「……はっ」
いけない、思わず自失してしまっていた。
我に返ってまず最初に。
今の光は一体なんだったんだろう、なんて考えるよりも先に浮かんできたのは、ここはいったい何処だ?という至極まっとうな疑問であった。
というのも。
ついさっきまで私は思わず眉を顰めてしまいそうなほど古ぼけた、まるでモノトーンでも張られているかのような静寂に満ちた世界に一人閉じ込められていたはずだ。
いやまぁ実際は閉じ込められていたのではなくて、お使いで足を運んだに過ぎないけれども。
ともかくそこは、現役を退いた老兵士のようにくたびれた様相を見せた部屋だったはずである。
しかし、今はどうだろう。
綺麗に張り替えられたであろうシーツが敷かれたベッド、部屋の中央に置かれた全自動卓と思わしきテーブル。
部屋の片隅には幾つも型の落ちた風に見える旧式のパソコン、おそらくは部活動のスケジュールの書かれたホワイトボード、などなど。
あちらこちらに今現在使用されているんだぞ、と思わせる現役の匂いが満ちていて、先ほどと同じ部屋であるはずなのに受ける印象はまるで真逆だった。
これってもしや、白昼夢?
いやいや、それならばまだ普通に寝ながら夢でも見ているというのが一番あり得る状況である。
朝起きてご飯を食べて学校に行って授業中に宿題忘れて怒られて……その罰ゲーム的な感じで開かずの部屋に本を返しに行かされた、というところまでが全部夢。
……うん、有り得ない。
実際に見てもいない部屋の中を夢に見るほど鮮明に思い描くなんてこと、私に出来るはずが無いではないか。
ならばいっそのこと逆転の発想で、あの出来事があった後に見ている夢である可能性が微粒子レベルで存在するということに……?
しかしそうならば、私はあのまま部屋を出て鍵をかけ、先生に鍵を返したあと家に帰って着替えをし、ペットのカピちゃんに餌をあげながらモフモフしつつ、帰ってきた母と一緒に夕ご飯の支度をし、父が帰ってきてから揃って食事、お風呂に入ってからお気に入りの布団に包まれてご就寝した――ということになるのだが。
……正直ひとっつも覚えていない。
てことは、だ。
一番考えたくない可能性ではあるけれど……部屋まで足を運んだのは現実であり、あの光に包まれた時、何らかの要因で私は気を失った。
で、あの普段は誰も来る事がないであろう古ぼけた部屋の中で、今も私は一人床に突っ伏して眠りこけている、と。
考えているだけで気が滅入る。さっさと目を覚まさないと――と思いつつ、どうやれば目が醒めるのだろう?と首を捻っていた時のことだ。
「ふぅ、今日も疲れたわねぇ……って、誰――?」
肩をこきこき鳴らしながら、部屋の中に一人の女生徒が入ってきたのは。
私が着ている制服とは少しばかりデザインが違う――けれど、確かにそれはここ清澄高校指定の制服である。
首に巻かれたタイの色と形を見るに、伝統に則って考えればまず間違いなく最上級生のはずだ。
「っ! も、もしかして貴方、入部を考えていたりするのかしら!?」
「えっ」
ガシッ、と肩を掴まれる。
「いやー、今年はほんっと当たり年ね! あの二人だけじゃなくて、もう一人入ってくれることになるなんて!」
「いや、ちょ」
「私は部長の竹井久。見ての通りの三年生よ、よろしくね!」
「あ、はい。よろしくお願――え、いやいやそうじゃなくてあのですね――」
ぐいぐい押し込んでくるその人――竹井先輩とやら――に圧倒されつつも、なんとか言葉を捻り出す。
「ここってそもそも、何部なんですか?」
「え?」
ちょっと痛いなぁ、と思ってしまうほど力強く握られていたはずの手から、力が抜ける。
ついでにキラキラと輝いていたはずの彼女の瞳からは、一瞬にして光が消える。
「知らない……ってことは、入部希望者じゃない?」
「はぁ、残念ながら」
「ですよねー……」
こくりと頷いたのと同時に、がっくりと項垂れた。
「……まぁ分かりきってはいたんだけどね。新入生が入ってきてから早一ヶ月、今頃部員が増えることなんて早々無いってことくらいは」
あからさまにしょげ返っているその人を見ると、全然まったく悪くなんてないこの私を以ってしても、罪悪感なるものを抱かざるを得ない。
そもそもそんなに貧窮している部活ってなにかあったろうか?
