ナユタとデンジはセックスしたいだけだった 作:シャブモルヒネ
: : デンジが好き。 悪魔はね、人間なんか好きにならないの。普通はね。 ちゃあんと考えて。これはとっても大事なことなんだから。
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「なんスか、これ」
「報告書用のメモ」
「はぁ」
「監視対象の発言記録だよ」
「いや、それは知ってますケド。俺が言いたいのはそういうことじゃなくてですね……」
「言わんでも分かる。あの無愛想の権化みたいな支配ちゃんがホントにこれを言ったのか? ってことだろ? でも、ホントなんだ」
言いながら、監視中の男はカメラを覗きこむ。
三脚のうえに備えつけられたそれは高級感漂う望遠仕様で、キロ単位先のナンバープレートまでくっきりと識別することができた。そのレンズは今、遥か遠く、監視対象である早川デンジと早川ナユタの住むアパートへ向けられている。
ここは駅前の高層マンション。
その10階のワンルーム。
早川家を監視するためだけに借り上げられたこの部屋には、現在2人の男が詰めていた。
1人目は、出勤したての黒スーツ。
公安の監視要員で、今は交代のためにやってきた。
2人目は、夜を徹して監視にあたっていた私服の男。
黒のロンTに青ジーパン。公安その2。今は昇り始めた朝日にじりじりと額を焼かれながら望遠レンズを覗きこんでいる。
「……昨日は、大変だったんだぞ。冤罪の悪魔が現れるわ、支配ちゃんが力を使うわで」
「そのあたりの日中の記録は目ぇ通しましたよ。それの続きの夜が、このメモなんですか?」
「そうだよ、くわぁ~」
監視中の男は大あくびをする。
「眠ぃ」
「俺には信じられないっすね。間違ってもこんなこと言うような子とは思えないんスけど」
「さぁ、どうかなぁー」
「冗談……ではないっぽいっスね。電ノコ君を騙してるとか? 利用するために……みたいな感じスかね?」
「んなことよりよぅ、さっさと交代してくれよ」
「あ、はい。すんません」
監視の席を入れ替わる。
解放された私服男は、「う~~……ん!」と両腕で大きく伸びをして、のそのそと緩慢な動きで床を這った。スーツ男が持ってきた差し入れのビニール袋を引っ掴む。
「……おい、ラーメンセットが入ってねえぞ」
「んなもん、コンビニに売ってねえっすよ」
「ばかな、ありえん。これだけが楽しみだったのに」
「カップラーメンなら入ってるじゃないっすか」
「インスタントかぁ……。きっち~」
私服男はいかにも身体に鞭打つ感じで立ち上がる。カップ麺片手にケトルを沸かしにいく。
「……先輩、帰んねえんすか? 家で奥さん待ってんでしょ?」
「俺んち、海の近くだし。一休しかないんじゃなぁ……。帰っても寝るだけで終わっちまうし」
「ええ~、奥さん、かわいそ」
「悪いのは俺じゃない。2交代制をやらせてる御国が悪いんだよ」
「それじゃ今日はどーすんすか?」
「ここで寝るわ。起きたら買い出しもいっとくかなぁ」
「はー、やだやだ、プライベートが侵食される職場って。俺、ぜってぇ次の年度末で辞めますわ」
「はいはい、まーた始まったよ、織原の辞める辞める詐欺。……まー別にいいけどな、戦闘要員でもないのにこの給料って、かなり恵まれてんだぞ?」
「それも聞き飽きましたよ。民間で残業なしだと大変だ~って話でしょ?」
「お前んち、猫たくさん飼ってて動物園状態なんだろ? 安月給だとカツカツになるんじゃねえの」
「それを言われると何も言えねえスけど。……まあ、あそこの家よかマシかなぁ」
「ん? どこの家?」
「早川家。大型犬を7匹って、正気じゃねーですよ? 月にいくらかかってんだろ」
「ああ……。こないだな、ちょっと気になって調べてみたんだよ。いくらかかると思う?」
「え~? 10万は下らないっすよね?」
「驚け。なんと20万だ」
「うえっ!? 月に!?」
「月に」
「犬だけで!?」
「犬だけで」
「……うっわ~。ひくわぁ」
「だろ? ……だからこそ、俺は思うんだ。あの支配ちゃん、根はいい子なんじゃないかって」
「……どーゆうことすか?」
ケトルから音が鳴る。
私服男はカップ麺に湯を注ぐ。割りばしを乗せて部屋へと戻り、「どっこいしょ~」と腰を下ろした。
「……もしもあの子がただの冷血悪魔だったらな、馬鹿みたいに家計を圧迫する犬なんて飼っておかんわな。っつーか人間でもほとんどの奴が捨てるだろ。なのに未だに飼い続けてんのは、なんでだ? 良い人アピールのためにしてもやりすぎだ。あの子には深~い情ってやつがあんだよ」
「へいへい。まーた始まりましたね、国咲先輩の、支配ちゃん贔屓」
「なんだぁ、織原てめー、レイシスト野郎だったのか。信じらんねー。嫁さんに言いつけてやろ」
「ちょ、やめてくださいよ! そういうアレじゃないですし! ……俺もどっちかといえば薄々そうなんじゃないかなぁ~とは思ってますよ? でも、監視対象に感情移入するのって、良くないじゃないですか。だからプロとして公平な視点でもってですね……」
「じゃあお前、支配ちゃんのコレも、悪だくみかなんかだと思ってンのか」
折りたたんだばかりの監視メモをひらひらと振ってみせる。
デンジが好き。
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「はあ~。人の気持ちも分からない奴だったとはなぁ。サイテーじゃん」
「だああ! 分かってますよ! でもどうしてこのタイミングでこんな言い方したんだって思うでしょ!?」
「んな些細なことはどうでもいいだろ。なあ、ちゃんとこれを見ろよ。面と向かって『好き』だぞ? こんなド直球の恋物語見せられたらよ、お兄さん、若い頃を思い出して何かをどうにかしたくなっちゃうぜ」
「あんた、お兄さんって歳じゃないでしょ……」
私服男は、楽しそうだった。
目の下に大きな隈を浮かべながらも笑ってみせる。
黒スーツもつられて苦笑した。
「やってることは覗きですけどね――俺も、気持ちは同じです」
ぺりり、とカップラーメンの蓋が開けられた。
「それじゃ、本日の監視を始めますか」
「よぉよぉよぉ、早川よぉ! 大ニュースだ! 相澤の野郎、フラれたんだぜーっ! ざま~みろっ!」
