さっむ
え、いきなりめっちゃさむいじゃん
なにこれ
布団の中より愛を込めて。字余り
「どうぞ。粗茶ですが……」
「あらあら、ありがとう。是非いただくわ。お土産にお菓子持ってきたから、よかったら皆で食べてね?」
粗茶ですとは言ったものの、ナイスネイチャが机の上に置いた湯呑に入っているお茶は当然安い物では無い。超高級品という訳でも無いが、学生の身分であるネイチャが日常的に楽しむには少々躊躇いを感じる程度には質の良い茶葉である
自由に飲んでいいよ、と気軽に言いながら大和がチームハウスやトレーナー室に常備してくれている嗜好品はそういった物が多く、ある日自分が好き勝手食べたり飲んだりしている物の出所を何気なくネットで調べたネイチャは目が飛び出す思いであった。とはいえ食べるのを遠慮すると目に見えて彼の元気が無くなるものだから、ありがたくも頂く事にしているわけだが
なんて関係ない事はさておいて。この空間にて現在唯一の人間である胡舞跳翔子にはウマ娘達の視線が集中している。注目されるのには慣れたものなのか彼女は姿勢よく座ったまま楽しげな微笑みを浮かべ、落ち着き払った様子で湯呑を両手で持ち上げる。むしろホームグラウンドで出迎えた筈のウマ娘達は掛かり気味だ。髪の先を落ち付かないように指でくるくると巻きながら、お盆を抱えたナイスネイチャが遠慮がちにハナを切った
「あの、大和サン___サブトレレーナ―さんならまだアタシ達の親とお話し中ですんで、まだしばらくは戻って来れないと思いますケド……」
「あーらそうなのね。私ったらうっかりしてしまって」
「いえ。もしかしたら私がお伝えしたスケジュールにミスがあったのかもしれません」
「あらあらグルーヴちゃん。気を付けてくれなくっちゃだわ」
「申し訳ございません。うっかりしていました」
2人の間で交わされる棒読み口調のやり取りには誰も突っ込まなかった。ただただこの後何も知らずやって来るであろう大和の事を少しだけ哀れに思いかけ、とはいえ散々他人事みたいな顔をして今日を楽しんでいた彼が本日自分達が味わった緊張感やら気恥しさを少しでも理解するいい機会だしやっぱり可哀想とか全然ないなという考えに至った
「あら、この味……もしかして」
その時、お茶を一口飲んだ翔子が目をぱちぱちさせて何か気になる事があるような素振りを見せる。何かミスがあったかなと背筋をビクっとさせるネイチャだったが、彼女が味に不満を感じているようではない事はすぐに察しがついた。ではなんだろうかと少しだけ迷った後、ネイチャは彼女の疑問に対する答えに直感的に辿り着く事が出来た
「あ、はい。大和サンさんがいつも飲んでるヤツです。えっと銘柄は___」
「やっぱりそうなのね。これ私が昔から好きなお茶で、あの子の仕送りの中にもちょいちょい混ぜてるんだけど気に入ってくれてるみたいね。……それはそうとアナタ、ナイスネイチャさん?」
「え!?は、はひっ。そうでございます。ナイスネイチャをやらせてもらっております、ハイ」
緊張しすぎてよく解らない返事を返してしまい思わず顔を羞恥に染める。そんなネイチャを見て翔子は楽しそうにくすくすと笑いながらもっと楽にしていいよとネイチャを落ち着かせてから会話を繋げた
「あなたのレースは何度か拝見させてもらってるわ。ケガも随分良くなったって聞いているけど本当?」
「ハイ、お陰様でなんとかやらせてもらってます」
「ああ、それは重畳ね。私あの年の有馬記念のファン投票はあなたに一票入れたくらいにはファンなの。あとでサイン頂戴ね?」
「アタシなんかのサインでしたらいくらでも。……というか、アタシの事ご存じなんですね?」
「勿論。……あら、気になる?大和があなたの事___あなた達のコト、なんて言ってるか」
そう言うと翔子は目を細め、目じりに薄く皺を見せながら楽しそうに笑った。達、と聞いて周りで様子を窺っていたウマ娘達の耳も揃ってピクリと反応を示した。皆の無言の圧力を背中に浴びるネイチャはくっと小さく息を呑み、目をくるくるとあちらこちらへ走らせた後恐る恐るといった様子で頷いた。一連の反応を愉快そうに見ていた翔子はしかしわざとらしく顔をしかめて首を振った
「ごめんなさい思わせぶりで。正直なところ、あの子ったら何聞いても『みんな可愛いし良い子だよ』ぐらいの事しか教えてくれないのよ。照れてるんだか何なんだか」
