「隣、いいかしら?」
「は、はい」
蛇に睨まれた蛙の気持ちが、今ならばよく理解できる。
先程のおばあさん――近くで見たらそれほど年齢を感じさせない雰囲気だけど――が、イチゴ味のシェイクを片手に話しかけてきたのである。
張子の虎よろしく首をかくんかくんさせながら頷く私を、その人は優しそうな瞳で見つめながら、椅子を引いて腰をかけた。
「実は私は長野に人を捜しに来ているんだけど、こうも広いと、なかなか見つけられないものでね」
「へ? あ、はぁ……それは、まぁ」
「それで、滞在するのも明日の夕方までだから、半分以上はもう諦めかけていたところだったんだよ」
言いながら、にっこりと笑う。
微笑まれているというのに、背筋の震えは止まらない。むしろより強く、私の中の何かが警鐘を鳴らしていた。
「まさか、土壇場で見つけられるとは思わなかったよ。運が良いのか、悪いのか――」
「……っ」
「おや、そんなに怯えなくても平気よ? 貴方はなにも悪くはない、強いて言うならば――そうだねぇ、間が悪かったとでも言うのかしら」
「……間が、悪かった……?」
「そう。本来ならば触れる事がなかったはずのものに、貴方は触れた。貴方が悪いわけじゃないの。そこにそれがあったこと、それが問題だったのだからね」
心に直接語りかけるような、穏やかな声。
それは警戒する私の心を解すように染み込んで来て、同時に一つの真実を、私に思い出させるに至った。
「そういったものに、なにか心当たりがあるんじゃないのかい?」
「そんなこと言われても……あ。あの、麻雀牌……?」
そういえば、あれを握った瞬間に世界は光に包まれて――気がつけば私は、訳の分からない状況に追い込まれていた。
あれは一体どこにいった?
竹井アナ(高校生)がやってきた時、私はそれを咄嗟にどうしたっけ?
……そうだ、制服のポケットに入れたんだ。
慌てて右手をポケットに突っ込んで、手探りで探し当てる。それらしき形状のものに触れた時、普段ならば有り得ないほどの速さでそれを引き抜いた。
「これ、これが全ての元凶……!?」
「おやまぁ、これはまた珍しげなものを……」
ちょっと貸してみて、と言われたので素直にそれを渡す。
すると、おばあさんは懐から手のひらサイズの小箱を取り出したかと思うとそれを開け、中に入っていたモノクルを取り出して左目にかけた。
ナントカ鑑定団の鑑定士さながらのその動きは、見ていると淀みなくやたらと手馴れているようだ。
「ふむ、なるほど。たしかにこれは、この状況を生み出した最たるものといえるだろうね」
「やっぱり……」
「見てごらん。これが、この牌が持っている力の一端だよ」
言いながら、牌を強く握り締める。そして数秒、ゆっくりと手のひらを開いたその上に乗せられていた牌は――。
「……えっ? あれ? なんで?」
渡す前は確かに『白』だったはず。にも関わらず、今そこに乗せられている牌には何故か『南』と描かれていた。
「これはね――本来の用途は、雀士の本質を見抜くためのものなのよ。この場合、私は南ということね」
「えっと、手品の一種ではなく?」
「残念ながら」
苦笑しつつ、牌を私に返してくれた。その瞬間、牌はさっきまでの白い姿へと変わる。
「いやぜったい手品でしょ、これ!」
暖めたら文字が浮かび上がるとか、そういう宴会芸的なものじゃないのか。
ただ、私がいくら強く握り締めてみたところで文字は一切浮かび上がってこない。
「だったら、貴方がここにいることそのものが性質の悪い手品のようなものかもしれないわねぇ」
「う……ていうかおばあさん、私がどういう理由でここにいるのか知ってるの?」
「おばあさん……まぁ否定できる年齢じゃないけどね、できれば名前で呼んでくれないかい? 私は熊倉トシ。岩手で高校の教師をしているものだよ」
「岩手で? じゃ、なんで長野に」
「研修旅行でちょっとね。本当は欠席するつもりでいたんだけど、少し前に悪い予感がしたものだから、ついでにその正体を確かめにきたってところさ」
「悪い予感、それってまさか……」
「半分は貴方。もう半分は、その牌だったようだね。貴方のこともあるけど、問題はそっちの牌よ。ちょっと困ったことになったかもしれないわ」
モノクルを外して眼鏡拭きで丁寧に手入れした後、小箱の中にそれを仕舞う。
ほぅ、と吐かれたため息がやたらと色っぽかったのは何故だろうか。
おそらく既に私の脳が理解の域を超えていたために起こった謎現象であろう、と。とりあえず結論付けることにして、私は一端、考えることを放棄した。
熊倉先生に出会えたことで喜ぶことがあるとすれば、まず第一に、これで野に咲く花のように生きていかなくてもよくなったことである。
研修先の旅館は地元の駅から電車で小一時間ほど離れた温泉地にあったが、なんと先生は私をその旅館に招待してくれたのだ!
