体の芯から凍えるような感覚を覚える。
なにか対処しなければ、と頭では考えるものの、心のほうが動かない。対処? こんな怪物に対してなにができる? 私達の逃避行はここで終わり。誰も助けてくれなどしない――
「
その寒気と鬱々とした思考はスラグホーン学長が唱えた呪文とともに取り払われた。
杖先から放たれたのは、美しい銀色の霧のようなもの。
「た、助かった……」
「ひとまずは追い払った! 皆の衆、あの小屋へ一旦逃げ込むぞ!」
まだ
多少の息を切らしながら(パパは多少ではなく息を切らしていた)、マンダンガスさんがスラグホーン学長に感嘆の声を上げる。
「まさかスラグホーンの旦那、守護霊の呪文まで使えるとは」
「生憎有体ではないがな。とはいえ使える者、とりわけスリザリン生は少ない呪文だ。こんな霧でも多少のハッタリにはなると思って修めていたが……まさか役に立つことになるとは」
「あの……なんでスリザリン生で使える人は少ないんですか?」
砂浜から小屋までの全力疾走で喋ることもままならないパパが回復しない限り次の動きはなさそうなので、私はスラグホーン学長に尋ねてみたところ、教職らしくニコリと笑って丁寧に教えてくれた。
「うむうむ。スリザリン生は渡りと景であれば渡り、つまり実用に重きを置く人間が多い。そして、この呪文は……自分の身だけを案じた場合、実用に足らぬ呪文だからだ。守護霊の呪文が使えるほどの魔法使いが
「ああ、確かに……」
「では、この呪文が役立つのはどんなときか? 自らの身ではなく、その場にいる誰かを守るためとなる……もちろん、スリザリン生に思いやりがないというわけではない。しかし
スラグホーン学長はそう呟く。
「幸福感?」
「未来への期待といったほうが近いかの? 大きく道が拓けたという実感。そういった経験を糧にこの魔法は守護霊を生み出すものだ」
「スリザリン生にはそういった経験があまりないのでしょうか?」
「そうは言っておらん。しかし、少ないのは事実だ。なにせマグル生まれの人間にとっては魔法に出会った瞬間は確実に守護霊を生み出す想い出の種になりうるだろう。一方、スリザリン関係者の大半にとって魔法は生まれながらにしてあるものだ」
「ふむ……」
「そしてなにより、伝統的にスリザリン生は悲観論者だ。相性はいいとは言えんだろうな」
「へえー……そういう理屈になってるんですね。俺なんかは守護霊の呪文は心がきれえなやつしか唱えられなくてスリザリン生には邪悪な人間が多いからと聞いていたもんで……おっと、こいつは失言」
横で耳をそばだてているマンダンガスさんが、会話に参加してくる。この場にいる唯一の非スリザリン関係者だ。
「マンダンガス。余計な口を挟むでない……そう、いくつかの闇の魔術と同様に、これは術者の精神が大いに反映される呪文ではある。自らの守護霊に食い尽くされた闇の魔法使いのエピソードもまことしやかに伝えられてきた。しかし、実際のところ他の呪文同様、練度が重要であってスリザリン生はこの呪文の練習に時間を割くことが少ないことも大いに関係しており」
「
「……」
試しに杖を振ってみせたマンダンガスの杖先からは先程のスラグホーン学長同様の銀色の霧が出た。純粋な人間、という言葉が一切似合わないスキンヘッドの男でさえ出るのだから、案外誰でも出るのかもしれない。
試しに私も呪文を唱えてみる。
「
「うむうむ、筋がいい。先程のマンダンガスは気にしないように。おそらく何かのイカサマだ」
「ひっでえ扱いだな、おい……まあでも、実際に唱えてみるとスラグホーン学長の言いたいことがわかったよ。こいつは本質的には誰かのための盾なんだな。いや、盾以下か。盾なら相手を殴ることもできる」
「まあ……マンダンガスの言う通りではある。これは幸福な未来への期待から生まれる純粋な盾なのだ。スリザリン生は伝統的に悲観的であり、彼のような無限の楽観性を持ち合わせていない」
「俺だってわかるぜ。『無限の楽観性』は絶対にとんでもなくひどい悪口だろ。
「……ぜえ、お喋りは済んだか? そろそろ次の計画を決めねば」
「みんなパパを待ってたのよ」
先程まで息を切らして話すどころではなかったパパだが、しれっと何でもなかったかのようにして話に入り込んできた。私はパパを冷たい目で見たものの、素知らぬ顔で目を逸らし何事もなかったかのように話を切り替えた。
「最終的にベルファストで合流するのは決まっている。しかし、そこまでのルートだ。あえてマグルの街を通るか?」
「歩きでか? 言っちゃ悪いけどよ、旦那様がたのお貴族魔法使いスタイルでマグルの街をまっすぐ歩いたらトム・リドルに見つかる前にマグルの警察に捕まっちまうよ」
「……距離もある。幸いにしてアイルランドは空間が魔法で歪められた魔法族の領域に事かかない。どうやら少し歩けばネイ湖が見えるらしい。あのあたりの森を探りながら――」
「ネイ湖?」
ネイ湖。アイルランドで一番大きな湖だ。でも、それだけじゃない。
パパが湖の名前を出したことで思い出した。ディゴリーさんたちに卸してたリータ・スキーター書き下ろしのスポーツ面。その中の個人的に取っておいたホグワーツ代表の記事で、試合の前のキャンプ地が……確かネイ湖のほとりだったはずだ!