登校一番、北河だった。
シャブでもキメてるんじゃないかと疑うような勢いで飛びあがり、法悦を極めた御尊顔を振りまいた。知性の欠片も見いだせない。
そういやこいつ、土曜日に冤罪の悪魔から謎フラッシュを食らっていたはずだった――デンジは首を傾げたが、当の北河に後遺症めいたものはまるで見られない。……どうせなら根深く残っていればよかったのに。デンジは半ば、いやほぼ全力で呆れた。
「まあ聞け! こいつよー、『好きだと思ったのは勘違いだった』ってフラれたんだぜ? こんなブザマがあるかよ! ワハハハハ!」
「…………ぅっせぇょ」
当の相澤は、苦虫を噛み潰したような顔だった。
流石のデンジも追い打ちが過ぎると思う。
「まあまあ、あんまり苛めてやんなよ」
「そうだぞお前、フラれたこともねえ奴が偉そうに」
「あんだー? おめーら、誰にもの言ってっか分かってる?」
北河、大きく胸を逸らしてふんぞり返る。
「俺は今日までに130人以上にフラれてきた男だぜ? 初告白は幼稚園! それから月イチペースでフラれ続けて、今日に至っては10年超えよ! お前らとは格が違うのだぁーっ!」
「ま、まじか……」
「すげえ。逆にすげえ。メンタルどうなってんだ」
ちなみに成功件数は……?と聞こうとして、止めた。デンジにも慈悲はある。
「――ちなみによ、逆はねえの? 告白されたことは?」
「あん? んなもん、あるわけねえだろ? 殺されてえか?」
「悪ぃ……」
フラれたばかりの相澤には気の毒かもしれないが、デンジにとっては渡りに船の展開だった。告白絡みの話題には是非とも乗っかりたい。
「――なぁ、北河。おめー、そんなにたくさん好きになるってすごくね? 一体どういうつもりで告白したんだよ?」
「はぁ? なんだ突然」
「いやさ、告白王の北河様に聞いてみたくてなぁ。告白ってなンなんだ?」
「そりゃお前、」
まだ朝も早い。教室には自分たちを含めて7人程度しかいなかった。
多少のぶっちゃけも許される状況である。
北河は言った。
「ヤりたいから、告白すんだろ?」
「……」
「……」
うっそだろ、こいつ。
ぶっちゃけすぎだった。
デンジの視界の隅では女子が2人、ゴキブリを見る目つきをしている。
デンジも相澤も慌てて首を振る。俺たちは違うんだ、と叫びたい気分だ。
北河だけが気付いていない。
「――まあでも? 最初の頃は違ったなぁ。幼稚園や小学生のときは……うん、クラスで人気の女子にアタックしてたな。1番人気から順番にいくんだよ。12番目ぐらいになるといい加減にいけるだろーって思うんだけど、ダメなんだよなぁ。なんでだろ?」
「そりゃお前……毎月違うやつに告白してる男を信用できるわけないだろ……」
「でも俺、毎回真剣だったんだぜ!?」
「繰り上がりで好きになられても嬉しくないだろ」
「そうかぁ? 俺は過去に縛られないぜ? 今1番好きって言われたら、誰でも好きになっちゃうね。……あっ、でもストライクゾーンを外れるとキツいかな。上は40、下は13までOK!」
「13って、お前」
「なんだぁ、年下の何が悪いんだ? 3年も経てば結婚できるようになるじゃねーか。そしたら愛を育み放題なんだぜ? 唾つけといて何が悪いってんだよ」
「単にヤりたいだけにしか聞こえねえ」
「んなわけねーし!」
「じゃあさ、ヤるの禁止って女の子だったらどう? 大人になって結婚するまでキスもだめっていう身持ちの固い子なら」
「ん~~、……なんとかして、ヤる」
「そうか、分かったわ」
デンジは溜め息を絞りだす。
「お前まじで死んだ方がいいわ」
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昼休み。
早々とメシをかっこんで、相澤を誘って屋上に来た。
北河は置いてきた。あいつの話は参考にならないどころか邪魔にしかならない。
――と、相談を持ち掛けたのだが。
「……いや、北河のいうこともあながち間違ってもいないと思う」
「うえっ!?」
意外すぎる返答だった。
軽く裏切られた気分でデンジが茫然としていると、相澤は「勘違いするな」と肩を竦めた。
「あのな、手あたり次第がいいって言ってるわけじゃない。やってみないと分からないこともあるっつー話だよ」
相澤は鉄製の手すりに寄りかかり、遠くの街並みを見下ろした。
「早川は、誰かと付き合ったことあるか?」
デンジ、少し考えて、
「……いや、ねえな」
と正直に答えた。
誰かを好きになったことはある。
でもちゃんと付き合ったことはない。
――レゼのあれは、カウントに入るのだろうか。
ちょっと、分からない。
「経験がないなら、何も分かりようがないだろ? 恋だと思ってても、北河みたいにただの性欲なのかもしれねーし、恋に恋してるだけかもしれねーし」
「う~~ん。……つまりよ、当たって砕けろってことかぁ~?」
「まあ、そんな感じ。それで本当に砕けた俺が言うのもアレだけど」
「ちなみによ、おめーはなんでフラれたの?」
「それ、聞いちゃう?」
「知りてぇ」
相澤、頬杖をついて呟いた。
「……誰にも言うなよ」
横顔は、デンジからも伺えた。少しだけ憮然とした表情。
「弟さんを重ねて見てた――って言われた」
「弟ぉ?」
「俺にもよく分からない……。似てたのかな? とにかく、家族愛みたいな気持ちで、勘違いしていたって謝られた。とても失礼なことをしたって……。んなこと言われてもこっちは本気だったんだからさ? だったら今からちゃんと好きになってもらいますっつったけど、駄目だった」
きょうだいの、気持ち。
姉弟の好きは、男女の好きではないと断られたのだという。
だったら、兄妹の好きも……同様なんだろう。
「んむむむ……。そこだよなぁ、その境い目なんだよなぁ……」
「んだよ? 早川の悩みは何なんだ? そろそろ白状しろ。俺も言ったんだからさ」
よく晴れた空だった。
「妹に告られた」
雲一つない水色はペイントで塗りたくったように単調だ。ぼんやり眺めていると意識が地平線の向こう側にまで吸いこまれていきそうで、だから相澤は言葉の意味をよく飲みこめなかったらしい。
「――悪い。もっかい言ってくれるか?」
「だからぁ、妹に告られたんだって」
「へぇ、妹にかぁ。ふぅん、そっかぁ……」
