残業さえ……
なければきっと……
毎日更新……
しんどい
僕はプラスチックの蓋を外し、更にその下の薄いフィルムを剥がす。露出した柔らかな白い塊に木のスプーンを差し込めば、するりと中ほどまで刺さった
冷凍庫から取り出してしばらくおいていたので、アイスクリームは丁度よく柔らかくなっている。ああ、勿論もっと固いアイスが好きな人もいるだろうし、ソフトクリームのようなふわふわした柔らかさも愛されるべき優しい味わいがあるからね。この辺りは、個人の好みの問題だろう。ベストはこれだ!と言い切るのは止めておく
季節は夏真っ盛り。風鈴と扇風機で誤魔化せていた優しい初夏は遥か昔、クーラーが常時稼働するようになったトレーナー室。まあ扇風機や風鈴には独特の風情がある事は認めるが、近ごろの夏の異常なまでの暑さのせいもあって情緒を楽しむ余裕が失われつつあるんじゃないかな。ちなみに僕はきつめに冷房をかけて上着を羽織る、といった過ごし方が好きだけどね
「だからこの季節、トレーナー室にはお客さん用のブランケットが用意されているという訳だ。理解できたかな?」
「電気代の節約をしようって考えは無い訳?」
「はは。この暑さの中仕事を頑張る為だ。必要経費だよ」
「気温差がデカイところを行き来してると夏バテになるらしいぜ」
「どうせ僕は年中バテてるし、そもそもここから出なければ解決じゃないか」
スカーレットとウオッカの厳しい視線が更に部屋の温度を下げた気がした。まるで屁理屈をこねるだらしない人間を力づくで黙らせるかどうか悩んでいる人がするような怒りを孕んだ目をしている。彼女達が行動に移る前に、僕は本題に切り込むことにした
「という訳で、今年も大規模夏合宿の季節なんだ。聡明な君なら解るかな?」
「ふーん。解ったわ」
「スカーレット……。お前解らないクセに意地張って解ったフリしてっと碌な大人にならねーぞ」
「マジの説教やめてくれるかしら。はいはい、全然意味わかんないわよ。どういう訳か説明してくれる?」
「トレセン学園にも夏休みはある訳だ。7月上旬から、8月いっぱいは登校の義務が無いし授業が行われない。大規模夏合宿というのは、この長期休みを利用していつもと違う環境で練習に集中する為に行われる学園主導の行事の事だよ。」
学園主導の大規模夏合宿は、その名の通りトレセン学園の名目で場所を借り切り行われる夏の強化合宿だ。特にこだわりを持たないチームやトレーナー達は大概これに参加する。チーム独自で期間や場所を定めて行っている所もあるけれど、場所や移動手段を用意するのは非常に手間と費用がかかるものだからね
またこれは専属トレーナーを持たず、チームにも所属できていないウマ娘達への救済処置でもある。大規模合宿は担当を持たないトレーナー職の者が未所属のウマ娘達の練習を見てあげるのだ。殻を破って大きな成長を遂げるチャンスでもあり、そのままスカウトへと繋がるのも珍しくない
「あくまで強制参加ではないよ。ケガして療養中の子や、シリーズから引退して次の人生を歩む為勉強している子なんかは学園に残る。食堂や練習施設も小規模ながら利用すること自体は可能だ。全て閉めてしまうと、ここ以外に帰る場所が無い子が困ってしまうからね」
スカーレットとウオッカがしゅんとなってしまった。言うべき事ではないかもしれないが、そういった子もいるんだということは知っておいて欲しい。全寮制の学園に来たがる子達には色々な事情がある。この学園に来る全ての子達が声援を受けて門をくぐる訳では無いし、胸を張って凱旋する事が叶わない子もいる。追い出されるように、逃げ出すように。そうして、ここにしか居場所が無い子は決して少なくはないのだ
まあそういった話はここまでにして、スカーレット達の今後についての話に戻そう。僕は溶けかけのアイスを一口食べた後、話を再開した
「僕達ムーンシャインもこの大規模合宿に参加する形になる。明日生徒総会で詳しい説明や資料の配布なんかがあるだろうから、そこで改めて説明を聞くと良い。」
「そうなの?アンタの事だから、ムーンシャインの合宿はハワイでバカンスだ!くらい言い出すと思ったけれど」
スカーレットの隣でウオッカもうんうんと頷いている。毎年同じ様な事を新入生の子に言われるけど、全くもって心外だ。僕はそこまで自由奔放でタガが外れた人間ではない。これが遊びではなくあくまで練習目的の合宿だという事はちゃんと理解しているつもりだ
「そもそも海外旅行は苦手でね。飛行機が好きじゃないんだ」
「んだよトレーナー、怖えのか?」
「僕はただでさえふわふわした人間だからね。地に足が付いていないと、そのままどこかへ飛んで行ってしまいそうで不安になるんだ」
