カムラの里を出たい少年と、少年に里に残って欲しい竜人族の双子姉妹の700日戦争 作:メリバ上等
ツミキがもう忘れてしまったことで、ヒノエがずっと覚えていることがある。
「ぁ……」
ツミキとヒノエの目の前を、親子が通り過ぎていった。
母が子の手を握り、隣り合って歩いていった。
「……」
無意識のうちに、ヒノエは自分の手を握りしめていた。
片方の手で、片方の手を隠すように握りしめて、腰の後ろに隠した。
噛み締めた唇が痛かった。
細いささくれがちくりと心を刺したようだった。
人間とは違う、4本しか指がない醜い自分の手。
きっと、この先ずっと、妹であるミノト以外とは手を握ることもないのだろう。
だって、こんなに醜い自分の手を握ろうと思う人が、いるわけがないのだから。
俯いていたヒノエは、涙を堪えるような笑みを作って、その事実を飲み込んだ。
その一部始終を、ヒノエと一緒にいたツミキは見ていた。
「……あのさ」
「ぇ……きゃっ!?」
ヒノエが腰の後ろに隠していた手に、パッとツミキの手が伸びる。
分厚い革手袋を神業のような速さで脱がし、顕になったヒノエの白い4本の指を、自分の5本の指で挟み込むように握る。
俗に言う恋人繋ぎと呼ばれる握り方。
「ツミキ……!? やめて、いやだ、見ないでください……!」
嫌われたくないという心の動きで、ヒノエはツミキの手を振り解こうとした。
けれど、この頃にはもうその天才性の片鱗を見せていたツミキは、遮二無二暴れるヒノエの力を完璧に押さえ込み、手を振り解かせない。
「いや、いや! やめてください! はなして! ツミキに嫌われたく、ない……!!」
「……あーもう! 嫌いになるわけないだろ! 見ろ!!!」
叫んで、ツミキは繋がった2人の手を持ち上げる。
ヒノエの目の前に、大嫌いな自分の手がある。
喉が干上がる感覚があった。
嫌いなものを視界に入れたくなくて、ヒノエはぎゅっと目を瞑った。
「なんでヒノエちゃんがそんなに自分の手を嫌いなのか分かんないけどさ」
真っ暗な世界に、ツミキの声が聞こえる。
「僕はヒノエちゃんの手が好きだ。白くてキレーだと思うし、柔らかくて女の子の手って感じがする。……だから、そんなに自分の事を嫌わないでほしい。ヒノエちゃんの手はおかしくなんかない。触れると温かくて、僕が具合が悪い時に背中をさすってくれたときはとても優しい、そんな手だ」
「……でも、私の手はみんなと違うから!」
「それなんだけどさ、僕、ずっと言いたかったんだよ。ほら、目を開けて、ヒノエちゃん」
「……」
目を開けるのは怖かった。
けれど、ツミキの声がとても優しかったから。
だから、恐る恐る、目を開く。
照れ臭そうな顔をしたツミキが、ヒノエを見つめていた。
「ヒノエちゃんの手の指は4本だから、僕とこうやって手を握ると、手の中にすっぽり収まるんだ。僕の手の中に、ヒノエちゃんの手の全部がある。だから、なんて言うのかな……ヒノエちゃんの手の指が1本少ないのは、こうやって人間と手を繋ぐためだと思うんだ」
「ぁ」
「実際何でかは知らないけど……でも、僕はそう思うよ。指が4本だから手を繋げないんじゃない。人と手を繋いで生きていくから、4本の指があるんだ」
