ライスシャワーがスコープドッグと再会したのは、美浦寮の廊下だった。選抜レースに向けての自主トレーニングを終え、自室のある階まで階段を上り切ったところで、今朝見たのと同じ背中を認めたのである。
「あっ……」
「……」
スコープの耳は一瞬ライスの方に向けられたが、彼女は何事もなかったかのように歩いていく。声をかけようかかけまいか悩んでいるうちに、ライスは自然と足音を殺し、それを追いかけていた。
追ったところで何を言うというのか。何をするというのか。ライスは散発する思考を上手く纏めることができずにいた。今朝の詫びをすればいいのか、どうやって彼女を励ますべきか、その前にまずは挨拶の一つもするのが礼儀か、そもそも彼女は自分の名前も知らないではないか――
「わぷっ」
立ち止まったスコープの背中にぶつかって、ライスは廊下の端に辿り着いたことにやっと気が付いた。
「あっ、ご、ごめんなさい!! ライスはその……」
慌ててスコープから離れ、頭を下げる。以前自分とぶつかって書類の束をぶちまけてしまったり、尻餅を搗いて服を汚してしまった人間が何人かいた。その経験がライスに取らせた反射的な行動だったが、スコープからは何の反応も返ってこない。
ぎゅっと閉じていた目を開き、スコープを見上げると、彼女は自室があると思しき方角を見たまま立ち尽くしている。そちらに何かあるのかと怪訝に思ったライスは、スコープの大きな背中の陰からそっと顔を覗かせ、
「――ッ?!」
今朝のデモと同等の衝撃に襲われた――部屋の扉には血のように赤い文字ででかでかと書かれていた。
『人殺し』
寮制であるトレセン学園の二つの寮、栗東寮と美浦寮のどちらも、原則としてウマ娘以外の進入は認められていない。警備システムを完備し、外部からの侵入がほぼありえないものである以上、これは内部の者の犯行であることは火を見るより明らかだ。つまり、美浦寮に住むウマ娘のうち何者かが、この落書きというにはあまりに陰湿で邪悪極まる行為に及んだのだと推測できる。
「非道い……どうして、こんな……」
ライスはスコープの過酷な境遇に涙した。敵だらけの世界からこの学び舎に逃げ込んでも、その内に潜む敵に狙われ続ける。彼女が背負わされたスティグマからはどこに行っても逃れようがないのか。同じ学園に通うウマ娘の中に、こんな行いを平気でできる者がいることなど知りたくなかった。
「ぐ、ぅ……!」
「……え、あっ?! だ、大丈夫ですか?!」
その時唐突に、スコープが頭を抱え苦しげに呻いた。壁に手を突き今にも倒れ込みそうな彼女を、ライスは全身で支える。体の大きさ以上に筋肉量が多いのか、ウマ娘の膂力をしてもずっしりと重い。
「やめ、ろ……来るな……!」
「い、嫌です! そんなに苦しそうにしてるのに、放ってなんておけません!」
浅く荒い呼吸を繰り返すスコープの、譫言のような拒否。ライスはそれに従わなかったのが、自分でも不思議であった。
平時であれば、ライスは困っている者を助けたいと考えても、自分の助力が逆に相手の迷惑になってしまうことを第一に心配する。そうしてくよくよと悩むばかりで時間を浪費し、相手の問題が勝手に解決したり、或いは更に大きな問題に発展してしまう。前者ならば「やはり自分は要らなかった」と後ろ向きに納得し、後者ならば「自分がもっと早く行動していれば」と自責するのだ。
だが、今のライスは迷うことなくスコープを助けようとしている。彼女が何を責められているのか、何に苦しんでいるのか、それらを誰の口からも聞いてはいないというのに。
「いいんだ……これ、で……」
「だめです!!」
否、だからこそ。
「ライスはまだ、何も知らないのに……何もしないままで後悔したくない!!」
大して知りもしないで彼女を否定し放逐することなどできない。そもそも彼女が本当にスコープドッグという名前なのかさえ確認を取れていない。知らなければ、好きになることも嫌いになることもできないではないか。手の届かない所に消えていってから全てを知ったとて後の祭り。そうなる前に行動を起こすことができなければ、きっと自分は心にぽっかりと穴を空けたまま生きることになるだろう。
彼女のことを知りたい。知らなければならない。ライスはその一心で、スコープを背負って階段を駆け下りていった。
「ヒシアマゾンさーん!!」
「おうライスどうし――いやホントにどうしたァッ?!」
ライスシャワーと居室を同じくするゼンノロブロイが事のいきさつを彼女から聞いたのは、寮の門限を三時間以上も過ぎた後だった。急病人を寮長ヒシアマゾンの手を借りて学園の保健室に運び込み、そこで検査結果を待っていたのだという。幸いというべきか、特に病気に罹っていたという訳でもなく、精神的な理由によるものだったらしい。だが件のウマ娘の名を聞いた時、ロブロイは耳を疑った。
