ナユタとデンジはセックスしたいだけだった   作:シャブモルヒネ

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3日目・ただの土曜日

 朝だった。

 土曜日の朝。せっかくの休日。朝の9時。

 軍手をはめ、大きくて透明なビニール袋を2つ持って、デンジは死んだ魚の目で路地に立っている。

 町内会のゴミ拾い。

 青春まっさかりの高校生がやることではないとデンジは思った。

「な~にが楽しいんだ、これ……」

 からん、と空き缶を袋にいれる。次に手を伸ばした先は、雨に濡れた段ボール片。人差し指でつまんで持ち上げる。これは燃えるゴミなのか、違うのか。少し迷って“燃える”に入れた。

 どうしてこんなことをしているのか。

 金になるわけでもないのに。

 大きく溜め息をついてメインストリートに目を向けた。

 ナユタと知らないおばちゃん、そしてその娘が楽しそうに話しこんでいる。

「わぁ~、ワンちゃん! わんわん!」

「ごめんなさいね。触っても大丈夫?」

「ええ、平気ですよ。うちの犬は賢いので。お座り」

「わぁ、わぁ! すっごい、いい子! お手っ。わぁ~~」

 幼女はぐりぐりと犬を撫でまわす。デンジがやったら怒るような部位までわしゃわしゃと。我が家の犬はされるがままだった。

 よく耐えている。耐えさせているのはナユタだ。

 あいつぁすげえ、調教師とかになれんじゃねえかとデンジは感心した。

 陽射しがぽかぽかと暖かい。雀も安心して地面に降りてくるような朝だった。こんな街に悪魔が潜んでいるなんてとても思えない。

「よぉおお~、早川っ!」

 手を動かしていたデンジに知ってる声がかけられる。

「北……川?」

 振り向いた。

 悪魔よりもおぞましい男が立っていた。

 オールバックに揃えた髪が胡散臭い。リクルートスーツをばっちり着込んで、胸ポケットからは純白のハンケチを覗かせている。趣味の悪い水玉模様の蝶ネクタイを首元で揺らしながら、北河は小汚い路地裏できらりと歯を光らせた。信じがたいことにバラの花束まで持っていた。

「なんだぁ、その恰好……」

 頭のてっぺんからつま先まで不自然だ。

「俺さ、思ったのよ! この世の半分は女なんだから出会いはそこらじゅうに転がってなきゃおかしいって! だから今日はこうして愛を探しにきたってわけ。学校はもうだめだ、俺に関する根も葉もない誹謗中傷が広まっちまってる。真実の愛は他のどこかで探すしかねえ……ってなわけで、ラブ探しの旅をこの街から始めるって寸法よ。どーよ? びしっとキメてきたぜ~? 人間は第一印象が9割だからなぁっ」

「はぁん、そりゃ大変だなァ」

 時代遅れのパーティにでも参加するような恰好のまま北河は「ポゥ!」と叫んでマイコーなポーズをきめた。本人的にはイケてるつもりかもしれないがゴミ拾いにはまったく似合わない。いや、この地球上のどこにいても変だろう。変わり者を通りこして異常者だ。

 デンジは背後でナユタたちがあっけにとられているのが分かった。

「……デンジの友達?」

「違う。こんな奴は知らねえ」

 デンジは思わずしらを切ってしまう。が、

「そうさ、俺は生まれ変わったんだ! 新生・北河・デスアンドリバース! まごころを君に!」

 この前向きさは半分ぐらいなら見習ってもいいとデンジは思う。

 北河は武器人間もかくやというスピードで徒歩ドリフトをきめながらナユタの前でキザに一礼、恭しくバラの花束を突きつけた。

「初めまして、可愛らしい御嬢ちゃん。僕と結婚してくれないか?」

「……はい? え、ええと……?」

 こいつぁすげえ。あのナユタが面食らっている。

 北河のネジの外れ具合は尋常ではない。デビルハンターに向いてるんじゃねえかとデンジはおおいに感心した。

 

 

 

 

 

ただの土曜日

 

 

 

 

 

「妹っ!? 今、“いもうと”って言ったか!? しかも義理だと!? ふざけんなァ!!」

「な、なんだよ」

「早川てめえ、頭ピンクパイナップルかよ! 前世でどんだけ徳を積みやがったんですか!? ああ~~、義理っ! いいなぁ、血の繋がらない妹っ! 俺にできない事をお前がやるっ、許せないっ!」

 北河はフルスロットルだった。

 義理の妹という単語を聞いたら瞬時に沸騰。

 彼の放つ妖気は雀を遠くへと羽ばたかせ、犬と戯れていた微笑ましい親子を早足で遠ざけた。

「……個性的なお友達ですね」

 ナユタはデンジの袖口を掴んでいる。それはこの男と2人きりにしないでほしいという無言の訴え。

 デンジは心中で謝罪した。すまん、守りきれるか分からない。

「ナユタです。よろしく……」

「それは僕のプロポーズを受け入れてくれると思ってもいいのかな、いいよね?」

「ど、どうしてそうなるの?」

「だってNOと言わないじゃないか。気があるってことだろう?」

「そんなわけない……。NOです。NOでしかない」

「じゃあどうやったらモテるかな?」

「……え、あ、え? なに……?」

 速い。速すぎる。ナユタでさえ会話のスピードについていけてない。横で聞いているデンジも同じ。いったい何が『じゃあ』なのかさっぱり分からない。

 北河はなぜか、ぐっ、とサムズアップをしてみせる。

 ナユタはそれはもう嫌そうにのけぞった。

「ナユタちゃん、中学生でしょ。後学のためにもよくモテる男のタイプを教えてほしいんだ。どうやったらJCにモテるかな? ささ、教えて」

「ええと、ええっと……?」

 どうやら北河は、フラれた瞬間に次のプランへと切り替えたようだった。どうしたら他の女子中学生にモテるのかを聞き出そうとしている。判断が速すぎる。見習ってはいけないとデンジは深く胸に刻みこむ。