大仰に腕を組む。わざとらしく頷いた。
「妹って、妹だよな。うん……つまり……ええと、くそっ、俺としたことが」
「なんだよ?」
「すまん。驚きすぎてツッコミもボケ返しもできなかった」
「いや、ネタ振りじゃねえから」
「不覚だ。俺もまだまだ修行が足りん」
「おめーもなかなか変人だよな……」
デンジも並んで鉄柵に肘で寄りかかる。
「ま、そういうわけで、どう答えたもんか悩んでるってわけ。どーしたらいいか分かんねー」
「妹、かぁ~……っ」
相澤は視線をグラウンドに落として呟いた。
「その妹って、こないだ学校に弁当を届けに来た子だよな? あと確認なんだけど、血は繋がってないってホントか?」
「ホントだけど……なんで知ってんだ?」
「一昨日、北河がメールで教えてくれた。お前のことボロクソに貶してたぞ。今はもう忘れてるみたいだけど」
「あいつのキンタマ、今度潰す」
「そいつはいい。真人間になれるかもしれない」
眼下のグラウンドからは男子生徒たちの喚声が届いてくる。
ぽつぽつと何人かがドッジボールに興じていた。少し離れたベンチでは女子生徒たちが談笑しながら昼食をとっていて、ふと視線を巡らせれば、敷地の隅の人気のないスペースでは1組の男女が互いの様子を伺いながら固まってしまっている。所謂、アオハルというやつだろう。高校生と高校生の、健全なアオハル。
「――中学生相手って、犯罪なんかなぁ?」
「同い年だったら付き合うのか?」
「……歳は関係ねえか」
「なあ早川、知ってるか? 悩むって行為をしているときは、実はもう答えは決まってるらしいぜ?」
「そうなんか?」
「ただリスクが怖いだけなんだってよ」
「リスク、ねえ」
「何が怖いんだよ?」
「俺はなんも怖かねえ」
相手が家族で、妹だろうとも。
本物の悪魔であろうとも。
ただ、己の気持ちに自信がないだけだ。数日前まで本当にただの妹だと思っていた、そんな相手に好きと言われて浮ついているこの気持ちが真実・誠の“好き”なのか、まるで自信が持てない。
「そんなん俺たちみたいなガキが分かるわけねえだろ」
相澤は敷地の隅に目をやりながら、無責任に「いけっ、詰め寄ってキスしちまえっ!」と喚き始めた。拳を振りながら「ああ~じれったいっ、せめて壁ドンぐらいやれっ!」と、応援していたが、結果は面白みのないものだった。2人はよそよそしく会釈して別方向へと去っていく。まるで他人。これでは何のために逢引していたのか分からない。
相澤は醒めた目つきで「つまんね」と零した。
「――何かをやんなきゃどうにもならないだろ」
低い声。腹を割るという意思を示してくる。
「さっき言ったろ。やってみないと分からないこともあるって。痛い目見たって止まってるよりはマシだ。失敗すりゃあいいんだよ」
「んんん~……」
そうは言うけれど。
失敗できるような相手ではなかった。
ナユタは義理とはいえ妹。居を同じくする家族だった。
仮に、「俺も好きぃ!」と言ってしまってから「悪ぃ! やっぱ勘違いだったわ!」とひっくり返したら、その後の生活はどうなるだろう。ヒエッヒエの365日間が待っている。あるいは怒りを買ってしまい背中からブスリとやられるかもしれない。
「つーかさ、向こうの勘違いってセンもあるんじゃね……?」
その可能性はいかにもありそうだ。
相手は1歳未満児。いくら賢いといっても人間社会見習いの素人だ。家族の好きを男女の好きと勘違いした――その解答がすとんと胸に落ちる気さえした。
デンジが「やっぱここは現状維持なのかなぁ」とぼやいていると、背後から声がした。
「――男って、ほんとに馬鹿ね」
振り返る。
委員長が立っていた。
「どういう意味だ?」
「言葉通りよ」
神出鬼没のクラスメイトが、ウェーブのかかったロングヘアを風になびかせている。
「相手は、義理でも妹なんでしょ? 今後一生付き合っていかなきゃいけないのに軽い気持ちで告白なんてするわけがない。真剣なのよ。だったらその気持ちが勘違いかどうかなんて問題じゃないでしょう」
「そ、そうかあ?」
盗み聞きとはいい趣味だな……と揶揄できるような雰囲気ではなかった。
委員長の目は、噛みつかんばかりの光を帯びている。
「早川君、あなたも本気で応えなきゃいけないのよ」
「本気、ねぇ」
言葉を探す沈黙。
そして溜め息が流れた。
切りだしたのは、相澤だった。
「……そうだな、ご尤もだ。早川よ、おめーはどうやら正解の無いガチンコ勝負を挑まなきゃならんようだ。――そんなお前に餞別をくれてやろう」
「なんだよ」
「もしもお前が、相手が妹だっていう世間体を気にしてるなら、安心しろ。俺はフラれた翌日に別の女と付き合うことにした男だ」
「はぁ?」
一呼吸分の沈黙。委員長は厳粛な面持ちで柳眉を釣りあげた。
デンジは苦笑い。顎を撫でながら思い出していた。
「……もしかして、相手は例の小学生か?」
「いや、同い年なんだけど。幼馴染ってやつ」
半笑いで身を捩る。
「久しぶりに会って、なぁ~んか放っとけなくて色々構ってたらさ、昨日告白されちまった」
「ええ? それでまさか、付き合うことにしたんか?」
「おうよ。俺にはこいつしかいねえ! って思っちった。フラれて1日しか経ってないのにな。俺ってサイテーか?」
「クズの所業ね」
委員長は冷たく言い放つ。
異性からの強烈な蔑視は男子にはきつすぎる。けれど相澤は、あくまでも飄々とした態度を崩さなかった。
「……なっ? 多少軽蔑されたって死にゃあしねえんだよ」
「はは」
デンジは、笑った。
別に世間体とやらを気にしていたわけではないけれど、胸中に張っていた蜘蛛の巣がとれたような晴れやかな気分だった。
そして自分が、いったい何を躊躇っていたのかをようやく理解した。
アキは居なくなった。
パワーも居なくなった。
だから、ナユタも居なくなってしまうのが怖かったんだと思う。
今のナユタとの生活が壊れてしまうのが嫌だった。家族という関係が失われてただの他人になってしまうのを何よりも恐れた。そうなればアキやパワーのように会えなくなってしまい、また独りに戻ってしまう。それがどうにも耐えがたかったのだと思う。
けれど。
よくよく考えてみたら、そんな大した話ではないと思う。
怒らせてしまったら、なんだ?
失望されたら、なんだ?
