すっかり日も暮れ夜の帳が下りている。静かに降り注ぐ月の光がなければ、辺りは今ごろ真っ暗闇であった事だろう。今宵は月と縁の深い化生の類が活発となる、満月の夜であった。
──吸血鬼の力が最も高まる時分を見計らって、彼を招いたのかな? お嬢様、結構見栄っ張りなところがあるからなぁ。
紅魔館、その内と外を隔てる正門にて。
その門の守りを任された人型の妖怪──“
彼女は現在、暇を持て余していた。
いくら門番の責務と言えど、その実基本はただ立っているだけ。白黒の魔法使いとイタズラ好きの妖精達の他には、この館に侵入しようと目論む輩など存在しないと言っても過言ではなく、このような手空きの時間に悩ませられるのは日常茶飯事だった。
暇つぶしとしていつも行う居眠りはさっき終わらせたばかりで、貴重な娯楽である“食事”という行為も『今晩は差し入れ無しね』という無慈悲な宣告を先程受けたばかり。
物思いに耽るくらいしかする事がない。
……あ〜、本当に勿体ないなぁ。どうしてあの時、夢と思って意識をまた手放しちゃったんだか。
腕を組んで眉を歪め、美鈴は深く深〜く後悔する。あのような“美味しい”体験は、容姿が
『あの時私は寝たフリをするべきだった』と猛省して歯噛みする程度には、その時の出来事は痛恨の失敗として彼女の記憶に残っていた。
もし狸寝入りに成功したら……と想像力を羽ばたかせて、その妄想をせめてもの慰めとする。ひとしきりそれが終わった後、自分のした事のあまりの虚しさに驚いて自嘲した。
別れ際こちらに向かって手を振ってくれた彼の姿に、どうやら少しどころではなく舞い上がってしまっているらしい。
乱れていた体幹を整える共に深く呼吸を行なって、知らずのうちに昂っていた気を鎮める。
武術を嗜む者として、この程度の自戒は朝飯前であった。
紅魔館の主から“メイド長”の役職を与えられた人間の少女──“
実力的にそして外見的に、一癖も二癖もある者が集う女所帯、それが紅魔館である。それ故に滅多な事ではここに来訪者は現れない(魔導書目当ての盗人は例外として)。
それこそ“異変”に関わるような者でない限り、外部の人間に対して門が開かれるという前例は、一つたりとして存在しなかった。
だが今日になって、その前例は破られる事となった。
しかも青年とメイド長の会話を聞いた事から察するに、お嬢様が直接彼を指名したという話ではないか。
何を目論んでわざわざその人間を招待したのかは、主の性格をよく知る門番にも全くの不明であった。いつものように単なる思いつきで行動しているのか、それとも外部から融通される“食糧”に飽きて、鮮度たっぷりな生き血を欲しがった為か。
時間潰しにはなるものの、判らない事をいつまでも考えていても不毛である。なので美鈴は思考を主の真意の推察から、再びあの青年に関するあれこれへと移す。
今朝方メイド長が音も無く外出していたのは、彼をここまで呼び出す為であったのだろう。
ではその招待を受けて実際にやって来てしまったあの青年は一体何者なのか。紅魔館という場所が、ただの人間にとって非常に過酷な環境であり、特に下手を打たずとも住人の気分次第で容易に人の命が奪われてしまう魔境であるということを、彼は承知しているのか。
観察した限りでは、男に特異な性質は全く見受けられなかった。健康的な若い人間として、霊力や魔力、気、体格までもがおしなべて平凡。外面からは見抜けない特殊な技能があるというのであれば話は別だが、少なくとも格闘技能のほどは寝惚けた自分でも制圧可能な程度に留まっていた。
魔を封じる何かしらの装備を携帯している様子だったが、妖精メイド達ならばまだしもその他の──特にお嬢様なんかは歯牙にも掛けないだろう。
以上のことから、あの青年が十分な自衛の手段を持ち合わせているとは考え難かった。
──しかし、本当に身を守る術が無い訳ではないのだろう。
命知らずでもなければ、流石にあの封魔の装備以外にも何かしらの備えはしている筈だ。加えて、私に押し倒されるという苦行を課されてもそれを許容し、更には微笑んでくれたという並々ならぬ寛容の精神。
不思議な人間だなぁ、と心底思う。