それは、ヒノエとは全く別の視点から見た4本指の見方。
違うから嫌われるのではなく。
違うから、こうして手を繋ぎ合える。
「ぁ、あああぁ」
違うことが悪いことだと思っていた。
みんなと違うから、自分は醜いのだと思っていた。
そんな子ども特有の"人と違う恐怖"が、温かな波にさらわれて、流されていく。
この日、ヒノエは真の意味で竜人族である自分を受け入れた。
繋いだ手はとても温かくて、心に安らぎがあった。
以来、ヒノエは何かにつけてツミキと手を繋ぎたがるようになったりするが、それはまた別のお話。
「ふふ、ツーミキ。手を握ってくださいな」
「歩くならまだしも一緒に団子を捏ねようってときに手を繋ぐのはおかしくない……?」
「それでも、繋ぎたいんです。ダメですか?」
「……まあ、いいけど……」
「やった。ふふ、ありがとうございます。……はぁ……あたたかいですね……ふふっ」
「……んん。指の間をスリスリするのは擽ったいってば。……んぁっ!? 兄ちゃん!? いつからそこに!? 親指立てるな! 見てないであっち行っててってばぁ!!」
そんな、まだツミキの家族が生きていた頃の、些細なお話。
【ミノトも気になるけど、ヒノエを放ってはおけない】
月光に濡らされた夜。
遠くから風に乗って運ばれた虫の声が、沁みるように消えていく。
宴会の喧騒は消え、先ほどまで場に漂っていた高揚感も今はもう。
沢山の人がいた集会所も、今は2人だけ。
そこに哀愁は感じない。
なぜなら、
「ひ、ヒノエ……?」
「……」
「あの……」
「……今は話しかけないでください」
「あっはい」
それよりも、目の前の彼女がめちゃくちゃ不機嫌になっているのが怖いからだ。
哀愁? そんなノスタルジックに浸れる余裕はない。
ツミキは混乱していた。
「(ヒノエが怒るようなことなんかしたっけ……!?)」
思い返してみても、とんと記憶がない。
「(でも、理由もなくヒノエは怒らない。思い出せ……! 思い出すんだ僕……!)」
必死に記憶を呼び起こすツミキ。
その脳裏に、直近でもっとも印象に残っている記憶が呼び起こされた。
『──実は私、ミノトより大きいのですよ』
「真相やいかに」
ごくり。
生唾を飲み込み思考を中断したツミキは、ヒノエのおっぱいをガン見した。
「……」
ヒノエの不機嫌ゲージが上がった。
「(しまったああああああ!!)」
ほんとこのスケベはよぉ……。
スケベ心に抗えない自分の意思の弱さに頭を抱えてごろごろするツミキ。
その内心は、これで結構ごちゃごちゃになっていた。
どうしてヒノエが怒っているのか分からない。
どうして怒っているのか丸わかりなミノトに誠意を持って謝らないといけない。
ヒノエのおっぱいが気になる。
走って行ったミノトは今どこにいるのだろうか。
あの感触は至福だった。
「ふむ……」
ふと、空気をもむ。
何も感触がないはずなのに、手に焼き付いている感触が、とても素晴らしい柔らかさを思い出させてくれた。
「……」
ヒノエがツミキに背中を向けた。
「(あああああああああああああああああああああああああああっ!!!!)」
お前本当にヒノエを笑顔にする気あんの?
