「おーい、須賀ぁ」
帰り支度を済ませてさあこれから家に帰るぞー、と言うところで急にそう呼び止められた。
振り返るまでも無く声をかけてきたのが誰なのかというのは分かっている。
間の抜けた感じのおっさん声で私を苗字呼びするだなんて、どう考えても担任の山本先生以外には考えられない。
故にげんなりとしてしまう心をなんとか表情の内に仕舞い込んでから、ゆとりを持った笑顔と共にゆっくりと振り返った。
「あら先生、ごきげんよう。私に何か御用でしょうか?」
「まぁ用が無いのに呼び止めはしないな。ついでにいうとお嬢様口調はお前にゃ似合わんよ」
「うっさいな」
自分でも多少気にしているんだから、そうハッキリと言わないで欲しい。
このおっさんが一言多いのはいつものことだけど、それがやたらと私に向けられている気がするのは何故だろうか?
さてはあれか。
この親譲りの金色の髪が不良っぽくて気に入らないとか、そういう古臭い教師倫理的な発想から生み出された間違った認識のせいなのか。
そういえば父も昔は髪の色のせいでやたら不良扱いされて軽く凹んだという話をしてくれたっけ。
そう考えれば理不尽な話ではあるのだが、さっさと本題を終わらせて家に戻りたいので適当にスルーしておく。
「で、何の用ですか?」
「お前今日な、俺の授業で宿題忘れてただろう? まさかその事実まで忘れたわけじゃないだろうな?」
「……あっ」
そんなこともありましたっけね。いやぁ、すっかり忘れてましたよ今の今まで。
……なんてことを素直に言わなかった自分を、まずは褒めてあげたいと思う。
それが隠しきれているかどうかは別にして、だ。
「……忘れてやがったな?」
「ハテ、ナンノコトヤラ」
「ったく。お前いつもそんなだからなぁ……ああ、まあそれはいいわ。それよかちょっと頼まれてくれ」
「えー」
「えー、じゃねぇの。ほれ、これを旧校舎の物置部屋まで運んどいてくれたら今日のことはなかったことにしてやるぞ」
何故か呆れ顔で、手に持っていた一冊の本を半ば強引に手渡してくる。
いわゆるハードカバーと呼ばれる分厚い表紙のそれには、一目でそれとわかる位置にはタイトルが書かれていない。
とはいえれっきとした製本なのだから、図書室にでも返しに行って来いと言われるのならば分からなくはないけれど。
「……旧校舎の物置部屋って、あの一番奥のとこの開かずの間のことですよね?」
「そうだな。俺が学生だった頃から開かずの間なんて呼ばれてるが、実際はただの物置部屋のあそこだな」
「うへぇ」
せっかく隠していたはずのげんなり顔がここに来て飛び出してしまった。
だって仕方がないじゃないか。
通称『開かずの間』と呼ばれるその物置部屋は普段から厳重に施錠されており、一般生徒がまず立ち入る事の無い場所なのである。
故に、実しやかに囁かれるのは決まって学校の怪談よろしく誇張された怖い話だったり、学校についての妙ちくりんな噂だったりするのだ。
どちらにしろ碌な話ではないことは字面を読んだだけでお分かりであろう。
ただ今の問題はそこではない。
こともあろうに!
この冴えない担任教師殿は!
か弱い一生徒でしかないこの私に!
一人でそこへ行ってこいと言っているのだ!
「この人でなし!」
「何とでも言え、負け犬め。ほれ、鍵これな。あとあんま中を荒らすんじゃないぞ」
問答無用。問答無用である。
いくら宿題を忘れたからといって、こんな仕打ちが許されても良いのだろうか!?
