01.ヴォルデモートなんていない(1)
1991年9月6日ホグワーツ魔法魔術学校
ハリー・ポッターは心の底から祈っていた。
祈っていただけではなく、家を出るときに当の本人にしっかり釘を差しておいた。余計なことはしないでよ、と。
グリフィンドール生だけならともかく(いや、少なくとも談話室や寝室で間違いなく笑いの種にされることを考えれば心が休まるわけではないのだが)、「闇の魔術に対する防衛術」はスリザリン生との共同授業だ。
グリフィンドール生に対して反目を顕にしている彼らに格好の材料を与えれば、間違いなく彼らは僕をおちょくる材料に使ってくるだろう。
いや、入学したてでスリザリン生のことはよく知らないから、単なる想像でしかないんだけども。
できれば単なるいち生徒、単なる一年生としてつつがなく授業を終えたい。そう祈っていた。
にもかかわらず。教壇へ歩を進めた教授は僕の期待に沿うことはなくて――まあそうなるだろうとは思ってたんだけど――軽快に「ハリー、上手くやってるか?」と声をかけたあげくウインクまでよこしてきた。
クラス中の視線を一身に浴びた。
「おいおいハリー、そんな俯いてどうしたんだ? ……まあいい。やあ、グリフィンドールとスリザリンの諸君。正直いってグリフィンドールとスリザリンで合同授業をやろうという試みは狂気の沙汰で、偉大なるアルバス・ダンブルドアが現在進行形で犯している間違いの一つだとは思うのだが、教職員としては寮の垣根を越えた友情というものを無論歓迎している。まあもっとも、在学中の自分にスリザリンの友人なんてのは7年通して一度もいなかったし、作ろうという気さえ生まれなかったが……いや、そうでもないな、美しい女性に関しては文字通り垣根を越えていた気がする……未だにブレンダはノットなんぞにくれてやるには惜しかったような……」
……などと赤裸々に自らの学生生活を語り始めるのだからたまらない。いや、"ノットなんぞ"って3つ隣の机に座ってるスリザリン生である彼の父親のことじゃないの?
「すまんすまん、脱線した。では改めて。諸君らは『闇の魔術に対する防衛術』を学ぶのだが――そもそも『闇の魔術に対する防衛術』という科目において何を学ぶのか知っている者は挙手を――うん。そこの挙手がおそろしく早かったブラウンヘアーのグリフィンドール生……ミス・グレンジャーだな。うん、うん。その通り。教科書の序文には『本教科は、危険な魔法生物、および悪意を持った魔法使いに立ち向かう術を学ぶものである』とある。パーフェクトだ! グリフィンドールに10点差し上げたいところだが、5点を超える加点は書面にして副校長に提出した上で審査を受けないといけない身のため2点で勘弁してくれ。さて、概要としてはそうなのだが、具体的にどんなものがあるだろう? 思いついた程度のものでいいから言ってみてくれ」
そう彼が言うと、みんな口々につぶやき始めた。少し教室が騒がしくなる。
「うーん、例えば悪い魔法使いに呪いをぶち当てるとか?」
「ロナルド・ウィーズリー君、正解だ。グリフィンドールに2点!」
「そもそも近づかないとかかな……グリンデローがいる湖には寄りたくないし」
「クレバーな回答だ、ネビル・ロングボトム君。グリフィンドールに2点!」
「ふん。わざわざ一人で立ち向かう必要もあるまい。手下にやらせてしまえばいい。そもそも不審な人間に近づく必要はない」
「なるほど、スリザリンらしいね。それも防衛術としては結構だ、ドラコ・マルフォイ君。スリザリンに……1点!」
彼は教室のざわめきのうちいくつかを拾い上げる。杖を振るとチョークがひとりでに動き、その発言が黒板に書き出された。
「さて、これらの考えは間違いなく正しいものだが……ではなぜ『闇の魔術に対する防衛術』という科目があると思う?」
彼は黒板の先程書いた発言から矢印を伸ばし、その先に「呪文学」「魔法生物飼育学」「魔法薬学」と記していく。
「すでにグリフィンドール生はフリットウィック教授の『妖精の魔法』の授業を受けたようだね。
そう言いながら杖を大きく振り、今まで書いた項目を大きくまるで囲んで――その下に『正確に、素早く、油断なく』と赤字で書く。
