友人のPDFリクエストでこちらの話だけハーメルン様の方で掲載させていただきます。
pixiv様でも掲載させていただいております。
拙い文章ですが、ご容赦ください。
窓越しに伝い落ちる雨音は、青々しく芽吹いた枝葉を揺らし、肌にじめりと湿気る梅天を漂わせていた。新緑を眼下に見下ろし、雨宿りをするように部室棟の一画に席を落ち着けている奉仕部の部室は、燻りと香る茶葉に微睡みへと誘われるかのような静寂を以って存在していた。
鼻先を掠める芳香につられた指先が湯呑みに傾けば、ほの暖かい紅茶で舌を湿らすというこの行程が、常として心地の良い空間を演出してくれる。
なんならこのまま雨が降り止むまでここに入り浸ってるまであるのだが、予報では今日一日はこんな感じの天候だと憂鬱な朝の登校時に知ってしまってもいるので、帰り道を行くのがもう面倒くさい。
もういっそ今日は部室に行かなくてもいいのでは? と思いもしたが、そんな心情とは裏腹にここに足繁く通ってしまうのは、一時の安らぎであったり、紅茶の香りであったり、このぬるま湯のような空間での憩いであったりと、もはや多岐に渡るのだが、生憎なことに、今日に至ってはそれだけではなかった。
楚々とした姿勢でポットから湯を淹れ直している雪ノ下雪乃へちらりと流していた視線をすすーっとスライドさせてみれば、机を挟んだ対面上で会話を続けている由比ヶ浜結衣と我が妹の比企谷小町は我関せずと他愛ない談話と共に由比ヶ浜が持参した手作りの焼き菓子に舌鼓みを打っている。
もうなんかそこにいる一色いろはは「私関係ないんで話しかけないでくださいねー」くらいの態度でスマホと指先でお喋りしているようだった。ていうか、ほんとなんでいるの?生徒会はサッカー部は? とにかく紅茶は冷めないうちに飲んじゃいなさい! めっ!
せっかく君の大好きな雪ノ下先輩が淹れてくれたんだからそれくらいはちゃんとしてほしいなーなんて先輩は思うわけですよー、なんて俺の念が届いたのか一色はフリフリしていた指をスマホから離し、冷めかけの紅茶を飲み切っている様子だ。由比ヶ浜の軽めのタッチから彼女がちょこんと指で摘んでいる薄く焼き色の付いたクッキーをあーんされている光景は見ている分には微笑ましいものだ。
「…………むぅ」
重々しい軽めの呻き声がひとつ。
今日はもう帰ろうかなーなんて思っている時に突如としてここに襲来したのは多分二十分くらい前ではなかろうか。この部の新部長である小町ちゃんはといえば、雪ノ下や由比ヶ浜のスルースキルに後押しされたように多少の罪悪感を表情に貼り付けながらも共にスルーを決め込んでいたが、今となってはすっかり忘れたように由比ヶ浜達とイチャイチャしていた。
うん、いや、いいんだ。
それが悪いとは言わないよ。
なんなら俺もそこへ行きたいのだが、いかんせんこの部屋の女性陣の意図が俺に向いているのは彼女達の姿勢で十分に感じ取っている。
えぇ……また俺? また俺なの?
俺が聞かなきゃいけないの?
ここはもう小町ちゃんでいいんじゃない。
そろそろこの役目から卒業でもいいのでは、なんて考えている内に空になっていた湯呑みに飲み頃の熱さに整えられた紅茶が音も無く置かれているのを目視する。そのわずかな時間の合間に覗いてくる雪ノ下の視線の意味に吐息をひとつ漏らしてから、斜向かいに座っている人影に声を投げかけた。
「……で、材木座、今度は何?」
鬱々とした声音を届ければ、その人物、材木座義輝は朗らかに安堵を灯した表情でこちらに視線を飛ばしてくる。ここに現れた段階で雪ノ下によって予定調和の如く鎮座している紅茶の入っていた紙コップは既に空になっているので、喉が乾いているということはないだろう。というか欲しかったら自分で雪ノ下に言いなさい。俺は言ったことないけどね!あれ、俺、普通に酷くね……?
