私を構成するカタチが、当時の人々が外来からの伝聞をもとにして想像したという“トラ”のものから“ヒト”のものへ変わったときのこと。つまり元人喰いの妖獣が、かの名高き福徳と武の神である多聞天、の代理の役を務める者として変容を遂げたときのこと。
残酷なまでに強く、記憶に残っている。
簡素で手狭な作りをした、けれども信徒の少なさ故の寂しい広さを覚えさせるお堂の中で。ただこの身体に何が起こったのかと困惑しながら、淡黄色の毛が失せて代わりに白い柔肌となった己が手を茫然と見つめていた。
間の悪いことに困った時いつも頼りにしていた聖は、いくつか山を越えた先にある村々にまで御仏の教えを広めるべく、丁度出掛けていたところだった。このお堂の管理や、稀ではあるが近隣の村から人間が参拝してきた際の対応。迫害され居所を失ってしまった妖怪を保護し安全な裏山まで人目を避けつつ案内する役目など、住職が不在の間に為すべきことは数多くあった。そこに完全に想定外のことが起きたわけで、その時の私は相当な混乱の極みにあったと断言できる。
弱った、この先どうするべきか──そう熟考していると妙なことに気が付いた。何故か、聖のことを思い浮かべていると何処とない危機感を覚えてしまう。取り分け彼女の顔の部分を想起していると、そのざらりとした本能的な心の揺らぎは、より大きなものとなっていく。この身が獣であったときはそうではなかったというのに、これはどういった心境の変化なのだろう?
夜が更けるまで考えても全く結論が出なかった。しかし次の日の朝。喉の渇きを癒そうと近くの川まで向かったことで、その疑問はすんなりと帰着した。
慣れない二足歩行に辟易し途中で四つ足を地につけて(結局歩き辛いことに変わりはなかったけど)、肌寒いからと拝借した聖の衣服はいつもの獣道を通った為に藪などに引っ掛かりボロボロとなってしまって、たかだか小石を踏み枝を掠めただけで身体は傷つき大袈裟な痛みを訴える。
なんと脆く不便なのだろう。そんな不満をこぼしつつ、いつもの水場に到着する。
……きっとあの時から私は、獣から変身し人の姿形を象ったことで、『人間の本能』というものをより実感の伴った形で共感できるようになったのだと思う。
水面に映って見えた、こちらを覗き込んでいるその者と、真正面から対峙して。どうして昨日から、聖に対して言い知れぬ胸のざわめきを覚えるようになったのかを腹の底から理解する。そして、この上なく納得する。
──そうか。私たちの貌は余りにも醜く。
••••••
その日。私室にてゆったり寛いでいた寅丸星にとって、その知らせはまさしく晴天の霹靂だった。
「……え?
無論、そのこと自体は仏教徒として非常に喜ばしい快挙と言えた。
人間の里近くに埋没していた、とある廟の真上に聖輦船が降ろされ早数年。労を惜しまず丹精を込め続けていた布教活動の結実が、とうとうそこに至るまでになったのかと好意的に解せる朗報だからである。
しかし仔細を聞けばどうも腑に落ちない。
というのも体験入信を申し込んだ人間が自己紹介がてら語ったというその素性を聞いて、怪訝に思わずにはいられなかったためだった。
「『村紗や一輪と前々から仲良くしてた』って。ええっと、その話本当です? 一体いつから? ここ暫くをざっと思い返してみてもそういった素振り、あのふたりには皆無だったと断言できるのですが」
「けれど当の本人たちが口を揃えてそう言っていますからね。きっと彼女達も彼女達なりに人との共存をめざして、陰ながら様々な道を模索していたのでしょう。
……でもせめて事前にそういう知り合いができました、程度の情報くらいは教えて欲しかったわねぇ。なのに何の予告も無しに突然紹介されちゃって。あれほどびっくりしたのは本当に、久方ぶりのことね」
件の知らせをもたらした命蓮寺の住職、聖白蓮はそう言って朗らかな表情を浮かべる。
その平時と比べいっそう豊かな感情の表れ方に、寅丸星は一瞬、己の眉間を歪めずにはいられない。
確かに良き知らせではあるが。
些か、不用心ではないか。
千年前、命蓮寺の皆が望まずして方々へと散り散りになってしまったのは何故か。他ならぬ人間の手によって排斥され、長らく魔界に封印されていた渦中の中心人物が、よもや忘れているはずもなし。
