いわゆる「渋谷ハロウィン」という催しが始まったのは2010年頃だ。
ハロウィンはそもそも仮装した子供がお菓子をもらう風習だったはずが、いつの間にか大人たちのどんちゃん騒ぎにすり変わっていた。
かつての天坂にとっては縁のないものであり、連日終電帰りの回らない頭で仮装という名のコスプレ大会を遠巻きに見ていた記憶しかない。
警備が薄いなか一ヶ所にとどまり続ける無防備な人の大群は、人間であれ呪いであれ悪意あるものにとっては格好の獲物だろう。
電波が遮断される帳の中では術師たちも連絡を取ることができない。
戦況の共有は難しく、対応は各々の術師の判断に委ねられる。
つまりは、同じ顔の人間が多少あちこちで出現しても気にも留められないのだ。
「あくまで多少だ。基本的に形代の主導権は血塗のものだが、他の術師に会った場合疑われる可能性もゼロじゃない。いざとなったら俺の意識と交代しろ」
渋谷事変前の血塗との作戦会議。
一度帳が下りた渋谷に入ってしまえば連絡なんて取りようがない。なにより天坂のガワで中身が血塗の形代を使うのだ。
術師に疑われても、脹相に敵だと判定されても詰みだ。
『そんな器用にできんのかぁ?』
「主導権持ってる側が引っ込むくらいならできるだろ。そうすれば自然と元の人格が表に出てくる、と思う。たぶん、きっと」
『どんどん自信なくなってってるじゃねえか』
「仕方ないだろ。一番近くにいる受肉体が頑丈すぎてあんま参考にならないんだ。あと、地下5階には絶対に降りるなよ。五条先生が封印される副都心ホームには夏油がいる。しばらくはその場を動けないけど、近づけばまず間違いなく殺される」
『夏油かぁ……』
「会ったことあるよな。受肉のときにいた額に傷がある袈裟の男だ」
『オマエもあるだろ。
「いや、それについてはマジで覚えてないんだよ」
原作の流れと異なり天坂が受肉体になった。
その場に真人と夏油もとい羂索もいたはずなのだが、受肉のショックのせいなのかそのあたりの記憶がすっぽり抜け落ちてしまっている。
しかし、そこまで気にするものでもないだろう。向こうが受肉体として以外に天坂に利用価値を見出しているとは考えにくい。
「悠仁が五条先生の封印を通達してから約30分後に、脹相と悠仁の戦闘が始まる。血塗が脹相と合流するならそのタイミングしかないわけだが、そのころには地上にも真人の改造人間がうようよいるし他の術師の目もある。慎重に動けよ」
『おう。オマエはどうすんの?』
「俺は状況を見て23時前には単独で動く」
地上もシャレにならない地獄絵図になるのだが、地下は地下で特級呪霊とエンカウントする可能性がある。敵からも味方からもほどほどの距離を保ちつつ、一般人の避難が済んだらさっさと移動すべきだろう。
宿儺と漏瑚の戦闘の動線は渋谷で下見してある。頭が痛くなるレベルで戦闘による被害範囲が広い。
正直スケールが大きすぎていまいちピンときてないまである。だからこそ巻き込まれないことが最優先だ。
「じゃあ、手筈通りにな。絶対に悠仁のこと殺させるんじゃねえぞ」
『分かってるって。俺は兄者に会えればそれでいい』
天坂は内心不安もあるが、それ以上に期待が大きかった。
幸いにもと言えるのか、天坂を変人とは思っていても疑っている人間はいない。混乱のさなかでどこかにフラッと消えたところで「宿儺に殺されに行った」なんて斜め上すぎる目的を看破できる人はいないだろう。
それこそ天坂が予想していない何かが起こりさえしなければ、最高の最期へ迷いなく吐き進めると思っていた。
この時、致命的な見落としがあったことを天坂は後になって知ることになる。
夜の渋谷に虎杖の大音声が響き渡る。
五条悟の封印。
その言葉が指すのはまさしく呪術師側がほぼ詰みであるということだ。
五条がいなくなった盤上をひっくり返すほどの戦力は今の渋谷にいない。術師たちがやらなくてはならないことは呪霊の跋除から五条の奪還に切り替わっている。
とはいっても日下部が率先して地下に行くなんてことはなく、天坂はパンダと共に建物内からわらわらと湧き出す改造人間を処理しつつ一般人の避難誘導に奔走していた。
