どうして、こうなってしまったのだろう。
彼女の左胸に、深く深く刺さった破片を、どうすることもできないまま。
ぐったりとしたちーちゃんを抱き締めながら、ぼんやりと考える。
背後には、瓦礫の山になってしまった美術館。
目の前には彼が、苦悶の表情を浮かべている。
右手で左肩を、爪が食い込むほど強く掴みながら。
手の隙間からぼたぼたと、大量の血を落としながら。
どうして、こうなってしまったのだろう。
幼い私にも分かっていた。
彼の負った怪我は浅くない。
あれだけの血を流していれば、いずれ死んでしまうことくらい。
どうして、こうなってしまったのだろう。
ただ私は、もう一度彼に会いたくて。
ただ私は、絵を褒めて欲しくって。
ただ私は、みんなで笑っていたかったのに。
どうして、こうなってしまったのだろう。
私が絵を描かなければ、みんなはここに来なかったかな。
私が絵を描かなければ、家族は死ななかったかな。
私が絵を描かなければ、彼は怪我をしなかったかな。
私が絵を描かなければ、ちーちゃんは、死んでしまわなかったかな。
どうして、こうなってしまったのだろう。
色が好きだった。
世界を鮮やかに彩る、色というものが好きだった。
それを自ら生み出せる、絵というものが好きだった。
世界を色づかせる神様になった気分になれるから。
キャンバスの上の、神様になれるから。
絵を描くことが好きだった、のに。
どうして、こうなってしまったのだろう。
私は神様でも何でもない。
目に見える世界はどこまでも灰色で。
それを塗り替える力は、私には無かった。
私は無力だ。
私は無力だ。
私は無力だ。
私は無力だった。
私はこんなにも無力なのに。
どうして筆を、執ってしまったんだろう。
「……僕はね、魔女なんだ。」
彼は私の目を見て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
その瞳は穏やかで。微笑すらも浮かべていて。
どうしてそんな表情ができてしまうのか。
私には、分からなかった。
「ま、じょ……?」
涙を溢しながら繰り返すと、彼は優しく頷いた。
その額にはじっとりと、汗が滲み始めていて。
もう時間がほんとうに、無くなってきていることを示していた。
「そう。魔法を使える魔女。
だから……ちとせを、助けられる。」
助けられる。
助けられる。
助けられる。
その言葉が頭を満たす。
「……助けて、くれるの?」
ちーちゃんを助けられる。
彼になら助けられる。
私の大事な親友を、助けられる。
「うん。でも、それには君の協力が必要なんだ。」
彼の言葉に、私は迷いなく頷いた。
ちーちゃんを助けられるなら。
ちーちゃんが死なずに済むのなら。
親友を失わずにいられるのなら。
私は、何だってしてみせる。
「僕が使えるのは、怪我を治す魔術ひとつだけ。
ちとせを完全に回復することは、これだけじゃ難しい。」
ちーちゃんを見る。
消火器の破片は左胸の深くまで突き刺さっている。
髪も服も焼け焦げて、皮膚の火傷が痛々しい。
「何より。……ちとせ自身が、生きる気力を失っている。
本人にその気が無いんじゃ、身体を治したって仕方がないんだ。」
生きる気が、無い?
