ナユタとデンジはセックスしたいだけだった   作:シャブモルヒネ

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2日目・愛を知らない金曜日

 遠くのどこかから、新聞配達のエンジン音が聞こえてくる。

 湯気のように朝の兆しが漂って、ナユタの耳朶をくすぐった。

 ナユタはパチリと瞼を開ける。

「おはよう」

 1日の始まり。

 起きてからのナユタは早い。

 起床ラッパを聞きつけた兵士のようにテキパキとした動作で起き上がり、そのままスムーズに洗顔・歯磨き・身支度・エトセトラにとりかかる。それらは低血圧の者にとっては難敵だが、ナユタにかかれば赤子に等しい。手際よく8分以内にやっつけた。準備は完了。散歩の予感に息を荒げていた犬たちを引き連れて、威風堂々と出陣していく。

 朝のジョギングの始まりだ。

 

 

 

 

 

愛を知らない金曜日

 

 

 

 

 

 バタン、と玄関のドアが閉まった。

「…………おは、よう」

 この頃になるとデンジも目を覚ます。

 出かけていったナユタと入れ替わるように身を起こした。大きく伸びをして欠伸を一発、寝ぼけ眼を擦りながら、目覚まし時計の頭を叩いて喚きだす前に黙らせた。

「今日も早ぇなぁ……」

 早川家の日課。

 朝のジョギング、兼、犬たちの散歩。

 始めのうちはデンジも一緒に出かけていた。しかし2人いっぺんに出てしまっては朝食を作る者がいなくなる。だから1人は居残る。それが早川家のルールだった。

 デンジはのそのそと台所の前に立ち、準備を始めた。

 鍋、フライパン、おたま、フライ返し。冷蔵庫を開けて卵と牛乳と味噌を取りだして、少し悩んでから納豆と鮭の切り身をチョイスする。あとひじきの煮物をつめたタッパーも忘れずに。

 換気扇が回り始める。

 ぼんやりとした頭は、しかし睡眠によって余計な雑念が消えている。ただ黙々と手を動かした。

 ちらりと炊飯器のタイマーを確認する。

 あと10分で炊きあがる。

 まあ余裕だな、とデンジは卵焼きをひっくり返しながら考える。

 今日は和食。

 ナユタが希望したからだ。

 彼女は若く、そして朝のジョギングで腹が減る。パンでは物足りないと常日頃から言っていた。

 ナユタ――今頃は、何をしているだろうか。

 ちらりと時計を確認すると6時半。公園で近所の老人たちと一緒にラジオ体操を始めている頃合だ。

 まったく若者らしからぬ習慣であり、ナユタらしからぬ積極性。

 彼女は、言ってしまえば外面が良かった。

 近所の者に会えばはっきりとした発音で挨拶し、礼儀正しく振る舞った。時には親子ほどにも歳が離れた者たちと世間話に興じていることもあった。……全て仏頂面ではあったけど。しかし、そんなマイナス要素を打ち消してしまうほどに彼女の評判は上々だった。

 今どき珍しい、良く出来た娘。

 そのようにしてナユタはあっという間に人間社会に溶けこんだ。

 当初の心配を覆されたデンジは感心しながら聞いてみたことがある。

 

 

「なんでそんなに頑張んだ?」

「別に、頑張ってない。必要だからやってるだけ」

「……どゆこと?」

「うちは7匹も犬を飼っている。しかもぜんぶ大型犬。たまに首輪もつけてない。こういうのは普通、人間は嫌がる」

「そうなのかぁ? どうして?」

「怖いから」

「俺らはちゃんと言うこと聞かせてるじゃん」

「うん。でも他の人には分からない。だから、ちゃんとやれてるって見せる必要があるの。あと飼い主もちゃんとしてるってね」

「へえ~、そういうもんか」

「そう。それにこれはとってもお得なの。子どもは普通、大人に興味ないから、きちんと挨拶するだけでも感心される」

「はぁーん……? ちょろいってわけか」

「ちょろちょろ」

 

 

 炊飯器からデジタル音が鳴り響く。

 米を炊き終えたようだった。

 しゃもじを突っこんで底から持ち上げるようにほぐしていると、ナユタが帰ってきた。

「ただいま」

「おかえり~」

 さて、ここからが忙しい。

 ナユタが犬たちの足の裏を拭き、シャワーで汗を流し、制服に着替え終えるまでがタイムリミットだ。

 デンジは皿を並べて簡単料理を盛りつける。と同時に炊飯器の内釜を水に浸け、タッパーその他の調理器具などを洗いにかける。足を伸ばして犬たちの餌入れを用意してドライフードをぶちこむ。定位置に運ぶと獣の目になった愛犬たちに「まだ食うなよ」とアイコンタクトを突きつける。

 朝メシの準備は完了。

 最後にドンキの極安スウェットをすぽぽんと脱ぎ捨てて学ランを装着し、ちゃぶ台へ戻ったところで丁度ナユタが現れた。

 いつものセーラー服に身を包んでいる。

 今日も時間ぴったりだ。

 席に着いて、同時に手を合わせていただきます――それがいつもの朝だった。しかし、今日は違った。

 ナユタが席についていない。

「どう?」

「は……?」

 デンジは手を合わせようと中途半端な位置に両手を浮かせたまま声を漏らした。

 いきなり「どう?」と言われた。「どう?」ってなに? デンジには理解できない。なぜいつもの朝食が始まらないのか、なぜ義理の妹は自分の横で上司の如く厳粛な顔をして冷凍室よりも温度の低い視線を降らせてくるのか、まるで心当たりがなかった。