もちろん一輪にしても村紗にしてもまったく同じ事が言える。なのにどうして『前々から仲良くしてた』などと明らかな嘘を主張するのだろう。そんな事が出来る時間はおろか機会すらも皆無であったろうに。
また、申し込まれたというのが例の体験入信であった点が非常に不可解だった。あれは元来とある疫病神の更生を目的として考案されたものであって、故にその内実は雑用ばかりであったはず。誰の目にも魅力的に映らないであろうその試み(という乱暴な物言いは発案者を目の前にして失礼かもしれないけれど)に対し、一体何を見出してその人間は申し込んできたというのだろう。
色々と疑問に思うところは多い。多い、が。
「……どのみち此方が募集をかけている手前、拒める道理はありませんか」
その人間が命蓮寺に潜り込んで一体何を行おうとしているのか、それをこの目でしかと見極めねばなるまい。
溜息を吐き、決意を固める。人間と妖怪とが互いに認め合い手を取り合う、そんな理想を思い描く聖にとって自ら進んで妖怪の側へ歩み寄ってくれる人間は、確かにさぞ快いものに見えるだろう。諸手を挙げて、無邪気にその者のことを手厚く歓迎するに違いない。
だがもし、その人間が彼女の優しさに付け入るような事があれば。その時は、その時は……
「星? どこか険しい表情ですが、もしや何か気に障ることでも?」
「いえいえ、険しいだなんてそんなまさか。きっと見間違いでしょう」
激した感情を瞬時に秘める一方、寅丸星には『もしその人間が本当に何の企みも無い信心深き人物であるなら』と素直に期待を寄せたい気持ちもあった。
実際に、里の人間達は千年前の人々と比較して驚嘆に値するほどに、命蓮寺に対し寛容な姿勢を見せていた。
徒歩で通えるほどの近くに拠点を構えても武装し大挙して襲い掛かってくる事もなく。半ば公然と夜な夜な妖怪たちの集う法会を開いても突如として焼き討ちされる事もない。逆に近ごろは極めて遅々としてではあるものの、おもに聖の尽力によって、仏門に帰依する者が増えているという喜ばしい現状があった。だからもしその例の人間が、単にそういった流れに乗って来ただけなのであれば異議を挟む理由はなかった。
その人間の正体は果たして、害を為す可能性のある人物なのか、それとも本当に敬遠な人物なのか。どちらにせよ、目の前に座しながらにして少々どこか浮き足立っているようにも見える住職に向けて、ひとつの問いを投げ掛ける必要性があることに寅丸星は気付く。
即ち、その体験入信が開始されるまであと何日あるのかということ。
なにせいつぞやの博麗の巫女や白黒の魔法使いや守矢の巫女とは違って、相手は完全なる一般人。それを人外だらけなこの寺に迎え入れようというのだ。イタズラ大好きなぬえや小傘なんかは後先構わず手を出してしまうだろう。夜半の法会に集う妖怪たちの中には、力無き故に人に虐げられた過去を持つ者も少なくないから、逆にその人間の事をひどく恐れてしまうだろう。
起こり得る諍いを未然に防ぐ為に『暫くここに里の人間が寝泊まりするようになりました』と事前に周知させておきたい。もちろん、迅速かつ手抜かりの無いように。その為の猶予期間はどの程度確保できるのか。
「ところで、その方はいつからこちらにお越しになるのでしょうか。客人を万全の態勢で迎える為に、これから様々な支度を整える必要がありそうですが──」
「本日からです」
「はい?」
「本日からです」
「……本気なのですか?」
「ええ勿論。ちなみにその客人は他のみんなとの顔合わせを済ませておりまして残るは星、あなただけという状況です。そういう訳ですので早速彼を呼んでいいかしら? 実は既に近くの部屋に待機してもらっているのですが」
「えっ、えぇ! そんな急に……」
並外れたスピード感を見せる事態の進展具合に理解が追いつかず、頭を抱える。
そも、その人間と顔を合わせるのは聖も今日が初めてという話だった。なのにそんなあっさり即日での受け入れを決めてしまうとは。せめて数日程度はその者の人となりを探り様子を見るべきではないか。かつての悲劇を再び繰り返さない為にも慎重を期すに越した事はないだろうに。
というかその人間を呼ぶ? 今から? この部屋に?