ともかく、思春期の男の子にとって、おっぱいの衝撃は計り知れないものがあったようだった。
少なくとも、思考がまとまらなくなってしまうほどには。
そして、纏まらない思考にあたふたしているのはツミキだけではない。
「(何を……しているのでしょうか、私は……)」
ヒノエもまた、ツミキと向き合う言葉を見つけられないでいた。
……いや、少し違う。
向き合う言葉を見つけられない。それは正しい。
でも、それだけではなく。
今のヒノエの心のうちは……。
「(私は、最低の女だ)」
おっぱいに頭を支配されているスケベとは違い、少しばかり複雑なことになっていた。
人妻の胸を触ろうとしていたツミキを見たヒノエの胸中に湧きあがった感情を、一言で説明するのは難しい。
どうして、という疑問があった。自分の胸は、ガン見はしてきても触ろうとはしなかったのに。
恥ずかしさはあったけれど、自分の胸がツミキの視線を奪うことにヒノエは喜びを感じていた。
他の里の女たちがいるときでも、ツミキはヒノエの胸を見る。そのことに、優越感を覚えていた。
その優越感の土台が足元から崩れていくようだった。
許せない、という怒りがあった。ツミキと付き合っているわけでもないのだから、筋違いの怒りだ。自分にツミキを怒る理由なんてないとわかっていても、ツミキが他の女の胸を触ること、そして人妻がツミキに胸を触らせようとしていることを許せなかった。
感情を、抑えられなかった。
そして、安心した。
──相手がミノトじゃなかったから。
大切な妹がスケベの毒牙に掛からなくて良かった。
……そういう気持ちの発露ではないことを、ヒノエが一番良く分かっている。
ヒノエとツミキの付き合いはそれなりに長い。
ツミキがヒノエのことをある程度理解しているように、ヒノエだってツミキのことを理解している。
そうでなくても、今までずっと目で追っていたから。
だから、ツミキが人妻のこと"は"好きになっていないと分かっていた。
ただ単に触れるおっぱいならなんでも良かったんだろうということも理解している。
人妻のおっぱいを揉む行為に理由はなく、意味もなく、ただツミキは初めてのおっぱいの感触に感動して、一瞬でその柔らかさを記憶して、ずっと手の中でその感触を反芻するのだろう。
ヒノエではない女のおっぱいを。
──いやだ。
ヒノエの心は叫んでいた。
痛いぐらいに吠えていた。
ツミキが触るおっぱいは自分のものがいい。
ツミキがずっと思い出すおっぱいは自分のおっぱいであって欲しい。
何より。
これから先、好きな男が他の女を思い出して四六時中手をワキワキさせるのは想像に難くなく。
それを横で見続けることになるであろう未来を想像して、ヒノエは思った。
そんなの、耐えられない。
ツミキを殴らない自信がヒノエにはなかった。
気が付けば、ヒノエは人妻の代わりにツミキの前に座っていて。
ツミキの気を引きたくて、お酒を言い訳にして、恥ずかしさをぐっと堪えて大胆なことも言ってみたりして。
ツミキが自分のおっぱいに釘付けになったことが、とても恥ずかしかったけれど、とても嬉しくて。
ツミキの指がヒノエの胸に伸びたとき、期待と興奮と羞恥でぎゅっと目を瞑ってしまった。
……そして。
『ヒノエ姉さまに何をしようとしているんですかっ、すけべツミキのひゃぁ!?』
自身の胸に、愛しい人の、大好きな手の感触はなく。
その手は、大切な妹の胸を揉んでいた。
頭が真っ白になった。
真っ白になった頭に、ポツリとシミが生まれた。
黒いそのシミは、じわり、じわりと広がっていく。
もう、止められない。
ヒノエはこの日、自身の胸の内に浮かび上がったその感情を一生忘れられないだろう。
──ミノトは、ズルい。
今まで考えないようにしていた。
けど、一度考えてしまえば、もう。
ミノトはズルい。
ミノトはツミキに好かれようなんて考えてなくて、いつも自分の思うままに行動して。
不器用な子だから失敗も多いけど、失敗して周りに迷惑をかけても何故かそれが愛嬌になって、もっと周りから好かれて。
私の方がツミキに好きになってほしくて頑張ってるのに、いつもいつも最後はミノトが持っていく。
計算なんてしていない。そんなことは分かってる。ミノトにはそんな器用なことできない。
だから、ズルい。じゃあそれを咎められない。
どうして?