「どうって、なにが?」

「顔」

「かお……?」

「ちょっと化粧してみた」

「はぁ、けしょう……?」

 オウムのように繰り返すしかない。

 「どう?」、そして「化粧」。……2つの単語がようやくデンジの頭の中で繋がった。ナユタは感想を求めている。

 よくよく見れば……唇がうっすらと、チェリーのように色づいていた。

(あ。あれかぁ)

 ここで気の利いた言葉が浮かぶならデンジはおそらくモテている。

「さぁ。いいんじゃね……?」

「……」

 ナユタは無言で席についた。手を合わせ、平坦な声で「いただきます」と呟く。

 ようやくいつもの朝が帰ってきた――とはデンジにはまったく思えなかった。

(なんかものすげえ怒っちゃってるよぉ~)

 無言の朝食。

 これもいつも通りの風景ではあったが、空気の重さは比べるまでもなかった。

 

 

 ただ、彼女が欲しかった。

 それだけの高校生活だった。

「――やっぱ、淋しいよなあ」

 午前の授業がようやく終わって、昼休み。

 デンジはもぬけの殻となった教室へ、ついと視線を巡らせた。

 居残っているのは男子だけ。

 デンジを含めた3人組と、机に突っ伏したまま戻ってこれない陰キャのみ。

 華やかな女子たちはいなかった。それぞれが個性豊かなお弁当の包みを大事そうに抱えて、一足早い花見にでかけるように、うきうきと足取り軽く出ていってしまった。彼女たちの通った跡には桜の花びらが舞っている――そんな光景をデンジは幻視した。

 溜め息。

 男3人、ひたすらに空しい。

「どうして俺にゃあ彼女がいねえんだろうなァ……」

「早川ぁ、それは言わない約束だろ~」

「でもよー、高校生って、青春じゃん? すぐに彼女ができるって俺ぁ思ってたんだ」

「分かる。映画でも漫画でも、学生ものは初恋とセットだからな」

「そうかァ、やっぱりそうなんだな。はぁ~~」

「ああいうのは詐欺なんだぜ、早川。ちゃんと注意書きを載せておかなきゃいけない。『この物語はフィクションです。イケメンと美少女以外の視聴者さまは現実に支障をきたす恐れがあるので勘違いしないようお気をつけください』ってな」

「おめーは僻むときだけは早口になるよな、北河」

「あんまり褒めるなよ」

「褒めてねえ……」

 馬鹿男子、3人。

 食堂へいくわけでもなく、購買へ乗りこむでもなく、椅子にへたりこんでダベっていた。

 授業が長引いたせいでスタートダッシュが遅れたからだ。

 食堂も購買も、どうせ混みあっている。ならばしばらく時間を潰して空いた頃に向かってもいいだろう、そう考えて居残ったのがこの3人。早川デンジ、そして友人である北河と相澤だ。

「相澤? おめーはどうなんだよ?」

 さっきから相澤は一言も喋っていない。この手の話題には誰よりもうるさい男であるはずなのに。デンジは胡乱げに、北河は懐疑的に目線を送った。

 沈黙を続ける相澤に、北河は肩をすくめてぼやいた。

「相澤はなー、なぜか一部の女子にモテるんだよなぁ。年下女子に。こいつロリコンなんだ。こないだなんて商店街で小学生に餌付けしているのを見たよ」

「ふぅ~ん……、小学生? 興味ねえなぁ」

 相澤は、腕を組んだままだった。

 期末試験で最後の選択問題を決めかねているといった渋面で、机の一点を凝視していた。そこにモテ道の解答が記されているわけでもあるまいに。北河は欧米人のように大げさに肩を竦めた。また僻み口上でも浮かんだのか、目を三日月に歪めながら口を開いたが、相澤が喋りだすほうが先だった。

「すまん」

 一言だった。

「俺な、彼女できたんだ」

「は?」

「え?」

 ひび割れる音がした。

 間の抜けた空間に一滴の疑惑が落とされた。

「彼女……?」

 北河の反復とともにその色合いはますます濃くなった。嫉妬という名の猜疑心。そんな馬鹿な――とようやく裏切りの意味を理解して、北河は吠えた。

「うおおぉぉ!」

 椅子を派手に倒しながら立ち上がる。

 突然の奇行にデンジはびくりと身を竦ませたが北河はまったく気にしない。なりふり構わずに相澤の肩をぐわしっと掴んで揺さぶり始める。

「相澤、相澤ぁ! 正気か!? 小学生は犯罪だぞーっ!」

「ちょっ、おい、北河? 落ち着けって」

「ああ! なんてことだ、まだ日は高いのに!」

「なーに言ってるんだよ」

 北河の言わんとすることを理解したデンジは茫然と2人の諍いを眺めた。北河のみっともなさとは対照的に、相澤はあくまでも余裕のある態度。遠慮がちに、どこかすまなそうに笑っている。それは勝者の笑みだった。

「マジかよ……」

 先を越されてしまった。

「ち、ちくしょう!」

 北河は見えない衝撃をくらったかのように派手にのけぞった。

「何故だ! どうして世界はこんなにも不公平なんだ!?」

 とうとう机に突っ伏しておいおいと泣き始める。手に負えない。傍目から見たら不気味でしかない変人はスルーするとデンジは決めた。

 相澤に向き直って祝辞を送る。

「相澤、やるなぁ。おめでとさん」

「ああ、ありがとう」

「しかし小学生かぁ……。俺にゃあ良さがさっぱり分かんねえけど」

「いや、違う。相手はいっこ上の先輩だ」

「先輩……? つまり、年上かぁ?」

「ああ、名前は――」

 デンジは知らない名前だった。

 が、どうやら校内では有名な美人らしい。スタイルもよく、更に気立てもいいとか。パーフェクト美少女だ――と自称校内女子生徒評論家の北河は怨嗟の涙を流しながら説明した。

「へえ~」

 素直に羨ましい、とデンジは思った。

 美人でスタイルもいい、それだけの女なら過去に何人も関わってきた。しかし性格まで良いとなると、これはもう幻想上の生き物でしかなかった。デンジの知る女とは、すなわち殺意をむきだしにして襲ってくる敵対者に近い。

 優しいとは何だろう?