そこまで思い至った瞬間、寅丸星は自らが絶対的な窮地に立たされてる事を強く自覚する。
これから命蓮寺の有り難き信仰対象として、その体験入信者といざ対面しようかというこの状況。しかし改めて自身の装いを確認してみれば、いつもの人前に出る際に着用している霊験あらたかな装束ではなく、部屋着用途の極めて簡素な衣服であった。これで人前に出ようものなら純粋に恥ずかしいし、毘沙門天代理の名が泣くし、命蓮寺自体の風評も地に落ちるは必定。
そして更に最悪なことに、たったいま気付いたが宝塔がどこかに行ってしまっている。何たる失態だろうか。
これが平時ならば無縁塚に居を構えるあの子を頼り、彼女からの小言に耐えながら辺りを探し回るところであったが今からでは流石に間に合わない。あれが在ると無いとでは名乗った際の説得力がまるで違ってくるのに。この状況は非常にまずい。宝塔無しの
ともかく今は最低限見るに値する格好を繕う為の時間が欲しかった。その時間も足りるかどうか怪しいけれど、この際あり合わせでも何でもいいから法力に富んだ物を見つけて代用せねば。
「ちょっ、ちょっとだけ待って下さい!? い、色々とそのほら、身支度とかがあんまり整ってな」
「──星」
募る焦燥を見抜いていたかのような、聞く者を落ち着かせる優しい声音に、少しの空白が寅丸星の脳裏に生じる。その余白を埋めるかの如く続けて聖白蓮は言う。
「私もちょっと話しただけだけど、きっと彼は大丈夫よ」
「……そう、ですか」(大丈夫…? 大丈夫とは…?)
住職の言う『大丈夫』とはいったい何処までのことを含意しての発言なのか。瞬間的に判じ損ねた毘沙門天代理は取り敢えずの相槌を打っておく。
それがいけなかった。
瞬時に思い直しその“彼”とやらの何が“大丈夫”なのかを正直に訊く直前、何の気なしに放ったその相槌は了承の意と捉えられてしまったようで。
聖は「もうよろしいですよ」と声を上げてしまい。
やってしまったと顔を顰め、後悔する暇もなく「はーい」と知らない男の声が返ってくる。
あまりに容易く状況が悪い方向へとコロコロ転がって行く様に、口元が自然とキュッとすぼまった。
……いえ今のは、軽率にどうとでも取れる反応をしてしまった自分の落ち度であるから仕方ないにしても。とはいってもあの、宝塔の代わりは諦めるにしてもせめて、着替える時間くらいはあります、よね…?
助けを乞う視線を向けても、聖白蓮は不思議そうに首を傾げるのみ。普段であればこうした些細な仕草に気付けない彼女じゃないのに! と、相手の性格を熟知しているだけあって寅丸星は唖然とする。
やはり何処となく彼女の様子が落ち着きなく思えたのは気の所為ではなかったか──そう考えている間にも、迫り来る足の音は止まらない。すぐそこの廊下より刻々と近付いてくる人の気配に固唾をのみつつ、何か他に打つ手がないか必死になって思考を連ねていく。
宝塔の行方は知れず、身なりも平時の装いと比べて大層野暮ったい。そのような状況下で、これより来る人間相手に毘沙門天代理の名に恥じないような応対をせねばならない。
それと同時に、命蓮寺へ集う信仰を一身に受ける者として、堂々と胸を張れる立派な偶像である事を明瞭に示さねばならない。
本当に出来るの? こんな有り様で?
ふと横目に置かれた姿見に視線を移してしまって、そんな不安に駆られてしまう。
そこに映っているのは、どうにか“トラ”の姿に戻れないかと長らく試行と懊悩を重ね、しかし終ぞ叶うことのなかった“ヒト”である自分自身の姿。
まだ見ぬ客人の来訪に慌てふためき、焦燥を募らせるその風貌の、なんとまあ見苦しいことか。
恐れではなく純粋な信仰を糧とする者として、これより人と相見えようかというときに、このような無様はあまりにいただけない。
「……せめて、立ち振る舞いだけはしっかりしないと」
自ら発した呟きを自分自身に言い聞かせ、どうにか動揺を抑え込むことに成功する。
そして決める。急な来客に対してかける第一声は「初めまして。私は毘沙門天の代理、寅丸星。ここ命蓮寺に集まる信仰を一身に受ける者です」といった感じで、平時よりも丁重なものにしよう、と。
口調も態度も、肩書きに相応しいものとなるよういつも以上に尊大な感じで、頑張って低い音程の声を出すとか工夫して。泰然とした所作なんかやったりして、それらしい威厳を演出できたら上出来だ。
威厳。そう、威厳さえ出していけばこんな姿でもきっと悪いように話は進まない筈で。千年前のように、再び人の心が私や寺から離れて行く事も多分起こらない筈で。
あぁまったく、この手に宝塔さえあればすぐさま解決することなのに──
「失礼します」
落ち着き払った若い男の声と、スッと微かに障子の開く音。それらが耳に届いた瞬間、その方へ目をやった寅丸星はえいっと心中で決めた口上を披露しようとして。
………………!?