スコープドッグ。中等部の自分とは縁遠いとは言わずとも、ライスも属する高等部と特別に縁がある訳でもなかったロブロイは、彼女がトレセン学園に入学していることを知らなかった。しかしスコープドッグというウマ娘の存在自体をライスが知らなかったことに、ロブロイは驚いた程であった。
そんな彼女と、ロブロイは学園の食堂でばったり出くわした。
「あ……!」
「……」
朝練を終えたウマ娘達で早くもごった返す食堂は、ティーンエイジャーの少女が集まる場とは思えぬ異様な静けさに包まれている。十中八九、スコープがここにいることが理由だろう。この時世、彼女を知らない者の方がここでは少ない。
「あ、あの! スコープドッグさんですよね?」
「……そうだ」
「私、ゼンノロブロイっていいます。同室のライスさんからお話を聞きました。えっと、その……い、一緒に朝ご飯食べませんか?!」
「……ああ、構わない」
あらすじだけでは登場人物の背景を把握できないように、事前情報だけで人となりが正確にわかる筈もない。‘悪名高い’スコープドッグが世間の作り出したイメージ通りの人物であるならば、彼女に関わったライス――心労のせいか今朝はまだ寝ていた――が無事に部屋に戻ってきたかも怪しいのだ。
百聞は一見に如かず。対処を量りかね、食堂にいる大多数のウマ娘と同じように遠巻きに見ているだけでは何も変わらない。ロブロイは火中の栗を拾う覚悟で、とまではいかずとも、なけなしの勇気を振り絞りスコープを朝食に誘ったのだった。
「俺はここで待つ。自分の分を取ってこい」
「ありがとうございます!」
見れば、スコープの手には焼きそばパンが二つ握られていた。常人より多くのエネルギーを必要とするウマ娘は、朝食もがっつりボリュームのあるものを食べる傾向があるが、スコープはそれだけで済ませるつもりだったと見える。食堂の定番メニューであるにんじんハンバーグ定食を持ってロブロイが戻ってきた時、彼女は律儀にも、まだそれらに手を付けていなかった。
「「いただきます」」
当然といえば当然か、食前の挨拶は同時に行われた。南米を出身とするというスコープがここまで流暢に、訛りの一つもなく日本語を話しているのなら、その文化に対する理解も多少はあるものと見ていい。ロブロイは既に、眼前のウマ娘に粗暴なパーソナリティーを見出すことができないと感じていた。
互いに最初の一口を頬張り、それを飲み込んだタイミングで、スコープが口火を切った。
「ライスシャワーと同室だと言ったな」
「はい、仲良くさせていただいています」
「礼を伝えておいてくれ。わざわざすまないと」
「はい! あ、でも、直接伝えた方が喜ぶと思います。ライスさん、とても心配していましたから……」
二口目に移ろうとしていたスコープの動きが止まる。口数が少なく、不愛想に見える彼女の鉄面皮は変化に乏しいが、その時ロブロイには、スコープが意外そうな顔をしているように見えた。
「……俺を心配する人と会ったのは、理事長以来だ」
「秋川理事長さん、ですか?」
「ああ……会っていなければ、俺がレースに出るという発想自体、多分しなかった」
入学以前にトレセン学園の理事長秋川やよいと会ったと語るスコープ。子供のような体躯(実際かなり若いらしい)の彼女は変わった人物ではあるものの、豪放磊落な性格、ウマ娘の為に私財すら投じて支援を行う情熱は多くの人から尊敬を集めている。ウマ娘をこよなく愛する彼女ならば、
考えてみれば、スコープがトレセン学園に入学したのはある意味で正解だったのかもしれない。出走手当の他上位入着者には多額の報酬も支払われ、それを目的に走るウマ娘も少なくはない。何らかの重大な違反行為がない限り、資格あるウマ娘のレースへの出走登録が拒否されることはまずないだろう。少なくとも、入学せずに職を探すよりは余裕がある――彼女の立たされた苦境は、ロブロイには察するに余りある。
何にせよ、理事長が関わっているのなら、スコープドッグというウマ娘は世間で騒がれるような‘悪い’ウマ娘ではない筈だ。
「スコープドッグさん」
「スコープでいい」
「では、私もロブロイと呼んでください。スコープさん、食べ始めたばかりですけど、もしよければ今度はライスさんも一緒に――」
バキ、という音がした。発生源は、スコープの口の中。
「!」
無表情なスコープの目に剣呑な光が宿る。焼きそばパンの三口目が収まった口中に彼女は無造作に指を突っ込み、何かを取り出した。咀嚼された麺や青のりに塗れながら、キラリと光る透明な物体。
「え……?!」
尖ったガラス片。臼歯に砕かれて二つに割れたそれは、その縁に僅かに血を滲ませていた。
購買で売られている既製品を除けば、トレセン学園での食事は全て備え付けの厨房で作られている。スコープが食べていた焼きそばパンも例外ではなく、厨房で調理された焼きそばをパンに挟み、温かい状態でラップに包んで売られているのだ。つまりこのガラス片は、厨房での調理過程で混入した――させられたもの。
