「もともと、水路の利用は決してマグルの専売特許ではなかった。この島にローマ兵がいた頃から運河はイギリスに存在していたのだ。当然、我々魔法使いにとっても既知のものだった……だが、浅はかな歴史の浅い成り上がりどもは『マグルらしき手法』と認識するのみ! こうした文化を保存できるのは古い家である我々だけになってしまった。フットボールもそうだ! 機密保持法以前からあるというスポーツを、まるでマグルにしか通じないものとして扱いおって……」
「パパ、誰も聞いてないわよ」
パパがぶつぶつと船室の奥で呟いている。ママもそんなの放っておけばいいのに。
アストリアは船室内のソファで眠りこけている。深夜の脱出劇だ、幼い彼女は眠気に耐えられなかったのだろう……そういう私も、あくびが時折出るけども。
しっかりと行き先を窓から見ているのは客人のはずのスラグホーン学長だ。彼は目の前に現れた障害を報告した。
「サイラス。また水門だ」
「マンダンガス、出番だ」
「スリザリン組で俺にたらい回しするのやめてくれます?」
水位の異なる場所を繋いで、船で移動できるようにするにはどうしたらいいだろうか?
その答えが水門だ。ボートの後ろの水門を閉め、進行方向の水門を開ける。すると、ボートの水位が進む方向側の水位に合わせられるわけだ。古い人の知恵と工夫というのは実に偉大だと思う。
どうやらここは海に出る前の最後の水門。運河から川につながっており、そのまま下流にくだって海に出られるようだ。
「ぬごごごご! 回れ!」
……とはいえ、船室内からガチガチに錆びたハンドルを魔法で回そうとするのはかなり骨が折れるようだ。パパはマンダンガスさんにその仕事を投げながら、優雅に紅茶など飲んでいる。
「箒や移動キーなどとも違う優雅な移動手段だ。実に趣がある」
「ぬがががが! か、かってぇ!」
マンダンガスさんが力んだ表情で杖を振り回している。別に振りの大きさや握りの強さが魔法の力に影響するわけじゃないと思うけれど……気分の問題かしら? こういう非呪文的な呪文を唱えるときの気分って結構大事だものね。
「マンダンガス、そう焦るな。もうとっくにロンドンは離れている。追っ手が来るとは……」
「いや、サイラス……それは楽観的な読みのようだ」
後ろを見ながら、スラグホーン学長が呟いた。
「亡者だ」
その言葉を聞き、私達が一斉に振り向く。水路の脇の道に数体! それだけではない、水路を無理やり走ってくる亡者もいる。
「省の狂った連中め。もう亡者を放ったのか?」
「杖が空いてる人間はみな力を貸してくだせえ! 前の水門をめいっぱい開けて逃げねえと!」
パパとママ、私もマンダンガスさんの杖先に杖を重ね、なんとかしてハンドルを回そうとするが……錆びついたハンドルはゆっくりとしか動いていかない。
そうしているうちにも亡者が近寄ってくる。
「あの程度の数の亡者、どうにでもなるが……間違いなく後詰めが押し寄せてくるだろうな」
「ふむ。皆、一旦ハンドルから杖先を外してくれ。かの有名な原理を使うとしよう」
「スラグホーンの旦那、いったいそりゃなんなんですか!? 俺っちみてえな無学なやつがしらねえ特別な魔法の原理でも!?」
「
スラグホーン学長が杖を振ると……ハンドルが巨大化した! 魔法薬の教授ではあったけれど、変身術にも長けているのね。
そして、おもむろに懐から出したアンプルの中身を飲み込んだ。
「ほっほう……それ!」
スラグホーン学長が杖を振ると、巨大化したハンドルは力強く回り始めた。
水が一気に入り込み、船が前に進めるようになる。
「全員、なにかに掴まれ!」
パパがそう号令をかけた次の瞬間、ボートは勢いよく前進した。
亡者は足がさほど速いわけではない(と、闇の魔術に対する防衛術で習った)。全速力で進むボートには追いつけず、あっという間に差を開くことができた。
「ふむ。一難逃れたようだな」
「た、助かった……スラグホーンの旦那、今飲んだのは? もしかして噂に聞く
「いや、単なる強化薬だ。身体能力の強化が主作用ではあるが、このように身体を延長させるような非呪文的な魔法のときは効くこともある。
「さすがです、スラグホーン教授。ああ、もう海は近い」
パパがスラグホーン学長を称えながら、正面を見て呟く。確かにボートの行き先、蛇行した川の向こう側に海がついに見え始めた。
だが、今度はマンダンガスさんが外に向けて指をさす。
「あー……旦那がた。一息つきたいのは山々なんですが……」
「小規模ではあるが待ち伏せか? 運河の利用は向こうとしても予想外だっただろうが、海岸線を監視する優先度は高いだろうからな」
砂浜には何体か亡者がおり、私達の魔法の力に反応したか、活性化して走り出しはじめた。
「まあ、あれを振り切るのは容易だ。そのまま海に突っ込む」
「だ、旦那!? いくら魔法のボートつったって、こんな小舟でアイリッシュ海に出るのはいくらなんでも無理が」
私達の船は亡者を振り切って海に出る。だが、所詮はボート、浅い喫水の船体は波で大きく左右に揺られはじめた。眠りこけていたアストリアも目を覚まし、目をこすっている。
そして、突然横から生じた大波。ボートの中は大きく揺れる。
「大丈夫だ。奴が拾いに来た」
私たちは船内の窓越しに、大波の発生源に目を向ける。巨大な貿易船……?