廃部寸前だったはずの文学部はたしか、新しく赴任してきた美人先生が顧問となった結果、男子生徒急増で見事に窮地を脱したと聞いた。
あと危なそうだったのは手芸部か演劇部あたりが――と普通に考え込もうとして、そもそもこの事態が既に普通じゃないんだったと唐突に思い出す私である。
廃墟同然といってもいい旧校舎をあえて部活動に使用しているところなんてあるはずがないし、そもそも学校側が許可を出すとは思えない。
で、あれば。
夢か現か幻か――なんてフレーズがよく似合う、何一つ普通じゃないこの状況において、彼女らの今後の行く末を真剣に憂いてあげる必要はないのではなかろうか?
うん、そうだ。きっとそうに違いない。
「じゃ、すみませんが私はこれで」
「そう。それじゃ――って、違う違う。ウチの部に用事がないんなら、どうして貴方はここにいたのかしら? 部長としてそれはきちんと聞いておかないとね」
「えっ? あ、いや、それは……なんていうか、不慮の事故?といいますか」
「んー……? 怪しいわねぇ。まさかとは思うけど――空き巣的なことを?」
「してませんよ! 何いきなり言い出すんですかっ」
「ふふ、ごめんなさい、冗談よ」
「冗談にしてももうちょっと可愛らしいのとかあるでしょ? ったく……」
なんの証拠もなくいきなり容疑者扱いだなんて、まったく失礼な話である。
私でなくともぷんすこ!と怒りたくなるのも当然だろう。
……だけど、なんだろう?
何故かすごく、この人のことを知っているような気がするんだけど。あれはどこで……。
「それにしても、あなた――あまり記憶にない顔ね?」
「同級生とかならともかく、入学してからまだそんな経ってないんだからそんなの当然じゃないですか?」
というか、私なんて未だにクラスメイトの名前と顔が一致しないことだってあるくらいだが。
机周辺から離れた場所にいる男子なんかは特に。
「それもそうか。でも、上手く言えそうにないんだけど……んー、なにかしらねぇ、この違和感」
「そんなことを言われましても……」
って、マズイ。
この人のペースに引きずりこまれたらいけないと、私の内に眠っている何かが必死になって働きかけてきている。
なんというか、遺伝子そのものが警鐘を鳴らしているレベル。
ここは早めに退散してしまったほうが良いかもしれない。いや、そうするべきだ。
正直イレギュラーなことばかりが発生して頭はまともに廻っていないが、危機的状況を潜り抜けようとする生存本能はなんとか正解を引き当てることに成功した。
「と、とにかく私は先生に頼まれて本を返しに来ただけで。それが終わってから麻雀牌が目に入ったので、ちょっと見てみようと近づいたら先輩が」
「本? ああ、あれか。まったく先生も一応顧問なんだから自分で返しに来ればいいのに、生徒を使うなんて……」
頷いて本棚をちらりと見やったところをみるに、心当たりがあったらしい。よかった。
ただ、最後に「私にも言うことを無条件で聞いてくれる後輩とか現れないかしら」という恐ろしい独り事が聞こえてきたような気がするけれど、きっと気のせいだろう。
「そういうことならご苦労様。紅茶をご馳走してあげましょう、そこに座って待っててちょうだい」
「あ、いえ。父からも早く家に帰って来いって言われてますんで、今日はこれで」
「あらそう? そういうことなら仕方がないか。ま、『今日は』ってことは明日も来てくれるんだろうし、ねっ」
「言葉の綾です。来ませんよ?」
「えー、つれないわねぇ。まるで入部したての頃の和みたい」
「のどか?」
「ウチの部員の一人よ? 原村和、名前もそうだけど過去の実績とか外見とかでもそこそこ有名なはずなんだけど、知らない?」
「原村……和?」
おや? その名前、どこかで聞いたことがあるような……何かのテレビ番組だったっけ?