 気立てが良いとは何だろう?

 デンジの経験にソレは無い。ほんとにまったく知る余地もなかった。

「いいなぁ、性格のイイ女……。俺もそんな彼女が欲しいぃ~。すげえ欲しいぃ~!」

「俺も欲しいっ!」

「お前ら、うるさい」

「やかましい! おい、相澤ぁ! お前はもう、仲間に入れてやらんっ。男の友情を忘れた奴は、利用されるだけされてボロ屑のように捨てられるがいいっ」

「彼女はそんなことしないって」

「かか、彼女ぉっ!? あががが!」

「何でいちいち悶えんだよ、お前は……」

 そして相澤は悠々と去っていった。

 これから彼女といっしょに昼飯を食べる約束をしてるから――そう言い残して。

 教室には2人だけが残された。

 振り返ってみたが陰キャすらいなかった。

「ああ……、とうとう相澤も裏切った。どうしたらいいんだ、早川」

「北河、いよいよ二人だけになっちまったな」

「なんで人は裏切るんだろうな」

「さっぱり分からねぇ」

「俺は悲しい。みんな、みんな変わっていく」

「俺も変わりてぇ~~」

「……」

「……」

「なあ、早川」

「なんだぁ?」

「相澤って、もうヤったのかな?」

「そりゃ、ヤったんじゃねえの」

「ずるくないか?」

「ずるいって……ずるいかぁ?」

 北河は、静かに語りだす。

「俺らが何をした? 悪いことでもしたか? してないだろ? だったら、俺らもヤれていいはずだ。なあ、分かるだろ? セックスだよ。確かに俺らに彼女はいない。けど世の中にはそんな巡り合わせの悪い男への救済だってあるんだよ」

「ああん? なんだって……?」

 ちょっと悪いスイッチが入ってしまったようだ。

 北河はいっそう声を潜める。

「この街にはソープがあるんだよ」

「そーぷぅ? なんだァ、それ」

「高級入浴場。要するに、愛だよ愛。優しくて美人の女性から愛を分けてもらえるお店のことだ。ほんの少しの対価を支払うだけで俺たちは次のステージに進むことができるのさ。なぁ、昔っから言うじゃないか、『あらゆる問題に対する万能の解答は「セックスしろ」』だって。それは何も彼女持ちだけが得られる特権じゃない、俺たち虐げられし非正規恋愛主義者にも分け与えられるべきなんだ」

「お、おう」

 早口だった。

 端的に言って、気持ち悪い。

「なあ、明日ソープに行ってみないか。値段はこれだけ。行けない額じゃないだろう?」

「………………」

 確かに、デンジに払えない額ではなかった。しかし、金と聞いて、彼の脳裏にはすぐにナユタの仏頂面がちらついた。

 多分、ばれたらとんでもなく怒られる。一週間ぐらいは口を聞いてもらえないかもしれない。今朝の食事風景を思いだした。あれより重い空気をずっと味わわなければいけないと考えれば、答えは1つしかない。

「いやぁ……、俺ぁ、いいや」

「は? なに純情ぶってんの? もしかして怖いのか?」

「そういうわけじゃねえけど。えっちってな、互いのことをよく知らないと気持ちよくなれないんだぜ?」

「誰だよそんなこと言ったの。じゃあオナニーが一番気持ちいいってことになるじゃないか? そんなことあってたまるか」

「……」

「おい早川、目を覚ませ。おっぱいだぞ。ベロキスだぞ。本番が待っているんだぞ?」

「北河、ちょっと声が……」

「ヤりたいだろ? ヤりたくないわけないんだよ。少なくとも俺はヤりたいね! 恋愛なんて下らねえ!」

 めんどくせえ、こいつ。

 呆れていると――デンジの携帯から着信音が鳴った。

「お、相澤からだ」

「あんな奴の電話なんてでなくていい」

「そういうわけにもいかねえだろ……。もしもし? なに、俺を待ってる人がいる……?」

「借金取りか? それとも保護観察官か?」

「うるせえ、マジで」

 電話をきる。言われたままに窓際から校門を見下ろすと――近所の中学校の制服を着た女子が立っていた。ポストのように微動だにしない。

 すぐに分かった。

(ありゃ、ナユタだな)