もしかすると私に組み伏せられたのは意図しての事であって、それで『紅魔館という勢力には決して敵対しない』という姿勢を、身をもって示していたのかもしれない。
あれは寝惚けた自分の起こした偶発的な事故のようなものだったのだが、それすら自らの益になるよう立ち回るとは中々どうして抜け目ない。
きっと彼はどんな窮地に立たされても、上手いこと機転を効かせてその修羅場から悠々と脱するのだろう。
引き続き満月の映える夜空を眺めながら、紅美鈴は彼の人物像を想像にて形作っていく。
彼女は紅魔館にやって来た青年に対して、その精神性に高い評価を下した。しかしながらそれはあくまで門番から見た彼の姿であって、実情に沿ったものであるのかは、
──また別の話である。
••••••
もう無理。キツい。早く人里に帰りたいよぉ……
メイド服を着た妖精が二人、眼下を通り過ぎていったのを確認して廊下に降り立つ。曲がり角から声が聞こえたので咄嗟に天井に張り付いてみたのだが、このアイデアはなかなか悪くなかった。もし思い付かなかったとしたら今頃どうなっていた事やら。
ただでさえ蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているというのに、これに更なる賑やかさを加える事になっただろう。
いや、逆に騒ぎは沈静化すると予想できるのか。
俺という元凶を捕まえる事になるのだから。
紅魔館のエントランスにて、俺は館の主であるレミリア・スカーレットという吸血鬼と接触しながらも、なんとかその場から命からがら逃げ出す事ができた。
そこから少々時間が経過していて、流石に彼女も俺が居なくなったのだと気付いた頃合いの筈だ。暖色系のお高そうなインテリアが各所に散りばめられた廊下に沿って人目を避けながら、脱出できそうな窓やら裏口などがないかを探っていく。
──そう、『人目を避けながら』と言ったが事実、先程のように逃走を開始して何回か、館の住民とニアミスしそうになっていた。メイド服を着た妖精達の事である。
恐らく館の主からの下知があったのだろう。妖精達は慌ただしげに館の中を縦横無尽に駆け巡り、俺という逃亡者を探し回っていた。
本来の妖精の気質を考えると、上からの命令を素直に聞かずそれぞれが気の赴くままに遊んでいそうなものである。しかし現状そうなっていないのは、それほどあの吸血鬼が恐ろしいのか、それとも突発的に発生した鬼ごっこを楽しんでいるのか、そのどちらかであろう。
そして、さっき下を通り過ぎた妖精メイドのワクワクした笑顔を見て、後者が正しいのだと思い知る。
こちらは捕まったら終わりであるというのに、そう無邪気に追い立ててくるとは全くふざけた話である。平時であれば可愛いと断言できた妖精のメイド姿も、この状況下では呑気にそう言っていられない。
サーカスで見る
家具の影に隠れたり、施錠されていない部屋で息を潜めたり。
そうやって妖精達を何とかやり過ごしながら、廊下を突き進んで行く。
……この廊下も、おかしいと言えばおかしい。
いくら前に進んでも、奥に行き着く事が無い。というか外から見た館の外観スケールを考えれば、とっくに地上階は踏破したと言える程の距離を進んでいた。
オカルト談でよく聞くような同じ廊下を延々とループする──という訳ではなく、まるで館という空間そのものが拡張されたようであると感じ取れた。大扉が固定されたように動かなかった事も相まって、紅魔館には空間を操る術を持った者がいるのだと内心で早々に結論づける。
『私の能力を使えばこんな事ができるのよ』と、自慢げに話す輝夜を思い出した為に下せた結論だ。
“程度の能力”が活用されているのなら、今置かれている非現実な環境も容易く説明できる。
輝夜と知り合えていなければ、この程度の推察もできなかった──だが、推察ができたからといっても、それで現状が打開可能かと言うとそうでもない。
術者を倒す。
詰まるところ、それがこの無限廊下を攻略するのに必須の手順である。が、逃げの一手でいっぱいいっぱいな現状、そんな事を成し遂げる余力は無い。
運良くそれらしい奴を見つけられたら、博麗の御札で無力化できないか試してみよう──といった消極的なスタンスで挑む他ないのである。