それで消えて居なくなってしまうわけではないだろう。
ナユタはきっと近くに居る。離れていきやしないだろう。蹴られるかもしれないし、無視されるかもしれないけど、なんだかんだで同じ家に居る。そんな確信があった。
だったらどうにでもなる。
謝って、努力して、またやり直せばいい。
そのときの関係が、家族になるか恋人になるかは分からない。
どっちでもいいんだと思う。
デンジは気付いた。
あいつの傍に居たい。
それが1番の気持ちだった。
ポチタに言われたからじゃない。ナユタが独りになってしまうからじゃない。この自分が、彼女の傍に居たいと思っている。
「――なぁんかサッパリしたって顔してるな」
「そぉかぁ?」
「ああ。カミングアウトした甲斐があったってもんだ」
屋上に一陣の風が吹く。
デンジは反動をつけて鉄柵から身を離した。
「うし! どーにかやってみることにするわ」
「ほう、プランはあんのか?」
「んなモンは、ねえ」
校舎内へ通じるドアへと歩を進めながら、片手を上げた。
「真剣に向き合う、ってのをやってみる」
「おう、頑張って砕けてこい」
「砕けたくねえ~~~」
デンジ、振り返り、
「おめーも頑張れよ、相澤」
「ああ、偏見には負けねーぜ」
「……それ、誰に言ってるのかしら」
「おめーだよ」
「おめーだろ」
「はいはい」
肩を竦める委員長を尻目に、デンジは軽快に去っていく。校舎内へと姿を消した。
「……やれやれ、だな」
「……」
春先の風はまだ冷たい。
佇んでいると身を切るような空気が服の隙間に入りこんでくる。
先に根を上げたのは相澤だった。
「……まいった。俺の負けだ」
「何のことかしら」
「なんか話があるから来たんじゃないのか?」
「別に?」
「とぼけるなって。早川の話か?」
「いいえ。心配ではあったけど……あの様子なら大丈夫でしょ」
「お優しいねえ。……んで? 今は何の用だ? どうやら俺に話があるって感じだけど――はっ!? まさか俺、また告られるのかっ? モテ期到来かよ!?」
「馬鹿おっしゃい」
委員長はこれみよがしに溜め息をつく。
「……気のせい、だったらいいのだけど」
眉間に皺を寄せた。
「あなたも心配だったのよ。様子が変だったから」
「俺が? どのへんが?」
「なんとなく」
「はぁ? それって最近の話か? だったらしょうがないだろ、先輩に告って・フラれて・新しい恋が始まって……っつう波乱万丈をやってたんだからさ」
「それだけならいいんけど……」
釈然としない様子だったが、埒が明かないとばかりに首をふった。踵を返す。
「まっ、相澤君なら100回フラれても自力で立ち直る、か。……私は先に戻るわよ。あなたも授業が始まる前には戻ってきなさい」
「へいへーい」
心配性の委員長も、屋内へと消えていく。
ただ一人残された相澤は、ポケットに両手を突っこむとぶるりと身を震わせた。
「うー、さむさむ」
ドアの上、直方体のコンクリートの建造物の屋根へと視線を動かした。
カラスが1匹、留まっていた。
「カァー」
すると、
スイッチをオフにされたように相澤の眼差しから焦点が消えた。
「――はい……そうです……」
「カァー」
「お聞きになった……通りです……」
「グワ」
チャイムが鳴る。
人の世のルール、それに逆らって、カラスと相澤はその場に留まり続けた。
@
「買ってほしいものがある」
そう言って、ナユタは夜の街へとデンジを連れ出した。
夕食を済ませた後だった。
食器を洗おうとシンクに立つデンジの隣に並び、当番でもないのに手伝うと申しでてきた。初めてのことだった。ナユタは約束や取り決めに厳しい。破ることはもちろん侵すこともよしとしない。以前、デンジ側から気まぐれで家事を手伝おうとしたときは頑なに拒否されたのに。どういう風の吹き回しだろう。
デンジはちらりと安物の腕時計を確認する。
現在時刻は、19時55分。
例の告白の返事まで、残り4時間。
なにか関係しているのだろうか。
ナユタでも緊張して調子を狂わすようなことがあるのかもしれない。
ぽつぽつと街路を照らす照明の間を2人で歩いた。すっかり暗くなった住宅街を通り抜け、デンジたち2人は煌びやかなネオンに彩られた駅前の大通りに辿り着く。
通りの入り口で立ち止まる。
「冤罪の悪魔と連絡がとれなくなった」
「……あん?」
「返事が、こない」
ナユタはポケットから細長い携帯電話を取りだして見せつけるように左右に振った。
「きっと負けたんだ」
「負けたぁ?」
「復縁できなかったってこと」
「ああー……昨日会った男とか? んーー、そうなんかなぁ?」
「そうだよ。人間同士でだって破綻することが多いのに、悪魔となんて上手くいくわけない」
「いや……どうだろう?」
思わず横顔を伺った。
マネキン人形のようだった。
「あのさ、今日は何が欲しいわけ?」
「チョーカー」
「ちょー……?」
「首に巻く布。アクセサリーみたいなもの」
「マフラーとは違うんか? あ、ネックレス?」
「どっちも違う。首輪に近い」
「ふうん……?」
高価な代物でもないらしい。首を捻っていると、ナユタが「あんな感じのやつ」と指を指した。飲み屋の前で談笑している派手な格好の女性たち、そのなかの1人の首に、ぴたりとフィットする黒い布が巻かれていた。――あぁ、レゼがしていたようなやつか、と得心した。あれならデンジの懐具合でも買えそうだ。
でも、どうして今なんだろう。
明日じゃダメなのか。
「来た」
動かぬままのナユタの目線の先を追ってみると、セーラー服の女生徒が3人歩いてくるところだった。ナユタと同じ中学の制服に身を包んでいる。
繁華街に似つかわしくない未成年たち。ナユタとは違い保護者もついていない。警官に見つかれば一発で補導されそうだ。
まぁデンジも高校生だからアウトなのだけど、それでも男子で高校生だった。女子の中学生よりはよっぽど自衛する力はある。
少女たちはデンジたち2人の前で立ち止まった。
ぼんやりとこちらを見つめている。
「……? もしかしてナユタの友達か?」
「そう。お店を探してもらっていたの。彼女たちはオシャレ番長らしいから」
「店って、チョーカーを売ってる……?」
「うん」
「わざわざ? そりゃ悪ぃな。もう夜の8時だし、こんな時間まで外歩いてちゃ危ねえぞ」
「いいんです……。ナユタちゃんの、お願い、だから……」
蚊の鳴くような声だった。
デンジは訝しむ。
「疲れてるんか? 家まで送るか?」
「大丈夫……」
「でもよぉ」
ナユタの唇が開かれる。
「――伝えた?」
セーラー服の3人は揃って頷いた。
街の喧騒はどこか遠くにあるようだ。風は凍てつくように冷たく、遊ぶ金の無い子どもたちを追い払うかのように吹きつけている。
ナユタはお勧めのお店を聞きだすと、友人たちに別れを告げた。
「もう帰りなさい」
女子中学生たちは特に反応を見せなかった。心ここに在らずといった様子でデンジの脇を通りすぎていく。互いに言葉を交わすこともなくとぼとぼと、薄暗い路地へと消えてしまった。
「……なンか、変だったな?」
「そう?」
「すげーぼやっとしてたじゃん」