容姿は瓜二つで、性格も趣向もそんなに変わらない。
ツミキに好かれようと頑張ってるのは私で、ミノトは好かれるのを待ってるだけなのに。
なのに、どうしていつもミノトばかり──。
……考え始めれば、もう。
黒いシミは、消えない。
「(……嫉妬。いえ、これはもっと醜い……。実の妹に、そんな事を思ってしまう自分が……)」
ツミキに背を向けるミノトの胸中に渦巻く感情は複雑だ。
色々なものが混じり合い、もはやそれが最初にどんな形をしていて、どんな色をしていたのかも分からない。
けれど、敢えてそれに名前をつけるのであれば、自己嫌悪という言葉が相応しい。
今だって、こうして不機嫌な態度を取っていればツミキが心配すると分かってて、そうしている。
それが、自分の中で感情をうまく処理できないが故のものであっても。
そうすればツミキはどうするか、を分かっていることは変わらない。
一度、自分のことを嫌ってしまうと、過去の自分の行いに対しても悪く考えるようになる。
それが、誇れるような過去でなければ尚更だ。
ヒノエには、ツミキを罪に縛り付ける楔になったという過去がある。
仕方がなかった。
あの時はああするしか方法がなかったし、そうでなければツミキは自殺していただろう。
もっと他に方法があったのでは……と考える度に、他に方法はなかったと結論を出すことをヒノエは何度も繰り返してきた。
普段のヒノエならそう出来たのに、今のヒノエは"ミノトだったら、もっと良い方法でツミキを救えたのではないか"と考えてしまう。
実際に出来た、出来ないかはともかく。
ツミキに生きていて欲しくて、ツミキを苦しめる未来を選んだ自分と比較することをやめられない。
最悪なのが。
「(ツミキに罪の杭を打ち込んで、縛りつけた。ツミキは、唯一自分を断罪する私から離れられない。だから死ねない。だから生きる。……でも。そうして、ツミキの"特別"になった事に、喜びがなかったと。……私は、言い切れない)」
ツミキのためにという殻を被って、自分のためにツミキを苦しめている。
ミノトなら、こんな最低なことなしなかったはず。
そもそも、自分がツミキを救いたいと思ったのが間違いだった。
ツミキの家族の死を、恋心を理由にして陵辱した。
そんな事はないのに。
あの日、ヒノエは死んでしまいそうだったツミキに、ただ生きていて欲しかっただけなのに。
貴方は何も悪くないと泣き叫びたい気持ちを必死に押し殺して、ツミキが生きようと思うためにどうすればいいかを選択したのに。
「(私は最低だ。こんな私を、誰かが……ツミキが好きになる事なんて……。もしかしたら、私が居なければ……ツミキは、昔のように……)」
恋心が、過去を犯す。
あまりにも救いがない悪循環が生まれつつあった。
自己嫌悪の濁流に攫われそうになっているヒノエの後ろで、ツミキは決意を固めていた。
「(よし、謝ろう。取り敢えず謝ろう。何に謝るかちょっと分かんないけど……土下座は全てを解決してくれると里長も言っていた!)」
お前さあ……。
しかし、しょうがない部分もある。
なんせ、ツミキ視点で言えば、
「(ヒノエが触って良いって言ったんだから、おっぱいを触ろうとしたことにヒノエは怒らない。転んで頭を打ちそうだったミノトを受け止めたら、不可抗力でおっぱい揉んじゃって、そしたらミノトが怒ってヒノエが目も合わせてくれなくなった)」
普通に考えれば、妹の胸を揉まれたことにヒノエは怒っている。
「(でも、それはない。その事で怒っているのであれば、こうして口も利かない怒り方はしない。ヒノエにとってミノトは大切な妹だから。だから、もっと素直に怒る。僕が何をして、それがどれだけミノトを傷つけたのか、ちゃんと言う)」
ツミキとヒノエの付き合いもそれなりに長い。
ヒノエがツミキのことを理解しているように、ツミキもヒノエのことを理解している。
まあ、だからこそ、ツミキは現状のヒノエの心境が分からないのだけれども。