さいですか、と小さい声で呟くナイスネイチャは内心『もしかして今からかわれたのでは?』という疑念を募らせていた。そんな思いを込めてジトっと視線を送ってみれば翔子はすっと目を逸らす。成程、この人間違いなく大和サンの母親だわとネイチャは深く納得した
「まああの子はそんな感じだけど、私この部屋にいる皆のお名前は解るわよ。レースも結構見るし、大丸さんとかレイヴンちゃんとはよく電話で喋るから。それにムーンシャインのファンクラブだって入ってるの。だから今日は純粋に皆と会いたかったっていうのと、あとはまぁ少しだけお話を聞きたいなって」
「お話?アタシ達のですか?」
「それもとっても聞きたいのだけれど、ファンとしてというよりトレーナーを名乗っている男の母親として聞きたいの。大和はトレーナーとして相応しいのか、あなた達がどう思っているのかを」
飲み干した湯呑を静かに机に置いた彼女は先程までとは一風変わった目をしていた。先ほどまでキラキラとしていた優しい目には冷たい凛とした意志が芯に据えられている。まるで叱られているかのような空気にウマ娘達の背筋がピンと伸びるくらいに場の空気が固くなっていく
「我が子の行い、外から見ている分には立派だわ。とても誇らしい。あの子がどれだけ認め無かろうと、残してきた実績は素晴らしい。胡舞跳の家の門はいつでも彼の為に開いている。だけれど、あの子は決してそうしようとしない。自分は何も成していないから、と。自分の手柄だと誇る事はあの子達の努力を汚す行為だと。
謙虚さは美徳だけれど、あの子の場合本気でそう思っているみたいだから。何にもしてないんじゃ自信も持てないわよね。ねぇ、大和は本当にトレーナーに相応しいの?」
真っすぐ目が合ってしまっているネイチャとしては正直勘弁してくれと言いたい所だった。そういった質問は自分より長く彼と付き合いのあるメンツが答えるのが筋だろう。横目で様子を窺いたい所ではあったが、かといって目を逸らすのはごめんだった。それは投げかけられた質問に対し後ろめたい気持ちがあると思われてしまうからだ。ネイチャとしては自分がそう思っているなどと欠片でも思われたくは無かった
「はい。替えが効きません」
だから胸を張って、他のウマ娘を差し置いて応えさせてもらう事にしたのだ。ナイスネイチャは少々気が逸っていた。失礼かもと思ったが、少し声が大きくなるのも構わず喋り続けた
「アタシを勝たせてくれてるのは大丸さんですし、強くしてくれてるのはレイヴンさんです。でも大和サンがいなかったら、アタシはもう走ってないかもしれない。アタシが頑張れるように寄り添ってくれてるんです。もっと嬉しいのは、頑張りたくないって言っても寄り添ってくれる所です。そこまでされちゃーいくらアタシだって自信を持っちゃいますよ。
多分、アタシだけじゃなくって、あの人がいなきゃどうにもならなかったってコがいっぱいいるのがムーンシャインなんです。だから……サブトレさんは、アタシ達にぴったりの人なんです」
言い切ってから、心臓がバクバクと鼓動している事に気付いた。なんでだろうと考えて、自分がもしかしたらちょっとだけ___ほんのちょっとだけ恥ずかしい事を言ったかもしれないのではないかという疑念が生まれた。まさかなと思ってチラリと横を見ると、ライスシャワーが小さな身体で偉そうに腕組みをしてうんうんと頷いている
まあこの先輩はいつも通りだし別に良いとして、更にその横で顔をちょっと赤くしたセイウンスカイがこちらを穴の開くほど凝視してきているのがネイチャの心臓の鼓動を加速させた。このままだとマズイと悟ったネイチャは取り合えず巻き込んでみる事にした
「ね!?セイちゃん達もそう思うっしょ!?」
「え、私らに振ります!?えーっと、まあその……そう、ですね。うん。感謝はしてます。私みたいなのに構ってくれてるし、サボるのも頑張るのも一緒にやってくれるし」
ぽりぽりと頬をかきながら、それでもスカイは素直にそう口にした。便乗するように他の中等部のウマ娘達も同じ想いである事を伝える。その様子をじっと見つめていた翔子の視線は順繰りにウマ娘達を巡り、最後に新入りの2人へと向いた。彼女達2人は歴こそ浅くも、思いは深い。だからこの問いには自信を持って答える事ができる
「まあ俺はトレーナーとはまだ半年の付き合いっすけど……あの人のやり方は適当そうに見えて、ちゃんと芯がある。俺はそういう所は結構好きです。そんなトレーナーならちゃんと先を見せてくれるって信じてます」
