トレセン学園の多くのウマ娘がそうであるように、ウイニングチケットも入学前からスコープドッグのことを知っていた。自他共に認める程に涙腺の緩いチケットは、まとめサイトでスコープの生い立ちを知って二秒で泣き、その後数十分涙が止まらなかったのを覚えている。
実際には、スコープの‘悪評’が書かれたサイトの後半部分は泣いていたせいで碌に読めていないのだが、それで彼女を知った気になっていたのはある意味で幸運だったのかもしれない。早起きでデモ隊に鉢合わせなかったこと、スコープが来る前に朝食を食べ終えていたこともあり、チケットの中でのスコープへの認識は「少年兵として戦わされていた可哀想なウマ娘」のままで維持されていたのである。加えて担当トレーナー良川の事故に伴うアンタレスへの合併に近い形での加入は、チケットの中でのスコープ(と救急車を呼んだライス)の株を急上昇させた。
「昨日はトレーナーさんを助けてくれてありがとう!! アタシウイニングチケット! チケゾーって呼んでね!!」
「……スコープドッグだ。スコープでいい」
以上のやり取りで、スコープはチケットの――少なくともチケット自身の認識では――友達になった。そして友達として、チームメイトとして過ごしていく中で、スコープについて幾らかわかったことがあった。
「よし、次はスコープ、チケットと走れ」
「了解した」
「はーいっ! スコープ、今日も負けないからね!!」
「……ああ」
兵藤とタキオンの分析によれば、スコープの脚は短距離以外なら何でも熟す非常に高いポテンシャルを持っているのだという。再計測の結果、単純な肉体的スペックは既にクラシック級の上位層に匹敵しているらしく、タイムアタックでも安定して好成績を叩き出している。しかし実際には、彼女は逃げや先行などの「追われる立場」になった途端にコンディションが急落し、またどうしてもスタミナをゴール後まで残そうとしてしまう改善できない悪癖があった。兵藤に問い質されて彼女が提出した診断書の内容――彼女が患う
そんなスコープをベストコンディションに保つには、何よりも精神的なケアが欠かせない。そう繰り返す兵藤を見て、単純なチケットは全力のスコープと走りたい一心で彼女を構い倒し、何とか元気付けようとした。
「スコープスコープ、今度の夜一緒にラーメン食べに行こうよっ!」
「夕食ならクリークが作ってくれている。俺は行かない」
「えーっ、行こうよぉ!! 一人より二人で食べた方が美味しいってぇ!! あっ、だったらクリークも誘えばいいんだ!! それにライスにタキオンも、あとトレーナーさんも!!」
「……わかった。同行する」
「やったーッ!!」
無口で不愛想な(チケットは“控えめ”と好意的に解釈している)スコープは、友人からの誘いにも積極的には参加したがらない。ただ、悪気があったり変に遠慮している訳ではないので、チケットは無自覚にも勢いで押し切ることができる。
「スコープっ、今日の放課後ハヤヒデと勉強会するんだけど――」
「……どこかわからないところがあるのか?」
「そうなんだよぉ! このままじゃ次の小テストも再試験になっちゃうー!!」
「助けが必要なら、俺も参加する」
「ありがとーっ!!」
一見して陰性にも見える近付き難い雰囲気こそあるが、実際には律儀で思いやりのあるウマ娘だというのも、話してみなければわからないだろう。過去の話が本当ならば勉強などできたものではなかった筈だが、意外に頭も良い。彼女が勉強を教える過程で、チケットの他の友人達とも交流を持てたのは僥倖といったところか。
「スコープっていつもコーヒー飲んでるよねー、他のは飲まないの?」
「……他の飲み物を買って失敗できる程、持ち合わせに余裕がない」
「そんなぁ!! だ、だったらアタシのにんじんサイダーあげるよ!」
「……?! ゲホッゴホッ! ……なんで皆こんなものを美味そうに飲むんだ」
「うっそぉ!? スコープ、炭酸飲めないの?!」
ブラックコーヒーを好み、部室近くの自販機で見つけてからというもの毎日のように飲んでいる。「カフェと話が合いそうだ」とはタキオンの談。尚、タキオンは紅茶党で大のコーヒー嫌いな上、溶けなくなるまで砂糖を入れてもまだ足りないという度を越した甘党である。
事前情報だけでは知り得なかったスコープの側面。それが少しずつ明らかになりながら、いよいよ彼女のデビュー戦が翌日に迫るところまで来た。時期が時期故にかなり巻いたスケジュールではあったが、他の三人も三週間以内に初出走の予定となっている。