「(だから土下座しかない……! 怒ってる理由が分からないことを謝って、ちゃんと理由を訊いて、それからだ……!)」
きゅっと唇を結ぶツミキ。
土下座のフォームをシュミレーションし始めた。
ティガレックスのように前方に飛び込みながら四肢を地面に付けて土下座するのが良いだろうか。
あるいは、ビシュテンゴのようにその場でくるくると回りながらジャンプして土下座着地か。
「(理由が分からないんだ。せめて、誠意のある土下座をしなければ!)」
誠意はフォームじゃないんだよなあ。
「(ヒノエのためなら、土下座で石だって割れる!)」
威力でもないんだよなあ。
とはいえ、今の状況のままにしておけないのも事実。
なんてったって埒があかない。
里の大人に「今はやめておけ」と言われたから直ぐにはミノトを追いかけなかったが、本音を言えば今すぐ追いかけて謝りたかった。
わざとじゃなかったにせよ、ミノトの胸を揉んでしまった事実は変わらない。
……まあ、そこには謝ればミノトは許してくれるという前提があるのだが、それを甘えと取るか信頼と取るかはさておき。
ツミキが今ここにいるのは、ひとえに。
「(怒ってる……んだとは思うんだけど。なんか、ヒノエ……いつもと違って……目を離したら、消えてしまいそうというか……)」
朧げな違和感。
ヒノエの背中が、ツミキには酷く不安定なように見えた。
まるで蜃気楼のように、そこにあってないような。
今ここにヒノエはいるのに、その心がそこにないような。
ツミキに放っておけないと思わせるような何かが、今のヒノエにあった。
「ヒノエ……その、いいかな」
「……」
ヒノエは答えない。
振り向く事もない。
その背中が、小さく震えた。
合わせる顔がない、というのがヒノエの心境だが、もちろんツミキには分からない。
「(か、顔も見たくないほど怒ってるのか……!?)」
勇気が萎みかけたが、ここで怯まないのが男の子。
意を決して、ツミキは踏み込んだ。
「ヒノエ。聞いてくれ……とは言わない。僕はきっと、すごく酷いことをしたんだと思う。そして……僕がアホだから、それが分からない。最低なのは分かってる。でも、このままにしたくない。ヒノエと話せないのは嫌だ。ヒノエの笑顔が見れないなんて嫌だ。だから、教えてほしい。何に怒ってるのか……そして、償わせてほしい。僕に、その機会をくれないか」
「……」
「分かってる。言葉だけじゃ信じられないよね。だから、信じてもらえるように……見せるよ、僕の誠意を」
「……て」
「どうか見てほしい。僕のヒノエへの気持ちを。それで許されるなんて思ってないけど、僕がヒノエを大切に思う気持ちに変わりはない!」
「……めて」
「行くよ……! これが僕の誠意だ!!!」
「やめてください!!!」
ツミキがくるくる回りながら前方に飛び土下座着地を決めて額で人間の頭ぐらいの石を割った音と、ヒノエの血を吐くような叫びが重なった。
え? と顔を上げる。
そこには、今にも泣き出しそうな顔をした女の子がいた。
ツミキはアホであるが、他人を慮れない人間ではない。
ツミキは、自分が何か決定的に間違えていたことを、自覚した。
「やめてください……」
同じことを、ヒノエは繰り返した。
唇を噛み、苦悩するように細められた瞳からは、今にも涙がこぼれ落ちそうで。
泣いている子には優しくしてあげたいという当たり前の欲求が、ツミキの中で沸き起こる。
それが、ヒノエという大切な女の子であればなおさらだ。
「ヒノエ……」
立ち上がる。
土下座をやめろ、と言っている訳ではないのは、流石のツミキにもわかる。
間接的にはそうなのかも知れないが、根本的にはもっと別のところ。
でも、その理由を探す前に、まず、この泣いている女の子を笑顔にしたかった。優しくしてあげたかった。
「……隣、座るよ」
ツミキが隣に座っても、ヒノエは俯いたまま。
いつもはぽかぽかと心を温かくしてくれるヒノエの側が、今はこんなにも痛い。