しかし視界ど真ん中に入り込んだソレに意識が持っていかれて、半端に口を開いたままその場に固まる。なにしろその人間が手にしているソレは、まさしく先程から心の奥底から欲していた物で。
「あの〜聖さん? さっき部屋の隅でこんなのを見つけたので確認してもらってもいいですか? 見た感じかなり高価そうな物ですし、放っておくのはどうにも」
「えっちょっと! それ、私の……ぁ」
求めていた物がふっと目の前に現れたから。反射的に叫び、ソレを取り戻すべく手を伸ばして。そしてその状態のまま再びカチリと身体が固まってしまう。同時に頭の中はひどく真っ白になっていた。
なに、この、威厳の欠片も無い拙すぎる言動は……さっと血の気が引いていく感覚が全身を襲うと同時に、失敗した、取り返しのつかない事をしてしまったという後悔の念が、心中すべてを覆い尽くしていく。
ソレ──宝塔を手にしたその人間としっかり目が合う。見目からして齢は二十くらいであろうその青年は視線を何度かこっちと宝塔とで往復させたのち、若干戸惑った表情を見せながらも素直に手渡してくる。
「じゃあ、どうぞ?」
「あ、ありがとうございます」
慌てて受け取った寅丸星は、それを再び無くしてしまわないよう大事に抱え、ホッと胸を撫で下ろす。
とりあえずは一安心。これで私がかの毘沙門天、その代理を任される者であると名乗っても、かつてのようにその真偽を真っ先に疑われることはないだろう、と。
そうしていつもと変わらぬ手触りと潤沢な法力に安堵していると、青年はふと思い出したような様子で口を開く。
「その、もしかすると聖さんから既に聞いてるかもしれませんが、一応この場を借りて自己紹介させてもらってもいいですか? ほら、お互い初めましてなわけですし」
「へ? は、はい。どうぞ……」
「では早速ですが。えー、藤宮慎人といいます。本日からしばらく体験入信という形でここのお世話になりますので、どうぞよろしくお願いします」
そんな言葉と共に軽く頭を下げられて、咄嗟に「こ、これはどうもご丁寧に……」と会釈を返す。
視線を青年から畳へ移す只中。いくつか気になるところがあって、寅丸星はひそかに当惑せざるを得ない。
直前の想定とは異なり会話の主導権を相手側が握りつつあること。先程の醜態について特に何の言及・追及がないままに別の話題が始まってしまったこと。そして他の何よりも、最も気になることは。
顔を上げると、青年はこちらを真っ直ぐ見返していた。その表情は全くの自然体で含むところが無く、無防備で、少々言い方が悪くなってしまうが、まるで何も考えていないかような。
御本尊という立場から長きに渡り、様々な人間と出会ってきたけれど。初対面で、彼のような緊張感の欠片もない表情を見せる人物は他にいただろうか? 私を見て怯えるでもなく、警戒するでもなく、ましてやそれらを押し退ける程の金銭欲に駆られている訳でもなく──
「すみません、よろしければ今度はそちらのお名前を伺いたいんですけども…?」
申し訳なさそうに尋ねてくるその声にハッとする。確かに、自己紹介の場で自分は名乗ったのに相手からの名乗りが一向にないというのは非常に不可解な話だった。不快に思われたかもしれない。慌てて思考を中断して答えようとする。
だが、その勢いのまま口から滑り出したのは「わ、私は寅丸星です! よろしくお願いします!」という元気だけは有り余った、なんとも簡潔にすぎた自己紹介だった。
一瞬、時が止まったように感じた。
それはもはや、宝塔の放つ荘厳な法の光をもってしても庇いきれないほどの稚拙な返事。
が、やはりというべきなのか。これについても青年は特に気に留めたような様子を見せなかった。むしろ何故か微笑ましいものを見る目つきとなり、
「ええ、では改めてよろしくお願いしますね、寅丸さん」
挙句には何やら耳慣れない呼び方をしてくる始末で、当惑はさらに深まる一方だった。