「ちーちゃん、生きたくないの……?」
彼女が死を望んでいるなんて、思えなかった。
記憶の中のちーちゃんは、いつも優しく笑っていて。
だから彼の言葉と、どこまでも符合しなかった。
「…………でも、君の言葉なら。
君が呼びかけてくれるなら。
彼女はきっと、応えてくれる。」
だから。
名前を呼んでくれないか、と、彼は言った。
彼女の目が覚めるまで。
彼女の命が助かるまで。
彼女の意識が戻るまで。
名前を、呼び続けてくれないか。
「……うん。」
ちーちゃんを仰向きに寝かせ、手を握る。
彼は溢れる血を傷口に流すと、祈るように両手を組んだ。
「……千夜ちゃん。」
肩で息をする彼は、きっと寝ずにいるだけで精一杯で。
彼の命はほんとうに、終わりの時が近づいていた。
持てる最期の命を使って、ちーちゃんを助けようとしているのだと。
言葉では決して、彼は言ってくれなかった。
「君のファミリーネームが、僕は好きだった。
白雪。スノウホワイト。」
彼の痛みは彼だけのもので。
彼の覚悟は彼だけのもので。
それを私に分かつことは無かった。
私も背負うことはさせてくれなかった。
「その名の通り、君は綺麗だ。
どこも汚れてなんかいない。」
それは紛うことなく彼の優しさで。
私は彼にとって、どこまでも庇護の対象だった。
「どうか君は、そのままでいてほしい。」
私は彼の対等たり得ないのだった。
「……始めよう。」
ぼたぼたと落ちていく彼の血が、ちーちゃんの傷口を覆い尽くしてしまった頃。
彼はそっと呟いて、組む両手に力を込める。
「……ちーちゃん。」
私は、彼女の名を呼び続けた。
「ちーちゃん。……ちーちゃん。」
彼が死ぬと分かっていて。
命をひとつ、交換すると知っていて。
それでも私は、彼の名前を呼べないのだった。
「ちーちゃん。ちーちゃん……!」
私が呼ぶのは彼岸の彼女で。
そのために此岸の彼を差し出すのだ。
愛する者を失くさないために、愛する者を失うのだ。
「……ちーちゃん!」
彼の身体が、段々と黒くなっていく。
灰や煤では説明のつかない、絶対的な黒。
すべての光を失った果ての黒。
すべての力を使い切った残骸。
そんなものに、彼は徐々に成り果てていく。
「ちーちゃん! ちーちゃん!」
最初は足から。
水嵩が徐々に増していくように。
じわじわと上の方へ、黒が這い上がっていく。
彼が彼ではなくなっていく。
「……千夜ちゃん。」
黒が彼の首元にまで迫る。
それに締め付けられるように、彼は言葉を絞り出した。
「ちとせを頼む。」
それが最後に私の聞いた、愛する人の言葉だった。
「……ちーちゃんっ!!」
嗚咽を噛み殺す。
涙を振り払う。
彼の方を決して見ない。
彼の言葉に応えない。
彼の最期を、見届けない。
「ちーちゃん!!」
そうしなければ揺らぎそうだった。
そうでなければ壊れそうだった。
彼女だけを見ることが、私にできる精一杯の応えだった。
彼女だけを呼ぶことが、私にできる唯一の意思表示だった。
「ちーちゃんっ!!!」
彼女の名を呼ぶ。
何もかもを拒絶するように。
彼女の名を呼ぶ。
何も聞こえてこないように。
彼女の名を呼ぶ。
私が託されたものを、心に刻みつけるように。
彼女の名を呼ぶ。
「だいじょうぶ。君は生きるよ。」
彼女の声が、聞こえた気がした。
真夜中の美術室。
月明かりが絵を照らす。
私が描いた絵を照らす。
黒埼ちとせが色を得る。
「……助けなきゃ。」
何をしていたんだ、私は。
彼に守られて。彼女に守られて。
何もかもを失ったような顔をして。
あるじゃないか。
成さねばならないことは、確かにあるじゃないか。
託されたものは、確かにあるじゃないか。
安寧な幻想を。幸福な虚構を。
それら全てを投げ打ってでも。
やりたかったことが、確かにあったじゃないか。
「……思い、出したのですねー?」
芳乃さんが声をかける。
美術室の入り口に、彼女達は立っていた。
私が戻ってくることを、きっと彼女達は待っていた。
頷き、彼女達の元へ歩き出す。
「幸子さん。小梅さん。「あの子」さん。芳乃さん。」
全てを思い出した。
あの日あった全てを。
違和感の正体を。
「私は、無力です。
私には何もありません。
何の力も持たない人間です。」
私だけでは彼を助けられなかった。
私だけでは彼女を守り切れなかった。
私はこんなにも無力だった。
「だから。お願いします。
助けてください。力を、貸してください。」
泣き縋り嘆き拝み訴え望み続けよう。
何も持たない私ができる何もかもをし続けよう。
information : データが更新されました
[Mission] 白雪のままでいてください
私は、白雪です。誰のものでもなく。
そうあれと、願う人がいるから。
[Mission] 生きる意味を救ってください
託されたんだ。願われたんだ。
大切なんだ。大好きなんだ。
たったひとりの親友なんだ。
それを違えてたまるものか。
それを失ってたまるものか。
助けるんだ。
〔Mission List〕
・白雪のままでいてください
・生きる意味を救ってください