「アタシの夢に全部を賭けると言ってくれましたから。アタシもちゃんとそれに応えたいって思ってます。他の誰でも無い、大和トレーナーに。適当なところもあるけど、アタシ達に向けてくれる想いは本物です。だからあの人がトレーナーに相応しくないなんて、誰にも言わせたくありません」
ウオッカとスカーレットがそう締めくくり、沈黙が訪れた。どうしようもない程だらしなく見えて、とにかく自分達の為ならばどんな無茶でもしてくれる。その真摯さに不快感を持っている者はいなかった。まあとはいえ、それはそれとして色々言いたいことはあるのだけれど。そういった不満を口にするのは一旦我慢した。多分今はその時じゃないなとなんとなく察したからだ
「___ありがとう。あなた達の想い、確かに聞き届けたわ。ウマ娘と通じ合う事こそ『トレーナー』がやるべきたった1つの仕事である、みたいな事をお義父さん……泡斎さんも言ってたし。うん、大和は立派なトレーナーなのね。ごめんなさい、失礼な質問をしちゃって」
そういって翔子は取り出したハンカチで涙を拭った。拭う素振りを見せた。しかしそういったわざとらしい素振りにムーンシャインの面々は見覚えがある。ネイチャ達は疑わし気に視線を走らせて、彼女の空いた手がポケットの中でもぞもぞ動いているのを見つけた。更にそのポケットの中で何かスイッチが押された様な僅かな音がしたのをウマ娘の耳は聞き逃さない
「翔子さんすいません。ポケットの中の物見せてもらえません?」
「……」
「や、まさかと思いますケド、一応ね。大和サンも良くこういう話してる時、ボイスレコーダーをですね」
「……いや、違うの。これはあくまでその……」
「はい取り上げて」
「違うのー!」
ネイチャの号令と共にわっと飛び掛かったウマ娘達がボイスレコーダーを没収した。悲しそうによよよと崩れ落ちる翔子に対する視線に同情は込められていない
「全く、油断も隙も無いな……」
「大和サブがすぐビデオカメラ構えるのはこの人の遺伝か……」
「いやあの、ごめんなさい。ちょっとからかいたくなっちゃって。後でほら、実は録音してましたーってネタバラしした後にちゃんと消すつもりだったから。決して後で大和との交渉に使う材料にしようなんて思ってないからね?」
成程、そんな事考えてたのか。ネイチャ達はさらに呆れたような視線を向ける。居心地悪そうに座り直した翔子はごほんと1つ咳払いをした。ネイチャは取り上げたボイスレコーダーを机の上に置きながら、この騒動を見ているだけで何も言わない先輩達の様子に気が付いた
「てかなんで高等部の先輩達は観てるだけでなんにも言わないんです?アタシ達は色々喋らされてるのに」
「いや、私達は過去に同じ質問をされたからな」
「え。そうなんですか?」
「ええそうね。グルーヴちゃんやライスちゃんにも初めて会った時に同じような質問はしてるわ。その時はどうだったかしらね?」
「さあ……昔の事ですから。記憶にございません」
エアグルーヴはぷいと顔を背けた。翔子が楽しそうに笑っているのを見て、当時のエアグルーヴ達も自分達と同じような事を言ったのだろうという事は容易に想像がついた。場の空気が和らぎ、ウマ娘達は緊張の息を吐き出して姿勢を崩した。ネイチャもお茶のお代わりを用意しようと立ち上がったのだが、そんなネイチャ達の耳に聞き捨てならない提案が飛び込んできた
「まあお詫びと言ってはなんだけど、私ばっかり好きに質問するのもずるいからもしなにか聞きたいことあればお答えするわよ?大和の事とか___」
「「「お願いします」」」
ネイチャは光の速さでお茶のお代わりを用意して机にそっと置いた。翔子は目をぱちくりさせて少し困ったように笑った
「おおぅ、いいリアクション。まぁあの子自分の事って殆ど喋りたがらないものね。どうでも良いコトは喋りまくるけど。とりあえずはまぁ……うーん。どうしましょう」
「あの、大和サブがトレーナーになろうとした理由ってほんとはなんなんですか?」
おずおずと手を挙げたウマ娘の質問の内容は全員が気になるものだった。再び好奇の視線を浴びる事となった翔子はお茶を一口飲んでから、はて?と小さく首を傾げる
「ほんとはって?」
「いっつもコネだからとか、他にやる事なかったからだとか色々言ってますけど……」
「あーなるほど。そうねぇ……当時のあの子の動きを全部知ってる訳じゃないから、あくまで私の知ってる範囲の事と多少の憶測でよければお話ししましょうか。取り合えずだけど、皆は胡舞跳グループの事はなんとなく知ってたりする?」