「八幡……我は気付いたのだ」
今からでも言い始めた方がいいのか、いやでも今から言い始めたらなんか他人行儀かなとか、それはそれで雪ノ下はどう思うだろうかと不安視される部分が多すぎて、兎にも角にも雪ノ下への罪悪感に苛まれていると、材木座はトレンチコートにすっぽりと収まった上体をゆすゆすと揺らしながら腕組みをすると、重々しい口調で呟き出した。
「我って、なにがしたいのだろうか」
「俺が知りてぇ……」
というか重い。
さりげなく重い話題を持ち込むな。
去年であればなんかテキトーなことを言ってさっさとお帰り願っても良かったのだろうが、こと受験を控えた立場に身を置いてしまえば、曖昧に返事をして帰らすのも気が引けてくる。
冗談を溢すような口調でもなく室内に滲んで行った発言に、流石にそれまでの装いを変えた小町達の目線が材木座に向けられた。生徒会長に至ってはあいも変わらずスマホとお喋りしてるみたいだけど、君も来年はこうなるかもしれないんだよ? いいの? そんな態度でいいの?というか、おい生徒会長。
しみじみと「わかる……」と呟いている由比ヶ浜も考え込むように表情を顰めていた。でも身体は正直なのか、伸ばした手は焼き菓子を摘んでぽりぽりと口に運んでいる。
「とりあえず、今なりたいものとかないのか?」
きっかけとなり得るテーマも無いので口火を切ってみるが、反応はむむむと呻きながら腕組みを止めない材木座が映り込むだけだ。
「我がvTuberを目指していたのは知っているな」
「ああ、初耳だな」
ラノベ作家だの編集者だのと言っていたらなんかまた違うところ行こうとすんなこいつ。というか魂胆が透けて見えるんだよなぁ……。
「ああ、なんかアレですよね。あのニョロニョロ動くやつ」
「一言でいうならモーションキャプチャーだな」
どうやら会話の内容は耳に拾っていたらしい一色の問いに簡単に答える。俺の隣で首を傾げていた雪ノ下にスマホを弄って説明をしている小町に付き合う形で由比ヶ浜も情報を収拾しているのを後方に控えながら、まあとりあえずと話を先に進めることにする。
「で? vTuberになりたくてやめたの?」
「あれは色々と機材の準備が手間だからな」
舐めてんだろこいつ。
またネットか?ネットの情報なのかな。
いい加減にしなさいっていつも言ってるでしょ。ネットの情報だけでろくに内容も知りもせずツイッターのトレンドに上がったからで見もせずにアニメの評価をするような人間にだけはなるなって教えなかったっけ?
あ、教えなかったか。
まあそれはそれとして、だ。
「なら普通にYouTuberでいんじゃねえの」
ちなみにいえば我が千葉にもvTuberという存在は県を推して徐々に名を浸透させているが、そう言った存在は既に役職としての形を確立させつつある。ネット上の仕事や商売ということならヴァーチャルではなくとも、チューバーとしての役割はあるはずだと思いたい、知らんけど。などと言葉を募ってみると、材木座は項垂れるように萎縮を開始すると、小声でぼそぼそと言葉を紡ぎ出した。
「いやだめだ。だってほら、だめだ」
「はっきり言え」
「顔出しに自信が無い……」
「よく言った、帰れ」
やってる人全員が全員美男美女だったら、世の中もはや美男美女しかいないじゃねーか。いや、別に?俺は美男でもそうじゃなくてもどっちでもいいけどね。でもどちらかというと整ってるほうかなとは思ってると言えなくも無いような気がしないでもない。サウナ並みに「整った…」って言えなくもない。
「いい感じに動画が撮れたかなって投稿したら、コメント欄が見た目の批評ばかりだったら八幡もいやだろう、我もいやだ」
「その前に再生回数上がんねーだろ。というか顔出しせずにゲームプレイ動画とかにしたらいいんじゃねーの?」
なにせ材木座は声かっこいいから。
声かっこいいから。
大事なことだから二回言ったけど声かっこいいから。わざわざ顔出しでリスクを背負う必要はない。むしろ声かっこいいからファンが付けばその人達がイラストを上げたりしてくれるかもしれない。そうなればそのキャラクターを武器にしてチャンネル登録者数を積んでいけばいいのではなかろうか。
「ゲームなら自分でネタを考える必要が無いからな。新しくても古くても投稿出来る範囲であればジャンルも広いし、ネタ切れに陥ることもない。プレイした動画を編集してちょっとずつ小出しにしていけば、チャンネルの動画数も稼げるだろ」
広告料とかの話はよく知らんが、全員が全員もらえるわけじゃないと聞いたことがある。一定のチャンネル登録者数と投稿している動画の再生数と再生時間。まあ要するに人気がないのに金を払うわけがない。
人気が出ればそれだけ貢献する機会も増えるし、ネットで話題にでもなればチャンネルへの入り口は何処でも開くからなぁ……。
「へー、なんかすごいね」
「まあ、すごいはすごいな」
いまいちわかってなさそうな由比ヶ浜の言葉に頷きを返していれば、スマホを弄って情報を漁っているらしい材木座が目に留まる。
しばらくそれを無言で見守っていれば、不意にこちらを向き直して────。
「我、ゲーム配信者になる!」
うん、そうくるとおもったー。
はちまんもうわかってたね。
スマホを見てる瞳が無駄にきらきらし始めた時点でそう言ってくるってわかってたー。
「ゲームをするだけでお金が発生するのなら、もう働く必要もないな! 我決めたね!」
つぶらな瞳で拳を握りしめている材木座少年に向けられた女性陣の瞳の乾き具合をどう例えたらいいのかな、いやでも必要ないよね、というか多分今俺も同じ感じだし、ていうかあれ、みんな俺と同じ目をしてない?
大丈夫? 腐ってない?
「でもちょっと楽しそうだよね」
「ですです」
由比ヶ浜の発言に小町が頷きを返している。まあ傍目から見れば楽しそうだろう。なにせゲームをプレイしているだけでファンがついたりお金が発生したりするのだ。それを楽な仕事だと捉えるのは仕方がない。
そんな部室に「でも、それなら差が付くことは稀よね」と雪ノ下の一言が木霊した。
「どういうことですか?」
一色の問いかけに雪ノ下は指先を頤に当て、
「ゲームを遊ぶのは誰でも出来るわ。でもそれなら、チャンネル?に対しての登録者の比率がおかしいと思うのだけど」
雪ノ下の言う通りだ。
ゲームをプレイしてそれを投稿するだけならネット上に存在しているチャンネル登録者の格差はどういうことか。敢えて雪ノ下の言葉に口を挟まずとりあえずと材木座の様子を見る。
「うむ、やはり声か。いっそのこと声優さんをゲストに呼んでチャンネルの知名度を上げ、そこから一気にお近づきになるという方法も」
今すぐYouTuberに謝れ、お前。
ていうか結局声優さんなの。
お前の最終目的はその座標に統一されてるの?一色にライフル持たせて頸の辺りを撃ってもらおうかしら。その一色いろははといえば既に興味をなくしたのか、ぽちぽちとスマホとはっちぽっちしていた。この子クラスでもこんな感じなのかしら。はちまん心配。まあはちまんはスマホとはっちぽっちどころか昔からはっちボッチの八幡だけどね!