「ああ、私の犬にしちゃったから」
「犬?」
「ちゃんと家に帰るようにいれたから心配は必要ない」
ナユタは淡々としていた。
もう夜も遅く、買い物ができるような店は閉まってしまうというのに、ただ雑然と蠢く人々を交通量調査員のごとく観察しているだけ。
何かに動じているようには見えない。
「犬ってなんだ?」
ナユタはすたすたと大通りの歩道を進み始めた。
小さな頭が行き交う人の流れに紛れてしまいそうになる。
「なあ、ナユタ」
少女は振り返らない。横に並んだデンジも見ない。
帰宅中のサラリーマン、派手な髪色の若者たち、ブルーカラーの酔っぱらい、それらの合間を濡れ羽色の髪をなびかせながら縫っていく。視線の先には小さな個人雑貨店。通りの隅にひっそりと佇んでいたその店は、先ほど女子中学生たちから教えてもらった店名と同じだった。
シャッターが閉まっていた。
閉店時刻を過ぎていた。
どうしたものかと思った矢先、立て看板と同化するように1人の少年が立っているのに気がついた。
よく知っている顔だった。
今日の昼に相談にのってもらった友人、相澤。
何をするでもなく突っ立っている。
「……相澤? どうした、おめーも買い物か?」
目に生気がなかった。疲れきった表情は先ほどの中学生たちを連想させた。声もまた同じようにか細い。
「2000円に……なります……」
「ああ?」
ずい、と腕を突きだしてくる。その指には小綺麗な紙袋がぶら下がっていた。
思わず受け取って、中身を覗いた。
入っていたのは、黒いチョーカーだった。
「なんだ、これ? どうした?」
「よかった。閉店前に買えたんだ」
ナユタ。
見ると、嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「デンジ、払って」
「え? 代金を? ああ、うん……?」
言われるままにポケットから財布を取りだした。
紙幣を2枚だけ抜き取って、友人に手渡す。
相澤は無言で受けとった。
何だろう。
どこか現実感がなかった。霧のかかった思考で違和感の正体を探ったが、掴むことはできなかった。誰も彼もが不自然だった。演技なのか、夢なのか。自分だけが別世界に迷いこんでしまったように感じる。
いったい何が起きているのか、デンジにはほとんど分からない。
「相澤、おめえナユタに買い物頼まれてたのか? ていうか仲良かったの……?」
友人は反応しなかった。
壊れてしまったロボットのごとく何も言わない。
配線を繋ぎ直したのはナユタの言葉、
「相澤さん、質問されていますよ?」
友人は、ぴくりと背筋を震わせて、音声を出力した。
「伝えられたお店で……買いました……」
ナユタの目尻が、不出来な我が子を褒めるかのように細められる。
「はい、よく言えました。もう帰っていいですよ」
相澤はぼんやりとナユタを眺めていたが、やがてふと踵を返し、背中を丸めて去っていく。雑踏へ紛れてすぐに見えなくなった。
「なに、え……?」
もしかして、という悪い予感が渦を巻いていた。
限りなく確信に近い圧迫感がデンジの胸の裡を埋めている。苦味が喉にせり上がってくる。
ごくりと唾を飲みこんだ。
そんなはずがない。
そんなことをするわけがない。
だってナユタは、人間社会にもすっかり慣れていて、人付き合いもうまくやれていて、自分なんかよりよっぽど要領のいい、そんな支配の悪魔なんだから。
「あのね――」
ナユタは言いながら踵を返す。
するりと手の届かない路地へと離れていってしまう。慌てて追い縋ったが、横に並んでも彼女は顔向きを前方に固定してデンジを見ようとしない。
ただ曖昧な揺らめきがガラスの瞳に浮かびあがっていた。
唇から紅い舌を覗かせる。
「デンジの話を聞いていたら、ああなっちゃった」
「あ……ああ、って?」
「あの人、デンジを気遣って、洗いざらいは喋ってくれなかったから。言いくるめるのも面倒だったし、支配しちゃったの」
「……なんて言った、ナユタ?」
確かめてはいけない。
それは分かっていた。
けれどどうにも黙っているのがたまらなかった。胸が焼けるように熱くて今にも破裂してしまいそうだった。
認めたくなくて、上ずった声で聞かざるをえない。
「冗談?」
しかし、ナユタは、いつもの平静顔だった。
住宅街には誰もいない。街灯の光は頼りなく、暗がりは無限に広がっているように思える。
「私……もう色々考えたくなくなっちゃって」
小さな悪魔は、滔々と語りだす。
「生まれたての頃は、生き延びる為に必要な事だけ考えてればよかったけど、今は力も強くなって、出来る事も増えたから、いちいち考えるのがダルいんだ」
まるで生きる活力を失ってしまったかのように、淡々と、しかしはっきりとした口調で宣言する。
「自分勝手な人間たちに合わせるのは疲れるし、公安にはいつでも監視されてるし……デンジは気付いていないと思うけど、野良悪魔や民間のデビルハンターにも気を張っていたんだよ?」
瞳には感情が浮かんでいなかった。
顔立ちは無機質で、どんな外圧にも影響されないだろうと分からされてしまう。
そんなこと、初めから知っていたはずなのに。
「私は“弱い”支配の悪魔だったから、雁字搦めでも甘んじているしかなかった……。でも今は、少し“強く”なれた」
ナユタのことはよく知っていた。
しかし少女はナユタであると同時に1匹の悪魔でもあり。
「もう誰に合わせなくてもいい……周りを私に合わせることができるようになったの」
悪魔とはどんな生き物か。
とりわけ支配の悪魔とは――一体どんな生き物か。
デンジは知っていたはずである。
「もう色々考えなくていい……疲れない……」
突き放すような無表情だった。
リアリティをまるで感じられない。
デンジは眩暈を覚えた。
ここは、どこだ。
彼女は、誰だ。
蒸気のなかを手探りで進んでいるようにすら感じた。ぜえぜえと自身の呼吸音が耳障りだったが堪えるより他はない。
何かがおかしかった。
何もかもがおかしかった。
曲がり角から北河が現れた。
「あっれぇ~~っ!? ナユタちゃんじゃーんっ!」
癇に障る声。
馬鹿みたいな顔をして、わけの分からないことを言っている。
「どぉ~したのよこんなところでェ? おやおやっ、なんか可愛くなってない!? この俺の美少女スカウターは誤魔化せないぜ~……ピピピ! な、なにィ、バスト戦闘力が2もアップしているだとォーッ!? たった2日間でこの性徴……はっ、もしや双子だな!? おい早川デンジぃ! おめーエロゲーの主人公かよ! ゆ・る・さ・ん!!」
「何か用ですか」
「うんにゃ、別に? 俺ぁバイト帰りなだけ。今から家に帰って買ったばかりのアクションゲームをやることだけが楽しみの淋しい男よ……。そんな俺を哀れと思うなら今から一緒にゲームしなぁい? 俺んちでも早川んちでもいいからさぁー、なぁナユタちゃぁーん……って別人か? えーと、お名前は? ねえねえ、もし付き合ってくれるなら、俺なんでもしちゃうよぉ~?」
「へえ、本当に? 何でも?」
「おーう! 男に二言はなーいっ!」
「2段ジャンプしなさい」
「あああ! ううううう?」
なんだ、これ?
