ビワハヤヒデにとって、自分の想定以上の存在だと認識する人物は、『シャドーロールの怪物』の異名を持つ実妹ナリタブライアンであった。その恐るべき才能は、今年皐月賞とダービーを制し、菊花賞の勝利も確実と評されてることから明白だ。ハヤヒデが己の持論――“勝利の方程式”に固執するようになった遠因でもある。
だが昨年十月以来、その評価に値する者が二人増えた。
『――勝ったのはスコープドッグ! 淀の坂を走り抜けた戦慄が舞い戻り、今グランプリの頂点に輝いた!! 二着ストライクドッグ、三着に入ったのはビワハヤヒデ! ――』
『赫奕たる異端』スコープドッグ。
『完全なる走者』ストライクドッグ。
自身が六着となった菊花賞。ライスシャワーとミホノブルボンに敗れたことが実力と努力の不足で、ウイニングチケットに差され掲示板を外したことが根性の差と不運によるものだったならば、スコープとストライクに負けたのは全くの想定外だったと言っても過言ではない。GIクラスの強豪との公式な対戦経験を欠くスコープ、菊花賞以前の公式戦では二千メートル以下のレースにしか出走していないストライクを、当時のハヤヒデは重要なファクターとして捉えていなかったのだ。
故に式を組み直し、それを適用するに当たって研鑽も積んだ。
「……遠い、な」
しかし、二人はそれすらも易々と超えていった。二人と自分との間に付けられた半バ身の差は、四着との間に付けた五バ身差よりも遥かに遠いものだった。
「――いや、ならばそれさえも変数に加えるまでだ」
勝利の為に何度でも修正を繰り返す。そうでなければ、妹が誇れる姉であることなど――ナリタブライアンに勝つことなど、夢のまた夢だろう。
栄誉あるレースの勝者、歓声を浴びながらも眉一つ動かさぬ寡黙な友人をハヤヒデが称えようとした時には、ストライクは既にターフに背を向けていた。
六月末の宝塚記念が終わると、夏合宿は目前に迫っている。直前で体調を崩し当レースを回避したライスも調子を取り戻し、明日にはアンタレスの全員で館山に向かう手筈だ。
タキオンにとって、合宿は実験・検証に好都合な機会――やろうと思えばどんなことにも実験を絡めることはできる――だが、出発前の最後の休日である今日、彼女は悶々としていた。
「やれやれ……何をしても上手くいかない日というのはあるものだねぇ」
休日とて特に用事はなく、チームメンバーも他の友人達と出かけている。兵藤と良川は合宿の準備に忙しい。その上トレーニングができる学内施設はここぞとばかりに全てメンテナンス中だ。手持ち無沙汰のタキオンは、半ば彼女の実験室と化した冷涼なチームルームに入り浸り、実験器具を掃除しながら誰にともなくぼやいた。暇に飽かしてつい先程調製した培地はものの見事に化合物の配分を誤り、また先週作った固体培地に重篤なコンタミが発生していたことに気付く、まさに弱り目に祟り目。
「待機という行為をこうも退屈に思ったことはない……」
先日スコープは宝塚記念に勝利したばかりだが、彼女の持つ異能生存体としての能力を示す結果はここ半年得られていない。異能の因子を受け継いだ自分を含む三人も、異能のいの字もないストライクドッグというウマ娘に敗れているし、ライスに至っては因子継承が正常に行われたのかさえ不明なままだ。
異能生存体の力の本質は死に繋がる要因の回避にある為、明確で急迫した危機に直面するような状況に置かれなければ(知らず知らずのうちに回避した事故があったとしても)それを観測することは難しい。この学園に於いてスコープの力が作用してきたのは、‘そうでなければ死ぬ可能性があるから’だったのだ。幾らマッドサイエンティストの気があるタキオンといえども、対象者に生命の危険が伴う実験をする程道に外れたことはできなかった。
既出のデータは整理が終わっている。よって今のタキオンにできることは何もなかった。
「しかし……私達三人とスコープ君との間にある差異とは何なのだろうね――」
ただ一つ、考察を除いては。ビーカーを純水で洗う手の動きはそのまま、彼女は思考の海に沈んでいく。
ストライクは異能生存体であるタキオン、クリーク、チケットを破り、その一方でスコープには三度敗れている。単純な実力や成長率、レース中の互いの精神状態の差だと言えばそれまでだが、タキオンは何か自分の考えが及んでいない他の要因が関わっている線を捨てきれずにいた。負け惜しみじみた発想に自嘲もしたが、その可能性を排除できていないのも確かだ。