翔子の問いにウマ娘達は頷いた。レースに関わっていれば、あるいはウマ娘として生きていればどこかで耳にする名称である。曰くウマ娘の為の企業。そう呼ばれるだけの事はあり、胡舞跳グループが多岐に展開する事業はほぼ全てがウマ娘に関しての物だ。レースや練習に使われる器具や機材の提供は勿論、ウマ娘の特徴である耳や尻尾に関する化粧品や手入れ道具を含めたウマ娘向けのアパレル展開。ケガをしたウマ娘の日常生活をサポートする道具の研究などにも手を広げている
「胡舞跳グループが特に心掛けているのは、レースから離れたウマ娘達の支えになる事。レースを引退した子達って、心に大なり小なり傷を抱えながら人並外れた力を持て余してる事が多いの。普通の一般企業が受け入れるのは簡単じゃないわ。胡舞跳グループはそういう子達の受け皿になる役割をずっと昔から担ってきた」
そういった背景もありURAとの繋がりも厚い。各地のレース場の警備員には胡舞跳グループ所属のウマ娘達が多く採用されているが、これもURAからの依頼を受けての事である。人並外れた膂力を持つ彼女達は一見見目麗しいながらも、厄介事を起こそうとする者への抑止力にもなる。今回翔子が学園を訪れたのも、来月に学園で開催されるファン感謝祭の警備を依頼されその件の打ち合わせとして胡舞跳グループの代表として出向いたというのが本来の名目だった
「一族の家訓としてウマ娘に尽くせとか教え込んだりする訳じゃ無いわ。ただ単純にウマ娘の事が好きでたまらないっていう血筋なのよね。それでも一族の中でトレーナーになりたがる人はこれまであんまりいなかったみたい。どちらかというともっと日陰からウマ娘を支えたがる人が多かったから。
泡斎さんは例外的で、大丸さんも小さな頃からその背中を見て育った影響でトレーナーを志すようになったらしいし。そんで小さい頃の大和がどうだったかというと……正直な所、トレーナーってお仕事には全く興味が無さそうだったわね」
彼女があっけらかんと言い放った言葉はウマ娘達の間の空気を一層固い物に変えた。さて。と前置きをして翔子は話を進める
翔子の夫、つまり大和の父親である胡舞跳大悟は大丸の兄だ。彼は弟である大丸と違い、父である泡斎を尊敬はしつつもトレーナーではなく胡舞跳グループの一員としてウマ娘の為に尽くす道を選んだ男だった。その家の次男として産まれた大和は、両親をもってしてどうも掴めない子供だった。
好き嫌いをあまり表に見せず、悲しいことや辛い事があっても笑っている。我慢強いのかと思ったが、ただあまり何事にも興味が薄いだけらしかった。かといって無気力という訳では無く、あれこれと手を出したがった。やらせてみればどれも上手にこなすのだがのめり込んで続ける、といった様子も無い。飽きるというよりもどうも本気になれないらしかった
別にそれでもよかった。何にも興味を示さないように見えてもやるべきことはキチっとやっていたし、それなりに楽しそうにやっていたからだ。両親はいつか大和が好きな物を見つけてくれる事を祈りながら、忙しい時間を縫って一緒に楽しく過ごしていた
しかし大和は時折、翔子と大悟が失神する程の事をやらかしてくれたのだ。無鉄砲というか加減しらずというか、どこかやけっぱちのような危うさに2人は度々心配を募らせた
「え、具体的には何を……?」
「んまあ、色々ね。夜中に海が見たいとか言って車で2時間かかる道を自転車で行こうとして騒ぎになったり、嫌いな食べ物を克服しようと無理やりお皿いっぱい食べてお腹をぶっ壊したり、木の上に秘密基地を作ろうとして落っこちて骨折して、しかもそれを黙って学校行こうとしたり……。その度しこたま怒ったけど、人を傷つけるような事はしなかったからまあ可愛いものね」
『僕は夢を見たい。荒唐無稽だろうと、曖昧だろうと。なんでもいい。価値観全てを塗り替えるような、燃え上がるような熱を持ってみたいんだ。じゃなきゃなにやっても、あんまりおもしろくないんだもの』
なんでこんなことするの?と説教の中で聞いたことがあった。そうしたらたった一度だけ、大和はそう答えた。だだをこねるように自らの望みを口にした大和に対して翔子は大した事を言ってあげられなかった。それは自分で見つけるしかないものだからだ。大和はそれ以降その言葉を口にする事は無かったが、翔子はその言葉を忘れた事は無かった