パンダの拳が大型の改造人間の頭をカチ割ったのと同時に近くの帳が上がった。
「あれ?帳上がった?」
「俺たちが入れなかったやつですね。一般人を閉じ込めてる帳はまだ残ってます」
ちらりと時計を確認する。ちょうど猪野、伏黒、虎杖がセルリアンタワーでの戦闘を終えた頃だ。
このあと虎杖はすぐに渋谷駅へ向かうはず。
狗巻が避難誘導を始めるあたりでここからは離れた方が良さそうだ。
早めに動かなければ特級同士の超次元バトルに巻き込まれる。
避難誘導にかこつけて反対方向に抜け、109方面に向かうならそこまで不自然じゃないだろう。
天坂がどう言って日下部たちから離れるかと考え始めたとき、突然背後から腕を掴まれた。
ぎょっとして振り返ると、そこにいるはずのない人物がいた。
「あれ、虎杖じゃん。どうした」
そう、渋谷駅に真っ直ぐ向かっているはずの虎杖が、なぜか渋谷ストリームに近い日下部班のもとに来ている。
天坂は混乱しながら日下部とパンダに視線を向けるが、二人とも急なことに困惑している。というか、日下部は露骨に関わりたくないという顔だ。
ひどく険しい顔をした虎杖はパンダの問いに答えず、天坂の目を覗き込んだ。
「俺に、なにか隠してないか」
「えっ」
「頼む。答えてくれ」
心当たりがありすぎる。どれのことを言っているんだ。
そもそもなんで今その質問なんだ。
「な、なんだよ急に。今はそれどころじゃ……」
言いよどみながら視線を落とすと、虎杖の手に握られているものに気がついた。手の平に収まる大きさのそれにはロボットの顔のような模様がある。
与幸吉が遺したメカ丸の子機だ。
それを見た瞬間、天坂の脳に最悪の可能性が浮かぶ。
今すぐメカ丸を壊さなければ取り返しのつかないことになると脳内で警鐘が鳴る。しかし、ここでそんなことをすれば、今の虎杖の問いを肯定するようなものだ。
判断に迷っていると、無情にもメカ丸はぱかりと口を開ける。
『パンダ』
「あ、その声メカ丸か?ずいぶんちっさいな。前のボディはどうした」
『今は詳しい話をする時間がなイ。オマエに頼みたいことがあル』
待て待て。
「なんだよ改まって」
『天坂快里をオマエの側から離さないようにしロ。渋谷駅に近づけるナ』
頼む待ってくれ。
『そいつは今回の主犯である夏油と接触していル』
ただ一言、しかし天坂にとって致命的な言葉が放たれた。
虎杖は真っ直ぐ渋谷駅に向かうつもりだった。
セルリアンタワー前で伏黒と別れ、駆け出した虎杖にメカ丸が声をかけた。
『ここに天坂快里は来ているカ』
「うおっ!なんだよ今まで静かだったのに」
『省エネダ。それより、質問に答えロ』
「あー、日下部先生のとこだから帳内にはいると思うけど」
『地下に行く前に天坂を探してくレ。ヤツを渋谷駅に近づけたくなイ』
「は?なんで」
『ヤツが夏油と接触しているからダ』
ぽかん、と口を開けた虎杖は足を止めた。
耳に取り付けていたメカ丸を外し、揺れる瞳で見下ろす。
「何言ってんだ……?」
『俺は夏油たちが交流戦で拉致した天坂の分身について話していたのを聞いていル。今回の渋谷での計画を聞いたときにナ。詳しくは分からないが夏油と天坂の間に何かしらがあったことは確かダ』
「何かってなんだよ。そもそもアイツは、受肉体にされたアイツはその時のショックで記憶が飛んでる。仮に夏油と会ってたとして、なんだっていうんだよ」
『内通者の可能性があル。記憶の有無なんて本人しか分からないことを信じるのカ?五条悟奪還の障害になりかねない存在は早めに潰しておきたイ』
「根拠もなくそんなこと言ってるわけじゃねえよな?」
虎杖は根拠がないのならこの場で壊してやると言わんばかりに手に力をこめる。握り締めたメカ丸の小さな機体がギチギチと音を立てた。
しかしメカ丸は冷静な声色で話し続ける。
『夏油という男は恐ろしいほどに狡猾ダ。相手の何が弱点か見極めて、的確にその弱みを突いてくル。天坂には無いのか?己を犠牲にしてもいいと、すべてを投げ出しても構わないと思えるような
ピクリと虎杖の手が震える。
メカ丸を再び耳につけ、走り出す。
『いまは可能な限り
「……」
虎杖は答えなかった。