異能生存体であることはウマ娘の走力そのものに直接的な影響はないにせよ、その驚異的な回復力はトレーニング効率の向上に寄与している。怪我からの回復は論なくして、筋肉の超回復速度も若干の、しかし有意な差が見られた。オーバーワークを許容できる訳ではないので短期的には効果は見込めないものの、積もった塵程の差異でレースでのパワーバランスは簡単に崩壊し得る。それがかの天皇賞(秋)だった。であれば、それを以てしても自分達三人ではストライクに届かず、スコープならば超えられる理由は、一体どこに存在するのだろう。
それとも、
「失礼します」
純水の入ったタンクが空になるのと、チームルームの扉が開くのは、ほぼ同時だった。タキオンが振り向いて確認すれば、入ってきたのは制服姿のミホノブルボン。
「おや、ブルボン君。ライス君ならここにはいないよ」
「いえ、今日は別行動です。タキオンさん、貴女に質問があって来ました」
学内にある
「――
続く言葉に、彼女は度肝を抜かれた。
不幸にも、今年の夏合宿はアンタレスに限らず多くのウマ娘が、屋外でのトレーニングを日没後に行わざるを得なくなってしまった。
「腿上げとか腹筋とか腕立て伏せとか……折角館山まで来たのに意味ないじゃーん!!」
「背に腹は代えられない。乾球温度と相対湿度を基に暑さ指数を算出すれば三十四……激しい運動をするには危険な暑さだ」
この夏、関東は発達した高気圧の影響で記録的な猛暑に見舞われている。海辺の街であるここ館山市も、七月半ばからは日中の気温が三十度を下回る日がない。トレーナー達の判断で炎天下のトレーニングが避けられるのも無理はないが、合宿を楽しみにしていたチケットにはとても納得できるものではなかった。
そんな折、チケットのトレーニングを眺めていたタキオンが言った。
「そうだチケット君、それなら気分転換ついでに一つ頼みがあるんだが」
「いいよタキオン、何?」
二つ返事で了承するチケット。タキオンの実験に付き合ったのは初めてではない。タキオンの手から水色の液体が入った試験管が渡される。
「この薬を昼食後のストライク君に届けて、飲んだ感想を聞いてきて欲しい」
「これ、一昨日飲んだやつだよね? ユーイな差が見られなかったとかでボツになったって」
「ああ、だがもう一度データを取りたいんだ。スコープ君に頼んだ方が
「わかった、任せて!!」
果たして二時間後、試験管を受け取ったストライクは、中の液体を掬って舐め、開口一番不機嫌な顔で言い放った。
「これは、薬ではないな。偽薬だ」
「ギヤク?」
「何のつもりだ? こんな無意味な代物を……」
「でも、タキオンはウマ娘の為に研究をしてるんだし、協力したらいいことあるかもよ! スコープにだって――」
勝てるかも、とまでは口にできなかった。ストライクの鋭い目がギロリと動いてチケットの目を睨みつけ、それ以上を封じたのだ。
「――私の前でその名前を出すな」
こんな底冷えのする声の出せるウマ娘が、トレセン学園にいるのか。チケットは外の暑さも忘れる程の怖気を感じて、青い顔で硬直することしかできなかった。
「私こそが最強、私だけがPSだ。私でなければならないのだ」
結局タキオンにはまともな報告ができなかったが、当のタキオンは何かやりきったように満足気だった。
「新しい解析結果が出た」
夏合宿も終わりに近付いたある夜、アンタレスのトレーナー達が使う居室にタキオンが訪ねてきた。消灯時間はとっくに過ぎているが、何やら神妙な面持ちの彼女を帰すに帰せず、ローテーブルを囲んで膝を突き合わせている。
「解析? また異能生存体絡みか?」
「いいや、それとは違う。もっと深刻で恐ろしい問題だ」
「君がそこまで言うからには、余程のことらしいね」
常日頃研究内容を脳内で遊ばせながらニヤニヤしている印象の強いタキオンが見せている、鏡ヶ浦の如く凪いだ真顔。こんな顔もするのかと意外に思いつつ、良川は彼女の伝えんとする事の重大さをひしひしと感じ取った。合宿中も行っていた(しかも一度わざわざ兵藤に車を運転させ学園に戻っていた)実験内容がそれに関するものであるならば、熱を上げていた異能生存体の研究を中断するだけの相当な理由があったに違いない。
確かめるような首肯の後、タキオンは口を開いた。
「スコープドッグとストライクドッグ――この二人のウマ娘は、PSだ」
「馬鹿なッ!!」
PSという単語が出た瞬間、兵藤が身を乗り出して吠えた。
「俺と秋川
「落ち着いてくれ、トレーナー君。それについても話そう」