カピちゃんのママさんモフモフ計画は発動することもなく頓挫したものの、それを補って余りある待遇だった。普通に泣いた。
温泉で疲れた心と身体を癒し、美味しい料理を御馳走になって、ようやく人心地ついた頃――。
私と熊倉先生は景色の見える窓際の小さなテーブルで向かい合って、静かにお茶を飲んでいた。
一見すると、孫とお祖母ちゃんが仲良く一緒に旅行しているように見えるかもしれないが、二人はほんの二時間ほど前に出遭ったばかりである。
「そういえば、さっきお風呂に入っているときに思ったんだけど、貴方のお名前を聞いていなかったわね」
「え? 今になってやっとそこに疑問を抱くの? トシさんちょっと変わってるって言われない?」
「いえ? 教え子達からそんな風に言われたことはないねぇ」
「あ、これウソついてる人の顔だ」
あえて視線を合わせようとしない態度がもう自白しているも同じであることに、彼女は気付いているのだろうか?
なんて問いかけるまでも無く、気付いていてやっているに決まっていた。
口元にうっすらと浮かんでいる笑みが、その証拠だろう。
「ま、いっか。こうして助けてもらってるんだし、それくらいはね。というか今まで普通に名乗るの忘れててごめんなさい」
なんせあまりにも予想外な事が立て続けに起こったものだから、冷静にしているつもりでもどこかやっぱりテンパっていたのだろう。
ここまで来る電車の中ではほとんどの時間を眠っていたし、着いてからは食事やら入浴やらでてんやわんやだったこともある。
とはいえ、名乗りを上げずにここまでお世話になってしまったのは、母親に知られてしまえば恐ろしい目に合わされることが確定している程の大失態だ。
なので頭を下げて謝罪してから、姿勢を正す。
「私は
「須賀さんね。それとも調ちゃんって呼んだ方が良い?」
「他の人ならいざ知らず、トシさん相手に文句なんて言いませんよ? お好きによんでくださって構いません」
「あらあら、それじゃ調って呼び捨てにさせてもらおうかねぇ」
「あはは、それってなんだかお母さんみたい」
「貴方みたいな可愛い子のお母さんっていうのは、いろんな意味で大変そうね」
可愛い子、と大変そう、というのが微妙に噛み合わないような気がするのは私の気のせいですかね?
ジト目でそれを問いかける私に、熊倉先生は「胸に手を充てて考えてみたらどう?」という切れ味鋭いカウンターを決めてきた。
最初に感じた悪寒がまるでウソであるかのように、この人との相性は悪くないように思える。
年齢は天と地程の差がある(と実際に口にしたら小突かれた)わりに、同年代の友人と話をしているような気さくさがあるからだろうか。
ともあれ、寝るまでには少し時間があるのだ。
温泉でリフレッシュしたことで、ある程度気持ちの部分も落ち着いた。
お互いに気になることは山ほどあるのだから、この機を逃さずに色々と話をしておくべきだろう。
「改めてもっかい聞くけど。トシさんは、私がどういう立場の人間かとかそういうこと、全部判ってるの?」
「いいえ? 分かっていることと言えば、そうね……調が持っているその牌は、下手をすると世界規模であまり良い結果を齎さないものになるかもしれない、ということくらいかしら」
「……この手品に使う小道具みたいなのが?」
「言ったでしょう、それはその牌が持つ力の一端だと。本当の力はもっと複雑で恐ろしいものよ」
「恐ろしいって言われても、ピンとこないなぁ……たかがマイナー遊戯で使う道具ってだけなのに、世界がどうとか言われても」
「マイナー遊戯? 麻雀が?」
「え? 違う? 少なくても私の友達は誰も麻雀なんてやらないよ?」
「そうなの? おかしいねぇ……長野はわりと麻雀が盛んな県だったはずだけど。去年のインターハイでも破格の強さを見せていたしねぇ」
「はぁ? インターハイ? 麻雀で? なにそれ?」
「おや、毎年全国大会はどの地域でもテレビでやってるはずだけど、見ていないのかい?」
「いやそんなまさかぁ。インターハイっつったって、全国でテレビ放送やるなんて有り得ないって。甲子園じゃないんだから」
「……甲子園? いまプロ野球の話は関係ないでしょう?」
「……あれ?」
ここまでくると、お互いに会話がズレていることにはさすがに気付いていた。
しかし、二人ともがそれを理解していながら半信半疑だったこともあり、そのまま会話を続行した結果――次のようなことになったわけで。
「え~っ!? 麻雀が老若男女問わずに大人気な競技で、全国には地域密着型のプロチームが多数あって、更にオリンピックでも競技になってる~!?」
「驚いたねぇ……麻雀がそんな風に貴方に思われているなんて、一端の雀士としては残念でもあり、ちょっと腹立たしくもあるよ」
「いやいや、たしかに麻雀プロって職業はあるって聞いたことあるけどさ、地味ぃなもんだよ? それなのにオリンピックて……スポーツですらないじゃん」