「おい北河。おめえ、早口すぎて気持ち悪いんだよ」

「なんだよお兄ちゃん、ひどいなぁ」

「お兄ちゃんはやめろ。鳥肌がたつ」

「チェキー! ひどいよ兄チャマ!」

「ぶん殴っていい?」

 北河はゆらゆらと上半身を左右に揺らしながらナユタに迫って質問し、「きも」と呟かれると大いに喜んだ。バラの花束をナユタに押しつけて去っていく。通り雨のような奴だった。

 ナユタはしばらく呆然としてから、ぽつりと。

「……正直に言う。ちょっと怖かった」

「ああ。ごめんな」

「デンジは友達を選んだほうがいいと思う」

「まじごめん」

 バラの花束をデンジに渡した。一刻も早く手放したいらしい。バラに罪はないはずだが仕方ない、デンジはビニール袋につっこんだ。

 デンジとナユタ、そして2匹だけ連れてきた犬とともに街路を歩く。

 ゴミは草むらなどに意外と落ちている。ビニール袋はすぐにいっぱいになった。

「これどうすんの?」

「小学校のグラウンドに集める。収集車とか来るから」

「へぇ~。なんかもらえたりする?」

「多分。飲み物ぐらいは」

 デンジはパンパンになった2つのゴミ袋をサンタクロースのように背負った。それなりに重い。自給800円分ぐらいは働いたはずだが、報酬は飲み物だけと言う。デンジは努めて不満を表にださないようにしていたが、ナユタから見ればバレバレらしい。「今日は労働しにきたんじゃないでしょ」と窘められた。

「分かってる? ちゃんと挨拶してよ?」

「はいはい……」

 2人と2匹で小学校へ向かう。

 デンジはちらりと横目で伺った。ナユタは特に楽しそうでもつまらなそうでもない。

 彼女は昨夜、近所にいい人アピールをする、と言っていた。

 そりゃナユタの言うことだから必要なことなのだろうとは思うけど、そんなことばかりこなす人生は面白いのだろうか……と、ここでデンジはふと疑問を覚えた。

 ナユタのしたいことって何だろう?

 デンジはかつて、旨いものを食べたかった。女とイチャイチャして、一緒に部屋でゲームをして、抱かれながら眠りたかった。そういう夢があった。今でもある。

 夢。

 マキマでさえ歪ではあっても夢を持っていた。

 じゃあナユタの夢は何だ?

 メシか。男か。それとも金か。

 どれも違うと思う。

「なァ、ナユタ」

「なに」

「夢ってあるか」

 ナユタは歩く速度はそのままで、ゆっくりと首をデンジに向けた。

 作り物のような顔。

 デンジは、唐突に気がついた。

 彼女がちゃんと笑っているところを見たことがない。見た目の歳ごろ相応の、楽しくて嬉しくてしょうがないといった弾けるような笑みを知らない。

「夢?」

「お、おー、夢」

 なんでだろう。

 夢が無いのか。それとも夢にかかずらっている余裕が無いのか。だとしたら、その原因は――

「もしかして、俺のせい……?」

 ナユタは普通の暮らしのために色々頑張ってくれている。ひょっとしたらデンジの気付いていない部分まで。

 デンジは自問する。その労力の半分でも自分は担えているか?

 まったく自信がない。

「俺さ、頭悪いからよく分かんねえんだけど……俺にできることってあっかな?」

「できること……」

「なんでもいンだけど」

「………………」

 ナユタにしては珍しく、長考の構えだった。

 顔向きを正面に戻して、やや伏し目がちになりながら。嘘のように長い睫毛を揺らしてただ歩く。角を3つ曲がったところでようやく口を開いた。

「会社」

 ぽつり、と。

「会社を、作る。デビルハンターの民間会社。社長はデンジで、副社長は私。始めはどこかの別の会社で経験を積んで、コネと信用を作ったら独立する。どう?」

「俺が社長~~? できっかな?」

「大丈夫。面倒な事務処理には人を雇う。役所への申請とか他所との交渉は私がやる。デンジは戦うひと。会社の看板、象徴、代表者。『あのチェンソーマンが率いるデビルハンターの会社』……話題性も抜群。どう?」

「ん~~……、公安じゃダメなわけ?」

「デンジ、考えて? 公安だとどんなに出世してももっと偉い人がいるんだよ? 好きにできないし、嫌なことも命令される。けど、自分が社長になっちゃえばどう? 何でもできるよ?」

「何でもって……何でも?」

「何でも」

「じゃあ、じゃあ……美人の秘書を雇ったり……?」

「できる」

「社員は全員、女だけ……?」

「でき……できる? う~ん、男女雇用機会均等法……。内務や外回りを男にすれば……不可能ではない……」

「できんのかっ?」

「まあ、デンジの周りを女性だけで固めるのは、できるかな……」

「おいおいおいおい……、ナユタ! 天才か!?」

 デンジは想像する。夢と希望に満ちた桃色パラダイスを。

 

 

「社長! 大好きっ!」

「あんなに強そうな悪魔を倒しちゃうなんて素敵っ!」

「一生ついていきます! 抱いて~!」

 

 

「最高じゃん……」

 鼻の下がおおいに伸びる。

 将来のことなんてろくに考えていなかったデンジでも具体的なビジョンをお出しされれば胸はおおいに高鳴った。夢は願うものではなく、叶えるもの。希望がむんむん湧いてくる。美人の女。優しい女。俺は社長。何でもできる。

 こんなことが許されていいんですか?

 いいんです。だって社長なんだから。

「会社ぁ、作るかぁ!」

「おー」

 小学校のグラウンドについた。

 町内会の人間がぽつぽつと歩いていて、拾い集めたゴミを一箇所に置いていた。

 デンジは2つの袋を背負って捨てに行く。その途中でナユタは何人もの人間に挨拶した。デンジの知らない顔がほとんどだ。こういう根回しが社長には必要だ、とナユタは囁く。デンジも一応、会釈して回る。

