ナユタとデンジはセックスしたいだけだった 作:シャブモルヒネ
ピンポーン
チャイムが鳴った。
デンジはスターターに指をかけたまま、緩慢な速度で視線をドアへと移す。
ナユタは胸中で歯噛みした。
最悪のタイミングで水を差された。
一体誰だ、こんな時間に……。
ピンポーン
いや、待って。
今は深夜。時計の針は真上を指している。
こんな時間に、誰が来る?
新聞勧誘?
訪問販売?
宗教屋?
それとも町内会の回覧板?
ありえない。そんなわけがない。
支配下にある小動物と感覚器官を共有して確かめることにした。アパートの外、電線に留めていたカラスの眼を借りる。
ドアの 前 誰も いない ドア前 通路 誰も いない
左隣の 部屋 の前 誰も いない 右隣の 部屋 の前 誰も いない
階段 1階 誰も いない 人間も 悪魔も 誰も いない
「……え?」
夜は、静寂に包まれていた。
隠れたか? もしくは、逃げた?
悪戯か?
いや、そんな時間ではない。楽観できない。
敵、という単語が脳裏をよぎる。
……これは、陽動?
ベランダ側に意識を向ける。予め配置させていたネズミたちの眼を借りた。
誰も いない 誰も いない
誰も いない 誰も いない
誰も いない 誰も いない
アパート2階の全てのベランダには誰もいなかった。
1階と、敷地内にも誰もいなかった。
隣家にも、正面から繋がる道路にも、誰もいなかった。
なのに、
ピンポーン
まだチャイムが鳴っていた。
ドアの側に、誰かいる。
「……」
カラスは夜目が効かないから……見逃していたのかもしれない。
再びドア側へ、潜ませていたネズミへと意識を繋いだ。
誰も いない 誰も いない
誰も いない 誰も いない
誰も いない 誰も いない
ナユタ自身もドアを凝視した。
部屋の内側から見えるドアはいつも通りに安っぽい。鍵はかけられ、チェーンも繋げてある。毎日見ているドア。何の変哲もないドア。今も、1つも変わらない。
もう一度だけ、ネズミを介して外側からドアを観測してみた。
やはり、誰もいなかった。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
誰もいないないはずだった。
今もリアルタイムで観測している。
早川家のドアの前には、誰もいない。
間違いなく誰もチャイムを押していない。
なのに、
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
音が、鳴りやまない。
ナユタは気付いた。
犬の悪魔とのパスが切れている。
支配が解けた?
いいや、それはありえない。
犬は、犬の悪魔は、本能的に主人を求める生き物だ。支配下に置かれることを望んでいる。ゆえにナユタと犬の悪魔の間には反発なき支配関係が結ばれていた。
自由への欲求が無い。
だから、ナユタの意思を介さずに支配が解ける事態はありえない。
なのにパスは切れている。
これは、つまり――
犬の悪魔が死亡したことを意味する。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
「なんだよ、うるせえなぁ」
デンジは立ち上がる。
スターターから指を離し、Tシャツのめくれを戻しながら、のそのそとドアへと向かった。
リリリリリ
電子音。
ナユタの携帯が鳴った。
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
リリリリリ
デンジはドアの前に立つ。腕がドアノブへと伸びていく。
ナユタはまったく動けなかった。
混乱のさなか、最悪を避けるために推測をフル回転させていく。
……犬の悪魔は殺された。
誰に?
あのストーカー男の悪魔に? たいして強くもなかったのに?
どうやって?
他にも敵がいるんじゃないか?
ぱっと浮かんだ候補は、デビルハンター。
民間の? いいや、それはない。犬の悪魔は公安でも容易に抑えこめない強さを持っていた。ならば……岸辺か? いよいよ私を処分するためにやってきた。違う、岸辺はまだ来ていない。あの男を監視させていたカラスに意識を繋ぐ。
岸辺は、夜の住宅街の道路で屈みこんでいた。周りには部下と思わしきスーツの男たち。何かを調べている。アスファルト、黄色い液体……ついさっき起きたばかりの悪魔同士の戦闘、その痕跡を調べていた。
岸辺ではない。
岸辺はこのアパートに来ていない。
公安のデビルハンターではない。
じゃあ、誰だ?