コソコソと身を隠しながら、ひたすらに脱出口を求めて邁進する。
またまた前方から妖精メイドの談笑する声が聞こえてきて、近場にあった通路に身を潜めようとする。その暗がりに入った瞬間、足が空を切った感覚がしてヒヤリとするが、すぐにその足は地についた。
追っ手に警戒しながら、なんだなんだと足元を見てみると、通路と思って入り込んだそこは、下に続く階段への入り口だった。
つまり、知らずに俺は丁度その一段目に足をかけていたという事である。危うく階段をすっ転んだ物音で、位置バレする所であった。いや、結構下まで続いていそうだし、それが死因となってもおかしくはなかった。
一階だけでもこんなにスペースがあるというのに地下まであるのか……どんだけ広いんだ、この館は。
この分だと、出口捜索に要する時間は想定より長くなりそうだった。紅魔館の広大さに辟易させられるのはこれで何度目になるだろう。この館には地下がある──その事を取り敢えず頭の片隅に置いておく。後で何か脱出の役に立つのかもしれないという淡過ぎる願望を込めながら。
流石にこの階段を降りようとは思わない。地下よりは地上階にいた方が断然脱出は叶いやすかろう。なんだか不気味な雰囲気が階段の先から漂っている気がするし。
なんとなく不吉な感覚に襲われて、懐に忍ばせていた護身用の札を撫でて、五枚全てちゃんと揃っているのかを確認する。反射的に取り出せるようにしなければ──と、しかと気負う。
そして『一回休み』で済むのだから、メイド妖精に見つかったらこれを使ってしまおうと覚悟を決める。
……博麗の御札で思い出したのだが、吸血鬼の少女と出会ったあの時、霊夢の名を出していれば、また違った結果になったのだろうか?
まあ、今となっては後の祭りである。
高々と演説している最中に勝手に席を立たれては、話し手としては堪ったものではない筈だ。しかもそれがただ一人の聞き手だったのであれば、その
吸血鬼相手に完全なる不興を買ってしまった。
謝ったら許してくれる、という幻想に縋り付きたい所ではあるが、やはり慎重を期して行動するべきであろう。謝罪をするのは、捕らえられてもう後がない状況に追い込まれた時に限るべきである。身の安全を第一とするのであれば、このまま潜んで探索するのが最善であるのに間違いないのだから。
「さて、そろそろ行ってくれたかな……」
妖精の声が聞こえてこなくなったので、そろ〜りと地下へと続く階段から廊下の方に頭を出して、追っ手の影があるのかどうかの確認をする。
……どうやら誰もいないようだ。
安堵から、
毎度こんな感じで見つからないかドキドキしているのだから、いい加減早くこの命懸けの逃走劇を終わらせたいものだ。
そう愚痴りながら廊下に身を出そうとした──その時になって、俺は
不意に、背後からナニかの気配を感じ取った。
しかも────近い。
俺から二歩も離れない程の超至近距離で、何者かが後ろに立ってこちらを静かに観察している。どっと冷や汗が噴き出した。
……ずっと俺を見ていたのか? 後ろからという事は地下から上がってきたのか? 何故逃亡者を発見したというのに何もしない?
どこか、あの吸血鬼と出食わした以上の怖気を感じながら、ゆっくりと懐に手を入れて、霊夢から貰った御札を取り出す。
その枚数は、五。
けたたましく鳴り始めた生存本能に従って、切り札を全て用いてこの場を切り抜ける事を選択する。
『いま急場を凌いだところで後はどうする?』『帰路の分を考慮して節約するべき』と喧しく主張する理性は無理矢理にねじ伏せて、背後にいる不気味な存在に、全てのリソースを使用して対処する事を決めた。
………こちらが気付いた事は、後ろの奴も察しただろう。
だから、これは所謂西部劇における“早撃ち勝負”だ。
相手方は既にこちらを向いているという不公平極まりない状況であるが、そもそも背後を取られた時点で俺はもう死んだようなものなのだ。文句は言えない。
ゴクリ、と生唾を飲み込む。
妖精が去って静寂の訪れたこの場所で、その音は酷く大きく響いたような気がした。
……それを合図にした訳ではないが、俺は自分の持てる全力の速度で振り返って、手にした五枚の御札を掲げて霊力を迸らせる。
────喰らえ!!