「強いて言うなら話術だな。トーク力と言っていい」
例えばホラーゲームとかなら、不慣れな人でも配信者のコメントが面白ければ結構緩和されるものだ。「この人リアクションが面白いから、この人のプレイ動画なら見れる」なんて言われるようになったら御の字だろう。
その点材木座はどうだろうか。
声かっこいいけど、どうだろうか。
「材木座、お前、話術に自信あるか?」
「うむ……本当のことを言って良いのか?」
「ああ、言ってくれ」
俺の真剣な問いに材木座は居住まいを正し、剣呑な眼差しで俺を差し違えてくる。
「我はな、実は…………話が苦手だ」
「うん、知ってた」
知ってるよ、というかここにいる面子は大体わかってるよ。なにせ今日に至っても俺が話しかけるまでずーっと黙ってたもんね。
「だが、顔出しせずに配信するってことは、相手にも顔を見られることもないし、お前の顔も向こうからは見えない。それなら別に大丈夫じゃないのか」
それこそ配信に不安があるのなら遊戯部の秦野や相模弟に頼ってみてもいいし、声かっこいいからひとまずは大丈夫だと俺は思っている。なにせ声かっこいいし。
「だが、それでもチャンネルの登録者数を増やしたいというのなら手はひとつだ」
ごくりと、材木座が息を呑む。
俺の発言に耳を澄ますように、気付けば雪ノ下達も俺の次の言葉を待っているようだった。一色は相変わらず一色だった。
そして、俺は口にするのだ、最高の一手を。
「イケメンに整形する」
由比ヶ浜の「えぇ!?」という声が耳に届いた。雪ノ下の深い溜め息とうわーという小町のどん引いたような声も。一色は相変わらず一色だった。あ、今舌打ちしてた。なにか気に入らないことでもあったのかしら。
「イケ…メン、だとっ……」
衝撃に椅子から立ち上がった材木座に俺は冷静な面持ちで悠然と声を投げかける。
「イケメンなら顔出ししても全然オッケーだ。話術が最悪でもゲームがド下手でも、イケメンが行えば全てがイケメンになる。幸いなことに声かっこいいからな、声のかっこいい美男子になればチャンネルもハッピー、広告を載せて欲しい企業の人達もハッピー、お前もハッピーで言う事無しだ」
つまり、イケメンなら全て許される。
イケメンはやっぱいいよ。
文化の極みだよ。
シンジくんマジでイケメンだったもん。
カヲルくんも好きだけどね!
今日もう一回観に行こうかな!
「とりあえず、一旦相模弟達のところに行って、意見を聞いてこい。話がある程度まとまったら後日改めて話を伺おう」
「う、うん……」
材木座は呆気に取られたような顔で、ゆったりとした足取りで出入り口に歩いていく。その静かな歩幅の中に沈んでいるほの暗い何かをそのままに、というか知らんぷりしてその背中を見送った。音も無く閉まったドアの向こう、通路から微かに摺り足で遠ざかる気配を耳にしながら、俺はふっと息を吐いた。
「あ、もう終わりました?」
「悪は去ったな」
「ひどっ!」
「うわー……いろは先輩もお兄ちゃんもうわー」
由比ヶ浜と小町の視線に意を向けず、少しだけ冷めてしまった紅茶へ飲口を傾けた。いろはすといえば晴れ晴れとした顔でクッキーをひとつまみしているが、そこに罪悪感とか浮かんでいるわけもなかった。なんて奴だ、一個上の先輩があれだけ悩みを抱えていたというのに、この生徒会長ってば。
いや、俺もちょっと言い過ぎかなとは思っているので地味に痛みが走る。対比のように目の前で可愛らしさに相貌を染めている後輩の笑顔が怖いほどに眩しい。
いややっぱ普通に怖い。
そんな俺たちを見つめつつ、悩ましげにこめかみを抑えていた雪ノ下は口元から溢れる溜め息を遮るように紅茶を口に含んでいた。
いやだって、あのまま行ったところできっと何も決まらないだろう。材木座が将来何になるかは分からないが、根本的な何かを決めるのは俺たちではない。誰かにこれが向いてるかもと言われたとして、それを素直に受け取るとしても、きっとそれには材木座も待ったをかけるだろう。何かになりたいと思えることはきっと、それ自体は良いことなのだ。
「ま、話ぐらいはいつでも聞くさ」
あれだけ声優さん声優さんと言っているんだから、いずれはそう言ったアニメーター系の職に着くのかもしれないな。その時はなんなら実況とかをしてみてもいいかもしれない。むろん、顔出しはしないけれど。
材木座が座っていた席を見遣る。
以前まで、俺の定位置だった場所には今、ぽつんと寂しげに置かれた空の紙コップだけが目に付いた。卒業までのあと数ヶ月、ここに材木座が再び来ることはあるのだろうか。
来ないなら来ないでそれも良い気がした。
それは多分、材木座が小さくとも何かを掴めた証なのだと思いたい。まあ来たら来たでそれでもいいかもしれないと、悩みの尽きぬ誰かさんの置き忘れに手を伸ばした。
「ん、」
くいくいと袖を引く感覚に目を向ければ、向かいの席に座っている一色の指先が僅かに触れていた。その微笑みに刻まれた意味に頰を引攣らせながらも声を発した。
「いや、なに?」
「こーれ」
あざとさに振り切れた声音と連れ立って差し出されたスマホの画面に焦点を当ててから、「げっ」と声を出さなかった自分を褒めてやりたい。映し出された動画内では若干猫背気味の腐り目を従えた、されどよくよく見ると程よく整ってそうな男子生徒が映っている。ミュートにされているだけに小刻みに揺れている上体がなんか気味が悪い。
というかこれ俺だね。
比企谷、えっと、あの人だね。
八幡くんだっけ?