ああ、うん、たしかそうだ。
原村、はらむら……原村議員、じゃないな。原村先生、もしっくり来ない。原村選手、違う。原村アナ……アナ? といえば、アナウンサーのことで。
「あー、あーっ! って竹井久!?」
「うわっ! び、びっくりした。なんでそこで急に私の名前なのよ!?」
いやいやいやいや、ちょっと待った。
言われてみればそうだ。原村和って名前もそうじゃないか。
政治経済バラエティドキュメンタリーとなんでもござれ、通称『久ペディア』こと売れっ子博識アナウンサー、竹井久。
可愛すぎる弁護士として法曹界から芸能界まで余すことなく名を馳せる『法のおねえさん』ことアイドル弁護士、原村和。
この二人のことを知らない人はたぶん日本にいない。それくらい連日連夜、テレビに出ている人たちの名前である。
……そういえばたしか、竹井アナは清澄出身だったっていう話をどこかのサイトで読んだことがあったっけ。
しかし、原村弁護士はたしか東京の超有名進学校出身で、清澄とは縁も所縁もなかったはず……いや、ちょっと待て私。
「……」
少しだけ冷静になって考える。
私が知っている人とは別人だけど、同姓同名――というのが一番有り得る可能性だろうか。
目の前のこの人も?
……いや、認めたくはないけれど、たしかに竹井先輩は竹井アナとそっくりだ。
それこそ『若かりし頃』というフレーズがばっちり嵌りそうなほど、見た目なんかそれはもう紛うことなく同一人物である。
それに加え、この部屋の現状というのも考慮に入れるのであれば。
考えたくもない可能性が脳裏を過る。
私はもしかして、今――とんでもない場所にいるのではないか――?
「ど、どうかしたの?」
「……いえ。すみません、やっぱり私はここで失礼します――」
これ以上ここにいるのは危険だ。
それを肌で理解している私は、彼女の制止を聞かずにその部屋を飛び出した。
使われていないはずの旧校舎、その部屋のあちらこちらから聞こえてくる学生たちの笑い声や楽器の音を聞き流しつつ、私は走る。
廊下を走るな、なんて書かれた張り紙は今すぐ残らず破り捨てる覚悟で。
走り抜けた先――光の溢れる場所へ出たところで、一際大きな、現実という名の歪みが襲い来る。
「そ、んな……っ」
思わず漏れた呟きは虚しく響いて消えて行き。
目の前に広がるのは――本来ならば有り得ないはずの、何も存在していない空間。
数年前に建てられたという、入学したての私をして新品っていいなと思わせるほど真新しい、通い慣れていたそれが。
今、目の前から忽然と姿を消していた。
「は、はは……ウソ、でしょう……?」
先程まで確かに存在した、私の中の常識は。
この時点で既に、木っ端微塵になっていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
――数週間前、岩手。
「……っ、今のは」
不意に背筋を通り抜けていった悪寒にも似た感覚に、その教師――熊倉トシは身を振るわせた。
これまでに、これ程まで凶悪な感覚に貫かれたことは一度だけ。
当時、プロ雀士の頂点であった小鍛治健夜が世界タイトルをかけて戦った、あの一戦を見た時以来である。
「やれやれ、彼女らも私も、大人しく隠居させてはもらえないってことかねぇ……」
呟いた彼女の手には、一枚の紙が握られており。
その『教職員研修旅行申込書』の参加不参加を示す欄には、大きく丸で囲まれた『参加』という文字が記されていた。
「せめて今年のインターハイは、あの娘たちのためにも無事に迎えられたらいいんだけど――」
――同、鹿児島。
「……やっぱり、あまりいい結果は出ないわね」
畳の上に並べられた何枚もの符を片付けながら小さく溜め息を付くのは、霧島神社で巫女を務める石戸家の長女、霞である。
今現在霧島神境における最高権力者の神代家御当主より直々に齎された情報は、この手の仕事に慣れ親しんでいる霞を持ってしても思わず眉を顰めずにはいられないものだった。
占いで何かが変わるというわけではない。
だが、なんとかして対策を講じなければ自分達の大切なものが失われるかもしれない。
そうと分かっていながら何もせずにその時を待つことなど、到底できるはずもないのだ。
全てが終わった頃を見計らって開かれた襖の向こう側には、小さな頃からよく見知ったいくつもの同僚の顔が並んでいた。
「で、どうでしたかー?」
「霞ちゃんのその顔を見れば、結果は一目瞭然だけどね」
「ええ。申し訳ないけれど、これから忙しくなりそうよ。私たちはもちろんのこと、小蒔ちゃん――いえ、神境の姫様も、かしらね」
「……御勤め頑張る」
「お姉さま、私に何かお手伝いできることはありませんか?」
「わ、私もっ!」
「ありがとう、二人とも。さて、こうしてはいられないわね。みんなで小蒔ちゃんのところへ行って、今後の対策を考えましょう」
六女仙と呼ばれる少女たちが、そろって力強く頷く。
大切なものを失わないための巫女たちによる戦いが今、人知れず静かに幕を上げた。