「少なくともお前さんのご両親は笑って許してくださるだろうよ」
で、その後に申し訳なさそうに先生に向けて頭を下げる母親の姿までが見えている私は流石といわざるを得ない。
この時点で、断るという選択肢が最初から用意されていないことに遅まきながら気がついた。
その部屋は、ほぼ無音の薄暗い廊下を抜けた先にある。
数年ほど前に新築で部室棟が建てられたこともあり、今ではほぼ使用されることが無くなってしまった旧校舎。
私なんかはさっさと壊してしまえば良いのに、と思わなくもないのだけど。
そこはそれ、かつてそこで過ごした思い出がわんさとあるであろう卒業生の皆さん的には多少考えることもあるようで。
古くなった備品なんかを保管しておくための倉庫代わりとして、現在は使われていたりする。
今はしんとして物静かな空間でしかないけれど、昔はもっと活気が満ち溢れていたのだろうと想像するだに感慨深い――わけがなく。
さっさと用事を終わらせてこんな辛気臭い空間からはオサラバしたいものである。
――カチャリ。という音を響かせて、扉の鍵が下りた。
自分自身の手で、開かずの扉が開かれる。
ずいぶんと古めかしい音とともに開かれていく扉の向こう側には――なんとも不可思議な光景が存在していた。
「……何故ベッド?」
最初に目に付いたのは、部屋の片隅で埃を被ったセミダブルのベッドだった。
無論、シーツが敷かれてたりもしないので、そこで誰かが寝泊りをしているというわけではないだろう。
保健室あたりで使われていたものを運び込んだのか。にしては年季が入っているようにも見受けられるのだが。
一歩、部屋に足を踏み入れる。
長い間放置された倉庫なんかに漂っているようなカビや埃の饐えた匂いは、不思議と感じられなかった。
誰かが小まめに手入れをしているのかもしれない。
そこでふと我に返って、ここに来た目的を思い出す。手の中に握られたままの本を、片隅で埃を被っていそうな本棚へと戻しておいた。
しかし、これが開かずの間の正体というのはちょっと拍子抜けな感が否めない。それが正直な今の思いである。
流石に血糊があちこちに飛散しているような光景は有り得ないだろうけれど、少しはそれっぽい雰囲気があるものだとばかり思っていたのに。
それどころかむしろ、ここを大切にしているだろう『誰かさん』の暖かさを感じて、心が落ち着いていくのを感じる程だ。
いっそここを私の秘密基地にしてやろうか。
「山本先生が、ってわけじゃなさそうだけど。あの人なんかそういうのやらなさそうだし……ん?」
呟いて、ふいに逸らした視線の先。
西に傾いた太陽の光が、窓にかけられた遮光性カーテンのわずかな隙間から零れ落ちて照らし出したのは。
「麻雀牌、だよね? あれ」
その光の指す場所に近づいてみる。
色々なダンボールが積み重ねられている部屋の片隅、小さめのテーブルの上に置かれていた麻雀用の小道具たち、その一つがそれだった。
様々な模様が書かれている牌のうち、唯四つ、何も書かれてはいない真っ白な牌。
綺麗に纏められたその一式は、手入れがなされているのだろうか。光を受けて未だキラキラと輝いていた。
「綺麗だけど、いいのかなこれ」
品行方正な大人を育てるべく開かれた教育の現場に、賭け事の印象が強い麻雀の道具が置かれているというのがまず違和感である。
この学校で教鞭を振るっていた、あるいは今現在も振るっているであろう教師陣の中の誰かの私物――なのだろうか?
まさか、夜な夜な教師達の間で徹夜麻雀大会が開催されていたりする?
ああ、それで「開かずの間」なのか。
あえてそういう噂を流すことで、生徒たちを近づけないようにする。あれらは全て汚い大人の計略だったというわけか。
――謎はすべて解けた!
「なんつって。ま、私も小さい頃から牌は触ってたしね……主に積み木扱いだったけど」
賭博の一部であったり。雀荘の喫煙風景であったり。徹夜であったり。脱衣であったり。イカサマであったり。etcetc.....
世の中に広まっているイメージとしてはあまりよろしくない麻雀ではあるけれど、こと須賀家においてはそうでもない。
両親が好きだからというのもあるのだろう。普通に我が家には麻雀セットが存在し、小さい頃から遊んでいた記憶があった。
逆に小さい頃友達が麻雀のことをほとんど知らなかったことに衝撃を受けたくらいである。
もっとも、詳しいルールなんかを理解したのは中学二年生になった頃のことで。
それまでは牌を積み木代わりにして母からお小言を頂いたり、おはじき代わりにして弾き飛ばした牌が父に直撃して怒られたりと、一般的な扱いはしていなかったけどね。
「でも、君たちはきっと持ち主の人に大事にされてたんだろうな」
こんなところに置き去りにされているのは、どうしてなのか分からないけれど。
心の中でそう付け足して、輝きを残す牌の一つを手に取った。
「――っ!?」
その瞬間だった。
世界が、私という存在の全てが白い光に包まれたのは。
時間にしてどのくらい経過したのかは、正直言って分からない。
呆然とする私の手のひらには、持ち上げた白い牌がそのまま握られていて。
モノクロの中に沈んでいたはずの世界――いや、この部屋の中は、過ぎ去ったはずの