「悪い魔法使いがいたら……そいつの唱える呪文がなにかなんて注目しなくていい。対抗呪文? 知るか! まず逃げろ、隠れろ、なんでもいいから呪文を当てろ! マンティコアが君の前に現れたら凶暴なやつか、そうでないかを見極める必要はない。すみやかに使える移動手段すべてを駆使してその場から離れろ! 怪しいポーションを渡されたらそれをそもそも飲むな、親しくない異性から渡された飲食物には細心の注意を払え!」
仮に君たちが複数人でいたとしても安心するなよ、俺が悪意ある魔法使いなら君らをまとめてノックアウトするかもしれない――と続けると、スリザリンの金髪の男の子が少し嘲けるように笑った。
「ふうん? いくら卓越した魔法使いだろうと、十数人いるこのクラスをまとめてノックアウトだなんてできるわけないさ。杖を一度振るごとに呪いは一つ。僕らが全員気絶してるか、マグルが混じってでもいない限り――」
その言葉に反応するように、彼は指を鳴らすと――教室中に百合の花びらが降り注いだ。おおかた授業の前になにか仕込んでいたんだろう。それに伴って全員の気が逸らされ、視界が失われる。
あとは人数分、杖を振った。
「俺の元上司が言っていた言葉を引用すれば――油断大敵! 魔法使いの本分は杖にあらず、それを振るう腕と唱える頭にあり!――だ。脅威を常に予測し続けろ、対処法は最善手でなくてもいい、素早く正確にこなす――これが君たちが今後数年付き合うことになる『闇の魔術に対する防衛術』の本質だ」
全員の机の上には百合の花が咲いている――
「もし自分の狙いが机の上ではなく君たちで、唱えた呪文が花咲かせ呪文ではなく
と、彼は少し声のトーンを落として呟いた。
確かにそうではあるけど……大人気なさすぎる。これもしかして毎年全員にやってるの?
そう考えるとハリーは上級生の目すら気になってくる。いや、教職員を『問題担当』と『解決担当』に分けるなら、間違いなく問題の側だというのは入学前から耳に挟んではいたんだけど……
彼は杖を一度振り――今度は教室全体に向けてだ――全員の注目を集めるためにかしっかりと有声で呪文を唱えた。
杖先は輝き、花びらまみれだった教室は一瞬で元の風景に戻る。
「
再び、僕に全員の注目が集まる。勘弁してよ、パパ。
隣の席のネビルは気の毒そうに僕を見ていた。
─────
今日一日の「闇の魔術に対する防衛術」の授業を終えた俺は、極めて重大なことを直訴すべく、我がグリフィンドール寮監の居室へ向かっていた。
中にはどうやら先客がいたようだ。
「結構。あなたは魔法省志望でしたね。2年前から施行された『公職雇用信頼法』についてもあなたは問題ありませんから、あとはNEWTで要求される水準をクリアするだけです。この1年を無駄にすることのないように……おや、ポッター教授」
「ああ、面接中だったか、申し訳ない。一旦出直すよ」
「いえ、もう彼女で最後ですので……コール、それでは今年も励むように。期待していますからね」
面接を受けていた彼女は二人に一礼し、寮監であるミネルバ・マクゴナガルの居室から去っていった。
「魔法運輸部志望だっけか?」
「ええ、優秀です。彼女の、その……彼女の思い詰めすぎる癖さえなければ容易に受かるでしょうね」
「……ああー、うっすらと思い出した。確か俺が新任のときだな」
「ええ。失恋のショックを数ヶ月引きずって、最終的に……」
「いやー、教室から飛び降りた挙げ句に『変身術』と『クッション呪文』を駆使して禁断の森まで飛んでくんだからなあ。『滑空人間コンテスト』があれば間違いなく優勝だ」
ちょっとした冗談のつもりだったが……副校長と俺のユーモアのセンスには絶望的な隔たりあるみたいだ。
目を見開いて怒りの形相でまくしたてはじめた。
「何度このような叱責をあなたに言ったかわかりませんが……絶対に! それを! 彼女の前に言わないでくださいね!」
「わかってますよ副校長。俺は面白いいたずらしかしない主義なんだ」
「私の見解では寮の砂時計を破裂させたり、グリフィンドール生から負の無限大の点数を差し引こうとするのは面白いとはとても言えないのですが」