 周りを見渡す。

 おじさん・おばさんばっかりだ。

「若い人は遊びたいから。付き合いがないと来ない」

「だろうなぁ。俺もナユタが言わなかったら来なかったな」

「だからこそ価値がある。人がやりたがらないことはチャンスでもあるの」

「ふ~~ん、よく分かんねえけど」

「デンジ。覚えておいて。何でもないって思っていたことが大切だったりする。ちゃんと側面を見れてないだけかもしれないんだから」

「ん~~……例えば?」

「身近なところに黄金が埋まっているかもしれないって話。ただ今は知れてないだけで、ほんの少し地面を掘るだけで見つかるかもしれない」

「ああ、そう……?」

 軍手を外して、腕を組む。

 たいして疲れてもいない。遠い昔、生きるためにポチタと伐採していた頃に比べれば労働のうちにも入らない。

 たくさんの人々が雑談している。

 その中の1人にナユタは話しかけた。

 男。20代くらいか。

 土曜日なのに白のワイシャツにスラックス、出勤中のサラリーマンのような風体。猫背で、覇気がない。目元には隈が浮かんでいて肌色も悪いように見える。

 平日は仕事で忙しかったのだろうか。だったら土曜日の朝ぐらい家でごろごろしてりゃいいのに。……そう思っていたデンジと殆ど同じような質問を、ナユタは投げかけた。

「家でお休みになっていた方が良いんじゃないですか?」

「ああ、いや……、偶には町内会にも顔をださないとね」

「奥さんはいらっしゃってるんです?」

 サラリーマン男はなぜか表情を強張らせ、

「……いや、家に居る。うん、ちょっとね、やることがあって」

「そうですか。最近、あまり見かけないので、気になって」

「あいつを知ってるのかい?」

「ちょっと話したことがある程度ですけど」

「そうか……。ああ、珍しいと思ってね。あいつ、人見知り……みたいなものだから」

「今日は一緒に居たほうがいいかもしれませんよ。今、この町には悪魔がいるそうです」

「えっ!? な、なんだい、それは」

「私の叔父が公安のデビルハンターでして。あまり大っぴらに話してはいけないんですけど、実は……」

 デンジは「むぅ」と唇を尖らせた。

 誰もかしくも初対面のような顔ぶれだ。

 ナユタとの会話に混じるのも気後れするし、かといって他の誰かと知り合いになりにいくのも難しい。せめて歳が近い者なら気安く話しかけられるのだろうが、未成年は幼児しか見当たらない。

「ん?」

 気付いた。

 遠く、人ごみの向こうから、こちらをじっと見つめているオヤジがいる。

 背の低い中年男。

 作業着で、首にはタオルをかけている。学校の用務員といった感じの男。粘着質な視線で……ナユタを凝視している。

「あ……?」

 同じ気持ち悪さでも、朝の北河のそれとは質が違った。

 危険度が違う。カエルとムカデくらいには。カエルは人間に害をなさない。だがムカデは足や手指にからみつき、毒の牙を突きたててくる。デンジのもつ戦闘経験が危険を訴えていた。あの中年男からは害意が滲みでている。

 睨みつけると、デンジに気付いて慌てたように群集にまぎれてしまう。

「んだよ、あれ」

 しばらく周りを見渡してみたが、隠れたのか帰ってしまったのか男が姿を現すことはなかった。

 黒ずんだ不安感だけが残っている。

 気味の悪い男。その正体を教えてくれたのは、ナユタだった。

「ストーカー」

 すぐ隣に少女は立っている。

 さっきのサラリーマン風の男はもういない。雑談は終わったらしい。

「デンジは今の作業着のおじさん、知ってる?」

「いんや、知らねえ」

「うちのアパートの前に住んでる人。私も知ったのは昨日だけど。多分、引きこもり」

「へえ……」

「ストーカーなんじゃないかな。昨日も後をつけられた」

「なんだって?」

 ぞわりと全身の毛穴が開くようだった。一瞬で寒気が伝播する。

 ナユタは幼い。気が強いほうでもない。コベニでも追い返せるような相手でも抗うことは難しいだろう。

 もしも自分がいないときにナユタが狙われたら――

「あの野郎」

 気がつけば拳を握りしめていた。

 標的を探すために一歩踏みだそうとして、そっとナユタの華奢な指がデンジの手首に添えられた。

「待って」

「……んだよ」

 引き離せずにいると、デンジの固まった指を1本ずつ解きほぐそうとする。慈しみ、擦るように。篭った熱が溶けていく。

 仕方なく力を抜いた。

 汗ばんだ手の平にナユタは自身の指を捩じ込んだ。それは小さく、柔らかい。

 デンジはようやく両手を大きく開くことができた。肺に溜まった衝動を溜め息とともに吐きだした。

「……落ち着いた」

 半分、嘘だ。けど少しは冷静になれたのも事実。デンジは肩の力は抜けたと大げさにアピールした。

 ナユタはずっと平静顔だった。

「相手は人間。悪魔じゃない。倒せばいいってもんじゃない」

「分かってるけど」

「そんなに心配?」

「当たり前だろ」

「ふ~ん」

 ナユタは両手を後ろで組んで、上目遣いでデンジを伺った。

「そうなんだぁ」

「あのなぁ……」

 デンジはぼりぼりと首の裏をかく。息をつき、ナユタの大きな瞳を覗きこむ。

「人間だって危ねえんだからな? おめーはいい暮らししてっから分かんねーかもしれねえけど」

「デンジの経験?」

「そうだよ。俺ぁクソ貧乏だったんだ。他人なんかどーなってもいいって奴ぁいっぱいいるんだ」

「そう。じゃあ気をつけるよ」

 ナユタは傍らの2匹の犬の頭を撫でる。

「これからは外出するときは必ず犬を2匹は連れて行く。学校行くときも、帰りも。……帰りは、近くで待たせておいて、犬笛で呼んでからいっしょに帰る。どう?」

「あ、ああ。うちの犬はでけぇからな。2匹もいりゃあ大人にも負けねえだろ」

 ナユタはまるで想定していたようにすらすらと対策を述べた。

 しっかりしてんなァ、とデンジは今日何度目になるか分からない溜め息をついた。

 

 

 


 

 

 

 雲の上をスキップしているような心地だった。

 自分でも信じられないほど、心が浮ついている。

 ナユタはにやけないように表情筋を引き締めるのに必死だった。

 デンジにばれたらみっともない。努めて無表情を維持したつもりだが……ちゃんとできていただろうか?

