34.朝が来て toi toi toi
グリーングラス家には家訓がある。
細かな意味は知らないけれど、父はよくこの言葉を持ち出して私を叱ってくる。怠惰は罪であり、やるべきことをできる限り素早くやりなさい、とかなんとか。
正直なところその手の話は何度もされたのでうんざりしている。だから口うるさいパパやママがいないホグワーツの休日は気楽で好きだった。
朝、時間に追われないですむし。
「ダフおねえちゃん! もう朝だよ! 起きてー!」
……なにやら声が聞こえる。けど、まだ寝ていられそう。
「もー。よくこんなんで1年ホグワーツで暮らせたね」
「そりゃ、同室の私が面倒みてたからよ。しかも朝こんななのにクールビューティー? ぶってるのよ、ホグワーツでは」
「えー! それほんと! 単なるだらしないお寝坊さんなのに」
「そうよねえ」
うるさい。もう少し寝かせてほしいのに……
私はそう思っていたが、今度は騒がしい話し声だけではなく窓を叩く音まで聞こえ始めた。
「イーリアスが帰ってきた。おいでー」
「かわいいメンフクロウね」
「すっごい賢い子なのよ。手紙を頼む前にエサを必ずねだるのだけは玉に瑕だけど。ちゃんと手紙持ってるね、えらいえらい」
「あら。ダフ宛ね」
「おねえちゃーん。早く起きないと開けちゃうよー」
帰ってきたイーリアス……
ハリーくんからの返事……
「……手紙!」
「あ、起きた」
「おはよう、ダフ」
「おはよう。アストリア、トレーシー……」
「相変わらず寝起き悪いわねえ」
「……って、なんであなたがいるのよ! 私の寝室に!」
「ほら、一拍遅い」
「ほんとだねー」
私のベッドの脇で狼藉を働いていたのは妹のアストリア・グリーングラスと、友人のトレーシー・デイヴィス。
「なんでいるって……あなたが今日一緒に買い物に行きたいって言い出したんじゃない」
「……もしかして寝過ごした!? 今何時!?」
「って大慌てすると思ったから、早めにお邪魔させてもらうことにしたの。お母様も笑ってらしたわ」
「この、トレーシー!」
「あら。予測通りじゃない」
トレーシーはけらけらと笑い、アストリアもそれに合わせるようにして笑っている。
「はい。ハリー君からの手紙」
「……見た?」
「あら。差出人が書いてなかったからかまをかけただけなんだけど、当たったみたいね」
「トレーシー、そろそろ頬をつねるわよ。だいたいあんたの方はどうなのよ」
「私? 私の話はいいのよ」
「あんたねえ……」
二人で出かけようというのは、トレーシーが持ち出した話だ。
「せっかくデートするんだから素敵な服とか揃えないと損じゃない! ダフもハリーくんをここで落とすなら着飾らないとダメよ!」と主張し……まあ、私もその主張に幾分か説得力を認めたため、同行することにした。
「お寝坊さんは嫌われちゃうよ、ダフお姉ちゃん!」
「トリ。うるさい」
「せっかくアドバイスしてあげてるのに」
「頼んでないわ」
昨晩うちの家を出ていった働き者のフクロウであるイーリアスを片手で撫でながら、もう片方の手で便箋を開く。
「ダフ、ニヤついてるわよ」
「嘘言わないの」
「ん……んんー? ダフお姉ちゃん、難しい表情してる。読めない」
他愛ない手紙にも律儀に丁寧な字で返してくれているのが伝わってくる。どうやらイーリアスは一晩ポッター家のお世話になっていたようで、彼女の美しさを称賛する文章が並んでいた。
「イーリアスはお利口だったみたいね」
「そうよ! イーリアスはお利口よ! この前も私が裏の森で迷子になりかけたときに助けてくれたし」
「ねえトレーシー。誕生日プレゼントにペットって重いかしら」
「素敵だと思うわよ。でもアレルギーとかもあるからリサーチはいると思うわ」
「そうねえ」
ベッドの上で仰向けになって手紙を眺めながらもうすぐ近づいてくるハリーくんの誕生日について考える。
「トレーシーはなんにするの?」
「まだ決めてないのよね。それを考えるのも今日出かける目的だったからちょっと早めに出たいんだけど」
「……ごめん」
「ゆるす」
まあ、ここまで足を運ばせておきながらダラダラと予定を後ろに倒させるのも申し訳ない。
「あ、ようやくダフお姉ちゃんがちゃんと起きた」
「はいはい。着替えるから出ていって」
「おかまいなくー」
「私が構うのよ」
ごろごろと人のベッドの上で転がり始めていたアストリアを追い出して、ひとまず外に出れそうな格好に着替えて階下のリビングに向かう。