「んでまあ、そのまま大きくなっていくにつれて行動範囲がどんどん広がってって。この子いまのままだとちょっとヤバイかなって私達も流石に不安になったの。この調子だと自分探しとか言って海外に行ったきり帰って来ないんじゃないかなみたいな」
しかしその後、翔子の知らない内に大和はトレーナー養成学校に入るとさっさと資格を得て卒業し、泡斎の紹介を経てトレセン学園のトレーナーとしての肩書を手に入れていた。最初その話を聞いた時、翔子としては眉をひそめるばかりだった。人様の夢を預かる責任重大な仕事だ。いや世に溢れる仕事というものは突き詰めればどれも責任の重いものばかりだが、教育職はその中でも飛び抜けている。半端な気持ちでやっていいものではないだろう
最初はとても心配したし、口には出さずともなんなら反対していた。泡斎の所に直接文句を言いに行った事もある。しかし泡斎は『心配いらない』と言ってにこにこ笑うばかり。長年トレーナーとして実績を残している彼が身内びいきを差し引いてこうも堂々と言うのだから、こうなれば翔子も息子を見守るしかなかった
まあ結局心配いらなかったけれど、と翔子は昔を懐かしむような柔らかな笑顔を浮かべて目を細めた。トレーナーとして学園に勤めだして半年程たったある日、丁度今日のような秋晴れの下。仕事の兼ね合いで学園にお邪魔する機会があった。息子に知らせずに練習場を見に行った。ウマ娘と一緒にいる大和の顔を一目見て、翔子は今までずっと抱えていたもやもやがすっかり晴れていくの感じた
「トレーナーになる最初のきっかけは、やっぱり気まぐれなんだと思うわ。或いは大丸さんとレイヴンちゃんの補助をする簡単な仕事しかさせないからとか、まあ上手に言いくるめられたのかもしれない。でも最終的に___あの子はここに夢を見つけた。あなた達と一緒に夢を見ることが、自分にとって何より大切なものになったのよ。お家に帰ってこなくなったのは寂しいけれど、あの子がトレーナーになって良かったと私は心底思ってる。ま、たまーに顔は見たくなるけどね」
それに、と言葉を切って翔子はスカーレットの方へすっと視線を走らせた。スカーレットは目をぱちぱちさせ、何だろうかと小さく首を傾げた。翔子は何か言いかけた口を閉じてなんでもないとばかりにニコっと笑った
「それに、とはいえ先生の立場にあるものなんだから。キチンとしてないならバシっと怒らないとね!」
『これまで感じた事の無い熱を持ちたい』と言った大和の願いが遂に叶ったらしい、との話は聞いていた。だがそれについてこの子に直接問いかけるのはまだ今ではないだろう。彼女と大和が様々な思い出を重ねた時。その時に改めて、2人の口から色々と話を聞けるだろう。翔子はその時が来ることに思いを馳せて、それはそうと今この時を楽しむ事に決めた
「さてそれじゃああの子の小さい時の写真でも___」
「皆、お待たせしたね。そろそろ練習を___」
最高のタイミング。或いは最悪のタイミング。どちらなのかは立場によって変わるだろう。しかし少なくとも、大和にとってはギリギリのタイミングでチームハウスに戻って来る事ができたという訳だ。彼は場の空気が変に温まっているのを察し、そして輪の真ん中にどんと座っている翔子を発見する。途端、彼の表情から一切の感情がすとんと抜け落ちた。一方の翔子は元気に手を挙げた
「やっほー。大和!」
「うわ……」
「うわってなによ。怒るわよ」
「ごめん。つい……」
狼狽える大和の様子を見ていたいと思うウマ娘達だったが、そういえば自分達が練習前だという事を今この時ようやく思い出した。さらに言えば自分達の授業参観もまだ終わっていない事を思い出し慌ててソファーから立ち上がった
胡舞跳グループは中央地方限らず、トレセン学園を中退した子達の受け入れなども行っています。大和は幼い頃からレースから離れたウマ娘達と接する機会の方が現役のウマ娘と接する機会より多かったので、ウマ娘に勝利を求めない姿勢はその時に出来上がったのかもしれません。今考えました
彼の人物像は今まであまり深く決めて来なかったのですが、ここでちょっと詳しく掘り下げることにしました。今後この辺りの設定が活かされる予定があるかは微妙です。長いんで覚えられないなってなると思うんですけど、大和くんはお金持ちの家に産まれたのでウマ娘の為に散財する事を恐れてませんって事だけ覚えておいてくれればいいです