 手を大きく振ると、向こうもすぐに気付いた。

 ナユタも手を振り返して、校舎へ歩いてくる。何か包みのようなものを持っている。

 忘れ物でも届けに来たのかな――そうデンジが考えていると、取り残されていた友人が轢かれたヒキガエルのような呻きをあげる。

「うぐえっ!? ……お、おいっ、あれは誰なんだっ? お前の知り合いか? ま、まままさか、彼女ってことは……」

 デンジ、閃く。

「……彼女だったら悪ぃか~?」

「んなっ」

 よろけながら、北河は腕を伸ばす。救いを求めるように。だがデンジは大げさに掌を突きだして接近を拒んだ。

「近寄らないで、くれるかな? 童貞君はよォ~?」

「うぐうっ」

 その表情は見る者に哀愁を感じさせた。自分が信じ続けた偶像がただのハリボテに過ぎなかったと気付いた愚か者。哀れな少年は嘆くしかない。

「お前もかっ、ブルータスゥゥ……、……ッ!?」

 教室から走り去ろうとした北河、しかし、

「あ゛あ゛っ!!」

 びくりと固まった。

 運命は、更なる追撃を用意していた。

 窓際に寄りかかりながらグラウンドを見下ろしているデンジと北河。その隣に、いつの間にかクラスメイトの女生徒が1人並んで立っていた。

 彼女はこのクラスの委員長であり、北河の意中の少女だった。

 哀れ、北河の顔色は、真っ赤を通り越してどす黒くさえなっている。

「どっ、どどどこから、聞いて……っ」

 少女は、北河の存在を完璧に無視した。

 眼下のグラウンドから校舎へ入ろうと歩いているナユタを目で追っている。ウェーブのかかった長髪を優雅になびかせながら「へぇ」とチェシャ猫のように瞳を細めた。

「早川君も、隅に置けないわねぇ」

 北河は今にも泣きだしそうだった。

 失点を挽回しようと必死で食い下がる。

「さっきの発言はっ、冗談っ、でしてぇ……! いや、ほんとにィ!」

 しかし、返ってきたのは無慈悲な刃。

「あなたには聞いてないわ。素人童貞君?」

「ふぐっ!」

 撃沈。

 心臓に杭を打ち込まれたモンスターのような顔になり、今度こそ本当に逃げだした。

「ひえ~……」

 自業自得とはいえ悲惨すぎるとデンジは思った。

「――で、あなたは行かないの? 高級入浴場」

「勘弁してくれ……。行かないっつうの。聞いてたんだろ?」

「さぁどうかしら」

「やめろ、マジで」

 たちが悪すぎる冗談だった。

 ナユタの小さな身体は玄関へ吸いこまれて消えた。だがさすがに校舎の中を歩き回ったりはしないだろう。おそらく玄関口で待つはずで、デンジは迎えるために踵を返した。

「早川君。中学生も犯罪よ?」

 教室を出る直前、そんな忠告が贈られた。

「彼女ってのは、嘘だ」

「あら、そうなの?」

「妹だよ。大方、忘れ物でも届けに来たんだろ」

「……ああ、そうなの。妹、ね」

「そうだよ、妹だ。恋人じゃない」

 

 

 

 玄関口でナユタが待っていた。

「ん」

 突きだしてきたのは弁当だ。今朝はどうにも居心地が悪くて先に登校してしまい、持っていくのを忘れていた。

 まだ機嫌悪いかな、と伺うと……どうやら毒気はすっかり抜けているようだった。

「ねえデンジ。さっき教室で私のことなんて紹介した?」

「ん~?」

「彼女、って言ったでしょ」

「言ってねえ」

「嘘。言った」

「言ってない」

「言った」

「……なんで知ってるワケ?」

「唇、読んだから」

「どんだけ視力いいンだよ?」

「悪魔だから」

「そういうもん? 支配の悪魔って目が悪いんじゃねえの?」

「なにそれ。……ああ、マキマって人がそうだったの?」

「ああ、そうだけど」

「それ、目が悪いんじゃなくて、デンジに興味がなかっただけなんじゃない?」

「…………」

「見る価値なしってやつ」

「…………そういうこと言うなよ」

「凹んでる?」

「もしかして、朝の仕返し?」

 ナユタは特に何も答えず、口元をドラク○のスライムの形にして笑った。

「こわ~……」

 女ってやっぱり怖い。今後は発言に気をつけよう、デンジは強くそう思った。

 

 

 


 

 

 

 デンジに弁当を渡したナユタは、自身が通う中学校へ戻る道中、誰かにつけられていると感づいた。

「……」

 振り返りはしない。

 足を速めもしない。

 背後に潜む何者かからは見えないはずの表情さえ変えず、ナユタは周辺の状況を確認した。

 昼休みの時間帯。住宅街。人通りは皆無。

 

 相手は誰だ。

 目的は何だ。

 一番マシなのは、勘違い。

 次に悪いのが、悪意のある人間。

 勘弁してほしいのが、話の通じない野良悪魔。

 面倒なのが、ナユタが駆除対象外の悪魔だと知らない民間のデビルハンター。

 最悪なのが、よその国から密命を帯びてやってきたエージェント。

 

 ナユタは顔を上げ、()()()()を使って電線に留まっているカラスを隷属させた。

 感覚器官を共有して高所から探ってみる。

 

 

 

    追跡者 は 電柱の 影 にいる        ナユタ を 見つめて いる

  作業着   首には  毛羽立った タオル   髪は ぼさぼさ  男  中年  手ぶら

     周囲には    誰も 居ない        動物も  車も   居ない

 

 

 

「……」

 どうやらただの人間のようだ。

 格好から推測すると……昼休み中の労働者か、無職の中年男性といったところか。

 しかし何故、後をつけてくる?

 落し物でも渡すため?

 ……いや、私は何も落としていない。

 それに隠れる必要はなんだ?

(私にバレたくないから)

 では、その理由は?