「ようやく起きたのね、ダフネ。まったく、またトレーシーさんに迷惑をかけて」
「怠惰でいて良いことはない。やるべきことは山のようにあるはずだぞ、ダフネ」
ほら。またお小言を頂いた。
パパはいつもの定番のやつだ。
トレーシーを巻き込んだのはまあ、申し訳ないと思うけれど。
「……おはようございます、お父さま、お母さま」
「ダフお姉ちゃんがまた怒られてるー!」
ダイニングルームにはパパとママとアストリア。
トレーシーはそこから一部屋離れたパーラールームにいるようだ。
「トリ。お土産買ってきてあげないわよ」
「そんな意地悪しないよね? ダフお姉ちゃんは」
きゃっきゃと笑いながらアストリアはダイニングルームから駆け出していった。
それを見てママは叱り飛ばす。
「こら! アストリア、はしたないわよ!」
「え、なに? ママ? 聞こえなーい!」
「はあ。まったくうちの娘ったら二人とも……トレーシーさんを見習ってほしいわ」
「お母さまもトレーシーと半日寮で生活してみるといいわよ。休日なんか半裸で女子寮をうろついてて……」
「ダフネ! 他人様のそういう事を公言しないの!」
理不尽な。スリザリン女子寮でいま一番はしたない女の子はトレーシーだというのに……いや、ミリセントやパンジーもかなりいい線行ってるか。
ため息を付きながらもママは食事を私の前に運んできてくれた。
「ほら、早く食べちゃいなさい。トレーシーさんを待たせてるわよ」
「ゆっくりでいいわよー、ダフ。私もチェックしときたいとことかあるし」
向こうの部屋から声が聞こえる。どうやらなにか雑誌を読んでいるらしい。
「何読んでるの?」
「『
「違うわよ。アストリアじゃない?」
ママも私も読んでないはずだし、となるとアストリア……うーん。アストリアにはまだ早い雑誌な気もするけれど。
「それは私が取っているものだ」
「パパ!?」
「お客様の前ではきちんと呼ぶように。ダフネ」
「はい……え、でもお父様が『
「お前は逆に世間に興味がなさすぎる。多様な範囲の事柄について知ろうとする事は損にはならない。見聞を広げる意識を常に持ちなさい」
グリーングラス家の家業の一つは葬儀だ。
純血の名家による非常に華やかな葬儀を執り行うこともあれば、レアなケースではあるけれどもマグルの葬儀をあげるケースすらある。(親族が魔法使いしかいないケースだ)
マグル
一方で、魔法界は性質上そうした儀礼について教えてくれる親族がいない人も少なくない。そうした人に対して一から所作や慣習などを教えるのも仕事の一つで、こうした性質上パパは様々な種類の人を相手にする機会がある。
そのためなのか、常日頃から研鑽を積め、様々なことに興味を持て……と私やアストリアにうるさく叱ってくる。
いや、でも、それにしたって。パパが
「ダフネ。笑っているだろう」
「いえ」
「まったく……とんでもなく無礼な娘を持ったものだ」
そう言っているパパのほうも目は笑っている。まあ、自分でもそのおかしみを理解していて、本気で私に怒っているわけではないのだろう。
「それで、トレーシー。今日はどこに行く予定なの? ダイアゴン横丁?」
「ふっふっふ。『ライバルに差をつけるには同じことをしていてはダメ!』って
「というわけで?」
「今日はマグル・ロンドンに行くわよ!」
─────
トレーシーの家はアメリカ魔法界との貿易商だ。
そんなわけで、トレーシーはアメリカ魔法界の流行や文化に敏感だ。彼女がホグワーツでクォドポットをやたらと推すのも、彼女が幼い頃からアメリカの文化に親しんできたからなのだろう。
というわけで、ファッションに関してもどうもアメリカの流行を抑えているようだけれど……
「うわ。このボトムス破けてるじゃない」
「今はこういうのが流行ってるのよ! グランジファッションの定番ね。破け目から膝が見えてセクシーでしょ?」
「却下。次」
「うーん。可愛い系ならこれとか。ダンガリーって呼ばれてるやつ」
「ええ……? トレーシー、私を騙してない? ほんとにデニムのオーバーオールなんて皆着てるの……?」
「ホントだってば!」
トレーシーに手を引かれて次から次へと店を渡り歩く。マグルの女の子も行動原理は同じようで、私達と同じようにしている女の子たちが何人もいた。もちろん、魔女は私達ぐらいだけだと思うけど。
魔法界もファッションに関して積極的にマグル文化から取り入れるデザイナーは一定数いて、そこでデザインされた服を好んで着る魔女はかなり多いけれども、マグル・ロンドンまで買い付けに来る女子はほとんどいない。
