お父さん。お父様。親父。パパ。ダディ。
それぞれの家庭や環境によって呼び方は多種多様で、それぞれに違った味があるけれど。
こと須賀家においては小さい頃は『とっと』と呼び、小学生高学年と呼ばれる頃には『お父さん』呼びに変化して、自然と定着していったとおぼろげながら自覚している。
故に私の中で父親はお父さんと呼ぶことになっていて、それは不文律のようなものでもある。
そんな私があえて父親の呼称を改めようと思った背景には、当然避けがたい一つの事情があってこそ。というのも、
「そのお父さんって呼ぶのだけは止めてくれ」
と必死に懇願されてしまったからに他ならない。
まぁ、同級生の子にお父さん呼ばわりされるのはさすがにキツいだろうから、ここは折れてあげることにしたわけさ。
それにしばらく須賀家にお世話になる以上、仮初の身分と言うのを作らなければならないということで、公式発表的に私はお父さんの従姉妹という扱いを受けることになった。
須賀姓はそのままなので、父方の親戚ということになるかな。
――で、それなら何と呼ぶべきかという難題に頭を抱えていたところ、お祖母ちゃんがおやつの芋羊羹を持ってやってきて、いいことを教えてくれた。
甘いものを食べながら考え事をするのは効率がいいんだってね。知ってた?
って、教えてくれたいい事っていうのはそんな雑学じゃなくて、いわゆるお父さんのお友達事情というやつだ。どう呼べばいいか迷っていると素直に相談してみたところ、周辺の子達はこんなふうに呼んでいるという例を逐一挙げて教えてくれたのである。
「京ちゃん?」
「そうなのよ。京太郎の幼なじみで、同じ学校に通ってる子がそう呼んでるの。宮永咲ちゃんっていうんだけど――知ってる?」
「宮永……うーん、ちょっと聞いたことがないかも? 宮永、はて……」
そういえばお父さん宛の年賀状にそんな名前の宛先があったような気がしないでもないけど。
ん? ちょっと待てよ、たしか今年から清澄高校に赴任してきた例の美人先生の名前、あれもたしか宮永――じゃなかったっけ。
でもあの人の名前って宮永咲だった? いや、なんかちょっと違った気がするな。ええと、たしか全校集会の自己紹介で名乗っていた名前は……そう。咲じゃなくて照。宮永照って言ってたような覚えがある。
「ねえおばーちゃん。その人って宮永照じゃなくて、咲なの?」
可愛らしく問いかけてみたら、なぜかこめかみに青筋を立てたお祖母ちゃんによって芋羊羹が没収されてしまった。何故?
「……そのおばーちゃんも禁止。いい?」
「あ……ゴメンなさい。えーと、でもじゃあどう呼べばいいの?」
「熊倉さんのことをトシさんって呼んでたわよね。なら私のことはさよちゃんって呼んでくれたらいいわ」
「さよちゃん?」
お祖母ちゃんの名前が須賀
返してもらった芋羊羹を一切れすぐさま口の中に確保しつつ、しれっと宮永照先生についての情報を聞くことにする。
「――で、照ちゃんのことだったかしら? たしか咲ちゃんのお姉さんがそんな名前だったようなことを咲ちゃんのお父さんから聞いたことがあるような気がするわねぇ」
「お姉ちゃん? ああ、なるほどなるほど。お父さ……もう面倒だしとりあえず京ちゃんでいいかな、と照ちゃんって人は仲良いの?」
「直接面識は無いんじゃない? 私もお姉さんがいるって話をいつだったかに宮永さんから伺ったことがあるだけで、直接会ったことは無いのよ」
「ふぅん……幼なじみなのに変なの」
普通におうちに遊びに行ったりするような幼なじみ同士なら、お互いの兄弟とか姉妹とも面識があるはずだろうにね。
ちなみに私の幼なじみは男の子だけど、そのお姉ちゃんと私は普通にメル友である。