 

 ①やましい気持ちがあるから。強盗やストーカー等を行おうとしている。

 ②正義感から。ナユタを悪魔と気付いて情報を探ろうとしている。

 ③実はデビルハンターや他国のエージェント。

 

 分からない。

 ①か②であってほしい。でも、自分を悪魔と看破できる一般人がいるとも思えない。

 可能性を模索する。

 例えば、実は悪魔と契約している珍しい一般人で、ナユタの正体に気付くことができた。

 もしくは、やはり③が濃厚で、エージェント本人か、操られて偵察している一般人。

 どれだろう。

 そして、それぞれどう対処したらいいだろう?

 自衛手段。

 そんな力は今のナユタにはほとんど無い。

 

「……いざとなれば人間に使()()しかないか」

 ナユタは、支配の悪魔だ。

 前の世代のマキマがやらかした事の大きさゆえに、ナユタが人間世界に居ると知られれば、世界中の政府機関が狙いにくるだろう。

 誘拐されるかもしれない。

 殺されるかもしれない。

 ナユタとしてはできる限りこの平穏な時間が続いてほしいと願っているが、それが永遠だと盲信できるほど愚かでもない。

 いつかはバレると思っている。

 その時のために力を蓄えねばならない、とも。

「……いやだな」

 結局、ナユタの身には何も起こらなかった。

 中学校の敷地内という安全圏に辿りつくと中年男は追跡をやめた。

 ナユタはカラスを追加で2匹、支配下におく。男の後を追うように指令した。

 

 

 学校は、退屈だった。

 同級生の女子たちはがむしゃらな生命力と好奇心の躍動を持て余し、同時に、成長とともに増え続ける選択肢の多さに懸命に適応しようとしている。

 曰く、微妙なお年頃。

 自分にできることとできないことのラインを手探りしている。

 社会性。責任感。おぼろげな大人の証明。

 一刻も早く成長するために体験と考察を繰り返す。だが大抵は自らのエネルギーを制御できない。強くなりすぎた悪魔のように、本能と欲望に突き動かされてしまう。

 人間の偉いところは、痛い目にあうと学習し、制御できるようになるという点だ。成長することができる。素晴らしい特性だとナユタは思う。

 だから、その過程である中学生世代をピックアップして動物的で未熟だと鼻で笑うのは愚かなマウント行為でしかない。

 それは分かっている。分かってはいるのだけど――

「ねえ、ナユタちゃん! このクラスの男子で誰が一番かっこいいと思う!?」

 こうも毎日毎日、色恋話ばかりさせられるのはうんざりだった。

 人間の女の子同士の会話において最も重要なのは、共感らしい。

 誰が聞いても「いいんじゃない?」と思われるような回答を挙げるのが無難であり、鋭い指摘は求められていない。このケースで答えるべきなのは、スポーツができるとか、頭がいいとか、オシャレに気を遣っているとか、そんな項目に当てはまる男子だろう。あとは友人たちの誰かの意中のカレを引き当てないようにすれば問題ない。

「……さぁ。岡咲君とか、いいんじゃない?」

「だよねっ! こないだのバスケの試合でさぁ――」

 はいはい、と相槌を打つしかない。

 基本は同意の繰り返し。

「だよね」

「それそれ」

「分かる~」

 誰がどんなタイプを好みだとか。実は気があるんじゃないかとか。あの子が先週末に男子と歩いているのを見たとか。

 放っておけばいいのに、と思う。

 知っておいて損もないけど、得もない。

 相手の弱みを握って支配できるような能力があるならまだしも、彼女たち一般女子中学生はただの人間。それを知ってどうするというのだろう。

「――ねえねえ、ナユタちゃんって誰か好きな人っている?」

 そうら、きた。

 毎日来る質問だ。ナユタ周りの友人たちの間で交わされるデイリークエスチョン。たった1日で答えが変わるはずもないのに飽きもせず連日繰り返されている。

 ……好きな人。

 いると言えば、深掘りされて、

 いないと言えば、耳年増に諭される。

 ナユタの回答は決まっていた。

「親戚のお兄さん」

 年上で、憧れの範疇内で、友人は会うことができない。

 これで余計なお節介からは大体逃れることができた。

「あ~、いつもの人かぁ」

 しかし、今日はちょっとしつこかった。

「どこが好きなの?」

「ん……」

 これも、何度か言っているはずだけど。

 かっこいいから、とか言ってしまえば「どういう所がっ?」と追撃される。だからナユタは、

「かっこよくはないんだけど、」

 と前置きした。

「……まあ、優しいとこかな」

「えー? それだけじゃないでしょ。他にはっ?」

「ほか……」

 今日は厄日か。

 せっかくだから、少し考える。デンジの顔を思い浮かべた。

 どこだろう。

 自分が彼を好きだとしたら、どういう部分に惹かれるのか?

「んー」

 まず、頭は悪い。

 これは擁護のしようがない。

 次に、オシャレかというと、これがまったく欠片もあり得なかった。服は安物、これ一択。下手をすると髪さえ梳かさない。

 ではスポーツ。

 体力面、運動神経……は優れているだろう。

 でも運動をできるのが彼の長所とは思っていない。

 何より、運動バカを好きになるのは女子的にイケてない。お前の感性は小学生か、と見下されてしまうのだ。仮にも支配の悪魔であるナユタにとっては耐え難い屈辱だ。ゆえに運動面はありえない。絶対に。