単純な理由として、マグルの通貨を手に入れるのは難しいからだ。ゴブリンはマグルの通貨を提供されれば喜んで魔法界の通貨を両替商として差し出すけれど、その逆を笑顔でやってくれはしない。可能か不可能でいえば彼らは(利益になる限り)請けてくれるのだけれども、それは非公式なサービスでレートも決して良いものではない。
彼らは両替したマグルの通貨を"適切な形でマグルの世界の流通に戻す"と謳っている。ゴブリンの言う"適切"というのは"金儲けに使っている"という意味に他ならない。彼らが鋳造権を持つ魔法世界の貨幣に比べると、やはり入手手段の乏しいマグル世界の通貨は貴重なのだろう。
一方で、こうして私達が
もちろんまあ、後で手数料としてアイスクリームの一つぐらいトレーシーにおごろうとは思ってるけれど。私も食べたいし。
「どう? 可愛い服あったかしら?」
「まあまあね。トレーシーはどう?」
「じゃーん! どうこのクロップトップ! 可愛すぎじゃない?」
「うわ……肌出すぎじゃない?」
「これからの魔女はこれぐらい普通よ」
「そうなのかしら……」
そう言われるとちょっと自信がなくなってくる。今回私が買ったのは比較すると保守的なプリーツパンツとちょっとラフなブレザーコートぐらい。
「まあ、ファッションなんて結局は自分が着たいものを着るのが一番なのよ。ダフの服もかわいいと思うわ。私はネビルくんに余すところなく見せつけたいだけで」
「すごい自信ね……この後どうする? 他に用がなかったらフローリアン・フォーテスキューでも行かない?」
「いいわねー、今日は結構暑いしねえ。あ、その前にグリンゴッツに寄ってもいいかしら? 今日はマグル側の通貨ばっかり持ってきたからダイアゴン横丁で使う分の手持ちがあんまりないのよ」
「アイスクリームぐらいはおごるつもりよ?」
「ありがとう。でも、誕生日プレゼントは向こうで買おうと思っててね」
「わかったわ。先に行きましょう」
カーナビーストリートから漏れ鍋は歩いて15分ほど。途中にはチャイナタウンもある。
このあたりになると、ダイアゴン横丁の入り口である漏れ鍋が近いのもあって魔法使いだと思われる人間を目にする機会も増えてくる。
「どうする?
「なんの用事があるのよ。チキンボールが食べたいだけでしょ?」
「バレたか」
マグルは気付かないけれど、チャイナタウンの中には中国系魔法使いのための店がいくつも中にはある。
魔法使いのためのレストランもあるけれど、カジュアルに中華料理を楽しむならやっぱりマグル向けの店のほうが圧倒的にリーズナブルだ。私達もマグル・ロンドンを見て歩いた帰りに何度か寄っていったことがある。
まあ、今日は私の中でフローリアン・フォーテスキューのアイスクリームを食べると決めている。何味にしようかしら。
バニラ・ソフトクリーム……いや、カラメルサンデーのクリームトッピングに思いを馳せながら路地に入り、漏れ鍋の入り口をくぐる。
「やあ。素敵なお嬢さんたち」
「ごきげんよう。トムさん」
店内を抜けてダイアゴン横丁へと抜けると……周りは魔法使いだらけ。おなじみの光景だ。
「さて、じゃあグリンゴッツまで行きましょう」
「そうね! でも、なんかいつもより騒がしいような……」
「……そういえばそうね。なにか、怒号のようなものも聞こえるわ」
私達が向かっているグリンゴッツのあたりでなにか騒ぎが起きているようだ。
良くも悪くもあの辺りはグリンゴッツぐらいしかないから、騒がしいイメージなんてなかったけれど……何かしら?
「うわ、すっごい人混み……」
「これ、銀行まで行けるのかしら」
「あん? お嬢さんがた、グリンゴッツに行くのかい? 諦めて引き返したほうがいいぜ」
その辺りにいた男の人が私達にそう伝えてきた。グリンゴッツに何かあったのかしら。
「なにかあったんですか?」
「なにかもなにも……ゴブリンどもが怒り狂ってやがる。今日は預金をおろすどころじゃねえよ」
ゴブリンが怒っている? 彼らが仕事、つまり儲ける機会を放棄しているということになる。よほどの事態に違いない。
「省の大臣と魔法法執行部のほうから声明があってな。グリンゴッツの国有化を目指すってリドルだかなんだかのお偉いさんが言い出して大騒ぎになってる。ゴブリンどもはカンカンだ。まったく、困った話だぜ。うちの預金さえおろせりゃなんでもいいけどよ」
グリンゴッツの国有化?
それが真実なら……たしかに大事だ。