普段、敬虔な里の人々からは『御本尊様』と呼ばれていた。だから体験入信を希望する彼もてっきりそう呼ぶものと思っていただけに、その思いがけなさは凄まじい。
また、寺のみんなが口にする『星』ともまた少し違った親しみが込められたその呼称に、どういった反応を示せばよいか判りかねて。
「と、寅丸さん……」
率直に言って、ただひたすらに混乱する。
この、目を疑ってしまうほどに友好的である彼の態度。いくら人外に対してある程度のおおらかさ、寛大さを示してくれる事も多い里の人間とはいえ、これほどまでの者は稀であろう。
改めて表情をつぶさに確認してみても、嫌悪や恐怖、忌避感といった胸中のうちに自ずと生じているはずの心の動きを、全く表に出していない。
感情を押し殺す術によほど長けているのか。はたまた一輪や村紗と本当に『前々から仲良くしてた』から、
経験でもってその動物的本能を完全に掌握する。可能性としてはこれが最もあり得そうな仮説ではある。しかしそれで彼に関する全てに筋道が立てられたとは思えず、なんだか釈然としない。
……どうもこの青年は、千年前の人間達や他の里の人間達と見比べて、何処かしらが決定的に掛け違っているように思えてならない。
これは、どうすれば良いのだろう。前例の無きゆえに彼との適切な接し方が判らない。
手助けを求める心地で目を向けると、先程からのやり取りを間近にして穏やかな表情を浮かべている聖がいる。
直後、己に向けられた助けを乞う視線に此度はすぐ気付いた彼女だったが、特にその場を動く事もなく、柔らかな目配せをこちらに送ってくるのみに留まった。
──────。
確かに聖は言っていた。眼前の青年のことを指して、きっと彼は大丈夫と。その言葉の意味は今となっては正しく理解できる。
確かに彼は“大丈夫”だった。法の光をあまねく照らす宝塔も、威厳を保つ為に人前で決して手放す事のなかった鉾も、仏教において俗世に染まらぬ清らかさ表す蓮華を模した髪飾りも、そのほか何も誤魔化せる物が無い私と向き合っていても、彼は至って平気な様子だった。
“私のような見目をした者”と対峙したままに、『普通』であり続ける事の困難さは、私自身よく理解していた。
かつて水面に映る自分自身と対面した際に実感した、あの全身が竦むような本能的情動。アレは決して、嘘偽りではなかったのだから。
それを、人間のカタチをした者が皆一様に感じ取ってしかるべき普遍的衝動であるとするならば。
彼は、どのようにしてその衝動を克服したのだろう?
以前から村紗や一輪と親しくしてたという話が本当かどうかとか、実質雑用係な体験入信に何を思って申し込んできたのかとか。青年と相対する前に抱いていたそれらの疑問は、もはや些事も同然だった。
知りたい。明らかにしたい。どのような経緯や理由があって、彼はその非凡な精神性を得るに至ったというのか。“ヒト”と化して時は久しく、他の誰よりも自分の顔を見知っている筈の私ですら、時折どうしようもない疎ましさを覚えるというのに。本当に、どうやって──
「……コホン」
いつの間にかすっかり舞い上がってしまっている自分に気が付いた。ひとつ空咳でもしなければ、到底このふわふわとした心地を落ち着かせられそうになかった。それも、無理からぬことのように思う。
ともすればこの青年は、千年の時を隔てども決して揺らぐ事のない聖の宿願、それを叶える重要な鍵となり得るかもしれないのだから。
口調であったり、実は宝塔をそこまで高頻度になくしてなかったり、従者との関係性であったり 東方project全体を見渡しても、個人的には彼女が最も公式と二次でギャップがある子なのかなという印象 本作においてもそのご多分に洩れず、しかもそれに加えてなんだか自己肯定感がだいぶ薄いような……
今回は、次回更新予定の『妖怪寺体験入信日記その伍』の導入部分にすぎなかったり 思いのほか長くなったので急遽分割した次第というわけです