うん確かそんな名前だった気がする。
そして妹がめちゃくちゃ可愛いんだよね。
「なんで撮ってんだよ」
「暇だったので」
テヘ☆、と笑む一色。
うーん、そっか。
暇だったか、なら仕方ないね。
なんて言うわけねーだろ。
舐めんな働け。
今すぐサッカー部か生徒会に行きなさい。
あ、でも葉山とか戸部に見せるのはやめてほしいかな。流れに流れて今のクラスとかに散布されると正直辛いし、中学時代に隠し撮りされた動画や写真をクラス内のグループに投稿されて、苗字も呼んだことのないクラスメイトとかに「あいつまたこんな目にあってるんだ……」みたいな痛々しい哀れみの視線を頂戴したりとか、なんなら今はそれがおとみちゃんこと富岡さんの顔も
重なってちょっと辛い。いや、良い人だとは思うけどなぁ……。
現在と過去に苛まれている内に、俺と一色の姿を見ていた由比ヶ浜達が椅子から立ち上がり一色が差し出している画面内に目をやれば、ふふっと笑んでいるガハマさんがいましたとさ。
「ヒッキー、やっぱりキモい」
「楽しそうに言うな」
まあそれくらい楽しそうに笑みを添えてくれるのならむしろありがたい。なんならもっと詰ってくれてもいいまであるのだが、それはそれで本気でキモいって言われそうだからやめておこっかな!
「まあ普段の兄もこんな感じなんで目新しさは無いですねー、というかいろは先輩がこんなのを撮ってることにちょっと引きます」
「こんなのって言うな」
酷くない?
なんかみんな酷くない。
いったい八幡が何をしたっていうのさ。
あと雪ノ下さん、別に我慢しなくても見たいなら見てもいいのよ。ちらちら一色のスマホと手元のカップを往復して身体をゆすゆすしているけれど。それこそ今あなたの隣に実物の猫背がおりますよ。
「雪乃先輩も結衣先輩も可愛いのは分かりきってるので撮っても一般的に撮れ高しかないんですよねー、こういうのって意外性が大事っていうか、お米ちゃんみたいに自分でキャラを固めてるのもアウトなんですけど」
発言の中から滲み出る「私も可愛いですし」感に酔いかけてしまいそうな意識を紅茶で誤魔化してみる。だが、一色の言葉も一理ある。理解できる部分は存在しているのだ。
それで俺を撮るとはわかってるなこいつぅ。
「ま、確かに意外性は大事だな」
「さりげなく自分を誇示するところに全く意外性を感じないのだけれど。というか一色さん、勝手に他人をカメラに収めるのは失礼よ。たとえそれが比企谷くんであっても」
お前もお前でさりげなく傷付けるのやめてね。いや、まあいいんですよ。
この一年ですっかり慣れましたからね。
慣れすぎてなんか楽しいまである。
あれ、これってやっぱ教育されてるのん?