ヒノエの隣に腰掛けたツミキは、なにも言わない。
そのまま、無言の時が過ぎた。
「……なにも、言わないのですね」
ボソリと、ヒノエが呟いた。
「……うん。なんとなく、話したくなさそうだったからさ」
「……はい。だから、私のことは放っておいてください。……ミノトだって、きっとツミキを待っていますよ」
「ミノトのとこにも行かなきゃだけど……ほら、今行くともっと怒らせちゃいそうだから」
「そうですね。……でも……今は、一人にしてください……」
「うん」
しかし、ツミキに立ち去る気配はない。
深く椅子に腰掛け、自分の手を見つめていた。
また、無言の時が流れた。
「前にもさ」
ぽつりと、ツミキが呟いた。
「こんなことがあったよね」
「……」
「あ、違うよ? ミノトの胸に触ったことがあるとかそんなんじゃなくて……。僕の側に、ヒノエがずっといてくれたこと、あったじゃん」
ヒノエの意識が、過去の記憶を無意識のうちに引き出す。
それは、忘れたくても忘れられない、忘れてはいけない、忘れたくないこと。
「あの時のこと、今もずっと覚えてる。僕、あの時に……ヒノエに救われたんだよ」
それは、数年前の記憶。
ツミキの家族が亡くなって、まだツミキが立ち上がることができないでいた時。
当時のツミキは、家族のお墓の前から頑なに動こうとしなかった。
雨と雪で飢えと乾きを凌ぎ、眠ることさえ忘れて、家族の墓前に謝り続けていた。
当然、ツミキは衰弱して、まともに声すら出せなくなる。それでも、ツミキは墓前から動こうとしなかった。
里のものたちも黙って見ていた訳ではない。無理やりにでもツミキを里に連れ帰ろうとした。でも、できなかった。
単純に、この頃からすでに無理やりツミキを動かす、ということすらできないほど、ツミキが強かったというのもあるが。
それよりも……今ここでツミキから贖罪という生きる理由を取り上げれば自殺すると誰もが確信するほど、当時のツミキの状態は異様だった。
墓前に座り、震わせることもできなくなった喉の代わりに、心の中で謝り続ける。
そんなツミキの側に、腰を下ろす女の子がいた。
『ちょっと隣、失礼しますね』
それが、ヒノエだった。
ヒノエも、最初は里の人たちと同じようにツミキを連れ戻そうとしていた。
けれど、いつしかただツミキの側に来て、朝から晩までただ隣に座って、また次の日も同じようにただ座っているようになった。
他者に気をつかう余裕なんてなかったツミキは、自分の邪魔をしないのだから、ヒノエを追い返すこともしなかった。
そんなことが数日続いた後、ヒノエは大きなテントを背負ってやって来て、近くで暮らし始めた。
けれど、やっぱり、ヒノエはなにも言わずに……ただ、ツミキの隣に座るだけだった。
雨の日も。雪の日も。風の強い日も、日差しの強い日も、寒い日も。
なにも言わず、ただツミキの側に寄り添い続けた。
そんな毎日だったのだから、ヒノエが体調を崩すのも無理はなかった。
額に触れた方が恐ろしくなるような高熱。
呼吸は浅く、座ることすらできないほど衰弱した体。
このままここにいればヒノエは死ぬ。
隣で、限界を迎えて倒れたヒノエを横目で見たツミキの心に生まれた感情があった。
『……ヒノエ』
『……ふふっ。やっと……こっちを、向いてくれましたね。……ずっと、考えてたんです。ツミキ、私は……貴方を、許しません。……許しません、死んだら……許さない。だから……生きて……』
結論から言えば、ツミキはヒノエを背負って里まで降りて、また家族の墓前に戻った。
竜人族であるヒノエが衰弱するような環境、ツミキとて衰弱は激しい。
人一人背負って里まで戻れたのは、奇跡だった。
そうして、墓前に座ったツミキは、気づく。
穴だらけで、砕かれていた心の一部に、熱を帯びている部分があった。
その熱が、教えてくれた。
隣にヒノエがいないことが、寂しかった。
きっと。