「そんな理由で飛行機を嫌ってる人初めて見たんだけど……」
冗談はさておき、大規模合宿の運営には生徒会も絡んでいる。チームの練習場所を違う場所にすると彼女が寂しがるかもしれない。……寂しがらないかもしれないが。もしかしたら面倒事が減って気が楽だ、とか言い出すかもしれない。うん。
まあそんな理由もあるが、ムーンシャインの前身のチームの頃からの名残である。練習施設も宿泊施設も慣れ親しんだものだし、わざわざ別の所を開拓する理由も無い。まあ他にも色々理由はあるが、この辺りは大事な話ではない。またの機会でもいいだろう
話の最後を締めくくるように、僕は机の引き出しから2冊の冊子を取り出して2人に手渡した。
「はい。チーム用の夏合宿のしおりだよ。僕のお手製だ。毎年、これは僕の仕事なんだよ」
薄緑色の丈夫で手触りの良い表紙で綴じられた、A4サイズ全60ページの大作だ。ホッチキスではなくのりを使用した無線綴じの本格冊子はそこそこお金もかかっている。内容もしっかりしていて、合宿期間中に予定されているイベントのスケジュールは勿論合宿場周辺の地図、併設された施設の細かな解説やもっていくべき物、あると便利な物。最後の『よくある質問集』に目を通していれば、初心者でも大概の疑問は解決できるだろう
「よくある質問。
海にクラゲは出ますか?→出ません!皆さんが泳ぎやすいようクラゲは排除されています!
虫は出ますか?→虫よけスプレーは用意されているから大丈夫!
釣り竿のレンタルはありますか?→当然一式ご用意があります!
遊ぶ時間はありますか?→たくさんあります!
うん、あれね。なんというか、アンタが作ったっていうのはすぐに解るわね」
「でもさ、『脱水症・熱中症の予防策と、実際発生してしまった場合の対処法』『寝る前にやっておきたいストレッチ方法』みたいな結構役に立つ事も書いてくれてるし、結構いい感じだな!」
「そういってもらえると徹夜した甲斐もあったというものだよ」
ウオッカとスカーレットがしおりに目を通してやいのやいのと言い合うのを聞きながら、僕は溶けきる寸前のアイスを口に入れる。甘さが口を通り抜けて行く感覚を楽しんだ後、机の上の書きかけの書類に手を付ける事にした。心から合宿を楽しむ為にも、もう二つ三つ終わらせておかなければならない仕事があるからね
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『必要なものがありそうなら買い出しに行っておいで』
そう言われて街まで出て来たはいいものの、実際何が必要なのだろうか。スカーレットとウオッカはしおりをめくる。必ず必要な物一覧の所に『遊び心』と書いてあったのには若干イラっと来た
「着替え、使い慣れた練習用のシューズ、日常生活で使う私物。うーん、大抵の物はわざわざ買い足す程の物なんて無いんじゃないかしら」
「お前、化粧品とか風呂用具だけでカバン一個使いそうだよな」
「うるさいわよ。そういうのは結構向こうに揃ってるらしいわ」
宿泊先に用意されているアメニティ関連や貸し出しサービス等についても事細かにしおりに書かれている。スカーレットが普段使っている化粧品や気に入っているシャンプーも用意されているようである。毎年トレセン学園のウマ娘を受け入れているだけあってか、サービスが行き届いているのだろう。なんならスポンサー企業が提供してくれる練習着やシューズ等も貰えるらしい
いたれりつくせりと言うしかない受け入れ態勢にスカーレットとウオッカは感心したが、益々必要な物が減ってしまった。2人は揃って首を傾げてうーんと唸り声を上げる。とはいえ太陽はさんさんと照り付けるし、立っていても暑いだけだ。
「うーん。センパイ達に聞いてみっか。何人か街に来てるっぽいし」
「そうね。とにかく移動しましょ。あ、そうだ。合宿には持って行かないけどアタシ欲しいブラウスあったのよね。ウオッカ、アンタは?」
「俺は特にねえかなぁ」
「じゃ荷物持ちね」
「はぁ!?自分で持てる分だけ買えよ!」
「これも筋トレよ」
「成程な!じゃあやるか!ってなると思うか?俺のことそこまでバカだと思ってんのか?」
「……」
「こいつ……!無視してやがる!」
楽し気な会話を繰り広げながら2人は人で賑わう商店街を行く。学園から電車で1駅のこの商店街にはウマ娘向けの商品を展開している店も多く、2人以外にも休日を楽しむトレセン学園の生徒たちの姿は多い。2人はぶらぶらと街を歩きながらあーだこーだと下らない雑談を繰り広げていたが、その時ふと見知った顔を見かける。向こうも気付いたようで、小さく手を振った
「お疲れ様ですスカイ先輩」