ゆきのんに教育されてしまったかー。
雪ノ下の忠言に「はーい」と返事をする生徒会長様はスマホをフリフリしてどうやら俺の動画を削除している様子だ。
「先輩はゴミ箱っと」
「言い方」
日本語って難しいなーっていうか今のは確実に一色が悪い。なんならこの一年間の凡ゆる面倒ごとに一色が関わっているまである。まあでも、それが悪いことばかりだったわけではないのが、余計にタチが悪い。
材木座といい、一色といい。
タチが悪いことこの上ない。
そして多分だが、俺も同様なのだろう。
こんなことを一色に言ってしまえば、間違いなくそんな感じの返答を受けることになるだろう。想像に容易くなるほどには、こいつとの関わりも大分伸びているものだ。
まあ、だが。
それそのものはきっと。
悪いことではないのだろう。
終わりゆく時間を惜しむように窓辺に這わした目線の先では、雨上がりを教えるように雲間から光が射し込んでいた。
× × ×
曇天に微かに揺れる光芒に路面が照らされ、歩道に並立された木々の枝先に灯るように雫が瞬いている。朝方から降り続けていた雨が止み、その日の部活動が終了すれば、自転車を家に置いてきた足を駅へ向けて運び出していく。隣に並び立つ足音にちらりと目線を配れば、道行を眺める澄んだ横顔があった。
目線を下に流し、雪ノ下の手元を見遣る。
「傘、持とうか?」
こてんと雪ノ下の瞳がこちらを向く。
「どうしたの、急に」
「いや、その……なんとなく」
他意はない。
俺の折り畳み傘はカバンの中に収まっているし、手ぶらなこともあって、長傘を手にしている雪ノ下の姿を見て、なんとなくそう言ってしまっただけで。言い倦ねる俺に何を思ったのかくすくすと小さな笑みが雪ノ下から溢れていた。見透かされているようで気恥ずかしいのに、どうにも隣にいることをやめられないのは、そんな小さな音色だろうと、雪ノ下の声は木霊するように耳に馴染んで仕方がない。
柔らかな眼差しと交差すれば、口元を綻ばせた雪ノ下は楽しげに声を紡いでくる。
「道、やっぱり濡れてるわね」
「……そうだな」
降り続いていた分だけ路面には水溜りが其処彼処に点々と積もっていた。いきなり何を言い出したのかと問いかけるように目線を交えれば、こちらを試すような瞳にぶつかる。
「晴れ間が射したからといって、湿度不足になることはないから安心してヒキガエルくん」
「飛び込まないよ? というかむしろ湿度上がってるだろ。これくらいなら全然余裕だ。水分を補給する必要もない」
「名前の方は否定してないじゃない」
「水溜まりを見るとテンションが上がって跳ねたくなるっていう少年心だけは無くさずにいたいからな」
「代わりに色んなものを失っているものね」
というか雪ノ下の言う通り、結局カエルの部分は否定してない。なんて拙い会話なのだろう。主語が何処か曖昧で、目指している場所は霞みがかって終着点を遠目からでも視認出来ない。立ち止まった歩みに寄り添う形で俺も足を止めれば、眼前にてほのかに赤く染まる景色に目を奪われる。
「飛び跳ねられると困るわ。私が濡れてしまうじゃない」
「かもな。じゃあ一体どうするか」
ああ、まただ。
ゴールなんて目の前にあるというのに、俺たちは未だに遠回りばかりしている。でもきっとこれも俺たちなりの近道なのだと信じてみたい気分になって、小さく揺れている彼女の指先に手を伸ばした。くすぐるみたいな感覚に思わず笑みが溢れてしまう。
「手、拭いてない」
その言葉に思わず手を離して。
しまいたいのに、離してくれない。
そうだった、まずい。
だって緊張してたから、いや今もすっごい緊張してるんだけど、だからこそ手汗というかなんというか。一旦離してくれないかと言葉を投げかけることへの躊躇に心が喘いでいれば、ぎゅっと細い指先が絡まってしまう。
「いい。離さないで」
「いや、でも…」
「離したら恨むから」
意固地で、稚い声音。
わがままを張るそんな姿に、ちょっとだけほろ苦い笑みが溢れ出た。でも自然と頰は緩んで仕方がない。気恥ずかしいけれど、でもそれもきっと彼女にはお見通しだろう。
「恨むって、一生?」
「一生恨む」
「それは勘弁だな」
だから、と。繋いだ温もりに力を込めた。
決して離れないように。
壊してしまわぬように。
一生、恨まれてもいいように。
× × ×
雨天で限られた交通網が人混みを駅中へと誘うようにして、人垣に揉まれながらも待合のホームに辿りつく。次の電車まであと数分のフリータイムにて、一枠だけ空いていた席に雪ノ下を座らせ、会話を重ねること暫し、言葉が途切れてみれば、視線は電光掲示板の真横に設置された時計へと流される。
ふと、視線を感じて意識を戻せば、雪ノ下は翳したスマホを真横に傾け、白磁に染まる細指でカメラを構えているように見えた。
「なにしてんの?」
「観察よ、比企谷くんの」
スマホを跨いだ向こう側から嬉々とした声が届く。楽しげな視線はカメラ越しに俺を捉えて離さない。いやでも撮る必要なくない?
雪ノ下に目線でそう問いかけてみれば。
「だって、一色さんだけ……ずるい」
少しだけむくれるように頰を張り、むっと表情が強張ったところで雪ノ下がそれをしてしまえばただただ可愛らしいだけだ。
というかなにそれ可愛い。
今のそれを撮りたかったわ。
「まあいいけど、ちゃんと消してね?」
「えっ」
「えっ」
え? 今の「えっ」はなに?
もしかして消してくれないの?
雪ノ下は気落ちしたように眉を潜めながらも席に腰を下ろしたまま俺を見上げてくる。立ち位置上、必然的に上目遣いなソレに晒され、心拍が賑やかに騒ぎ始めた。
「だめ?」
いや、もう、ほんと。
ズルすぎだろ、お前。
そんな顔と声でそんなこと言われたら。
答えなんて決まってしまう。
当然のように言葉を返せば、その瞬間に晴れやかな相貌が飛び込んでくる。ああ、どうして撮ってなかったんだろうなぁ……。
己への喝を示している内に電車がホームへと飛び込んでくる。耳打つ列車の足音に苛まれてしまう。その中で、雪ノ下はスマホを大事そうに両手で抱き締め────。
「帰ったらちゃんと見なきゃ…」
なんて呟きが聞こえたような気がした。
× × ×
「今週の土曜、空いてる?」
アナウンスと人垣に酔うホームにて、傍らに立つ雪ノ下の声が耳打てば、問いかけの意味と言葉に悴む視線が重なる。いや、それそのものにはきっと言葉通りの意味が含まれてはいるのだろうが、いかんせん、意味を測りかねてしまう俺の心情は、その期待通りに受け止めるほどに整ってはいない。
かといって、何も言わずというのも雪ノ下にたいしては不義理だろう。微かに不安げに瞳を瞬かせる雪ノ下の双眸を視界に収めてしまえば、拙くとも声を絞り出す他無い。
「まあ、暇だった…ら?」
「そ、そう……」
あ、いや。
まあでも大丈夫かな。
そんなにしゅんと顔を俯けなくてもいいんだよと述べたい心に引っ張られて、咄嗟に呟いた言葉は雪ノ下に届いていると信じたい。
「いや、うん。大丈夫だ、全然…うん」
特に予定ないし。
入ったとしても断ればいいし。
むしろ入ってしまえば、ほかの有象無象を断るには容易いし、その辺りのことをスケジュール帳に書き加えておけるなら、その提案は受け入れるべきものだろう。まあ、断る前に予定なんか入らないけどね!