 

 デンジが怒った。私のために。

 拳さえ振り上げようとした。私のために。

 

 たったそれだけのことがこんなにも嬉しかった。はぁ~、なんて安い女でしょう! と自分で自分を嘲笑ってみたが、やはり効果はなかった。高揚感は止まらない。だって、いったい他の誰ならデンジをあそこまで突き動かせる? いや、誰もいない。そう、つまり、

 今現在、デンジにとってナンバー1は、このナユタ。

 マキマとかいうビッチはお呼びじゃない。

 背筋から心地良い快感が駆け巡っていた。

 吉報も大吉報だった。

 これなら輝かしい未来へと辿りつけるはず。

 そう、デンジが真剣に私を見てくれるなら。この勝負、私の勝ちだ。

 

「勝機あり、勝機あり。うふふふ」

「なんだぁ、なんで笑ってるんだ……? こわ~」

 とにもかくにも午前中でゴミ拾いは終わった。

 一度アパートへ戻って犬を置いてきた。お留守番だった他の5匹の犬たちが必死に「今度こそ連れてってくれよぉ!」とのしかかってきたが、もう少しだけ我慢してもらわなければならない。

 ランチの時間になったから。

 デンジと2人で食べるのだ。

「どこで食うの?」

「カフェテリア」

「あん……?」

「お洒落な食堂みたいな感じ」

「ふぅーん。喫茶店みたいなもんか」

 もしかするとゴミ拾いなんかをやっていたからデンジの頭からはすっぽ抜けていたかもしれないが、今日は一応、デートなのである。ランチはお出かけしなければならない。自炊も、スーパーのワンコイン弁当も、ノーセンキュー。シャレオツなヒーコーを嗜まねばならない。

「ふう」

 ちょっと自制できてない。反省。

 

 デンジと2人で入店する。

 カウンターに並んでメニューを指定。ドリンクを注いでもらう。

「くそ高ぇ……」

「カレーでいいの? もしかして見慣れない料理名ばかりだったから?」

「うん、そんな感じ……」

 デンジを引っ張って、オープンテラス席に出る。

 向き合って、座った。

「どう? 風が気持ちいいでしょ」

「ああ」

「それじゃいただきます」

「いただきます」

 豚肉のローストビーフのなんとかフレーバーのほにゃららソース添えにフォークをぶっ刺した。匂いを嗅ぎながら口に入れてみる。

「んむ」

 なんか、不思議な味がした。

 それしか語彙がでてこない。多分、味覚の経験が圧倒的に足りてないんだと思う。

 正面を見るとデンジも微妙な顔をしていた。

「よく分かんねえ味がする……」

「そうだね」

 どんな調味料を使っているんだろう。

 メニューの説明と実物を比べながら予想した。デンジにも問いかけてみると「マヨネーズじゃねえってことだけは分かる」と返ってきた。まあそんなものか。それでもいいのだ。変わった体験を共有できたなら。

「な~んかなぁ、こうさ、がつがついけねえんだよなぁ。俺ぁナユタの料理のほうが好きだな~」

「……へぇ」

 ひゅるひゅると、魂から声が漏れてきた。

 感心と歓喜が同時に押し寄せてくる。

 デンジさん? あなた、なんですかそれは。だめだよ、そういう事言っちゃ。

「へぇ~~~~~~~~?」

「なんだよ」

「別に? うん。別に?」

「なんで2回言うんだよ」

「さあ」

 食べ終わるのはあっという間だった。貧乏人の悪い癖だ。もうちょっと雰囲気を楽しみたい。

 ドリンクを再注文しようということになった。

「何がいい? とってくる」

「んー、凝ってても良さが分からねえから、フツーのがいい」

「普通ってなに」

「わかんね。任せる」

 自分はチョコラテ。デンジはホットコーヒーにした。

 まあ値段分の味ではない。と思う。これはきっと滞在費みたいなのが含まれているんだと思うことにした。

「デンジ、」

 何の話をしよう。

 家計の話。今はやめておこう。

 互いの学校の話。……朝に会ったデンジの変な友達を思い出す。やめた。

 もう少し楽しい話にしたい。明るい話。

 未来の話。

「あのね。起業の話だけど」

「きぎょー?」

「会社を作るって話」

「ああ~、そんな話したな」

「私もデビルハンターになれるかな」

「ん~? なりたいんか?」

「副社長になるなら、戦えないと」

「そうだな~~、きっと素質はあるだろうからなぁ。もう何年かしたら何とかなんじゃね? でも、いいんか? 悪魔が悪魔を倒すってのは」

「仲間じゃないし。見た目で分かるでしょ。同じ種族とかじゃない」

「悪魔って何なんだ?」

「人間の恐怖から生まれた存在。遺伝子で繋がってない。全部、別」

「……つまり、どゆこと?」

「人間から生まれてくるのは人間と一緒。でも、人間は1人の女から生まれてくるけど、悪魔は人間全体から生まれてくる。概念のようなもの。でも生き物でもある。生き物だからちゃんと死ぬ。けど、概念だから、なくならない。死んでもまた生まれてくる。……いや、消えない、といった方が正確かな。でも生き物として死ぬんだから次は当然違う生き物になるわけで……、デンジ、ここまで分かる?」

「う~~ん、頭がこんがらがってくる……」

「難しい?」

「理科ぁニガテだ」

「論理学だと思うけど」

「分かんねえ。頭が熱くなってきた」

「そっか」

 おしぼりを渡そうとした。

「頭、冷やす?」

 あまり行儀はよくないが、額にあてれば冷えるだろう。それだけのつもりだった。

 デンジは、気が抜けたような表情をしていた。

「?」

 なんだろう。

「なに?」

「ああ、いや……」

「何か引っかかる?」

「……ん」

「分からないなら説明するけど。私のことでもあるし」

「そう、だな」

「デンジの知らないこと、教えてあげる」

 すると、どうしてだろう。

 デンジはますます呆然とした。口をあんぐりと、心ここにあらずといった表情。

「どうしたの?」

「……あ~、ちょっとな」

 デンジはこちらを見ていない。

 ぼんやりと目を伏せて、コーヒーカップを持ったままでいる。

「コーヒー、冷めるよ」

「おう、コーヒーな。コーヒー」

「……?」

 真っ黒いコーヒーの水面を眺めている。

 そういえば、時々こんなふうになる。コーヒーをだすと、カップを持ったまましばらく飲まずにいることがあった。今までは匂いが好きなんだと思っていた。けれどどうにも違うらしい。

 疑惑はじんわりと確信に変わっていく。

 デンジはコーヒーの液体を見つめている。そこに映る自分の顔を見ているわけではないはずだ。彼は、暗黒の揺らめきの向こう側に何かを思い浮かべ、別の世界を見い出している。

 何を? いや、誰を?