甲板から手を振っている女の子が見えた。
私の親友だ。
「トレーシー!」
「ほっほう! 頼ったのはデイヴィス家であったか。アメリカとの貿易が家業じゃからな」
魔法で空中に持ち上げられた小さなボートは、そのまま巨大な船の甲板に穏やかに降ろされる。
私はボートの扉を開けて、甲板で待ち受けていたトレーシー・デイヴィスと抱き合う。
「やあサイラス! 遅刻したかとヒヤヒヤしたよ。イギリス海峡のほうはかなり念入りに警戒されていてね。ずいぶんと大回りすることになった」
「南から入れないとしたら、どうしたのだ?」
「そりゃ北回りさ。ゴールウェイ湾とマン島を横切ってここまで来た」
「アメリカのほうはどうだ?」
「あまりやる気は見えないね。あそこのトップは今ガチガチの孤立主義だから。まあ、逆にだからこそ僕ら一家が逃れても無関心で、イギリス魔法省の追求もゆるいものだったのはあるけど」
パパとトレーシーのパパもガッチリと抱き合い、親しげに話している。
魔法使いは海外に移動するとき、基本的に移動キーなどを使う。けれど、
そんなわけだから、アメリカとイギリスを結ぶ魔法の貿易船はトレーシーの家が数代で財産を築ける程度には需要がある、というわけだ。
トム・リドル率いる魔法省の連中は海外からの圧力を嫌い、大幅な規制をかけたのにあわせて彼ら一家はアメリカへ逃げ出したと聞き、寂しい思いもしていたけれど……戻ってきたのね!
「元気そうでよかったわ、トレーシー」
「ダフもね。アストリアちゃんは?」
「トレーシーさん、こんばんわー……ねむい」
「あらあら。それは大変。船内を案内するわね」
追っ手などもう影も形もない。一段落付いた私たちはアストリアをベッドに運び込んだあと、トレーシーによる船内の案内を受けていた。
船は加速し、セントジョージ海峡を北上して抜けているところだそうだ。亡者たちを振り切ってからもう数時間になっていた。
「ここが食堂ね。まあ、つくる人はいないんだけど……こうやってテーブルを叩くと出港前に積み込んだものが出てくるのよ」
そう言ってトレーシーがトントンと叩くと、パンダの絵がかかれた紙の容器が現れた。
どうやらアメリカを出る前に積み込んできた中華料理のようだ。
「相変わらず、中華好きね。トレーシーは」
「アメリカの中華料理はイギリスの中華ともまた違って興味深いわよ。オレンジチキン食べる?」
「そうね。頂こうかしら」
私が頷くと、目の前にしっかりと温まった料理が並ぶ。一つ目の皿には甘いソースがかかったフライドチキン、もう一つの容器にはみじん切りにした鶏肉やカシューナッツを混ぜ込んだ春雨のサラダが現れた。
フォークを掴んで見慣れないそれらの料理を口に運ぶ。うん。確かにイギリスの中華とは結構違うわね。でも美味しい。
食事が終わったのを見計らって、机の前に現れたのは紅茶ではなくアメリカ調のドリップコーヒー。ミルクとクリームもたっぷり。
ここは正直言って、トレーシーと合わない部分かしら。
私がそう思っているのを読んでか、トレーシーはクスクスと笑いながら口を開いた。
「たまにはコーヒーもいいじゃない? 徹夜明けの一杯は絶対こっちのほうがいいわ」
「たまにはね」
お互いにカップを口に運んでのコーヒーブレイク。夜を徹しての逃亡計画だったけれど、もう船室には朝日が差し込みはじめている。夜明けだ。
「これからどうなるのかしらね、ダフ」
「……ホグワーツに戻るだけ、と思いたいけど」
「無理じゃないかしら。一時的に滞在するならともかく、今は
「あなたはそれでいいの? ロングボトムくんと付き合ってたんじゃないの?」
「もうとっくに自然消滅しちゃったわよ。今の情勢じゃふくろうのやり取りだってできないもの」
まあ、それはそうだろう。
イングランドとスコットランド間だってやり取りは苦労したのだ。アメリカからホグワーツに向けての手紙なんて届くわけがない。
「ダフはどう思ってるの?」
「……率直に言うと、トレーシーの言い分のほうがもっともだと思ってる部分はあるわ。いや、トレーシーじゃないわね。パパの言い分ってとこ?」
「そうね」
「そう簡単に状況は変わらないわ。良くなるにせよ、悪くなるにせよ、たぶん少しずつ時間をかけて変わっていく……その変化を眺めながら、リスクの高い時期に国外にいるってのは合理的だと思う」
「まっとうな考えだわ」
「でも、もし何かが今起きるなら……その場にいたいと思う。矛盾してるかしら?」
「その理由はハリーくん?」