この熱がなければ、とっくの昔にツミキは死を選んでいた。
ヒノエが側にいてくれたから、無意識のうちにツミキは自決を選ばなかった。
誰かが一緒にいてくれる。それだけで救われることも、この世界にはある。
この後すぐに、ミノトとの殴り合いの果てにツミキは立ち上がった。
その立ち上がり方はひどく歪で、ひび割れたガラスのようだったけれど。
ヒノエがしてくれたことを、ツミキは忘れない。
「だから、かな。僕はアホだし、あんまり察しがいい方でもないし、モンスターを討伐すること以外でできることなんてあんまりないけど……悲しんでる人がいたら、側にいてあげたいって思うんだ。それで救われることもあるんだって、ヒノエが教えてくれたから」
気恥ずかしいのか、はにかむようにしゃべるツミキ。
ツミキにとって特大の地雷である家族のことを自分から話したというのに、取り乱す様子もない。
けれど、だからと言って、過去の記憶を掘り起こすことに苦痛がなかった訳ではない。
爪を一枚一枚剥がして、その中を弄るような痛苦があったはずなのだ。
けれど、それでも話すことを選んだ。
それは、ツミキがどれほどヒノエという女の子を大切にしているかという表れだった。
「……そんなこともありましたね」
ヒノエもまた、過去を振り返る。
ああ。
確かに、そんなことがあった。
「……ま、だからさ。ヒノエが悲しく無くなるまで……ずっと、側にいるよ」
「……ずっと?」
「うん。ヒノエがあの時、僕の側にいてくれたから……こうやって、今、一緒にいられるんだもん」
それは、過去の肯定だった。
ヒノエが後悔している過去の選択。
ミノトならもっと上手くできたんじゃないかという、嫉妬。
それが、ずっとヒノエの中にあった。
でも。
あの時、ツミキにその“優しさ”を注いだのはヒノエだけで。
ミノトでななく。ヒノエの優しさがあったから、今、ツミキは生きている。
「……ツミキは」
過去の後悔が消える訳じゃない。
事実、もっと冴えたやり方はきっとあった。
けれど。
ヒノエの優しさでツミキが救われた事実は、誰にも覆せない。
「私がほしいときに……ほしい言葉を……いつも、言ってくれるんですね……」
涙が一筋、ヒノエの頬を滑り落ちる。
それは、一筋では止まらなくて。
次から次へと、溢れてきて。
「えっ。ちょ、ヒ、ヒノエ!? ご、ごめんっ、何かまずいこと言ってしまったかな!?」
ヒノエが涙を流すから、ツミキはオロオロと慌ててしまっている。
そのことを少しだけ申し訳なく思いながらも、涙を止めることはできそうもない。
だって。
だって……今、こんなにも心が温かいのだから。
それからしばらくして、ヒノエの涙が落ち着いてきた頃。
「えっと、えっと……そいっ」
「ふふっ、手を、繋いでくれるのですか?」
「うん、こうしてると、落ち着くかなって……」
「……はい。落ち着きます。とても……とても。しばらく、このままぎゅっと握っててくれても、いいですか?」
「もちろん。ヒノエが悲しく無くなるまで、ずっと側にいるって言ったからね」
「……なら、一生、側にいてくれますか?」
繋いだ手に、祈るように少しだけ力が込められた。
幼い頃からずっと繋いできた小さかったはずの手は、今はもう大きくて力強い手になっていた。
これから先、この手はもっと大きくなって、やがてはしわくちゃになっていくのだろう。
その過程を、ずっとこの手で感じていたいとヒノエは思う。
勇気を出した問いかけだった。
ばくばくと心臓がうるさい。
きゅうっと縮こまった肺が痛かった。
ヒノエの欲しい時に欲しい言葉をくれる少年は答えた。
「え、一生は無理だよ。僕、どう考えてもヒノエより先に死ぬし」
お前マジで一回古龍にしばかれてこい。
時たま、8話のようにアンケートが挿入されます。
ヒロイン選択よりは、地雷撤去のイメージです。
アンケートの結果で主に変わるのは百竜夜行クエストです。
やるときはやります。任せてください。