 どうしてそんな淋しそうな表情になる?

 それは多分、デンジにとって大切な思い出――

「誰?」

 言いながらテーブルに身を乗りだした。デンジのコーヒーカップを奪う。

「あっ」

 無防備な声。

「誰か、コーヒーに関係する思い出でもあるの?」

「……」

 へえ。

 そういう顔するんだ。

 今は私の時間のはずなのに。

 コーヒーを一気に飲み干した。

「あ、おい」

「うげ」

 喉の周りに苦味が貼りつく。異物感。拒否反応に、思わず舌をだした。

「にが」

「……ぷっ」

 しまった。ミルクも入れてない完全ブラックだったからマズさが半端ない。

 きつい。辛い。

「はは、子供かよ」

「笑うな……。子供じゃない……」

「ははは」

 デンジに笑われている。腹が立つ。

 でも、

 久しぶりに見れた気がする。こんなに楽しそうな顔。

 だったら、いいか。

 とりあえず、コーヒーはもう出さないと決めた。

 

 

 


 

 

 

 太陽が溶けている。

 雲の隙間から夕陽が差し込んで、空一面を赤く染めていた。

 まるで夢のようだった。

 いつだったか遠い日に思い描いたような景色――

 

 溢れる夕焼け。

 照らしだされる街並み。

 隣には大切な誰か。手を繋いで歩いている。

 なんでもない日常を、ただ当たり前のように進みながら笑いあう。

 「今日も1日楽しかったね」

 歩調を合わせて一緒に帰る。明日に希望を持ちながら。

 

――そんな夢を、確かに持っていた。

 デンジは思い出す。そんなふうに1日を終えてみたいと思ってた。

 

 足が、止まった。

 指にひっかけて背負っていたビニール製の買い物袋が背中にぶつかって止まった。音のリズムが途切れてナユタは振り返る。オレンジ色に染まった住宅街のアスファルトの上、無言で首を傾げている。

 

 どうしたの?

 

 なぜか、微笑に見えた。夕焼けの眩い光。足元からは長い影が伸びている。曖昧になった視界のなかで、彼女は優しく笑っていた。

 そのときデンジは初めてナユタを美しいと感じた。

 ナユタはじっとデンジを待っている。

 その顔はいつもの無表情。笑ってみえたのは幻か。

 どうして綺麗に見えたんだろう。……多分、ナユタが悪いとデンジは思った。

 今日はデート、なんて言ったから。つい昔の夢に新たな解釈を見いだしてしまった。

 隣を歩く誰か……それがどんな相手かまでは決めていなかった。ただ漠然と、新しい家族としか。……家族。戸籍をいじって義理の兄妹になってしまうのも1つの家族の形だろう。あるいは一段階すっとばして役所に届けを提出してしまい、永遠の契りを交わしてしまうのもまた1つの形。

「なに、その顔?」

「ちょっとな」

「また変なこと思い出した?」

「そんなとこ」

 ナユタはじとりとデンジをねめつける。

 その表情の差異が分かるのはきっと自分ぐらいだろう。デンジは苦笑する。これまで何度も怒らせてきたせいでそのときだけは雰囲気だけで察することができるようになっていた。彼女は傍目にはロボットのようだ。笑わないし、怒らない。けれどそう見えるだけで、実際は違う。

「昔に会った誰かのこっちゃねーよ」

 ナユタは、過去を嫌っている。

 デンジが想い出に浸っていると敏感に察知して機嫌が悪くなる。それぐらいはデンジにも分かってきた。

(多分、俺が取られるって感じるんだろーなァ……)

 ナユタは新参者だから。

 デンジが気持ちをよそに向けてしまったら独りになってしまう。家族が取られてしまうと思うのだ。

 その淋しさはデンジにもよく分かる。

 かつてポチタが居なくなってしまったときの気持ちと一緒のはず。あの喪失感は二度と味わいたくない。

「昔なぁ、普通の暮らしがしたくって、色々想像してたわけ」

「……」

「そん中ん1つに、夕方にこうやって家族と一緒に買い物してから帰る……てのがあったって思い出した。そんだけ」

「……そう」

 ナユタは1つ頷いて、

「なら、いい」

 とだけ零した。

「なあ、ナユタさんよ」

「なに」

「手ぇ、繋いでいい?」

 特に深い意味はないけれど、夢の続きをやってみたくてつい提案した。子ども扱いするな、と不機嫌にさせてしまうのは分かってはいたけれど。

 でもナユタは手を伸ばしてきた。

「ん」

 そして繋いでしまう。あっさりと。

 小さな指の感触がこそばゆい。

「……どうして驚くの?」

 ナユタは夕陽色に顔を染めて歩きだす。

 繋がった腕をぷらぷらと揺らして。離そうとはしなかった。

「いやぁだって……嫌がると思ってた」

「別に」

 ナユタの指がきゅっと握られる。

 2人、歩幅を合わせて帰路についた。

 夢は、いつの間にか叶っていた。

 ナユタのおかげだ。

「悪ぃな。気ぃ使わせた?」

「別に、って言った」

「うん?」

「嫌じゃない」

 眩しさに視線を落としながら彼女は言う。

「嫌じゃないから」

「そっか」

 半分ぐらいは嘘だろう、とデンジは思う。

 彼女は気恥ずかしさと天秤にかけたうえで家族をとった。今のデンジとの関係を大切にしている証拠。

 デンジは反省した。淋しい想いはさせない。そして、節操のない思いつきで彼女の宝物を汚してはならないと思った。ナユタを綺麗だと思う――そんな気持ちはけして表には出さない。彼女の兄としてあろうとデンジは決めた。

 

 

 