ありえないことが起きている。
夜の街、道の真ん中で、北河がバグったゲームキャラのごとく跳ね続けている。顔を真っ赤にして全身全霊で空中に飛び上がり、頂点に達すると、何もない宙を蹴ろうとしてべちゃりと地面に落下する。そんな動きを延々と繰り返している。
そんな光景を、ナユタは薄笑いしながら眺めている。
そんな悪夢を、デンジは見せられている。
「夢?」
「え?」
「ナユ、ナユタさ……これ、夢?」
ナユタは、笑った。
見た目の歳ごろ相応の、楽しくて嬉しくてしょうがないといった弾けるような笑みだった。
初めて見る笑みだった。
デンジがあっけにとられているのに気付けないほどの大笑い。まるで出来の悪い演劇をしているような表情で、笑い慣れていないせいかどこかぎこちない、それが却って本物だと知らしめているようで。
「――はあ~あ。笑った笑った」
目の端には涙さえ浮かんでいた。
この世で最も滑稽な間抜けを見つけたかとでも言わんばかりの含み笑い。
ナユタは、何も恐れてもいないし、不安も感じていない。デンジの目にはそうとしか見えなかった。
「しょうがないじゃない? 私は支配の悪魔なんだから」
悪魔は笑う。
「言っておいたよね? 私にとって、息を吸うのも支配するのも同じこと」
人の矮小さを見下すように。
「それともう1つ……。この世でたった1人だけ、デンジだけはまだ天秤にかけきれない、けれど他の人なんてどうでもいい、って」
誇らしげに胸に手をあてていた。
「これが、私」
得意げですらあった。
「やっと分かった?」
デンジの脳裏に決意が漲った。
――叱らなければならない。
咄嗟に掘り起こされた、『叱る』の記憶。
思い出す。
苛立った父親の顔。
“悪いこと”をしたデンジをどうやって叱ったか。
腹を蹴られるか。
頬を張られるか。
「――その手で私をどうするの?」
「あ……」
見た。
己の腕の形を。
いったい何をしようと振り上げたのか、言葉よりも雄弁に物語っていた。
自分は何をしようとしたのか。
いったい何をするためにここに居るのか。
彼女に伝えようと思っていた言葉が散り散りに砕けてしまう。
「……ふぅん。何もしないんだ?」
ナユタの口元にははっきりとした落胆が表れていた。
それだけでもうデンジには何もできなくなっていた。
へたりこみそうな膝をどうにか支えながら唾を呑みこんだ。
ナユタは、悪魔だ。
彼女にとって、他人を支配するという行為は『良い』『悪い』の話ではない。それは彼女自身の態度からも伺えた。どうとも思っていない。
ならば、
どうすればいい?
「マ、マキマさんだって、ンな適当なやり方はしてなかったぞ……」
「マキマ……?」
目尻が釣りあがる。先ほどまでの冷笑的な態度から一転して火の玉のような怒りが燃えていた。
「他の女の話をしないで。するな」
ぱちん、と指が鳴らされた。
北河が地面にべちゃりと落ちた。
「ふんぬっ、ふんぬっ! んがぁぁっ……あ? あ、あらら?」
支配が解けた。
腕をつき、息を荒げながら呆然とナユタたちを見つめている。
「お、俺は、何を……?」
「帰れ」
ナユタは奴隷だった男を見もしなかった。
ただデンジを仇のように睨みつけている。
北河は去った。
デンジには何がなんだか分からない。嵐のような混乱に満たされている。悪夢だった。悪夢の悪魔に攻撃されているのではないかとさえ思った。けれど風の冷たさも、喉の渇きも、心臓の高鳴りも、全部本物でしかない。
「意気地なし」
ナユタの声は震えていた。
@
「……」
「ねえ、先輩」
「……」
「なんスかね、これ」
「……俺に、聞くなよ」
夜の住宅街を望遠カメラで覗きこみながら、公安の監視員がぼやいた。
駅前の高層マンション、その10階のワンルーム。
2人の男たちは困惑していた。
早川ナユタの言動はあまりにも先日までとはかけ離れていた。
黒スーツの男は己の耳がおかしくなっていないかを確かめざるをえない。
「……あの、先輩のほうでも同じ音声を拾ってますよね?」
「ああ……。俺たちが契約している空気の悪魔は、視界内の空気の振動を観測する。この発言に誤りはない」
言いながら、走り書きのメモを振ってみせる。
: : もう誰に合わせなくてもいい……周りを私に合わせることができるようになったの。 : :
|
「これ、まずいんじゃないすか」
「……」
「こんなの、宣戦布告でしょ。こっちの監視にも勘付いたうえで言ってるんだから。……ていうか、人間相手にまた支配の力を使っちゃってるのはアウトですって」
「……かもな」
「う~ん、ショックだなぁ、いい子だって思ってたのに。昨日までの言動は、言葉通りの“良い人アピール”でしかなかったってことスかね?」
「うっせえな、まだ分かんねえだろ」
「いや、だって、こんなの――」
黒スーツは望遠カメラを再度覗きこむ。
拡大された視界のなかでは早川ナユタが颯爽と帰路につき、早川デンジが慌てて追いかけているところだった。
@
ナユタは唐突に立ち止まる。鼻をひくつかせて薄暗い路地を凝視した。
「ぐへへ……」
ぬるり、とアスファルトから這い出てくるように、作業着の中年男が現れた。
学校の用務員といった風貌で、首にはタオルをかけている。粘着質な視線でナユタのシルエットをなぞりながら、ヒステリックに叫んだ。
「や、やっぱり悪魔だったんだね!」
甲高い声が反響する。
「だ、駄目よぅ、悪いことしちゃあ……。悪い悪魔はね、退治されなきゃいけないんだ! うぇひひ、僕がやっつけてやるんだぁ……優しく、そう、愛を注いであげるよぉ!」
男の傍らから音も無く異形の生物が現れる。ぶよぶよとした肉の塊に小さな骨の十字架がびっしりとついている。2本の腕は太く短くて、指だけが異様に長かった。触手のように蠢いている。
おぞましい悪魔を従えながら、作業着の男は血走った目つきで嫌らしく舌なめずりする。
「ぼ、僕はぁ、何をしても許されるぅ、免罪符を手に入れたぁ、性技のヒーロー・合法悪戯マン! ルールを守って楽しく性的虐待! さぁ、君も一緒に気持ち良くぎゃあああああ!!」
男の鼻が吹き飛んだ。
デンジがスターターを引くよりも早く、いつの間にか、熊のような大きさの獣が現れて戦闘態勢になっていた。
「ぷぎぇえ!? いっ、犬ぅう!?」
前足が6本。後ろ足も6本。
尻尾は3本。
明らかに悪魔だった。
新手の悪魔が吠えたてて、中年男たちに跳びかかる。
「ヴァルルルル!!」
巨体とは思えない俊敏な動きで縦横無尽に飛びかかる。敵対者の肉を少しずつ抉りとり、血と肉片を飛散させていく。