無類の猫好きな上、萩原唯という名前なので密かに心の中でだけ呼んでいた『ゆいにゃん』という呼び名を、ある時公衆の面前でつい口走ってしまい、彼女のクラス内で流行らせてしまった時には一ヶ月くらいマトモに口をきいてくれなかったけど。たぶん仲良しのはず。
「それにしても、調ちゃんが咲ちゃんのことを知らないとなると……あの子のお嫁さんは咲ちゃんじゃないってことかしらね。これはちょっと意外だわ……」
「――ん? おば……さよちゃん今何か言った?」
「いいえ、なんでもないわ。それより調ちゃん、明日着る物を買いに行きましょうか。他にも生活用品は色々と揃えておかないと不便でしょ?」
「あ、そっか。でもいいの?」
「ふふ。孫は際限なく可愛がるものだって私のお母さんも言ってたし、いいんじゃないかしらね。京太郎は今のところお金使うような趣味を持ってるわけでもないし、それに男の子はだいたい着の身着のままでしょ? 張り合いがなくって……」
「あー……」
「だから調ちゃんが来てくれて、私的には大歓迎なのよ。息子もいいけど、娘も欲しかったし――」
言いかけたとき、不意にリビングと廊下とを繋いでいる扉が開けられた。
「母さん、親父が昨日持ってったアレどこに仕舞ったか――げっ」
げってなんだ、げって。こんな可愛い自慢の愛娘を捕まえて、よくもまぁそんな『拙いヤツがいた』みたいな迂闊な表情が出来るものだ。
ちょっとイラっときたので、母親直伝のできる限り愛くるしくも見目麗しき淑女の如き微笑を携えて、私はにこりと笑ってみせた。
「さすがにそれはないんじゃないかなぁ、京ちゃん」
「京ちゃん……だと?」
「フフン、お父さん呼びがダメってんならここらあたりで妥協してもらわないと、ね? 京ちゃん?」
「……おい母さん、そいつになんか余計なこと吹き込んだろ」
「余計だなんて失礼な。ああ、それとね京太郎。あんたいい加減良い人止まりじゃダメよ? きちんと攻めるときには攻める男らしさを見せないと、せっかくの家事が得意な女の子を取り逃がして行き遅れ掴まされることになってもお母さんは知りませんからね」
「いきなり何の話だよ!?」
「あなたの将来の話です」
さすがはお祖母ちゃん。鋭いところを突いてくるね。
まったく無関係な場所でいまだ顔を会わせてすらいないはずなのに、発言の端々から既にうっすらと嫁姑関係が透けて見えるのは何故だろう? まあ向こうの世界の二人はけっこう仲良かったりするんだけど。
お祖母ちゃんは言いたいことを言い終わったのか、お祖父ちゃんの用事を済ませるために「明日は予定を明けておくように」とだけ言い残して去っていってしまった。
残された私とお父さんは、なんともいえない空気の中で顔を見合わせる。
「……なぁ」
「うん? なぁに?」
「お前さ、マジで俺の娘なの?」
「正確には、別の世界の須賀京太郎の娘ってことになるみたいだけどね。なんならDNA検査とかしてみちゃう?」
「いや、止めとくわ。そんなことしてまで確証を得たいとは思ってないし……あのウキウキ具合を見るにどうせムダだしな」
「そっか。芋羊羹食べる? 美味しいよ」
「せっかくだしもらっとくわ……はぁ」
ソファに深く腰を下ろし、溜息をつくお父さん。爪楊枝が刺さっている芋羊羹を一切れ摘み、ほおばった。
「俺の娘ってことは、当たり前のように母親がいるんだよな? どんな人なんだ……って、これ聞いても良いのか?」
「うーん、どうだろ。別の世界だしいいんじゃないかなって思うけど、もしその人に会った時に変に意識しちゃったりするかもしれないし、大変なのは京ちゃんだよね」
「……その京ちゃんってのどうにかならないか?」
「えー、我侭だなぁもう。それじゃ京くんとかでいい?」
「ああ、頼むわ。なんか咲じゃないヤツから呼ばれると違和感しか残らねぇ」