「なんか、あるのか?」
「いえ、別に…特にこれと言ったことはないけれど、その……」
えっと、と。小さな呟きが唇から溢れているのを見ていれば、細い指先が制服の袖を僅かに摘んでくる。言葉にならない何かを伝えるように込められた力が指先から熱を運び、引かれている感覚に思いを募らせる。
「なら、ちょっと調べてみるか?」
喘ぐように波打つ口元から震えを伴って飛び出た音はちゃんと言葉になっているだろうか。俺の発言に雪ノ下は足元に落としていた目線を上げれば、頰に彼女の瞳が触れてくる。
「え…?」
「いや、予定立てといたほうが行動しやすいし、どっか行くなら今の内に考えておけばいいかな、って思った、だけで……」
「そ、そうね、うん。はい、うん」
「う、うん」
お互いに伝える言葉に蓋をして、届けたい音が喉奥に詰まっているようだった。口にすれば簡単だと分かっても、どうにも俺も雪ノ下も、未だにその簡単を知らずにいる。
その答えにどう辿り着くかも分からないままに言葉を紡げば、そこにあるのは言い澱みながらも懸命に意志を投げ合う俺たちだけだった。先に足を一歩引いた雪ノ下につられる形で俺もホームの黄線から遠ざかる。掴まれたままの袖に引っ張られ、たった今到着した電車から乗り降りと行き交う足取りを瞳に収めていれば、俺達を置き去るように、乗車するはずだった列車は音高く通り過ぎてしまう。
ガタンガタンと遠ざかる木霊に耳を傾けていればそこにある停止した沈黙を破るように、雪ノ下の指先が音もなく離れていく。
「じゃあ……これからどうする?」
「……とりあえず、一旦座るか」
流れるように背後の空席に並んで座る。
その過程で視界にちらついた薄紅に染まった隣人の耳朶と頰に脈動が騒げば、今の俺もきっと同じだろうというのは想像に難く無い。得も言えぬ空気を漂わせながらも、その空間に淀みはなく、心地の悪さを感じない。
隣にいることが普通なんて言葉で片付けるには、俺も雪ノ下もそんなに器用には生きてきてはいない。きっとこれからも根本的な部分では変わらないだろう。今こうしてここにいることに安心してしまう己を嫌いになることもまた、絶対に無いとそう思えた。
「どっか行きたいところとかあるか?」
「はっきり言われてしまうと、難しいわね」
「だよな」
同時に苦笑を漏らせば、肩に積み重ねていた何かを降ろすように力を抜く。いずれにせよ、このまま駅のホームにいるというのもなんかあれだ。手に収まったスマホをフリフリしながら、この周辺の店情報を収集する。
千葉広しといえど生活圏内に留まる範囲であれど、二人でゆっくり話をするとなると家に行くという手もあるのだが、わざわざそうする必要も無いように思う。別に家に誘うのが恥ずかしいとかでは決してないからね!