緊張に竦む己の心を奮い立たせ、すぐ後ろに潜んだ何者かに向けて御札の霊力をぶつける──その筈だったのだが、
「…………は?」
視線の先には誰の姿も無かった。
何が目に映ろうと、霊夢お手製の呪符をソイツに叩き込む心算であったが故に、そこに何も存在しなかった事に狼狽する。
どうして何も居ないのか? 背後に感じた気配は気のせいだったのか? 行き場を無くした御札を片手に頭を真っ白にさせながら動揺する様は、
「クスッ………なぁに? それ」
……振り返ってすぐに相手を見つけられなかったのは当然だった。
何故ならば、俺の背後に立っていたのは背の低い少女であったからだ。単純な事だった。こうも極端に接近されては、意識して下を見なければその姿を視界に収める事は叶わない。
「はい、きゅっとして…ドカーン」
少女はそう小さく呟いて、“何か”を潰すようにこちらに向けていた掌を握る。
すると摩訶不思議なことに、俺が最後の頼みとして心の拠り所にしていた五枚の呪符が、弾けるようにして一斉に破れてしまった。
なんとも呆気ない。
まるで吹き荒ぶ風の前に灯された、マッチの火のよう。
「あ…………」
ヒラヒラと、その効果を発揮する事なく舞い落ちてゆく紙片を、俺はただ茫然と眺めている。それを、どこかまったく関係の無い他人事のように傍観する。
霊や妖怪の類に対して無類の強さを持つ筈の霊夢の御札、それを容易く粉砕した危険な存在が目の前に居るというのに、何とも悠長なことをしているものだ。
それでも、この場から逃げ出す事はしない。出来ない。
博麗の御札が無くとも、霊力の弾丸とかでどうにか対抗できないのか? すぐさま踵を返して飛んで、目の前の存在からどうにか逃れられないものか?
生き残る為に、この場を無事乗り越えられる選択肢が無いのかを必死になって模索する。しかしそう思考を巡らせながら本音では、もはや万事休すと諦めている自分に気が付いて、絶望する。
この場において絶対的な弱者である俺にできる事と言えば、視線を下げ、少女の顔を恐る恐る観察する程度であった。
外見の特徴としてはそうは見えないものの、その身に纏うただならぬ気配から、確かにあの吸血鬼の姉妹なのだと納得する。
──昼ごろ読んだ幻想郷縁起によれば、紅魔館の主、レミリア・スカーレットには妹がいるという。
その名も、“フランドール・スカーレット”。
「只の人間が、こんなところで一体何をしているのかしらねぇ?」
珍品を鑑賞するように、こちらをじっとりと見定める吸血鬼と相対して、一つだけ分かった事がある。
“自分の命を真に大切にしたいのならば、そもそも俺は紅魔館に足を運ぶべきではなかった”──そんな寺子屋に通い始めた子供でも知っているような、至極簡単な真実だ。
幻想郷に根ざした人間であれば、幼児であっても知っているそんな“常識”を、俺はそれなりの期間をここで過ごしていながら全く身につけていなかった──なんて、浅はかな。
「………ハハッ」
乾いた笑い声が口をついて出る。
突然笑い出した俺に、少女は首を傾げる。
「う〜ん? 私、何か可笑しいこと言った?」
「え? あー、別に? 何でもないさ」
恐れ
現在自分を襲っているこのやるせない感情は、簡潔に表すのであれば“諦観”の一言に尽きる。
どうせもう『終わり』なのだ。
相手の機嫌を伺う事も、外の世界に戻るという大目的も、ちゃんとした家を構えるという目標も、自分の生還すらも──それら全てを今ここですっぱりと諦めた。
だからこそ、頼りにしていた装備を全て失って、恐るべき吸血鬼が眼前にいるという気が狂いそうなこの状況下で、気心知れた友人に対してするような口調で喋ることができたのかもしれない。
俺は、にこやかな微笑みを浮かべて吸血鬼と向き合う。心は凪いでいて、すっかりリラックスしていた。そんな憑き物が落ちたような顔をする矮小な人間を見て、捕食者たる少女は何を思うのか──ハ、もうどうでも良いわ。
なるべく正常な思考をしようとする脳の処理能力を、意図して鈍らせる。イメージするのは酩酊状態一歩手前な自分自身である。
………もう、どうにでもなぁれ☆
Q.『ありがた〜い博麗の御札、脆くね?』
A.『いくら道具が一流でも、肝心の使い手がね……』