「良川さん、腕の方は大丈夫ですか~? 私があーんってしてあげましょうか?」
「ハハハ、問題ないとも。もう治ってから一ヶ月以上経っている」
「あっ、じゃあアタシにあーんってして!!」
「いいですよチケットちゃん。はい、あーん」
「トレーナー君、醤油を取ってくれないかい」
「お前の方が近いだろう自分で取れ」
「じゃ、じゃあライスが取ってあげるね!」
「……」
クリークはいつからか、スコープだけでなくチームメンバーの分まで食事を作ってくるようになっていた。今では週に一回、兵藤と良川を含めた七人で部室に集まり夕食を摂るのが通例である。五人のウマ娘の中で一番大きなスコープが一番小食で、一番小さなライスが一番の大食いだということも、チケットはこの習慣が始まってから知った。元々スコープに安全な食事を安心して摂らせる為だったものが、こうして仲間達の絆を深めることに一役買っている。
入部から二ヶ月も経てば、収まる気配の見えないデモを目撃することは避けられない。それでスコープが
思ったのだが。
「スコープ、明日はやっぱり差しで行くの?」
「……そうだ」
「だよねー! 何ていうか、脚質とかじゃなくって、スコープは追われるより追いかける方が似合ってる感じする!」
何の気なしに、チケットは明日のデビュー戦に関してスコープに水を向ける。にんじんを咀嚼していたスコープはそれを飲み込み、短く答えた。
確かにスコープとは友誼を結び関係も深くはなったが、しかしチケットにはもっと気になることがあった。スコープはトレーニングで誰と競って勝ったとしても、喜んでいる様子を見せないし、負けても悔しそうにしていないのだ。結果を淡々と受け入れているというのとも異なる、文字通り何も感じていないかのような――
「……」
走り、競い、勝つことに本能的に喜びを感じるウマ娘にあって然るべき闘争心の欠落。トレーナーからスカウトを渋られる原因にさえなるその理由を特に深く考えず、直接尋ねもしなかったことを、後にチケットは胸を引き裂く程悔やむことになる。
「間違いなくここ十年で最悪のレースになる」という、兵藤のその予想に反論できる者はアンタレスにはいなかった。恐らくはトゥインクルシリーズ史上初、殺人の前歴が明らかな――そしてURA発足以来最も多くの人命を奪ったウマ娘のメイクデビュー。暴走した正義感がいつどこで牙を剥くか知れたものではない。兵藤自ら関係各所とかけ合い、スコープだけを早朝に東京レース場に入場させることで、彼女がデモ隊と遭遇することは何とか回避できた。改めてアンタレスの面々が入った時、警備が目を光らせていたのが功を奏し、デモ隊が会場内に乗り込んでくることもなかったのは嬉しい誤算であった。
だが当然ながら、パドックに出るのが不可避の行為である以上、そこからは最早どうすることもできない。
『四番、スコープドッグ。一番人気です』
「嘘だろ、本当に出てきやがった……」
「あんな奴がセンター獲って歌って踊るとか考えただけで吐き気するわ」
「恥知らずってこういうことね」
「前走ってる娘蹴り殺したりするんじゃねえぞー!!」
「故障しちまえっ!」
あちこちから飛んでくる悪罵の数々。冷たい雨の中それらを無言で受け止めるスコープの姿が、ライスの目には痛々しく映った。
「非道いよ……こんなのあんまりだよぉ……」
この日出走を予定していたスコープ含め九人のウマ娘のうち三人が、大した理由もなしに出走登録を取り消している。同じレースでデビューすることすらも経歴に傷を付ける――トレセン学園関係者にさえそう考えられている上に、折角の晴れ舞台でのこの仕打ち。自分がその立場だったなら到底耐えられないだろう理不尽に晒され、それを甘んじて受け入れるスコープを見て、ライスは余計に悲しくなるのだ。
他のメンバーと共に地下バ道でスコープを待ち構え、その姿を捉えるや、ライスはいの一番に駆け出した。
「スコープさん! あ、あの……」
寮で彼女を助けたあの夜と同じく、何を言うのかも決めていなかった。気にすることはないと慰めればいいのか、勝ってくれと応援すればいいのか。頭に浮かぶ選択肢のそのどれもが不正解であるような気がして、迷っている自分にも嫌気が差して、さっき拭ったばかりの涙がまたじわりと滲んでくる。チームにスカウトされて仲間と一緒に鍛えてきたというのに、自分はまだ駄目な子のままなのか――そう思った矢先、ライスの肩にそっとスコープの手が置かれた。