まったく、とミネルバはわざとらしくため息をついた。学生時代から現在に至るまでグリフィンドールの寮監であった彼女には迷惑をかけ通しだ。改めるつもりはまあ、そんなにないが……それでも尊敬できる相手の一人には違いない。
とはいえ、男には――父親には引くべきでないときというものがある。
「それで? 私の部屋にまで来た理由は? またなにか迷惑な案件ですか?」
「いや、大した話でもないんですが……一応新入生の様子でも話しておこうと思いまして、副校長。ミス・グレンジャーはちょいと目をかけといたほうがいいかな、勉学の面では申し分なさそうだが、少しばかり壁を作るタイプに見える――1年目のときのリーマスを思い出すね。あとは……スリザリンの例の教授にも伝えておいてくれ。ゴイルって子はちょい注意散漫なようだ。学習の進捗をある程度補助してやったほうがいいかもしれん」
「学生としても教授としても同期でしょうに。あなたから話せばいいでしょう」
「いやあ、あいつは徹底して俺との一対一になることを避けるもんで」
「まあいいでしょう。他には?」
「ああー、そのハリーのことなんですが……」
ミネルバから二度目のため息、とともにテーブルに紅茶が現れる。
「おお、これはありがたく」
「あなたのではありませんよ、これから親バカ話を聞かされる私へのせめてもの慰めです」
「そんな! 確かに俺は普段から我が息子の話を絶え間なくしているが……親バカではありません。それは客観的な事実でしかない」
彼女はソファに腰掛けマクゴナガルは無言で紅茶を啜っていく。
いつのまにかチーズケーキまで用意されていた。
「そう、例えば今日の授業も……実に聡明な態度で受けていた。学生時代の俺と比べれば実に冷静で大人びた様子だったよ、素晴らしい真面目さだ……リリーの長所を受け継いだに違いない」
「私は、あなたよりも不真面目に授業を受けるということが可能なのかを考えています。今のところ
「いや、そうかもしれないが……ともかく凄いんだ。変身術の授業はもう受けてたろ?」
「ええ。今のところ特筆することもないごく標準的な授業態度でした」
「素晴らしい……ところで本当になにも頂けないんですね、副校長」
仕方なく自分も指を鳴らすと、屋敷しもべ妖精が現れてアツアツのコーヒーを給仕して立ち去っていった。
うむ、美味い。
「くつろぎ始めなくてよいですよ。もうだいたい話は聞けたようですので、次の授業の準備を……」
「いやいやいや! それだけじゃないんだ! そう、これからするのは正当な要求の話ですよ、副校長!」
「……それで? 念の為聞いて差し上げましょう」
疑わしげな目でこちらを見てくる。
ううむ、副校長も抱き込めると思ったのが失敗だったか?
しれっとチームに混ぜて、既成事実化するとか、全員が寮規則を忘れる事故を起こすとか、ハリーを飛び級させるかなど色々考えていたのだが……
いやしかし、ここまで話したからには説得するしかない。マクゴナガル教授もグリフィンドール生で元クィディッチ選手だ。行ける! 行けるはずだ!
「寮規則に寮付クィディッチ・チームに一年生は入れないってのあるだろ? あれをちょっと曲げるべきでないかな、と」
「極めつけの馬鹿ですかあなたは」
疑わしげな目が更に細まった。
そ、そんな……なぜだ? あまりにも当然の要求だと言うのに。
「ば、馬鹿って……いやクィディッチ馬鹿なのはミネルバも同じだろう! ハリーは天才だぞ! チャーリーが抜けたチーム構成案を見てはため息をついていたのを見ていた! 今、グリフィンドールを救うのは! 神童ハリー・ポッターだ!」
ほんの少し、副校長は悩ましげな表情になる。
ほら見ろ。
「……っ。惹かれるものがないというと嘘になりますし、彼の才能を先入観なく見ていれば規則に付きものである抜け穴を利用していたかもしれません」
「でしょう?」
「ですが、その……今わかりましたが、自分より深い狂気に陥っている人間が目の前にいると、人は冷静になるもののようです」
ちょっと待ってくれ、俺が狂気に陥っている? あんまりにもあんまりだ……俺ほど冷静に勝利のための判断ができている男はいないというのに!