熱血という言葉とは縁遠い人間である兵藤の、著しく冷静さを欠く振舞い。彼にとってトラウマにも似た人生の汚点である、アンタレスの前チーフトレーナー大塚、その現役時代の研究が絡んで来るとなれば、いよいよ由々しき事態であることが歴然としてきた。彼が調子を取り戻す時間を稼げるよう、良川はタキオンに問う。
「タキオン君、PSとは一体?」
「‘走行に適した形質’が発現することで生まれる、文字通り『
良川は絶句した。最高の能力を持つことが生まれながらにして確約されたウマ娘――そんなものが存在するならば、即ちその存在自体がドーピングであり、全ての競技者への侮辱ではないか。今思い出せば、URAが遺伝子ドーピング規制を発表したのが大塚の退職後、ヒトゲノム計画に次ぐウマ娘ゲノム計画の完了と前後してのことだったのはとんだ皮肉である。
「名前は伏せるが、さる情報提供者からの報告によって、スコープ君とストライク君がPSである疑いが浮上した。そしてスコープ君が“天然のPS”であるらしい、とも」
「……天然の?」
「博士本人がそう言ったらしい。弥永トレーナーが電話しているところに偶然通りがかったそうだ」
情報提供者とやらが誰かはともかく、その報告がなければこんな話題を知りもしなかっただろう。良川は密かに、匿名の人物へ慨嘆を交えて感謝した。その人物への気遣い故か、タキオンはすぐに話を軌道修正する。
「スコープ君のDNAからは、確かに論文に記載された通りの、走行能力の向上に関与する遺伝子の活性が多数確認された。血中のヘモグロビン濃度を高めたり、アドレナリン産生量を増大させたりといったものだ。一方でストライク君では活性が確認できなかった……怪しいと思ってもう少し調べてみたら、これだよ」
タキオンが懐から取り出したのは、無色透明な液体の入ったアンプル。それを机上に置く彼女の眉根には小さな皺が寄っていた。
「これは?」
「『ヂヂリウム』なる薬品のようだ。成分分析の結果、数十種類のタンパク質が含まれていた。恐らくは
「脱メチル化酵素?」
「DNAは通常、一部の領域が後天的な化学修飾によって機能しない状態にされている。脱メチル化酵素はメチル基を取り除き、当該領域の活性を取り戻す酵素だ。体内に入った人工酵素の活性部位が特定の塩基配列を認識し、脱メチル化を起こすことで遺伝子を機能させているのだろう。ストライク君はこれを定期的に注射している。そんなことをしなければならないウマ娘が自然なものである筈もない」
「ということは、パフォーマンスの維持の為に常に活性化させ続ける必要があるのか……それでいて、遺伝子ドーピングが疑われたら使用をやめれば検知されないという訳だ」
大塚がPSの研究を理由に職を追われ、その後の研究の末にストライクドッグというPSを生み出したのなら、当然遺伝子ドーピング規制は承知の上だろう。その網の目を掻い潜る策が用意されている辺り、彼の知性と狡猾さは想像を絶する。しかし良川が納得しかけたのも束の間、タキオンが更に畳みかけた。
「それだけではないよ。彼女のDNAをスコープ君のものと比較すると、‘走行に適した遺伝子’の領域と同時に、本来生存に不可欠な領域までもメチル化されていることがわかった。酵素が十分な活性を示す濃度に種類毎の差があったことも考え合わせると……これは大塚博士の保険であり、ストライク君への脅迫材料である可能性が高い。現状博士しか製造方法を知らないヂヂリウムの供給がストップすれば、彼女の身には間違いなく生命の危険が及ぶ。彼女は博士の研究、即ちPSの能力の証明に協力せざるを得なくなるんだ」
「……何てことだ……」
倫理性はともかく研究内容の学術的価値を素直に認めていたらしいタキオンが、苦々しい表情を浮かべている。良川は、最早彼女も自分や兵藤と同じく、大塚を先達として敬うことなどできなくなっていることを察した。
「最強の証明の為にスコープ君を倒す、その舞台はきっと有馬記念だ。それが叶わなければストライク君は‘廃棄’され、代わりに天然のPSたるスコープ君が研究対象になるだろう。それまでに、何かしらの手を打つ必要がある」
轢死か、凍死か。挽き潰されるか固まるか。
その間にある限りなく薄い不安定な一線。
震える狂気と才能がその臨界を探る。
信じるか、信じられるか。賭けるか、賭けきれるか。
ウマムスコンドリア。
俺達はここまでこの謎の微生物と運命を共にしてきた。
だからこそ。
次回、『ダウンバースト』
しかし、生き延びたとしてその先がパラダイスの筈がない。