「パパ、今日ホグワーツ合同クィディッチチームがアイルアンドで遠征試合する予定だったと思うの」
「それがどうした?」
「私の記憶だと、そのためのアイルランドの滞在先、キャンプ地がネイ湖と新聞記事に載っていたと思うわ。試合は確か今日だったから、うまくいけば合流できるかも」
「ふむ。それは妙案だ。クィディッチのキャンプとなればかの懐かしきクィディッチ狂、マダム・フーチなどの教職員も引率でいらっしゃる可能性が高い。最悪、入れ違いになっても移動手段となる箒ぐらいは手に入るかもしれん。私が未だにホグワーツの魔法薬学教授であれば、ミス・グリーングラスの提案をもってスリザリンに5点、いや10点差し上げているところだ」
他の面々も納得してうなずき、おおよその方針は決まったようだ。
だが、パパは案自体には賛成した様子ではあるものの、私をじっと見ながら最悪の一言を口に出した。
「……お前のボーイフレンドがチームにいるから覚えていたのか?」
「パパ、そういうこと口に出すから娘に嫌われていくのよ」
「ほっほっほ、サイラス。スリザリンはマイナス10点」
ママやスラグホーン学長のフォローも効果はなく、私の中でパパの好感度が大きく下がった。
とはいえ、目的地は決まった。30マイル先のネイ湖へ!
――――
グリーングラス家の屋敷は当然監視下にあった。
その屋敷が朝見たときにはもぬけの殻なら、そりゃあ大騒ぎになるし、海へ逃げた様子であればアイルランド総督であるアントニン・ドロホフ……つまり、俺に追跡の要請も来るってわけだ。
それにしてもイングランドのほうには亡者ばら撒いたんじゃなかったのかよ。クラウチ家のお坊ちゃんは意外とツメが甘えなあ。
俺はリドル閣下から賜った拿捕のための小型船の上から、双眼鏡で不審な船の甲板を見ると……いるわいるわ、支配から逃げようとする哀れな鼠の群れだ。
グリーングラス家にデイヴィス家、あとは確認こそできなかったがスラグホーンもいるかもしれない。
3人ともイギリス魔法界じゃあかなり名のしれた大物だ。もし、俺がまとめてひっ捕らえ、手柄にできりゃあ血統なんぞほとんど知れてねえドロホフ家の俺が、名前だけ知れてるが無能でいけ好かねえ連中を抑えて一気に大外からごぼう抜き、ってわけだ。
俺の部下が周囲を見渡しながら、なにか報告らしきものをしてくる。そういや、こいつもまあまあ有名な純血名家の分家筋かなんかだったか?
内心、俺みたいなどこの馬の骨とも知らんやつにコキ使われるのをどう思ってるかわかったもんじゃねえな。愉快、痛快!
「ドロホフ総督! 奴ら煙幕を張っています。備品を捨てていることを鑑みるに、煙に紛れて振り切る気かと」
「……おい、お前。匂わねえのか? ありゃ匂う。プンプン匂う。欺瞞の匂いだ」
こいつは馬鹿かよ。煙幕も備品捨ててんのも見りゃわかるわ。
問題は、その行動だ。
ただ逃げるだけにしちゃあおかしな手だよな? 備品を捨てるのはわかる。煙幕を張るのもわかる。だが、同時にやるのはおかしい……だよな?