へぇ――ということはその咲ちゃん、宮永咲とはわりと気安い付き合いをしているってことなのかな。
これはもしかしなくてもお母さんにとって恋のライバルと言うヤツだろうか? うーん、でも一度実物を拝謁してみないことには判断は保留かな。
「で、お母さんのこと聞きたいの?」
「聞きたいような、聞きたくないような……」
腕組みをして天を仰ごうとしたお父さんの視線が、一瞬、私の胸元へと注がれる。
……ああ、なるほど。おっぱい星人として名を馳せたことのある(※お母さん談)お父さんとしては、やっぱりそこが気になっちゃうかぁ。
私は同年代の女性における平均的なサイズと比べたら、やや小さい。二つ上のゆいにゃんと比べて少しだけ勝っていることが唯一の救いだけど、だからといってそんな事実は世の男性にとってはどんぐりが精一杯見栄を張って背比べをしているようなものだという。実に失礼な話だ。
小学生のくせにやたらと重そうなものをぶら下げている子もいるし、そういう子はたいてい母親もなんかすごい人が多い。その現実を思い知らされるたびにいつも思ったことがあった。
――遺伝って偉大だよなぁ、マジで。
まぁたとえそれが抗えない現実だったとしても、だ。
高校一年生の私としては、突然変異で急成長する可能性もまだまだ捨てきれない以上、あんなふうにあからさまにがっかりされてしまうとカチンと来るわけですけどね!
「そうだよね……余計なことを知って絶望の中で光を見出せず朽ち果てていく人生って、やるせないだろうしね……」
「嫌なこと言うなよ!?」
「あははっ! でもさ、知らぬが花って言葉もあるし、聞かないほうが京くん的にはいいこともあるんじゃないかな? しょせん別の世界のお話だし」
私はお母さんのことが好きだけど。出来ればこの世界でもお父さんとお母さんが結ばれて、私とは違う私が生まれてきて思う存分幸せを享受して欲しいとも思うけど。
この世界にとって
……まぁ、そうならない程度に周囲を引っ掻き回すのはとても楽しそうだけどね。くふふ。
「はぁ……先が思いやられるわ、いやマジで」
「それに関しては同意しとく。色々と頑張ってね、
「ぐぬ、他人事だと思いやがって……まったく可愛くない娘さんですね、お前は」
「親の育て方が良いのでー」
えへん、と胸を張ってみる。褒めてあげたはずなのに、どうしてかお父さんは頭を抱えて深い深いため息を一つ。
「……娘の教育はきちんとするよう気をつけないとダメだな、こりゃ」
どういう意味だね、それは。
翌日、一家団欒っぽい朝御飯を終えてお父さんが学校に行くまでの間二人でリビングでテレビを見ながら寛いでいると、今日の星座占いのコーナーが始まった。
私の誕生日は十二月二十日なので、見るべき部分はいて座ということになる。
十一位から順番に発表していくそれを該当の星座が出てくるまで横目で流し見しつつ、ふとあることに気が付いた。
「そういえばさ、京くんって誕生日二月だしいま高校一年生なら十五歳なんだよね?」
「ん? ああ、そうだけど。それがどうかしたか?」
「てことは……もしかして私のほうがお姉ちゃん? ほら、私十二月生まれだから同い年でも私のほうが上だよね」
「……は?」
「いやいや、そっかー。それじゃしょうがないなぁ。私のことはおねーちゃんって呼んでくれていいんだからね?」
「アホか! 三ヶ月も違わないだろ! ったく……学校行ってくるから大人しくしてろよな。あと可愛がるのはいいけどあんまりカピーを追い掛け回してやるなよ」
「はーいパパ。いってらっしゃーい」
『今日の一位はいて座の貴方! 街中で思わぬ出会いが待っているかも!?』
テレビの向こう側から聞こえてきたその声を聞きながら、今日は一日いい事がありそうだと鼻歌交じりで手を振る私だった。