いて戻った。

民家が近づいてくると、サンマの焼けた匂いがした。

 

 

 

 

 

(完)




いかがでしたでしょうか。
斉藤さんは、どこか他人を拒絶している雰囲気があって、犬に夢中なのも、人を愛せない代わりなのかなと思っています。
ご意見やご叱咤激励などありましたらどうぞ気軽にお申し付けください。

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