備品を一切合切捨てて、身軽になってから岩礁だのなんだの、振り切りやすいポイントで煙幕を張るのが正解だ。それをしないってことは……火のねえところに煙は立たねえ。なーにか火種があるってわけだ。
「小癪な連中め……おい。どこか降ろせるところで俺をアイルランド島側に下ろせ。その後お前らはあの船を追え。逃がすなよ」
「えっ……お、降りたドロホフ総督はどうするのでしょうか?」
問題はどうやって追跡するかだな。
お貴族様どもが逃げるのに長けてるわけがねえが、俺一人で追うのはちとつらい……ああ、そういや。
「俺? 俺か? なんもなけりゃあいいけどよお、あの船は囮で、本命の連中がここで降りてるとなりゃあ俺が仕事しねえわけにもいかねえだろ。それがわかんねえのか、ああん? クラッブ家の人間を使って連中を追い詰めることにするよ」
「で、ですが……あの船はなかなかの快速で逃げられるリスクもあり、その場にドロホフ総督がいないとなると誰が責任を取ることになるか。そ、それにクラッブ家の方々には他の任務があるのですよね。さすがに越権行為になってしまうのでは……」
なんだあ? こいつ、あの船を逃がしちまう大失敗をもう考えてんのか? 俺は口答えする部下に嫌気が差し、懐の杖を素早く抜いて口に突っ込む。哀れな坊っちゃんは反応すらできずに俺の杖をしゃぶることになった。
そんなひどい呪文は使わないぜ? なにせ敵じゃあない、俺の部下だ。単なるルーモスさ。
「俺はこう言ったんだぜ。『あの船を追え。逃がすなよ』ってな。じゃあお前の答えは『はい、逃しません』だろうが。まったく、名家の連中を追い詰めるなんてすげえ血の湧き立つ仕事が降って湧いたのに、水を差すんじゃねえよ」
「も、もがぁ!!」
「おっと悪ぃ、悪ぃ……熱すぎたか? 今日は紅茶は控えとけよ」
もっとも、俺のルーモスは杖先が相当に熱くなる。俺が燃えるもの大好きだからそんなことになっちまうのかな? まあ、舌と喉と口内全部火傷するぐらいさ。煌めくような炎や熱と比べりゃ可愛いものよ。
悶え苦しむ部下にウインクを飛ばしながら、浜へと降りる準備のため背を向けた。
「ああああ……! もう限界だ! ぶっ殺してやる!
だというのに、ちょっといじめただけの俺の部下は俺の背中に向けて呪いを放ってきやがった。おいおい、
杖や腕の位置すら見えない背後からの一撃。俺も油断しきっている。完璧なタイミングだ。
だが。
俺はそれを華麗に屈みこんでかわし、そいつに杖先と無言での呪いを突きつけた。
「馬鹿な、見えていなかったはずだろ!? とか思ってるのかねえ。もちろん見えてなかったぜ? だが、お前みたいな素人が
甲板の上で燃え盛る人間だったものに大して、そう答え合わせしてやる。うんうん。中の炭も納得して頷いてくれてるようにみえるな。
実に造作もない。ルール無用の裏社会での用心棒にとって、背中から飛んでくる致死性の呪いなんて日常茶飯事だった。だが、俺は幸運もあって(それを否定する気はねえぜ、そういうもんだろ? 決闘ってのは)ここまで生き延びることが出来た。
そうして、裏社会では名は知られるようになった……にもかかわらずだ。俺の名はイギリス魔法界のどこにも刻まれることはなかった。決闘術師として讃えられるのはスポーツ決闘とかいうゴミみたいな茶番でちょっと人よりうまくいった連中だ。アホらしすぎる、と腐ってた時期も長かった。
ところがどうだ。今や俺はアイルランド提督なんてありがたい職名まで貰っている。それを思うと高笑いしたくなる。
「……だが、足りねえよな。全然足りねえ。俺の心の中で燃える憎悪の炎を消すには、全然足りねえ!!」
決闘にルールなど意味がない、という当然のことを主張しただけにも関わらず、俺を追放しやがったホグワーツなんてのがある世界。
命を賭けたことなどない三流のド平凡な魔法使いが、一流の決闘術師など名乗って自慢気にする世界。
それらが間違いであることを証明できる日が近づいているのだ。
「ああ、純血の魔法使いの群れだ。グリーングラス、そして我が恩師スラグホーン……! 俺の決闘術で焼き殺せるなんて、俺は世界一のラッキーマンだぜ」
裏社会でならず者どもをいくら倒してもなんの名誉も得られなかった。
だが今なら。俺の名を恐怖とともにイギリス全土に刻み込めることだろう。最強の魔法使いの座は偉大なるリドル様に譲ろう。しかし、最強の決闘術師は……アントニン・ドロホフだ。