「ぱあぁぁぁ!」

 汚い悲鳴だった。

 デンジたちの住むアパートの近くの公園。覗きこんでみるとぽつぽつと人が居た。その真ん中で男が1人へたりこんでいる。

「あんだぁ?」

 腰が抜けたような態勢。ずりずりと後ずさりしている。リクルートスーツの尻が汚れるのもおかまいなしで、何かに怯えているその男……いや、その少年にデンジは見覚えがあった。

「北河じゃん」

 デンジのクラスメイトだ。

 奇行が多く、常識のないデンジをさしおいて学年イチの変人で知られている。

 ……そういえば、とデンジは思い出す。朝にはラブ探しの旅にでるとか言っていた。

 ははぁ、とデンジは独りごちた。

 さては朝の調子のまま初対面の女性につきまとって手痛い反撃をもらったか、あるいは巡回中の警察官に職質でもくらったか。

 よく見てみれば、怯える北河の視線の先には1人の女が立っていた。オフィスレディそのものといったパリっとしたスーツに身を包み、両手を腰にあてて堂々と変人北河を見下ろしている。そこまではいい。これだけならOLが変態を撃退したの一言で済むだろう。だがデンジは首を傾げざるをえなかった。そのOLの頭に、真っ黒い目だし帽が被さっていたからだ。異様な風体だった。首から下のキャリアウーマン然した社会人バリバリの着こなしが台無しになっている。

「デンジ」

 ナユタの低い声。

 珍しい声色にデンジは軽く驚いた。肺の底から絞り出すようなその声質は、彼女が苛立ちを覚えたときに発するものだからだ。

「悪魔だ」

「なんだって? あの女がか?」

「うん」

 ナユタの目が眇められていく。

 敵を見る目――ではない。もっと冷たく、機械よりも血の通わない視線。相手を心底軽蔑するように彼女はぼそりと呟いた。

「どうして表を出歩いているのかな……」

 その人を見下す表情を、デンジはよく知っていた。

 かつて殺した、無慈悲な女。先代の支配の悪魔。

 

 

 どうしてデンジ君に戻っているのかな……

 

 

「マキ……」

「よお」

 ぽん、と肩に手を置かれた。

 岸辺。いつの間にか背後に立っていた。

「あ……先生」

「いいところに居たな。見ろ、あいつが例の悪魔だ」

 公園に立つ女。人間にしか見えないが、岸辺が言うなら悪魔なのだろう。顔を隠しているのはきっと悪行をなすためだ。

 岸辺たちの気配を察したのだろう、人型の悪魔が首だけでぐるりと振り向いた。

「……ミミミミ~~ンッ!」

 奇妙な鳴き声。ガラスを引っかくような高音で、それだけで人間ではないと知れた。

 悪魔はくつくつと肩を揺らしながら哄笑する。

「出たな公安! 給料ドロボウの役立たずっ! お前らが何もできないってことをこのワタシが証明してやる! 見てろォ!!」

 喋った。

 と思ったらすぐさま両手を掲げる。ほっそりとした指をカギ爪の形にして北河に向ける。

「あ……、おいまさか!」

 デンジは声をあげる。が、間に合わない。

 悪魔の技が北河に振るわれる。

「や、やめろぉぉ!」

 恐怖に歪む少年にそれは放たれた。

 紫色の光。

 公園の隅まで染めあげる、カメラのフラッシュを何倍も強力にしたような閃光。

 北河は全身に浴びてしまう。

 だが、

「?」

 何も起きていなかった。

 世界の色は元に戻る。公園は静寂に満ちている。少年は怪我1つなく生きていた。

「あらら? 何ともなってねーじゃねえか……?」

 デンジは眉間に皺を作る。

 と同時。北河は、高圧電流を流されたかのように身体を大きく震わせた。

「いっ、いひぃぃいいい!?」

 悲鳴。

「ちちち違う! 俺じゃなぁい! 俺は何もっ、やってないんだぁあ!」

 恐慌がそこにはあった。

 泣き出しそうな声。演技ではない本物の恐怖に直面している。顎をがくがくと震わせながら立ち上がり、何もない平地に足をとられながら逃げだした。草むらに飛びこむ。それでも収まらず、北河はフェンスをよじ登って姿を消した。彼の悲鳴は遠ざかっていく。どこまでも。

「……ミミミミ~~ンッ! ざまぁ~っみろ!」

「な、なんだぁ?」

 死んでいない。

 かといってかつて人形の悪魔がしたように別の存在へ変えられたわけでもなさそうだ。

 今の光はなんなのか。答えは岸辺がもたらした。

「奴は、冤罪の悪魔だ」

「えんざい?」

 デンジには聞き覚えのない単語。

 岸辺は枯れた瞳でデンジを眺めながら「お前、ほんとに高校通ってんのか?」と漏らした。

「冤罪。身に覚えのない罪。……要するにあの悪魔は、その理不尽を着せられたときの恐怖感を植えつけてくるってわけだ」

「うんん?」

 デンジには1割も理解できない。英語の授業で教師の音読を聞いている心地。何を喋ってっか分かんねえ。身に覚えのない罪とはいったい? 犯人ではないのなら恐れる必要もないだろう――そんなふうに彼は本気で思っている。

 悪魔が叫ぶ。

「私はァっ、絶対正義の執行者ぁ! 冤罪の悪魔よぉーっ! お巡りさん、こいつらです! 食らえっ、痴漢・冤罪・フラーーッシュ!」

 びしィ! とラッパーのように両の人差し指をデンジたちに突きつける。そして指先が発光。

 公園の入り口に立っていたデンジたちは紫色の光をもろに浴びる。

「おわぁ!?」

 デンジはうろたえた。

 今の光を食らうとおかしくなってしまうらしい。やばい。でもえんざいが分からない。なんだそれ? どんな心構えでいたらいい?

 と、岸辺を見ると……。

「ぬ、ぐ」

 眉間に皺を寄せていた。

「先生?」

 どんな悪魔にも怯まなかった最強のデビルハンターが二の足を踏んでいる。

 デンジは口と目を丸くした。何一つ分からない。どうすればいい?