ただ無言で爪先の方向を変える。
虎杖は天坂を疑っていなかった。
本人にメカ丸の疑念を否定してもらえればそれで充分だと思った。
八十八橋の一件からどこか考え込むようにぼんやりとしていたことが増えたのも、渋谷への招集が決まった時からずっと浮足立ったような様子だったのも、全部自分の思い過ごしであればいい。
自分はなにも覚えていないと、その一言を聞ければ良かった。
ただそれだけだ。
だからこそ、自分の問いに答えを濁す天坂を見て、揺らいでしまった。
メカ丸の放った言葉に、すぐさま日下部とパンダから懐疑的な視線が天坂に向けられる。
ああ、最悪だ。
なぜこのことを忘れていたのか。メカ丸こと与幸吉は呪霊側と取り引きし、高専内部の情報を流していた。
呪霊と高専の両方に通じていたメカ丸ならば、
そして、その後の受肉直前の段階で
まずい。非常にまずい。
何がまずいってどんなやり取りがあったとしても天坂は覚えていないのだ。
メカ丸がどんな証言をしようと、こちらには反論の手札がない。
黒幕と通じていると疑いがかけられた今の時点でほぼ詰みのようなものだ。
それでも何か反論を捻りださなければ。
こんなところで終わってたまるか。
「突然なに言い出すかと思えば何の根拠もなく人を内通者呼ばわりかよ。夏油となんて会ってないぞ。俺は」
『記憶が無い、カ?分かっている。だが、受肉体にされた天坂の分身が夏油に接触しているのは確かダ』
「それだけのことだろ!そもそも俺みたいな大して強くもない奴を内通者にしたところで得るもんなんて無い!」
「どうどう、天坂落ち着け。メカ丸も、急にそんな端折られた話されても分かんねえって」
「いや、そのオモチャの言い分は分かる」
宥めようと割って入ったパンダを日下部の言葉がバッサリと切り捨てる。
「簡単な話だろ?天坂は現状グレーってとこで、俺たちで大人しくさせときゃいいだけの話だ。逃げようとするなら切ればいい。正直いま切っちまった方がリスクが低いだろうが、ただでさえ人手不足だ。今は働かせて、黒かどうか分かってから切った方があと腐れがない」
「日下部、オモチャじゃなくてメカ丸だ。京都校の」
そこじゃないだろ。というか日下部は渋谷駅に近づかなくていい口実ができてラッキーくらいに思ってるだろ。
天坂は全力でツッコみたいのを唇を噛んで我慢する。敵を増やしている場合じゃない。
この様子では、メカ丸の説得はできないだろう。日下部も難しい。パンダは中立だが、それゆえにこっちには付いてくれそうにない。
なら説得する対象はひとりだ。
「悠仁、俺は本当に……」
天坂の腕を掴んだまま黙っていた虎杖に呼びかける。
メカ丸はあくまでも情報提供をしているだけだ。虎杖さえ信じてくれれば、不利ではあるが日下部班に首輪をつけられるのだけは回避できるかもしれない。
指が食い込むほど強く掴んでいた天坂の腕をゆっくり離した虎杖は先ほどとうってかわって弱々しい。
手にしていたメカ丸をそっとポケットに入れる。
「快里、さっきの質問答えてくれ」
隠していることは無いか。再び問われる。
「ない、そんなもん」
「そうか」
今度こそ迷いのない答えに、虎杖は微笑む。
「ならパンダ先輩たちと一緒にいてくれ」
「…………えっ」
「このまま言い合いで時間を使えないだろ。少なくとも逃げたりしなきゃ殺されない」
「いやいや、なんで悠仁まで」
「夏油は誰かって、聞かないんだな」
天坂にしか聞こえない声量で、ひとり言のように呟く。
数秒その言葉を理解しようと思考し、今度こそ天坂の顔から血の気が失せた。
「夏油となんて会ってない」と確かに言ってしまった。まぎれもなく失言だ。
本当に記憶喪失ならば、「夏油」という名前にまず疑問を抱かなければならなかったのだ。
記憶喪失が虚偽であるか、あるいは
「パンダ先輩たちは気づいてない。頼む。快里を死なせないために、残ってくれ」
そこから先の言葉は、呆然と立ち尽くす天坂には聞こえていなかった。
天坂はただ、自分の犯したとんでもなく単純で致命的なミスに固まったまま、渋谷駅へ走る虎杖の背中を見送る。
慰めるようにパンダは優しく天坂の背を叩くと、力なく肩がかくりと落ちた。