「こぽぉあああ!!」
デンジは呆然と立ち尽くしているだけだった。開いた口が塞がらない。許容量をオーバーしていた。
「あれはね、犬の悪魔。私のしもべ」
「い、いぬ……?」
「捕まえておいたの。こんなときのために」
ナユタのしもべ。
他の悪魔とも戦える、強力な配下。彼女は力を持っていた。戦うことができた。もはやデンジに守られているだけのか弱い少女ではない。その気になれば――誰かを殺すこともできるだろう。
「デンジ、知らなかったでしょ。あのストーカーのおじさんは悪魔使いだったんだ」
「はっ、あっ、ああ? な……なっ」
「あの人間が何をしようとしていたか、分かる?」
眼前では、獣型の悪魔とストーカー男の肉塊型の悪魔が戦っていた。触手が一方的に引き裂かれていく。
戦況は、獣が圧倒的に有利だった。ナユタを守るように爪と牙をふるっている。
「あいつ、私を乱暴しようとしていたの。悪魔には人権がないから何をやっても許されると思ったみたい。……ひどいよね?」
夜の大気に生々しい血の匂いが漂った。獣はまったく容赦しない。ナユタも止めようとしない。中年男はかろうじて自身が召喚した悪魔に守られていたが、時間の問題なのは明らかだ。
「あんな人間、殺しちゃってもいいよね」
ナユタは人差し指で銃を形作る。
照準をぴたりと定めて、命じた。
「睾丸を噛みちぎれ」
「ひっ、ひぎぃ!」
悪魔の触手が盾になる。ぶちぶちと引きちぎられていく恐ろしい音と中年男の悲鳴が木霊して、デンジは我に返った。
「――お、おいナユタッ! 殺しは止めろ!」
「なんで?」
ナユタは不満さえ浮かべてくれず、当たり前のように零してみせた。
「あいつは敵でしょ? 敵は排除しなきゃ」
「お前……っ!」
「おひぃい~~!」
血塗れの悪魔が咆哮をあげる。
触手を伸ばしてビルの屋上に引っかけた。べちゃっと黄色い液体を撒き散らしながら飛び上がり、悲鳴をこぼす中年男とともに建物の向こう側へと逃げてしまう。
「ルルル……!」
犬の悪魔は弾丸のような速度で路地へと飛びだして追跡する。
ものの数秒で2匹の悪魔は夜の街から消えた。
「ナ、ナユタ……」
悪夢だった。
だが紛れもない現実。血臭と、飛び散った体液が証明していた。
ナユタはもはやデンジの知る少女ではない。
頬の返り血を拭いながら落ち着き払った態度で腕時計を確認している。
「あと2時間。ちゃあんと考えて」
デンジの眼には、まったく緊張しているようには見えなかった。
「とっても大事なことなんだから」
@
「……」
「……」
公安の監視員2人は互いの顔を見合わせた。
口火を切ったのは、私服の男だった。
「報告したくねぇぇ……」
「ですよね……」
通夜のような雰囲気だった。
監視対象には感情移入しない、そんな鉄則は2人ともよく分かっていた。だから虚偽の報告をするつもりは毛頭ない。だがしかし、その先の結末を予想すると、腹の底が鉛を呑みこんだように重くなる。
「これ、岸辺隊長に報告したら……」
「ああ」
「処分もありえますよね」
と、
「――それは困りますね」
唐突に、第三者の声がした。
黒スーツの監視員は望遠カメラから目を離し、素早く周囲を伺う――が、
「!?」
白い。
白い空間だった。
壁が、無い。
天井が、無い。
そしてありえないことに床も無くなっていた。
ただ永遠が全方向に伸びている。
虚無の白。白い宇宙。
どこを見渡しても果てが無い。相棒である国咲先輩が居ない。その他の誰かも存在しない。足裏には床の感触すら消えている。なのにどこにも落ちていかず、黒スーツを着た自分の肉体だけが浮き続けている。
これは、一体――
「私は、孤立の悪魔です」
どこからともなく言葉が響く。
織原は叫ぶ。いや、叫んだつもりだった。
「空気の悪魔よ!」
声は、己の耳にすら届かない。
「無駄ですよ」
中性的な声。
穏やかに、優しげに、孤立の悪魔は術中にかけた織原に囁きかける。
「貴方は既に“孤立”した。貴方の同僚も同様に。……ああ、安心してください、殺すつもりはありません。貴方がたは24時間、この空間を彷徨った後に解放される。ただ何もできなくなってくれればよいのです……」
「何だと……。お前は、一体……?」
「ああ、私の目的? いいですよ、教えてさしあげましょう。私は――いえ、私たちは、あの悪魔を攫いに来たのです。そう、支配の悪魔ですよ。彼女の力は、私たちの契約主にはとても魅力的なようで……、ええ、そうです、要するにエージェントというやつですね。どこの国からって? はは、そこまでは教えられませんよ。私はそういう悪魔なのです。誰とも深い関係にはなれず、保つこともできない……」
「くそ……、俺たちは邪魔だったわけか」
「本当はもう少し機会を伺いたかったのですがね……。どうにもうちの同僚が――いえ、同僚が契約していた現地民が先走ってしまったようでして、私も出ざるをえなくなりました。ああ、まったく参ったものです。だからさっさと殺して身体を乗っ取ってしまえばいいと言ったのに……」
「お前は? 誰と契約している?」
「ふふ、日本人は仕事熱心ですねぇ。残念ですが、私は誰かと正式に契約しているわけではありません。ただの口約束で動いています。……そんな悪魔が居るのはおかしい、ですか? そうかもしれませんね。普通の悪魔は、契約もなしに特定の国に肩入れしたりはしませんから……。これは、ただの趣味ですよ。私は誰とも契約できない哀れな悪魔であり、だからこそ他の人間や悪魔たちが諍いを起こして私には体験できない人生の交差点でぶつかり合っている様を眺めるのが好きなのです。そうだ、こんな詩は知っていますか――」
:
:
捨てられた女より、もっと哀れなのは、寄る辺ない女です。
寄る辺ない女より、もっと哀れなのは、追われた女です。
追われた女より、もっと哀れなのは、死んだ女です。
死んだ女より、もっと哀れなのは、忘れられた女です。
「さて、あの支配の悪魔ははたしてどの女になるのでしょうね……ふふふ」
私はナユタ。
支配の悪魔。
何度も何度も考えた。
私と唯一対等な関係を結べる者。
やはり、デンジしかいなかった。
私を、悪魔として恐れない。
害獣として嫌悪しない。
兵器として利用しない。
蔑まない。馬鹿にしない。アクセサリーにしない。肉欲を向けない。
ありのままを見てくれる。
じゃあ逆に――と考えた。
もしもデンジが私を恐れたら? 嫌悪したら? 利用しようとしたら?
蔑んで、馬鹿にして、勲章扱いして、あるいはえっちなことをしたいだけだったら?