「難しいわね。愛なんて綺麗なものでなくて、もしかしたら……単に自分で選びたいって我儘だけかも。誰かに私の道を決められたくない」
ふくろう便は使えないながらも、屋敷しもべ妖精さん(いや、悪しきしもべ妖精とか言ってたっけ?)たちを介した細々としたやり取りは再開した。
彼は相変わらずで、今度ビクトール・クラムとクィディッチの試合する、なんて教えてくれたっけ。そういえば彼が言っていた試合は今日だったかしら。
他愛ないやりとりだ。でも、その他愛ないやりとりをする権利がなによりも重要に感じている。
「ただ、さすがにこうなると……私にできることはほとんどないわ。トレーシーの家の船まで持ち出してもらったのに駄々をこねるのはみっともないし」
「そうね、世の中には自分で動かせないことばっかりだわ。嫌になっちゃう」
「でも、トレーシー。この半年で思ったの。できないと思ってたものも、周囲の人間を巻き込んだり、巻き込まれたりしてるうちに……意外となんとかなっちゃう」
ディゴリーさん。パーキンソン。その他いろいろ。迷惑かけたりかけられたりした、単なる子どもの足掻きではあったけど、それでも成果がなかったわけじゃない。
「なにも訪れないかもしれない。でも、もし何か機会が訪れたら……しっかりと前髪を掴む準備をしておくべきだと学んだの」
「追いかけてくる災厄から逃げるだけのニンフじゃないってこと?」
「私の名前の由来はダフネ=ローレル、世界最強の毒草よ? アポローンだって返り討ちにしてみせるわ」
コーヒーを飲み終え、ニコリと笑ってお互いに立ち上がった瞬間に……突然、船が大きく揺れた。
急に前進を止めたようだ。
「んー……? すごい揺れたけどなにかしら、おねえちゃん」
「起きたのね、トリ」
「わからないわ。とりあえず3人で固まって甲板に出ましょう」
私達が少しだけ歩みを早めて表に出ると、そこには皆が集まっており、難しそうな顔をしていた。
「3人とも。呼ぼうと思っていたところだ」
「パパ、すごい揺れたけどなに?」
「アレだ。進路に
パパが指す右手側、グレートブリテン島のほうには……髑髏と蛇の模様を掲げた小型の船がこちらに迫ってきていた。
追っ手だ!
その船の先頭に立つ男は、
「おやおやぁ! 手配中のデイヴィス家に突如として邸宅がからっぽになったグリーングラス家ではありませんか! 実に錚々たる面々、船を止めていただけるとアイルランド総督、アントニン・ドロホフの仕事も少しは省けるのですが……」
「ドロホフか。厄介な奴に目をつけられたな……逃げ切れるか?」
「サイラス、残念ながらちょっと速度が足りない。荷物が重すぎるようだ、トレーシー!」
「任せて、パパ」
トレーシーは父親の合図を受け、杖を振って……船の備品をどんどん海に放り捨てはじめた!?
「トレーシー、何やってるのよ!」
「これが最善なのよ、ダフ。少しでもスピードを上げるために重いものを捨てないと」
「……いや。もっと重い荷物がこれだけ載っているのだ。限度があるだろう」
デイヴィス家は必死にスピードを上げようと試みているけど、パパは首を振った。
「もっと重い荷物、ってなんのこと? パパ」
「我々人間だ……サイラス。ちょうどいいことに行きに利用したボートが甲板に乗ったままだ。我々をこれに乗せ放り捨てれば、重量は足りるか?」
「……囮はこっちがやるよ。それだけやらせて逃げ切れなきゃ恥だ。あの職名を自慢したくてしょうがないならず者の連中と違い、こっちは操舵のプロだぞ」
「全員! 一度しか言わないから聞き逃すことのないように。我々は船上に残るデイヴィス家とそれ以外の面々の二手に分かれる。合流地点はどうする?」
「ベルファストの河口で合流しよう、サイラス。北アイルランドはまだ連中の手が完全に及んでいるわけじゃない」
「だ、そうだ。では全員、乗り込め!」
「ダフ! 絶対また再会しましょう!」
「ええ!」
私はトレーシーに叫びながらも、小走りボートに乗り込み、全員乗ったことを確認して扉を閉めた。
すると周囲の煙幕がたかれ(トレーシーのパパが魔法で拡げたのだろう)、ボートが浮き上がり海面へと一気に飛び込んだ。パパとスラグホーン学長が杖を振って着水の勢いを弱め、その勢いを前進する方向に振り返る。船は滑るように海面を進み、アイルランド島の砂浜に突っ込んだ。
「全員、内陸部へ一旦走――」
パパの号令は最後まで発されることはなかった。突然、私達全員の背中に走った寒気。
上陸した砂浜の先に待ち受けていたのは――