「……一緒に居て、安心するところかな」

 捻りだした答えは微妙だと、自分でも思った。

 友人も当然、納得しない。

「安心って、どんなときに安心するの?」

「いや、いつでも」

「えー、適当に言ってない?」

「そんなことないって」

「だったらなんで安心するの?」

「んー」

 まあ、こうなるか。

 しかし難しいことを聞かれてしまった。

 安心。嘘ではない。しかし何故と聞かれても答えるのは難しい。

「私を嫌いにならないって分かるから、かな。素のままでいられるっていうか」

「ふぅーーん」

 友人は、意味深に腕を組んだ。

 そして頷く。つまんない、という心の声を隠そうともせずに。

「ナユタちゃんってぇ、お子様だね」

「はァ?」

 思わず声が上擦った。

 聞き捨てならない一言だった。

 人間の子ども風情に馬鹿にされた。信じられない。無数に繁殖するホモサピエンスの1匹ごときがいったい誰に向かって呆れ顔を晒しているつもりか。傲慢の極み、万死に値する――と内なる悪魔が猛っている。許しておけない。沽券に関わる。

 思わず立ち上がった。

「わっ、怒った?」

 が、焦る中学生の姿にはっとした。

 自省する。落ち着け、同レベルに落ちてはいけない。

 私は悪魔。すんごい悪魔。

 人間の小娘相手に動じたりしない。

 ゆっくり息を吐きだした。再び椅子に座りこむ。

「私は、お子様じゃない」

「ごめんごめん、そんなつもりなかったんだって」

「私は、お子様じゃない」

「分かったって。でも、ナユタちゃんってそういうとこあるよね」

「何が」

 曖昧な連体詞を連発されて腹が立つ。予防線を張りながら殴ってくるのは卑怯だろう。どうせやるなら反撃覚悟で身を晒せ。

「興味ないことには見向きもしないっていうか」

「そんなことない」

「え~、だって、ねえ……?」

 何なの。

 はっきり言ってほしいんだけど。

「私は好奇心旺盛です。恋愛にも興味津々」

 友人は、にへらと目尻を下げた。

 ナユタは多大な労力を費やしながら苛立ちを抑えこんでいる最中だったから気付けなかった。友人は単にからかっているだけ。普段からクールぶっている友達がなぜかムキになっている、なんだかとっても面白いし、可愛らしい――そんなふうに生温かい視線を送られていることに。

「え~~、じゃあさ~、明日から週末じゃん? デートに誘ってみたら?」

「デート?」

「だって、好きなんでしょ? だったら一歩踏み出してみてもいいんじゃないかなぁ? もしも怖くないなら、だけど~?」

「……怖い……?」

 悪魔としては受け流せないワードだった。

 支配の悪魔ともあろう者がデートごときを恐れてどうする? それはつまり、自分はデートの悪魔よりも格下であると、戦う前から認めるようなものだった。……そんな悪魔が存在するかは不明だが。

「いいよ。やる」

 上等だった。

 ナユタは毅然と胸を張る。

「えっ、ほんとー?」

「丁度いい。何か仕掛けようと思ってたところ」

「わぁすごーい! 私は嬉しいよ。ナユタちゃんも大人になるんだねえ」

「私は始めから大人」

「うんうん、そうだねー。……あっ、でも今日は金曜だから今夜中に誘わないとね。どうする? これから作戦会議する?」

「必要ない。私は大人。デンジなんてすぐにメロメロにしてみせる」

「へぇ、デンジっていうんだ……。どんな人どんな人?」

「あほ。鈍感。甲斐性なし」

「あははっ、なにそれー! 照れ隠しぃ?」

「違う。ほんとのこと」

「ナユタちゃんがそんなふうに言うなんて珍しいね~。うん、これは面白くなるかも」

「なに?」

「なんでもなーい! じゃあ月曜日の報告を楽しみにしているよっ」

 

 

 今日の夕食当番はナユタだった。

 男をつかむなら胃袋をつかめ。古来から連綿と伝わってきた人の知恵。ナユタも習うことにした。

 メニューにも抜かりはない。予め調べておいた女子力アピール料理を上から順にチョイスして、普段は買わない珍しい調味料も下校途中で揃えておいた。

 本日のメニューはこちら。

 

・肉じゃが

・カレー

・茶碗蒸し

・味噌汁

・手作りケーキ

 

「どう?」

 完璧だった。少なくともナユタ自身はそう思っていて、本人以外には読み取れないドヤ顔でデンジを伺った。

 だがデンジの反応は芳しくない。

「なんか……重くない?」

「は?」

「組み合わせがおかしいっつうか、なんでケーキ……?」

「男でしょ。食べてよ」

「食べるけど……なんか口ん中がぐちゃぐちゃになりそう。サラダとかは……」

「食べて」

「はい」

 スプーンでカレーをひとすくい。

「……ん、うめえ」

「でしょ」

「ナユタの作るメシは旨ぇな。俺のカレーじゃこうはいかねえ。なんでだ……?」

「レシピ通りに作るだけ」

「いやあ、俺ぁ加減ってやつが苦手だ。塩とか砂糖とか、“適量”って何だよ? こっちは分かんねえからレシピ見てんのによ~」

 デンジは口をつけてしまえば早かった。夢中になって詰め込んでいく。

 ナユタはちゃぶ台に頬杖をついて、ぼんやりと少年の食事風景を眺めた。

 でかい弟がいるってこんな感じだろうか。

「ごちそうさま」

「ん」

「旨かった」

「うん」

 皿を集めて片付けにかかる。

 スポンジを手に取り、デンジに背を向けて、

「そういえば、明日デー、」

 なんとなしに切りだしてみて、固まった。デートの誘い。こんなんでいいのか。

 瞬きするほどの間だけ躊躇する。と、幻聴が聞こえた。友人の小ばかにしたような物言いが。

――もしも怖くないなら、だけど~?