「デンジ……? お前、なんともないのか?」

「え、え? はぁ、まあ」

「信じられん……。お前、そこまでアレだったのか」

「どういうことスか?」

 岸辺は額の汗を拭く。どうやら立ち直ったようだった。

「奴はな、男に対してはほとんど無敵なんだ。痴漢冤罪の罪を着せられた男は無力だからな……。社会的地位が高い者や、責任感が強い者、あるいはリスクを嫌う奴ほど効果は絶大だ。効かないのは無垢な子どもか、失うもののない……ま、馬鹿だけだな」

「はァ」

「本当に平気なのか?」

「なんともないッスね」

「羨ましいな。俺は退職金がパーになっちまう被害妄想に勝てそうにない」

 岸辺は懐からスキットルを取りだして一息に煽る。

「ここはお前に任せるわ」

「え」

 岸辺は一歩、二歩と後ろに下がった。

「女のデビルハンターを呼んでるんだがあと3日は来れないらしい。腕のいい女は少ないからな……。デンジ、代わりに頑張ってくれ」

「ええ~、やっつけたら特別ボーナスとかもらえます?」

「今回は公安指定の正式な任務だ。休職中のデビルハンターには出せないぞ」

「マジっすかぁ」

「なァ~~~にをごちゃごちゃとォ!」

 冤罪の悪魔がしびれを切らす。

「公安のカスどもめっ! 地の底まで貶めてやるぅ!」

 女は前傾になって両腕を大きく広げた。またあの光を出すか、それとも飛び掛かってくるつもりなのか。威嚇ではない害意がびりびりと肌に伝わってくる。

「……しょうがねえかぁ」

 デンジはにやりとほくそ笑む。

 Tシャツの裾を捲くりあげ、好戦的に歯を覗かせながら胸から垂れ下がっているスターターに指をかけた。

「俺ん街を荒らすような悪ぅ~い悪魔ちゃんはぁ……とっ捕まえてやらねえとなぁ!」

 

 ブゥン

 

 心臓が唸りをあげる。

 脈動が大気を震わせて、ガソリンが血管を流れだす。

 血肉を切り裂く悪魔の刃が両の腕から飛びだした。眉間の上からも同様の凶器――チェンソーが現れる。甲高い駆動音を纏わせながら金属頭のチェンソーマンが吠えたてた。

「社長になるための第一歩ぉ……いい人アピール、始めるぜぇ~!?」

 駆ける。

 一足で3メートル、二足目で6メートル。人の理を超えた速度で冤罪の悪魔に迫る。

「なっ!?」

 悪魔は、後方へ跳躍。

 滑り台の上、次にフェンスへと猫のように身を捻りながら足場を変える。こちらも人の身では到達できない瞬発力。2階建ての民家の屋根に着地して、電ノコ男に注視する。

「……チェンソーマン。テレビで見たことがあるわぁ……。公安の犬だったとは知らなかったけどぉ!」

「覚えてもらえるなんて光栄だねえ……っとぉ!」

 デンジも跳んだ。

 塀を足場に、あっという間に屋根へと至る。

 対峙した。双方の距離は5メートル。

「俺のファンかぁ~~? だったら降参しちまえよ。今なら無傷でお縄につけるぜ?」

「はぁ~~~~? 何なのその自分本位な言い様はぁ? 気ん持ち悪ぅ~い!」

「あっそーかい。じゃあやるしかねえなぁ」

「黙りなァ! ……ミミミミ~~ンッ!」

 紫色の閃光。

 世界を染めあげる悪夢に向かってチェンソーマンは正面から突撃した。腕のチェンソーを大きく振り上げる。

「おらぁ!」

 屋根の瓦が爆発したように舞い上がる。炸裂音と陶器の破片が飛び散る中で人外2人の視線が交差した。

 冤罪の悪魔のしなやかな脚が突剣がごとく伸びあがる。

 デンジは脛で受け止めた。

「ははっはぁ!」

 屋根は陥没し、電線は断ち切られて火花が散った。

 激突は家々を飛び移っていく。無数の残骸が地上にばら撒かれ、攻防は夕暮れの中へと遠ざかっていった。

「……」

「……」

 地上には2人。取り残されてしまった岸辺とナユタが立ちつくしていた。地を這うしかない人間と脆弱な悪魔は公園の入り口で手持ち無沙汰でいるしかない。

「行っちまったな」

「……」

 夕暮れの空の下に目を向ける。

 遠く幾重にも連なった住宅の隙間から紫色の光が何度か輝いた。冤罪の悪魔が攻撃を放っているのだろう。

「アレが効かないんなら勝つのはデンジだろうな」

 ナユタは反応しなかった。

「お前はどう思う?」

 聞こえているのかいないのか。

 手を伸ばせば届く距離にいる岸辺に目も向けない。

「お前、俺のこと嫌いだろ」

「1つ、聞きたいことが」

「なんだ」

 ナユタは小さく指をさす。

「あの屋根の修理代って、誰が出すんです?」

 デンジが壊したばかりの屋根。大きく抉れて、瓦が剥げてしまっていた。

「まさかデンジをけしかけておいて知らないって言うんじゃないでしょうね」

「ああ、そうだな……。そんぐらいは払うか」

「なら安心」

「……ふうん。悪魔も所帯じみたことを言うんだな」

「知ってますよね?」

「まあな。マキマだって買い物しながら暮らしてた。賢い悪魔なら人間社会に馴染むこともある」

「そうじゃなくて。私がそういう生活をしてるって知ってますよね」

 ナユタは悪魔特有の引力を携えた瞳を岸辺に向けた。

「私を監視しているでしょ」

 岸辺の顔が、ゆっくりと隣の少女へ向けられた。

 小さな悪魔、ナユタ。

 彼女の力は、その身長と同様に小さなものだ。かつて強大な力を持っていた支配の悪魔といえど、一度倒されてしまえば向けられる恐怖心は薄まるからだ。今のナユタにはマキマが在りし日に培っていた世界を席巻するほどの力はない。