ロブロイは、一瞬でもスコープがここに来たことが正解だったなどと考えた己を恥じた。‘人殺しのウマ娘’への悪意は、こんなところでも牙を剥くのだ。
「……先に行く。今後は、あまり関わらない方がいい」
「あ、スコープさん……」
スコープはぶっきらぼうにロブロイに告げ、席を立った。返却口の方へずかずかと歩いていき、未開封の方も合わせて残飯入れに放り込む。
「おい」
「ヒッ! な、なんでしょう?!」
「次はない。貴様らに次など与えてやるものか」
強い語調で厨房スタッフに釘を刺したスコープは、足早に食堂を立ち去っていく。
自分のにんじんハンバーグに異物混入がなくとも、ロブロイはもうそれ以上食べる気になれなかった。
「――よし、計測は終わった。スコープ、少し休んでいろ」
「了解した」
アンタレスの特徴の一つに、走行能力を測る際にドローンを利用するというものがある。時速六十キロを超えるウマ娘の足に追随して飛行させ、そのフォームを間近で撮影するのだ。他のチームではドローンの駆動音がウマ娘の集中力を削ぐとして嫌われる手法だが、タキオンの手による改造で劇的に静粛性が増しており、前年度まで所属していたウマ娘達は然程気にしていなかった。そもそも兵藤は、この程度の雑音を気にしているようではレースでの活躍など見込めないと信じている。
スコープのアンタレス加入後最初のトレーニング。ドローンで撮影した動画をノートPCに取り込み、兵藤はタキオンと共にそれを観察していた。
「どう思う? トレーナー君」
「タイム自体は上の下、成長性を加味してもGIじゃ平均がいいところだろう。だが……」
スコープを見遣る兵藤。彼女は芝のコースの端に座り、少し離れたダートコースでパワートレーニングをしている他のチームのウマ娘を眺めていた。
「あいつはまだ余力を残している。足を全部使い切らせた時はどうなるかわからん」
「だろうね。この走り方なら納得もいく」
ノートPCのディスプレイには、二つのウィンドウで同時に動画が再生されていた。一方は卒業した元部員の走る姿、もう一方は先程撮影したスコープの走る姿。
「関節の使い方が上手いんだろう。走行時の体の上下動が極端に小さい。これなら重心も安定するしスタミナの浪費も防げる。走るというより、ローラースケートで滑走している感じだ」
「さしずめ『ローラーダッシュ』といったところか。ストライドが大きいから上り坂には弱いだろうが、それはこれからどうにかしてやるさ。問題は上半身の動きが小さく纏まり過ぎていることだ。原因は――」
「……まず間違いなく、銃を持って走り回っていたこと」
「精神的なケアの比重が一番大きくなるな。昨夜保健室に運び込まれたと聞く。PTSDを発症しているとなれば、他のウマ娘にも手を借りることがあるかもしれん」
そこまで話して、兵藤はタキオンに向き直る。今日部室に来てからこのトレーニングの間も、ずっと彼女に問いたいと思っていたことがあるのだ。
「タキオン。お前、スコープに何を訊いた?」
自分が帰った後も寮の門限ギリギリまで部室に人がいたことを示す電子ロック記録。何らかの精神的ショックによって保健室で一夜を過ごしたスコープ。部室の机上に残されていた論文と計算式。兵藤には、それらの中心にあるものがタキオンだと思えてならなかった。対するタキオンは、どこか嬉しそうに説明を並べ立て始める。
「君も気付いているだろう? スコープ君の、地面に杭を突き刺すようなコーナリング……トップスピードをほぼ維持したまま内ラチ際を曲がっていたが、あれは本来遠心力や加速度によってウマ娘の骨格筋肉系に多大な負担を強いる行為だ。だが彼女の上半身の動きの癖然り、それが習慣化される程長く続けているのなら、彼女は異常な回復力を持っていることになる」
「何の話だ」
「まあ聞きたまえよ。彼女の証言からも裏付けが取れている。NGOに保護された当初、彼女は骨盤骨折と大腿筋損傷を併発していた。普通なら全治三ヶ月、それを彼女は七日でリハビリを終えたらしい」
「七日……」
「それだけじゃないぞ。供述を元に戦歴を仔細に分析すれば、驚くべきことが明らかになる。作戦に於けるスコープ君の配置された状況、全体の死亡率から計算すると、彼女の生き残る確率は殆ど奇跡ともいえる。特に先の怪我の際は偏差値2.95、総合死亡率に対する特異偏差率40.66。これ以上の検証は倫理的な理由で行わないが、これだけでも結論には至った」
一拍入れて、タキオンは続ける。その一言は、論文の題名でもあった。
「彼女は、『異能生存体』だ」
言うなれば運命共同体。
互いに頼り、互いに助け合い、互いに高め合う。
一人が五人の為に、五人が一人の為に。だからこそ夢を追いかけられる。
嘘を言うな!
猜疑に歪んだ暗い瞳がせせら笑う。
お前も、お前も、お前も、俺の為に沈め!
次回、『アンタレス』
こいつらは何の為に集められたか。