それなら私は彼を嫌うのだろうか。嫌えるのだろうか。
いや、違う。
おそらく、それでも私は――
この気持ちの正体は何なんだろう。人間でいうところの恋や愛なのか。
もっと上位の感情なのか。ただ即物的な欲望なのか。
分からない、けれど。
1つだけ分かるのは、
ずっと彼の傍に居たい。
そんなざわめきだった。
けれど、私は悪魔だ。
支配の悪魔――
誰かを支配したいとか、支配せずにはいられないとか、そんな表現は正確ではない。
私が、支配そのもの。支配という定義。他者との関係性を支配を通してでしか築けない。
どうしても“上”か“下”かを見てしまう。
人間が紫外線や赤外線を視認できないように、私は“曖昧な平等”を認知できない。
見上げて憎むか、見下して支配するか。
そんな存在は誰とも対等ではいられない。
きっとデンジであろうとも、いつかは呆れ、あるいは恐れて去っていく。
そして成長しきった私は彼の離反を許さないだろう。心地良い安寧を維持するために彼の意志を奪い取り、安住に浸って、やがて虚しさに飽き、全てを失ったことに気付くのだ。
そこまで分かっていても
それだけは嫌だった。
だから、今しかなかった。
私が完成してしまうその前に、けして破れない鎖で雁字搦めにしてもらうしかない。
そのために、敢えて私が
こんなにどうしようもない生き物になると披露した。
デンジは、恐れただろう。嫌悪しただろう。あるいはもしかして利益を得るために使えると思い至り、そんな発想をさせた私の存在を忌避したかもしれない。
演技しながら、動揺した。
恐れた。
不安だった。
緊張に胸が張り裂けそうだった。
それでも、今しかなかった。
デンジは思ったはずだ。
こんなにどうしようもない生き物は、自分がどうにかしなければいけない、と。
今のデンジには2つの選択肢が浮かんでいるに違いない。
即ち――
かつてのマキマのように抹殺するか?
それとも首輪を繋いで、徹底的に管理するか?
デンジ……。あなたはどちらを選ぶ?
ここまで誘導し、追いこんだのは、私だ。
どちらを選んでも文句は言わない。
両手を広げて受け入れよう。
だけど、デンジ……。
願わくば――後者を選んでほしい。
ずっと傍に居させて。
デンジ、覚悟を決めるの。
人間のように互いを尊重して共に在るなんて生き方は、悪魔相手にできるわけがない。
それをちゃんと自覚して、やってほしい。
拳を握りしめ、力づくで言う事を聞かせる。
常識や倫理観にとらわれず、思い通りに私を支配する。
大丈夫、あなたには才能がある。
まっとうに育てられてこなかった被虐待児は精神の発達に支障をきたす。ある者は恐怖を感じられなくなり、ある者は言語機能よりも深く“誤った躾のやり方”が刻まれる。
あなたなら、できる。
さぁ、やって!
髪を引っ張り、涙の上から殴りつけ、腹を踏みつけにして、『力ではデンジに敵わない』と頭のてっぺんから足の爪先まで
私に
:
:
季節はいつか変わると
知って愛した 私だけど
あなたが言い出す前に
去ってゆくと決めていたけど
ごめんね 遠い目をして
次の風を待つあなたを
このまま闇に落として
二度と返さない
テレビのスピーカーからエンディングの曲が流れていた。
録画しておいた再放送。
昭和のテレビドラマの最終回。
結末は、やはり救いようがない締めくくり方だった。
罪の意識に苦しみ続けた主人公。
不義を肯定し、金を得た姉。
2人は決別し、そのまま二度と会わなくなる。
それで終わりだった。
デンジは無言だった。帰宅してからずっと。
目は眇められ、唇は強く結ばれている。
初めて見る表情だった。
何を考えているのか、ナユタでも読み取れない。
少女は密かに唾を呑みこんだ。
喉がカラカラだった。
初めてデンジを恐ろしいと思った。
「……」
5日もの間、このドラマを観せ続けたのも、わざとだった。
人間――ひいては社会には、負の情念が渦巻いている。それらは宗教家たちが賛美するような高貴なる精神性と切り離すことはできない。向き合ってほしかった。悪魔という負の存在と。
ドラマは、終わった。
エンドクレジットが映る。
デンジはリモコンを操作して電源をオフにした。冷えきった眼球で向き直る。ナユタを正面から見据えた。
2人の間にあるちゃぶ台が紙のように薄っぺらく感じた。波打って、揺れているようにさえ見えてくる。視界が窄まって平衡感覚も頼りない。
それでも、プライドがあった。
これは私が始めた勝負だ。
時間は23時50分。
決着をつけなければならない。
「――ねえ、デンジ?」
よし。
声は震えていなかった。
「私は強くなったの。他の悪魔を支配できる」
大丈夫。
最後まで演れる。
「これで私は1人でも稼げるようになったの。分かる?」
「なにが言いたい?」
誰の声かと思った。
心臓がきゅうと締めつけられる。
けして表情にだしてはならない。
「この家を維持できるようにお金を管理してるのは、私。他の使い道を決めて、実際に買い物をするのも大体、私。そして、今回、お金を稼ぐのも私ができるようになった。――はい、ここで問題です。デンジと私、いったいどっちが“上”なのかな?」
怖い。
恐ろしい。
逃げだしたい。
目の前の少年が誰だか分からない。視線は矢じりよりも鋭く皮膚を貫いて、臓腑へ突き刺さった。止めてほしかった。見ないでくれと叫びださないよう全力で拳を握りしめた。
でも、やれ。
行くんだ。
火蓋を切れ。
開戦のラッパを鳴らすんだ。
「
さすがのデンジもぎょっとした。
それはマキマがする呼び方だった。明らかな攻撃に、少年の瞳に決意が灯る。
やっと気付いたか。
目の前の少女は放っておくとマキマに成る、と。
さぁ来い。
始まったぞ。
私はもう覚悟を決めている。
今さら、どこにも逃がさない。
「――私のなかのどうしようもない部分が、誰に対しても格付けを求めてるの。これはもう、本能みたいなもの」
みしり、と畳に手をついて、
四つん這いで、にじり寄る。
「けど、デンジ君とは対等でいたいとも思ってる……」
「俺をデンジ君と呼ぶんじゃねえ」
「お兄ちゃんとは呼ばないよ。絶対に」
デンジの膝に指を乗せ、更に半歩、身を寄せる。
「分かるでしょ? 私はもう、あなたを下に見つつある。明日にも全てを奪い去ってしまうかもしれない。だから、方法は2つしかないの」
デンジのTシャツに指をかけ、
ゆっくりと、ゆっくりと、
捲くり上げていく。
腹が見え、胸が見えて――スターターの紐が現れた。
「マキマのように排除するか。それとも二度と逆らえないように、今、ここで、徹底的に屈服させるか……」
反対の手の指で、デンジの指を掴む。
ゆっくりと、ゆっくりと、
持ち上げていく。
スターターに指を引っかけた。
「――さあ、どっちにする?」
あとはもう、引っ張るだけで、デンジはチェンソーマンになれる。
全てはデンジの意志次第。
23時55分。
決着の刻だった。
「男なら、どうすればいいか分かるよね?」
デンジはやれる男だ。
例え好きな相手だろうと敵と定めたら容赦しない。
私の格付けがマキマ以下だったならグチャグチャに殺される。
これは、賭けだった。
デンジの夢と、この私、どちらが選ばれるか。
賭け金は、私の命――
『赤い華』
アーティスト:錦城薫
デンジは決めた。
-
チェンソーマンになる。悪魔をぶった斬る
-
チェンソーマンにならない。少女を躾ける
-
うるせえーーー! 知らねええーーーー!!