ピンポーン
ピンポーン
ピンポーン
リリリリリ
デンジの腕がゆっくりと伸びていき、ドアノブに触れそうになる。
反射的に叫ぶ。
「デンジ、出ちゃだめっ!」
ぴたり、と止まった。
デンジは止まってくれた。
チャイムの音も同調するように途切れた。
誰も、何も、喋らなかった。
無音、
不穏な静寂、
デンジは動かない、
ドアの外には誰もいない、
なのに、
ドアの鍵が、外側からガチャリと回された。
ぎいぃ……
誰もいない、はずなのに。
ドアの隙間から顔が現れた。
「こぉ~んばんわぁ~」
知っている顔だった。
ストーカー男。額に、大きな十字が生えていた。
魔人になっていた。
「天にマシマシ我らのヤッハー、願わくば以下略、光あれ」
隙間から、緑色の筒が放り込まれる。
ごつん、と床にぶつかった。ナユタとデンジは思わず目で追った。
デンジは、見覚えがなかった。
ナユタも、知らなかった。
それは暴徒鎮圧、対テロを目的として使われる牽制制圧用兵器。通称フラッシュ・バン。
スタングレネード。
閃光が、神経を焼きつくす。
……マキマ。
私の知らない、以前の私。
デンジから聞き出した彼女の人となり。行動。その傾向。
認めたくないことだけど……彼女のやり方は素晴らしく丁寧だった。
その支配――
綿密で、効率的で、そして何より美しい。
被支配化におかれる当人すらも気付けないように心の隙間へ入りこみ、時間をかけて侵食する。
反意を一欠片すら抱かせない。
そのためには敢えて断片的で不完全な支配さえよしとしていた。
アキと呼ばれた人間。
天使と呼ばれた悪魔。
きっとその他にも、何人も。
相手に抵抗されないということは、より少ない力で支配下におけるということだ。
マキマはまるで投資家のように未来を見据えながら支配の種を撒くことで静寂なる支配を成し遂げていた。
マキマは、スマートだった。
彼女は、人の意思と感情を捻じ曲げてはいたけれど、ナユタのように力技でねじ伏せるような真似はしなかった。いや、していなくもなかったようだが……最悪でも失敗をカバーできる算段をつけてから実行していた。
その場しのぎで強権をふるう――そんなやり方は不細工にすぎた。そんな支配はけして長続きしない。簡単なきっかけで解けてしまう。
支配とは、契約だ。
破られてしまう取り決めに価値は無い。
思い知らされた。
マキマの支配、そのやり方は、今の自分のそれよりも優れている。
そして同時に理解した。
支配にも形而上の優劣があるということを。
つまり。
支配には、より崇高で、気高いやり方が存在する。
それはおそらく、自分とマキマを並べた延長線上に在るはずだ。自分を下位、マキマを中位と見立てるならば、最上位の支配とは、私たちの向こう側に在る。
実在するかは分からない。
けれど私たち2人のやり方を比べてみれば、そのおぼろげな輪郭ぐらいは想像できた。
ひょっとしたら、それは。
支配する者・される者、双方の合意のもとに行われるような関係性を指しているのかもしれない。
束縛とは無縁の場所にある支配。
そんなやり方が許されるとするならば、私は――
「――う」
曖昧だった意識が像を結んでくる。
喉、そして顎を僅かに動かした。次に指。……動かせる。身体のコントロールを取り戻した。
立ち上がろうとして腕を動かせないことに気が付いた。
手首に、鈍い痛み。後ろ手にきつく固定されている。
どうやら縛られているようだ。
少し身体を動かしてみる。腕以外に不自由なところは無い。どうやら壁などには繋がれていない。ただ両手のみが拘束されている。
「おや、もう目を覚ましましたか」
中性的な声。
目を向けると、知らない悪魔がこちらを覗きこんでいた。
作りかけのデッサン人形のようだった。口は無く、目にあたる部分には炯々と穴が空いている。のっぺりとした表情と全身はただ白い。そして何故だか、輪郭がぼやけている。焦点を合わせることができない。
「私は、孤立の悪魔です」
「こりつ……?」
「貴女を攫いにきました」
「…………外国の、手先か」
「ええ、話が早くて助かります」
深呼吸を一つ。
身をよじると全身が汗にぬれて気持ち悪かった。まるで悪夢を見た直後のよう。
周囲は――慣れ親しんだ我が家。早川家。
まだ連れ去られてはいない。
ナユタを拘束し、今からまさに移動しようという場面だったのだろう。
だが――随分と杜撰な手口だと思う。嘲笑を浮かべた。
「さっきの光、スタングレネード? こんな住宅街でよく使う気になったね?」