「待ってくれ、これはあまりにも大きな損失だ! この1年間の喪失は間違いなくクィディッチ史に、いや魔法史に残る損失だ! このままだと『偉大なマクゴナガルの大失敗』としてビンズ教授がこの出来事を教えることに――」
「はい、もう結構です。そんなことよりこれを」
話を遮って、俺に書類の束を手渡してきた――なんだこれは? 『寮監の手引』……! つまりこれは!
ようやく副校長の業務に専念する踏ん切りがついたか!
「そんな……ミネルバ、こんなサプライズを俺に……ええ、お任せください。後悔はさせません、寮杯を10年、いや50年は連続で――」
「なにをどう勘違いしたのかわかりませんが、違います。あなたの同期に手渡しておいてください。スリザリンの生徒の様子もあなたからどうぞお伝え下さい。ごきげんよう」
─────
大広間を出たすぐの階段を何階分も降りていき(スリザリン生が毎回こんな昇降を律儀にこなしているとは思えないのでおそらくなんらかの近道があると踏んでいるのだが、俺に教えてくれるスリザリン生はもちろんいない)、ジメジメとした地下道を進む。
ああ、畜生。さっきすれ違ったときだな、『勝手に育つキーホルダー』が俺のマントにつけられちまってる……スリザリンの悪童め! 大方ピュシーの仕業だな、次の授業では覚悟しておけよ。
在学中はここまで来ることなんてなかった。
なにせこの先にあるのはスリザリン生のねぐらぐらい……あ、スラグホーン教授に忘れた宿題を出しに行ったときに一度来てたな、そういや。
教授になった今はそれなりに来る機会は増えた。入ろうと思えばコモンルームにも入れるのだろう。
コモンルームに至る通路に差し掛かるとスリザリン生とすれ違う機会も増え、『ポッター教授。自主的な地下牢送りですか?』『確かに前々からスリザリン向きだと思ってた』『通路になにか仕掛けられてないか調べろ!』などと心のない言葉を浴びせられる。俺がなにをしたっていうんだ。
そうして群がる悪童どもをあしらってあしらって……ようやく目的地へと辿り着いた。
ほんの少し、たたずまいを正す。(まあ、裾にちょっと残ってる『
「開いている。どうぞ」
「やあ、スネイプ教授。ごきげんうるわしゅ――」
ちょっとした社交辞令の挨拶も言い切らないうちに、喉元に杖を突きつけられる。
……変わらないな、こいつも。もう3年目だぜ?
「何の用だ、ポッター」
「あー、その……マクゴナガル教授から受け取った書類を届けにな」
「そんな雑務のためにわざわざ我輩の居室まで一人で訪れたのか? どうやら前にした警告は右から左にすべて抜けているようだ」
「もう省を抜けてから3年目だぞ、一生警戒して生きるつもりか? まるで俺の元上司だ」
「今の台詞を是非とも彼にも聞いてもらいたいものだな。喜んで君を鍛え直してくれるに違いない」
スネイプは舌打ちし憎々しげにこちらを睨みつけながらも、ひとまず杖先を俺から離した。もっとも、『我輩は一切油断していないぞ』と全身を使って伝えている。杖はしっかり握っているし、瞬きすらせずにこちらの一挙一動をじっくりと見ている。
「あー、副校長から渡された寮監向けの書類だ。就任おめでとう」
「世辞は結構。用が済んだなら帰りたまえ」
「あと俺の授業でのスリザリン生の様子なんだが、ゴイルって子はどうも学習障害の傾向が――」
「ポッター、確かにお前とは共通の
地下のダンジョンに、拒絶の意思が強く籠もった、冷たい声が響く。
魔法薬学教授の居室は音を立てて閉ざされ、再び俺は地下に一人きりとなった。