とにかく、どっかないかなー、と漁ってみても「ここいんじゃね? 行くべ行くべ!」と戸部るのもなんか無理かなー。以前雪ノ下と一緒に訪れた千葉駅のコメダ珈琲であれば一度は行っているから、なんか安心かもと思ったところで、わざわざあそこまで移動するというのもどうなのだろうか。うーん、むずかしいーなー、どうしよっかなー。八幡的には家に帰って一人で考えるという選択肢も有り中有りと見せかけて無しなので、完全に袋小路に突入してしまっている感じである。
「あ、」
と、思わずと言った風態で雪ノ下の声音がぼそりと溢れるのを耳にして顔を向ければ、手に持っているスマホをおどおどと躊躇いがちな姿勢で以ってこちらに翳してくる。
「こことか、どう?」
「あー、満喫な」
まあ確かに、あそこなら人混みを気にせずにゆっくり調べものが出来るか。特に反対意見もないので、むしろ提案してくれてありがとうくらいの気持ちで頷けば、二人で改札口を戻り、ロータリーにてバスに乗り込めば、十分程度で雪ノ下の提示したネカフェに到着した。入り口を抜けてカウンターに赴けば、女性店員さんがスマイルと共に佇んでいた。
俺の隣にいる雪ノ下さんはというと珍しいものを見る眼差しできょろきょろと内装に興味を示している。うんそれはそれでとても尊いとは思うけど、今はちょっとこっちに集中してほしいなーなんて八幡は思うかな。
なにせほら、こういうの緊張するから。というより雪ノ下とこういう場所に来ているという事実が今になって破茶滅茶を連れて押し寄せてきてる。接客スマイルであろうと笑顔には違いないので、「はよ選べ」と催促をされているのか「なにあの女の子、きっとこういう場所に来るのが初めてなのね尊い」と俺と同じ心境なのかは定かではないが、ここは早めに切り上げるのが吉というものだ。
「ど、どうする? 席のリクエストとかある?」
「そ、そうね、出来れば個室がいいけど」
「まあ、そうですよね。うん」
大体のネカフェの場合、ペアとなると畳二、三畳でこじんまりとした空間という認識であるが、雪ノ下はそれでもいいのか。結構近いし狭いし近いし、なんならもっと広いスペースでも空いていれば取れると思うけど。
「比企谷くんはいつもどうしてるの?」
「俺が誰かと来ると思うか?」
いや、前にプロムで由比ヶ浜と別の店に行ったことはあるにはあるが、あの時とは状況も心境も異なる。まあ女の子という点においては結局緊張することに変わりはないのだ。というか、あれだ。一応言っておいた方がいいのか?いや別に悪いなとかは思ってはないのだが、けじめという言葉を用いるとしても、その言葉と連なる事柄に今から言おうとしている言葉はけじめ足り得るのだろうか。
……いや、言っておくか。
「……プロムの時に、由比ヶ浜と座ったのはペアフラットだった、かな」
驚いたような、はっと意識を呼び戻されてしまった面持ちと感じるのは俺の勝手な気の迷いかもしれないが、それでどう思うのかは雪ノ下に委ねてしまうことになる。
けれど、言ったことに後悔はない。
受け止め方はわからないけど、言っておかなくてはならない気がして、自分の為にと言葉を発したと言われても仕方ないとしても、言わずにはいられなかった。
沈黙に伏した空間。その視界に過ぎったのは雪ノ下の言葉ではなく、その細やかな白磁の手だった。手前に記されたフロアマップにぴたりと指先を這わせ「ここがいい」と小さくも確かな言葉を告げられた。
反対する理由もなく、待機していた店員さんと会話を交わす傍らで雪ノ下はじっと佇んでいる。ただ、肩口に近付き、触れてきた彼女の無言の温もりに心中で動揺を含めることに手一杯で、言葉なくカウンターの下で宙ぶらりんの片手に稚く指に絡まった擽ったい感触にドキリと肩を上下に揺すってしまう。
相変わらず雪ノ下に言葉はない。
目線の先、照明に艶めく髪の間から覗く熟れた頰だけがそこにある。俺もまた言葉を持たず、意固地な幼さを思わせるように手を離してくれない熱に返事をするように力を込めた。
× × ×
ドリンクバーからグラスとカップを手に取り、雪ノ下の先導で二階へ上がる。繋がれていた熱を離すかどうかに考えあぐねている内に羞恥が勝ったのか、躊躇を醸し出しながら離れた手にそれぞれの荷物を抱えてさっさと部屋に赴けば、予想通り室内に設置されたちょうど二人用ほどの黒いソファと対面に座したモニターが並べられているのみで、こじんまりとした感覚は拭えなかった。
先に入室した俺に続いて雪ノ下が足を踏み入れれば、忽ちと部屋は狭く感じてしまう。微かに人の気配を四方から感じ取りながらも耳に届く静寂は、意図せずともこの密閉した空間に緊張を引き連れてくる。
比較的ソファの端に腰を下ろせば、同様に雪ノ下も腰を下ろして、って────。
「……なに?」
「いや、なんでもない」
気のせいかな、なんか近いな。
ちらっと視線を迂回してみれば、出入り口側のソファの空白に目が止まる。あともうひとり座れるのではないかと思えるくらいにポツンと伽藍堂が佇んでいた。
うん気のせいじゃないねこれ。
雪ノ下さん、ちょっと近くない?
なんて言えるわけもなく、ソファに腰掛ける位置を若干調整してから手元にあるキーボードに意識を傾けた。別に気を逸らそうとしているわけではない。断じてない。モニターとキーボードをかたかたと叩く俺の指先へ雪ノ下の視線が交互に配られているのを感じながら、ここに来た目的を検討に移す。
「土曜日、何時からとかあるか?」
とりあえず最初のチェックとして土曜日の天気予報を確認しておく。バックに眠っている折り畳みもかたりと置かれている雪ノ下の長傘とて、必要のない天候だというのなら多少移動も楽になるだろう。雨天だと色々と行動が狭まるし、なにより晴天の千葉を歩くのはとっても気持ちいいんだぜ? 基本的にラーメン屋巡りばっかしてるけどね!