「……最善は尽くす。俺には、勝利が必要だ」
それだけを言い残し、スコープは一歩一歩踏み締めるような足取りで去っていった。
“勝利が必要”。勝てるという自信や勝ちたいという願望ではない、無機質且つ冷淡な目的性。その実勝たなければ、スコープは生きる活路さえ切り開けない。彼女の闘志を凍り付かせてしまった過去と現在に胸を痛めながら、ライスは一つ心に決めた。
「――見てるよ、スコープさんの走り」
涙で歪んだスコープの後ろ姿は、陽炎のように揺らめいて見えた。
実のところ、レースの勝敗自体はスコープの圧勝で終わるという確信が兵藤にはあった。出走を取り消した三人がいれば多少は変わったかもしれないが、たとえ精神的に‘デリケート’なスコープが万全の状態でなかったとしても、デビュー戦に出てくるウマ娘程度を相手に彼女が後れを取るようなことはとても考えられなかったのだ。それは十年以上アンタレスを率いてきた兵藤の経験に裏打ちされた、「才能を見出し、それを鍛錬で引き出した」という自負である。
『――大欅を越え四コーナーへ、ここで最後方スコープドッグがバ群を突き破って加速する! 仕掛けが早いか他は追わない、二番手との差が徐々に開きながら最後の直線に入る! 抜け出したスコープドッグ加速が止まらない! 二番手以降仕掛け始めるが届かない! ――』
「……」
故に兵藤は、視線だけはレースの展開を追いつつも、実況も歓声も聞き流して思考に耽っていた。具体的には、良川が事故に遭ったあの夜のこと。あれから二月経ったが、その時のタキオンとの会話は未だに脳裏にこびり付いて離れようとしない。
“もし論文の内容が正しかったなら、スコープを庇った良川は死んでいなければならない筈だ。良川があの程度の怪我で済んだなら、スコープが死なないのは当然だろう”
“本当にそうかな?”
“そうだ、異能生存体など眉唾に過ぎん”
“出来過ぎているとは思わないかい?”
“……出来過ぎている?”
“スコープ君は身寄りがない。日本に来てからは児童養護施設で暮らしていたそうだが、決して経済的に恵まれた環境とはいえないだろう。レースで生活費を稼ぐ以外にやりようがなかったが為にトレセン学園に来たのなら、折角所属したチームが解散してしまえばデビューすらできず、そのまま退学、最悪の場合餓死だってありえた筈だ。なのに今日一日だけで、幸運にもメンバーは揃った”
“……まさか”
“そう、事故に遭った良川トレーナーが生存し合併の話がスムーズに進んだことも、クリーク君がスコープ君を心配して入部を希望したことも、そして君がライス君をスカウトしたことさえも……全てはスコープ君の持つ異能の因子が、彼女一人を生き残らせる為に引き起こしたことだとは考えられないか?”
“馬鹿な……ただの偶然だ”
“必然たり得ない偶然はない。レースだってそうさ。スコープ君の力が今後どう影響してくるのか……とても楽しみだよ”
兵藤が意識を現実へ再浮上させた時、丁度スコープがゴール板を駆け抜けていった。
『――勝ったのはスコープドッグ!! ジュニア級離れした実力でレースを制した! 南米からの刺客スコープドッグ、彼女は歴史の裂け目に打ち込まれた楔となるのか!? ――』
「……必然たり得ない偶然はない、か」
観客席の上の方では、レース結果を目の当たりにした観客の幾らかが、『最低野郎』と書かれた横断幕をおずおずと下ろしている。それを見た兵藤は、自分とタキオンが他の四人から少し離れた位置に立っているのをいいことに、視線を合わせず隣のタキオンに問うた。
「タキオン、お前は何故あいつが異能生存体であることに拘る? お前は何が目的だ?」
「ウマ娘の肉体が秘めた可能性……それを観測する一助になればと、そう思っているよ」
兵藤はタキオンを一瞥する。荒れたターフにじっと立っているスコープを眺めるその顔は、いつになく穏やかな笑みを浮かべていた。
これから大変だというのに人の気も知らないでと、兵藤は心中で悪態を吐いた。
野心とは才能の別名と冷たく嘯く。そうかもしれない。
だが、野心には挫折がひっそりと寄り添うことを知るがいい。
この業界がそれだ。結果の全てがここにある。
なるほど、忠告のつもりか、それとも……?
ふん、騙されはしない。敗者は敗者を知る。
出せ! 出してみせろ! 己の全てを!!
次回、『集客』
時に、傲慢の別名は何というのだろうか?