「お疲れっす!」
「おースカーレットとウオッカじゃん。2人も買い出し?」
「はい。トレーナーが、合宿に必要な物を買ってきなさいって。でも、何を用意すればいいのか解らなくって」
「そうなんだ。まあ2人共初めてだもんね。わたしは2回目だから、アドバイスしてあげよっか?」
「ぜひお願いします!」
「セイちゃんはね、釣り竿だね。あとウェア。高いの買うんだ。皐月賞の賞金もあるから、値札は気にしない。直感で選んで買ってやるんだ。え、向こうで貸してもらえるって?それはそれだよ」
セイウンスカイの目は青空の様に澄んでいた。とてもキラキラしていた。夏休みの子供にも負けないくらい楽しそうな笑顔を浮かべている。スカーレットとウオッカは微笑ましく思ったが、とりあえず全く参考にならない事も同時に理解した
釣り具店に突撃していくセイウンスカイを見送り、2人は再び歩き出した。少し歩くと、またまた見知った顔を見つける。何かの行列に並ぶライスシャワーとミホノブルボン、マチカネタンホイザだ。全く進む様子の無い列に並ぶ3人に挨拶をして、何をしているのかを尋ねた
「えっとね、新しいつけ麺屋さんがオープンするんだよ。3人で食べようと思って」
「前情報だと濃厚魚介つけ麺との事です。この商店街には今までつけ麺の専門店が1つしか存在しませんでしたので、私としても非常に楽しみにしています。ここの開店凸を行った後、55m離れた別のラーメン屋の夏限定激辛ラーメンのデータも収集する予定です」
「私は2人ほど食べないけど、情報記録係だよっ」
タンホイザは黄色い手帳をすっと構えている。『らーめん探訪記vol.14』と書かれた表紙を見たスカーレットは巻き込まれる前に頭を下げて退散した。合宿前に体重管理を放棄する訳にはいかない
「ライス先輩とお昼を一緒した事あったけど、あの人めちゃくちゃ食べるわよね。身長はアタシ達より小さいのに……」
「あのエネルギーが全部走りにつぎ込まれてっからすげーんだよな。てか、合宿の事聞きそびれちまったな」
まあ多分何を聞いてもラーメンの事しか教えてくれなかっただろう。スカーレットはこの辺りで、ムーンシャインの先輩達に聞いても有益な情報は得られないのでは?という疑問を発生させていたが、頭を振ってその失礼な考えを吹っ飛ばした。ちょっと間が悪かっただけであって、皆頼れる先輩達なのだ
「先輩達は結構好き勝手してるからねー。ま、ネイチャさんから言えるアドバイスとしては、本当に荷物は少なくていいと思うよ。ほんっとになんでも揃ってるし。行きのバスで食べるお菓子くらいじゃないかな」
ひたすら歩く事15分。ゲーム屋で中古の名作を吟味するナリタタイシンを見かけたりお花屋で何人かのウマ娘と談笑するエアグルーヴなどを見たりした後、スカーレットとウオッカは偶然出会ったナイスネイチャと喫茶店に入りお茶を楽しんでいた。ネイチャはパフェをつんつんとスプーンでつつきながら、どの部分から攻めていくか思考を巡らせながら後輩2人の質問に答える
「厳しいんですか、やっぱり」
スカーレットがごくりと唾をのんだ
「方針的には緩いけど、ガチでやりますって申告するとガチメニュー出てくるから。2人は覚悟した方がいいよー。ふっふ」
余裕そうに笑うネイチャだが、1年ほど前に『菊花賞で勝てるメニュー下さい。文句言いません』と調子に乗った結果めちゃくちゃな事になった事を思い出し、ちょっとだけ食欲が減衰してしまった。すぐに気を取り直してパフェを1口食べると、都合の良い記憶だけを掘り起こしながら話を再開する
「まあ、サボリ云々置いといても遊び道具は結構重宝するかなー。割と空き時間あったりするし、練習結構キツイからさ。息抜きしないともたないよ。遊ぶときは遊ぶって感じで!」
「そう……ですね。折角ですから、水着とか買っていきます」
「うんうん。海で遊んだりもするからさ。練習用の水着以外も持ってくといいかもね。あ、アタシも買いたいしついてっていい?」
「はい!一緒に行きましょうネイチャ先輩!」
その後3人で街をぶらついた後、ちょっとした買い物を終えて学園へと戻った。ウオッカはじゃんけんに負けてスカーレットの荷物を持たされる羽目になり、寝る前までぶつくさ文句を言い続けていた
夏合宿です。アプリ版ですと丸々二ヶ月海辺に居る訳ですが、2000人近い全校生徒が一か所にという訳ではないと思うんですよね。アニメ版のスピカみたいに、個別でやってるところもあったりするのかもしれません
迷った結果、あまり細かく考えない事にしました。ふいんきだけ楽しんで下さい
スカーレットとウオッカのデビュー、夏の終わりまでには書けそうですね。順調ならば