 なのに、それでもナユタは監視に勘付いた。

「一応、プロを使ってるんだがな……」

「マキマの前例が前例だから。同じ支配の悪魔なら放置できないのは当たり前」

「それは予測か? それとも本当に監視に気付いたのか?」

「さあ、どっちかな」

「監視は嫌か」

「いい気分になる人はいない。悪魔だって同じ」

「だが止めるのはできないぞ」

「分かってる。どこかに閉じ込められていないだけマシ」

「物分かりがいいな。俺の仕事も増えなくて助かる」

 ナユタは踵を返す。

「帰るのか?」

「犬を連れてくる。最近は物騒」

 岸辺はアスファルトに飛び散った瓦の破片を眺めた。

「まあ物騒にはなってるな」

 と答えた。

 けれどナユタは軽く首をふる。

「あの悪魔のことじゃない」

「あ?」

「人間だって十分危険だっていう、そんなありきたりな話」

「……まあ、一理あるな」

 

 

 

「おりゃあーー! 俺は社長だぁ~! えんざいなんか怖かねえ~~!」

 粉塵が巻き上がる民家の2階。

 蹴り飛ばした冤罪の悪魔を追いかけてデンジはチェンソーを唸らせた。回転する刃が大気中の塵を吹き飛ばしていく。徐々に開けてくる視界に鋭い牙を打ち鳴らした。

「わっはっはー、まいったか! 俺も女は斬りたかねえ! 降参すんなら許してやんぜー……って、……あらら?」

 頭を大きく巡らせる。右に、左に。隅まで確認してみた。

「居なくね?」

 チェンソーの回転を止めてみる。

 静まり返った部屋の中。デンジははて、と首を傾げるしかなかった。

「もしかして、逃げられちまったのかぁ?」

 

 

 

 ビルに挟まれた薄暗い路地裏で、若い女が息を荒げていた。

 オフィスレディそのものといったスーツに身を包んだ女。冤罪の悪魔。

 彼女は頭にかぶった目だし帽を取り去った。漆黒の髪が宙を舞う。肩口で綺麗に揃えられている。顔はまったくの日本人。むしろ美人のたぐいといってもいいだろう。

 服のところどころをチェンソーマンに切り裂かれていなければ簡単に人ごみにまぎれることができる姿形だ。それほどまでにこの悪魔は見た目が人間と変わらない。

「チェンソーマンめ……!」

 傷は、無い。

 手加減されていた。

 その事実に女は腹を立てていた。

 冤罪の悪魔は今まで何人もの腕利きデビルハンターを追い返してきた実力者。いいようにあしらわれるのは耐えがたい屈辱だった。ましてやそれが本来有利であるはずの男が相手となれば尚のこと。どうして自身の能力が効かないのかが彼女には分からない。社会性を持たない悪魔や知能に欠ける魔人ならいざ知らず、チェンソーマンは人間から変身した存在だ。集団からつまはじきにされかねない冤罪は恐れるはずなのに。

「ちっ。……隠れる、か」

 女は呼吸を整える。服の破れを申し訳程度に繕いながら狭い路地を歩きだした。

 ――と、

 正面の暗闇から、ぬるりと。

 1匹の犬が浮かびあがった。

 大きい。

 座っているのに頭の高さが女の胸とほぼ同じ位置にある。

 動かない。ただじっと、その路地を守る石像のように円らな瞳を向けている。

 僅かな光が反射して、光沢が6つ浮かび上がった。

 目だ。

 目が、6つもあった。

 よく見れば、耳も6つ。

 前足も。後ろ足も。

 尻尾は3本。

 明らかに普通の生物ではない。

 にちゃりと口が開かれる。首元まで裂けていく。

「私は、犬の悪魔」

 言葉を発した。

「お前の、敵では、ない」

 女は眉を顰める。

「何……だと……?」

「私は、早川ナユタ、に、仕えている」

「はやかわ……? って、あの早川さん? この街に住んでいて、確か中学生の……?」

「カァー!」

 頭上からカラスが3羽飛んでくる。

 左右のビルの庇にそれぞれ留まった。瞳が遠慮なしに女を凝視する。

 鳥獣たちの感情は読めない。

 陽の光が辿りつけない冷たく不気味な路地裏の奥の、濃密な闇が揺らめいて、淵から1人の少女が姿を見せた。

「……あなた……早川、さん?」

「お久しぶりです」

 少女は能面のような顔で会釈する。異形の犬をざらりと撫でながら。

「あなたは、一体……」

「悪魔です」

「何……ですって」

「あなたと同じ悪魔です。気付きませんでしたか」

「……驚いた。あなたも悪魔、だったのね」

 早川ナユタは人差し指を立てた。

「周囲には誰もいません。この私が保証します。ですが、公安も無能ではない。用件は手短に済ませたい」

 静かな口調。なのに耳に染み入った。

 普通の女子中学生が醸しだせる空気ではない。やはり本物の悪魔なのだと冤罪の悪魔は確信した。

「旦那さんから忠告されませんでしたか?」

 ぴくり、と女の肩が震えた。

「今、この街には公安のデビルハンターが居る、そして悪魔を捜索している――そう午前中に伝えました。あなたにもすぐさま注意がいったはずです。違いますか」

 女の目が細められる。

「どうなんです」

「ええ、忠告された」

「ではどうして表を出歩いているんです?」

「私の勝手でしょう?」

「平穏な生活よりも悪魔の本能が勝ったか。他人を貶めたいという冤罪の悪魔の欲望を抑えられなかった」

「……何が、悪いの? あなたも同じ悪魔なら分かるでしょう? 存在意義は果たすためにある。血に刻まれた欲求に抗うことはできないのよ!」

 早川ナユタは凍てついた瞳を犬に落とした。首の下を撫でながら、溜め息をつくように独り言を漏らした。

「あなたは、もうこの街では暮らせない」

 冤罪の悪魔は、応えなかった。

「家もじきに突きとめられる。……ならば少しでも私の役に立ってもらう」

「何ですって?」

「あなたは大事なサンプルケース。墜ちた悪魔がどうなるか、私は見届けたい――1つ、質問があります」

 ガワァ、ガワァとカラスが鳴いた。

「あなたは旦那さんを本当に愛しているの? それとも外敵から身を隠すために夫婦を演じているだけ? 正直に答えて。答えなさい

「あ、愛している……」

「そう……」

 犬の悪魔が首を持ち上げる。

 主人を見つめて、小さな掌を、3つの舌で舐めあげた。

 早川ナユタは無表情のままだった。

ならばその気持ちを正直に告げて今後の進退を話し合いなさい。これは命令です

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