「そんなことないし」

「あ? なに?」

「……デンジ。明日デートしよう」

 言った。

 言った。

 言っちゃった。

「……」

 デンジ、何か言ってほしい。

 沈黙が耳に痛い。

 反応を伺いたい。

 けれど振り向けない。

 唐突に、自身の髪型が気になった。前髪は乱れてないか。毛先はほつれてないか。

 鏡が欲しいと思った。しかしキッチン周りに置いてあるはずもない。

「デンジ」

 とてつもない勇気を奮い起こしてナユタは振り向いた。

 少年は、

 いつも通りだった。見た目だけは。

「ああ……デート? 何すんの?」

 ナユタの敏感な鼻はある匂いを検知していた。

 デンジから漂ってくるネガティブな感情。哀しみの匂い。

 ナユタは臍を噛む。

 デンジはきっと今思いだしている。デートという単語が連想させた、かつて一緒に映画館を巡ったという別の女の存在を。

 マキマ。

 私の知らない、別の私。

「どっか行きたいとこでもあんの?」

 本当は、街にでるつもりだった。けれど辞めた。比べられるのは癪だった。

 しかめ面になってくるのが自分でも分かる。キッチンに向き直って皿洗いを開始した。

「……どこに、行くと思う?」

「さぁどこかなぁ。そういや買い物と犬の散歩以外で一緒にでかけたことってねーんじゃねーか?」

「答えは……、この辺」

「このへん?」

「色んな道を歩くの」

「なんだ、散歩か」

「違う」

 今さら引き下がれない。ナユタは手の中で食器類を泡立たせながら淡々と言葉を繋げていく。

「町内会のゴミ拾い。明日の9時から。一緒にやろう」

「はぁ~~?」

「いいでしょ、偶には。近所にいい人アピールしようよ」

「ええ~~~~? 町内会にゃあ犬に首輪つけろって文句つけてくる奴がいるからなぁ」

「だったら、つける?」

「そりゃ街ん中を歩くときはつけるけど、公園でぐらい外してやりてえよな~。うちの犬たちは、なんつーかただのペットじゃねえんだ。ちゃんと言うこと聞くし」

「……そうだね」

 蛇口を捻って洗剤の泡を流していく。

 ごぼごぼと音を立てながら排水溝へ吸いこまれていく、その光景を恨めしそうに眺めているしかない。

 洗い物が終わってしまった。

「んじゃま、行くか。ゴミ拾い」

 デンジの呟きはなぜだかナユタには空しく聞こえた。

「うん」

 自分の返答も同様に。

 気に入らなかった。

 デンジはどうにも過去の出会いを美化している節がある。

 騙されたくせに、傷つけられたくせに、どうして永久に会えなくなってしまった女を今さら懐かしむ?

 痛い目にあっても学習しない。人間のくせに愚かな在りよう。前を向かねば人生は拓かれないというのに。

 ……いや、そうじゃない。

 私が言いたいのは、そんな綺麗事じゃない。お為ごかしで誤魔化すな。

 結局のところ大事なのは、己の利益だ。

 それが情愛なのか支配欲なのかは判然としないけど、とにかくデンジに他所を向かれていては困る。

 振り返った。

 

 デンジ。

 情けない顔をするな。

 こっちを見ろ。

 

「マキマとのデートは楽しかった?」

 思わぬ一撃に、デンジは臓腑にナイフを突き立てられたような顔になる。

 ナユタはレンズのような瞳でただ観察する。

 デンジの表情筋が少しずつ硬くなり、理解が広がっていく様子がみてとれた。深く息を吸いこんで平静さを取り戻そうとしているが、ほとんど取り繕えてはいなかった。

 その変遷に、暗い愉悦が湧きあがる。

 

 どう? 新しい傷で上書きされた気分は?

 こっちのほうが痛いでしょ?

 

「――よく、分かったな。俺がマキマさんのこと考えてるって」

「だってデンジ、単純だから」

「そぉかい」

「デートなら映画のほうが良かった?」

「別に」

「ゴミ拾いじゃ、つまんないか」

「あ~、怒んなよ。俺が悪かった」

「別に怒ってない」

 

 デンジは何にも分かってない。私がマキマを引き合いにだした理由を勘違いしている。

 私はそもそも怒っていない。本当だ。ただこっちを向いてほしかっただけ。なのに彼は、上の空でいたから責められたと、そんなふうにしか感じていない。

 私が何を求めているか、考えない。

 何をしたがっているか、知ろうとしない。

 仮にしたところで、分からない。

 デンジ。あなたはなんて、なんて下等な――

 

――いいのか?