そうね、と頤に指を当てて考え込んでいる雪ノ下に向けてひとつだけ案を捻り出す。
「この前言ってたホットケーキの店とか?」
反省も修正も効かずに再びの心臓ばくばくくんになっている俺だが、これは結構まじでスマートにいけたのではないだろうか。
雪ノ下はこてんを首を傾げ、揶揄うように笑みを添えて俺を見遣る。
「憶えてたの?」
「なんとなく、な」
めっちゃ憶えてました。
なんならもう言ったのかなー、言ってないのかな?由比ヶ浜達とそこら辺の話しをあんましないなー、もう興味なくなったのか、そうだよね高校生だもんね、昨日の女子トークの話題なんて昨今の政治とクラスのやつが俺の名前間違えるのと同じくらいに忘れられていく世の中だよね。
「俺も結構興味あるしな、ホットケーキ?」
「ほんとに?」
「いやマジだって。興味ありすぎて無いふりするくらいには興味あるぞ」
「ホットケーキより、あなたの生態に興味は出そうね。それって興味あるの?」
「行けたら行くぐらいの興味だ」
「つまり無いってことね」
あちゃー、バレちゃったかー。
っべー。
「でも、ほら……せっかくだしな」
キーボードを鳴らす手が止まる。
画面に映し出された検索一覧に綴られたリンク先の案内には、とある単語が山のように排出されていた。俺の様子を不可思議に思ったであろう雪ノ下の、モニターに表示された情報に息を呑むような雰囲気を感じ取る。
片仮名で僅か三文字。
今の俺ではきっと言葉に出来ないが、確かに胸の内に宿っている音階だった。
「せっかく、ね。うん、そうね」
「じゃあまあ、行くか」
「ええ、行きましょう。せっかくだから」
よし、と。
とりあえずひとつは決まった。
ホットケーキを食べに行くという予定にしても一日はそこで終わるわけではない。それで終わりにするには、少しばかり味気ない。
ほかに何かないかと考えても、止まった手は次の検索を導くことが出来ない。何処に行きたいとか、何がしたいとか、きっと色々あるだろうけど、咄嗟に思い付くほどに人生経験には乏しい俺だ。だからこそ、したいことも行きたい場所もありすぎて、時間が足りないような錯覚に陥ってしまうほどに。
「ホットケーキは、夕方にしない?」
雪ノ下の言葉が静謐な空間に溶けていく。
「午前中からディスティニーシーに行って、色々と回って、夕方にホットケーキを食べに行くのは……どう?」
「……シーか」
ランドにはこの前も行ったが、確かにシーに行ったことはない。俺と彼女の記憶の中にある道行に含まれていない場所は、名前とネットの情報の中にしかない。そこに一歩を踏み出す時が来た、ということなのだろうか。
ああ、まただ。
また雪ノ下に任せている。
こういう時に思い付けないのはちょっと、いやかなり心苦しい。だからこれは、情けなさを少しだけ突っ撥ねるような、スマートさのカケラも無い言葉だと思うけど。
「じゃあ行くか、シー」
返答に安堵を示す雪ノ下の表情。
だからさ、と。
言葉を挟まれたらきっと、口元に紡いだそれを見失ってしまいそうで、必死に。
「朝、迎えに行ってもいいか?」
「え?」
「お前の家に、迎えに……行きたい」
求めるように言葉を口にした。
せっかくだから、なんて言葉を頼りにするにはとても眩しい言葉で、取り扱い方なんて今は思い付きもしないけれど。せめてそれくらいはしたいと、そう思ったから。
「ほんと?」
「ここで嘘つかねーだろ」
吐息交じりに言葉を返す。
冗談みたいな、魔法みたいな。
簡単に届いてしまうのかもしれない言葉は、俺にとっては魔法のようで、口にするにはマジックポイントが足りない。実際もう限界だ。頰が顔が熱い。全身が熱を灯してなんなら今すぐにでもここから抜け出して走り去ってしまいたい。でもそれが出来ないのが、させてくれないのが、雪ノ下雪乃なのだろう。
「何時にきてくれるの?」
「何時がいいんですかね」
「じゃあ、七時前」
「早すぎないかなぁ……」
開演二時間前だぞ。
雪ノ下は楽しげに頰を染め、
「ウチで一緒に朝食を食べてから行けばいいじゃない」
「いや、待って、おい」
なにとんでもねーこと言ってんだお前。
朝食て、一緒て。
それは誰と一緒の一緒?
雪ノ下雪乃さんのみ。
あるいは雪ノ下ファミリー。
前者にしろ後者にしろ、場所的に色々と不利なんですけど。ただでさえお姉さん一人だけでも持て余すというのに、いやむしろあの人がいないとご両親のみの場所に放り込まれるということになるのでは。それならいっそお姉さんにも居てもらったほうが、ってどっちにしろ針のむしろじゃねーか。
表層に浮き出た苦々しさを隠すことも忘れてしまった俺の顔に雪ノ下は肩を揺らして笑いを溢している。楽しそーだなー。そりゃあ楽しいだろうね!俺は多分楽しくないけどね。というか絶対味わかんない自信がある。むしろ自信しかないまである。
土曜日の朝に訪れているのかもしれない大事に思いを馳せてみても、そこには既に日の出と共に訪れる雪ノ下家の影が射し込んでいる。
隣に落ち着いている温もりが唐突に意識の中に揺れ、絡まった腕に引き寄せられたと思っていれば、動揺する心に暇を与えないように、こてんと黒髪が肩口に収まった。
揶揄い交じりに手背を擽る指先はまるで今の雪ノ下のように微笑みを浮かべているようで、意趣返しと言わんばかりに手首を捻り、指を抑え込むように握り締めた。
笑みに梳くように毛先が揺れ、軽快な音色が雪ノ下の唇から聴こえてきた。
「土曜日、楽しみね」
────、と。
その三文字を音にする。
喜びを噛みしめるように絡まった手に込められた力。嗚呼、まいった。ここで言っちゃうのかよと、呆れるくらいに溢れた吐息に交じった笑みが浮かんでしまえば、返事をするように、重なった手に力を込めた。