「地味なもんかね。いいかい? 一流のプロ契約をした選手は億単位のお金を貰えることだってあるんだよ? プロスポーツの花形といっても過言じゃないさ」
「いやいやいやいや、野球とかサッカーでも苦戦してるのに麻雀でそんなの上手く行くわけないってば。トシさん冗談下手すぎだな~」
「現実をきちんと見れないと、碌な大人にはなれやしないよ。いいかい調、今からでも遅くはないからきちんと現実を見て――」
結果的に言い争いっぽくなってしまったものの、二人の意見をすり合わせた結果、判明したこと。
どうやらこの世界、世界観などの相違点を踏まえて考えるに、単純に過去――私の認識でいう二十年近く前――というわけではなさそうである。
なんといっても麻雀というマイナー遊戯がまるで国民的に知名度の高い野球やサッカーと同等かそれ以上に持て囃され、流行しているこの世界だ。
正直な感想を申し上げるとするならば、眉唾物でしかないわけだけど。
言われてみれば、で思い出すのは例の「開かずの間」で見た光景である。
たしかにあの部屋の中央にどーんとこれ見よがしに置かれていたのは、麻雀を打つ時に使われる全自動卓らしき物体だった。
そして、ホワイトボードに書かれていた予定表。あそこには確かに、全国大会やら長野県大会やら、そんな不釣合いな文字が躍っていたように記憶している。
よくよく考えれば、麻雀牌によって導かれてやってきたこの世界が麻雀に満ちていたとしても、さして不思議はないのかもしれない。
――なんて普通に思ってしまうあたり、状況に毒されて『常識的な考え方』というものが麻痺してしまっている証拠であり、この時点で既にかなりヤバい気がしなくも無いけれど。
更に加えて驚くべきは、麻雀という存在そのものについてである。
それは既に私が知っているものとはかけ離れたまったくの別モノといっても過言ではなく、その話の至る所に俄かには信じがたい要素が幾つも鏤められていた。
「この世界の麻雀には、色々な打ち手がいる。例えば相手に有効牌をツモらせない打ち手や、その逆、自分に有利な牌を必ず引いてくる打ち手とかね」
「それって単にイカサマやってるだけとかじゃなくて?」
「もちろん、そっち方面に特化した打ち手も多くはないけど存在するさ。大抵は裏世界に潜って勝手にやってるだけだから私らは放っておくだけだけど。
私が今言ったのは、それとは違う。この世界では『能力(オカルト)』と呼ばれる類の、麻雀ルールに則った正当性のあるものよ」
「オカルトって、また妙な単語が出てきたなぁ……んで、トシさんもなんかそんなぶっとんだ打ち手の一人だったりするの?」
「私かい? 私はそうだね――強いて言うなら、そういった連中の『能力』を封印する能力を持つ、といったところかねぇ」
「うぉう!? 想像してたところの斜め上をひた走る程の強キャラだった!?」
「ははは、言う程すごい成績は残せていないのよ。私はむしろ、そういった能力を持っている人間を発掘するのを得意とする側でね」
今教えている学校の生徒たちも、強弱はあれども全員がそういった特殊能力を持った打ち手なんだ、と笑う。
この世界には特殊能力者がそんなぽこじゃが生まれてくるものなんだろうか?
そう考えると、至って普通の真人間である私がそんな異能力麻雀蔓延るこの世界にやってきてしまったのは何故か、甚だ疑問である。
「貴方のいた未来?というよりは別の世界かしらね。そこでは麻雀そのものがマイナーで、あまり遊ばれていないということなのよね?」
「んー、少なくとも老若男女問わずに遊ばれてるってことはないかなぁ。どっちかっていうと悪い大人の遊び的な扱いを受けてるところはあるかも?」
「そう――なるほど……」
何か思い当たる節でもあるのか。
トシさんは少し考え込むようにして目を閉じてから、やがて何かを決意したかのように力強く頷いた。
「ちょうど良い機会だから、麻雀について間違った知識を持っている貴方に私が直々に色々と教えておいてあげようかね」
「え、ちょっと待って。これからってこと? いやいやトシさん、もう私ちょっと眠いんだけど」
「まだ寝る時間には早いわねぇ。ほら調、こっちに来なさい」
「ちょ、力強っ!? トシさんって本気で何者なの!?」
もはや混沌としか言い表せない世界で、私は思う。
お年寄りというのは、決して熱く語らせてはいけないのだということを。
数時間あまり続いた特別レッスンに痺れた足を引きずりながら布団の中へ潜り込んだ頃には、既に日付が変わっていたのだから。
結局のところ、あの麻雀牌がどう危険なのかすら教えてもらえていないわけで。
元の世界だか未来だかに戻る手がかりになりそうなことも、さっぱり分からないままである。
とはいえ、それ以外の部分で貴重な情報が得られたことには感謝しよう。
あとこの布団の温もりにもね。