 

「っ」

 やめろ。

 思わず、心臓を抑えた。背を丸めてしゃがみ込む。

 暗い血潮が全身を巡りだす、その前に抑えこんだ――そんなイメージで思考を固定した。

 やめろ。勝手に溢れるな。

「ナユタ……? おい、ナユタ!?」

「……だいじょうぶ」

「いや、おい、ちょっと顔見せろ!」

「ほんとに大丈夫。ちょっと立ちくらみ。ほら」

 本当に問題はなかった。

 すっくと立ち上がり、上体を大きく左右に捻ってみせる。へっちゃら、とVサイン。

 デンジは怪訝な表情。

「……病気とかじゃねえ?」

「悪魔は病気しない」

「本当かよ」

 何でもねえならいいけどよ、と浮かせかけた腰を下ろした。

 実際に大したことではなかった。病気でもないし、身体に欠陥があるわけでもない。

 ただ、驚きすぎただけ。

 まさかデンジを見下そうとするなんて――

「疲れてたのかも。ごめん、今日はもう寝る」

「ああ、分かった……。なんかあったらすぐ言えよ」

「うん」

 私――ナユタは、支配の悪魔だ。本能的にあらゆる生き物を2つに区分けしようとする。

 自分より下なのか、上なのか。

 支配できるのか、できないのか。

 できないなら、どうしたら引きずり落とせるか。雁字搦めにする方法。弱みはどこか。……そんなことばかり模索する。

 分かっていたことだけど。

 寝室に布団を敷いて、潜りこむ。

 別に疲れてもいないけど、今日はテレビを観る気分ではなかった。

 犬たちはナユタを気にして近くで座りこむも、身は寄せないと決めたようだった。

 それでいいとナユタは思う。今夜は誰にも触れられたくない。

「……」

 多分、デンジが悪い。そう思った。

 デンジには未熟な部分が多すぎる。普段から目につくせいでナユタは悪魔の欲求をくすぐられていた。彼のどこが“下”なのか。並べて、数えて、精査する。嫌な性分だと自分でも知っている。知ったうえでも、どうしようもない。

 本能だった。人間なら曖昧にしておける部分を明確にせずにはいられない。そうするほどに対等な関係性からは遠ざかるというのに。

「……もう、時間がない」

 完全に釣りあった関係などありえない。

 だったらどうするか、その策は決めていた。

 プラスマイナスでゼロになればいい。

 生活力、人付き合い、要領の良さ……それら表向きの、いわば社会的である昼の部分において私のほうが上ならば、デンジには、裏に隠すべき夜の部分で上になってもらう。

 シンプルな力。

 常識や倫理観にとらわれない世界で最も単純なルール。弱肉強食。

 人間なら誰もが持っている、力づくで願いを叶えてしまいたいという短絡的な発想。それを選ぶように誘いこみ、発揮させる。そうして私の無意識に刻まれつつある『総合的にはナユタの方が優れている』という認識を塗りつぶしてもらう。『力ではデンジに敵わない』と。頭のてっぺんから足の爪先まで理解させられてしまえば支配の悪魔(わたし)といえど適切な距離を保てるようになるだろう。

 昼は、私。

 夜は、デンジ。

 それが目指すべき最終到達地点。

 デンジには支配の悪魔を半分だけ支配してもらう。

 

 

 電話が鳴った。

 

 またしても岸辺だった。

 ナユタは聴覚も優れている。隣の部屋で横になりながら会話内容に耳をそばだてた。

 

『――昨日に言ってた潜伏中の悪魔だが、1日探しても見つからない。明日は下水道も探そうって案も出ている。正直やりたくない』

「とっくに逃げちゃったんじゃないすか?」

『それはない。お前の街ん中にいる。悪魔は鼻が利くからな。契約してればある程度は分かるんだよ』

「へえー。便利っすね」

『……で、ここからが聞きたいことなんだが。その悪魔探しで、もう1箇所だけ探せていない場所がある。民間人の家の中だ』

「え~~と、一緒に住んでるってこと?」

「まあ早い話がそうなるな……。一応全ての世帯はまわったが、全員快く対応してくれた。力づくで立てこもってるわけじゃない。……となると、残る可能性は1つだけになる』

 意味深な沈黙。

『家主の人間に匿われているってパターンだ』

 なるほど、とナユタは布団の中で感心した。

 岸辺。流石はデビルハンターの大ベテラン。見事な推理だ。

『その悪魔な、実は人間とまったく同じ容姿をしている。マキマやナユタと同じだ。人間のふりをされると素人には見分けがつかない。もちろん戸籍もないから家なんか借りられないんだが……人間と仲良くなっちまえば話は別だ。居候って形なら住みこめる。下手をすると、ずっと以前からこの街に住んでいた可能性もあるな。……いや、そっちの方が可能性としては高いかもしれない。押しかけてきた指名手配犯を助けようとする物好きなんて普通はいないからな』

 素晴らしい。これが人間の捜査力。僅かな手がかりから可能性を絞りこんでいる。ナユタとしては胸を打たれたような気分だ。

 岸辺の推理に間違いはない。

 大正解だった。

『デンジ、心当たりはないか?』

「さぁ……」

 デンジは知らない。当たり前だ。ナユタが教えていないんだから。

 ナユタは、随分前から知っていた。

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 ずっと黙っていた。誰にも言わなかった。

 理由は2つある。

 1つ目は、その悪魔は人間と友好的で、誰も傷つけようとしなかったから。

 2つ目は、彼女は人間の男と夫婦という形で生活していたから。

 人間の夫と、悪魔の妻。

 非常に珍しいケースであり、ナユタにとっては悪魔と人間が手を取り合って生きていけるかを量るための、いわばサンプルケースだった。

「……おーい、ナユタ。起きてる? なんか岸辺のおっさんがこの街に悪魔が住んでるかって聞いてんだけど」

「……」

「……寝ちったか」

「起きてる」

「お。あのさぁ、岸辺のおっさんが……」

「知らない」

「あっそ」

 ナユタは、嘘をついた。

「あ~、もしもし? ナユタも知らないってよ」

 その悪魔をかばったわけではない。

 あくまで自分のためだった。

 サンプルケースを台無しにされては困るから。

 人間と悪魔。男と女。夫と妻。

 その行く末がどうなるか。知っておかなければならない。

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