「ああ、近所迷惑というやつですか? ご安心を。誰も起きてはきませんよ」
「そんなわけない。あなたを飼っている国がどうかは知らないけど、日本人は神経質なんだ。今にも公安が飛んでくる」
「来ませんよ……」
孤立の悪魔は肩を揺らした。
「この部屋は“孤立”させています。どんな光も音も漏れません。いえ、正確にいえば見過ごされるようになるのです。人は縁の無いモノは放置する……つまり、あなたはそのようにして誰にも知られることなく連れ去られるというわけですな」
「……なるほど。石ころ帽子みたいな奴だ」
「なんです、それ?」
「とるに足らない石ころ野郎、ってこと」
「ははっ、違いない。……私は意味も価値も無いちっぽけな悪魔ですよ」
会話しながら、意識は背後に向けていた。
誰か、いる。
振り向くまでもなく臭気が存在を主張していた。
おそらくは、先ほどの魔人。
みしみしと、早川家の畳を踏みながら視界に現れる。
「おお、おお、支配の悪魔よ! 我は疑問だ! いかに先代が強大な力を持とうとも、この者は脆弱で拙劣ではないか! 人間はかような者をなぜ欲するか!」
「何なの、その喋り方……」
魔人はどすどすとちゃぶ台を回りこみ、畳に転がっていたデンジの前で座りこむ。
彼の意識は――戻っていない。
ナユタと同じように後ろ手に縛られている。
人間の身体にはスタングレネードは強烈すぎたのだろう。傍で悪魔たちが話していてもぴくりともしなかった。
「チェンソーマン! 汝、不要なる者!」
魔人が腕を振り上げる。
ぎょっとした。
中年男の太い指に、大型のナイフが握られていた。
ずどっ。
デンジの胸に突き立てられた。
「心臓さえ、あれば、よい!」
二度、三度と振り下ろされる。
血が飛び散って、その度にデンジの身体は痙攣した。
「――や、止めてっ!」
魔人の目玉がぎょろぎょろと回転する。
「……我はぁ、神父の魔人なるぞ」
粘液を垂らして、畳を汚す。べたり、べたりと赤ん坊のように這いながらナユタににじり寄ってきた。ぶよぶよした腹の肉が嫌悪感を催した。臭気を吐きだして、唇をつり上げている。
「我はっ、唯一絶対・至高なる者の使いであるぞ! ジャスティス! 異論は異端! 聖罰をくだぁ~す!」
ナイフを振り上げて、
ナユタの肩に突き刺した。
「ぐ、あっ」
灼けた鉄棒を押し当てられたような激痛が走る。
全身が硬直し、筋肉が引きつった。意思とは無関係に喘ぎが漏れる。
「……ぃ、うう」
視界が歪むなかで、デンジを見た。
胸から血を垂れ流しながら横になったままだった。意識が戻っていないのか、死体のように半開きになった唇から、泡を出していた。呼吸はしている。だが、閃光による麻痺と、刺突による衝撃が、彼から明瞭な思考能力を奪っている。
加えて、腕は拘束されていた。
仮に意識が戻ろうと、打ち上げられた魚のようにのたうち回ることしかできないだろう。
「は、……っ」
孤立の悪魔は壁に寄りかかり、我関せずとばかりに腕を組んで眺めている。
神父と名乗った魔人はほくそ笑んでいた。
苦しむナユタにのしかかる。
「支配……支配の悪魔! 前から気に食わなかったのだ! マキマの如く手緩いやり方が、どうしてああも恐れられたのか! ……よいか! 本物の支配とは! 一分の隙も無い完璧な統制よ!」
「ぐうっ」
「反逆者には死を! 無知なる者には改宗を! この我がやり方を教えてやろうではないか!」
「うぎっ」
燃えるように熱く、痺れるような電流が流れている。肩に3つの穴が開いていた。眩むような痛みに襲われながらデンジを見た。
仰向けのままぴくりとも動かない。シャツが破れてじわじわと赤い血が染みだしている。
「あ……あぁ……」
言い知れぬ圧迫感。視界が歪み、みじめな胸の苦しみだけが満ちてくる。
呼吸を整えられない。
デンジはどうなる。殺されるのか。心臓を抜き取られるのか。
もう二度と会えなくなってしまう、それがたまらなく恐ろしい。
「天命! 純然たる高貴なる支配とは何か!? それは! 反意を塗りつぶす圧倒的正義っ! その方法は――こうだ!」
ナイフが、ナユタの服の首元に添えられて、一気に破り去った。
裸身が無防備に晒される。
「自由を奪い尽くし、誇りを踏みにじればよい!」
魔人の眼が血走って、中年男の臭気が増した。
孤立の悪魔はせせら笑っているだけで何もしない。
デンジは、動けない。
公安は、気付いてさえいないだろう。
ナユタはただ独り、孤立した空間で呼吸を荒げているしかない。
だが。
気に入らなかった。
「――やってみろ」
こんな事態を許した己の不甲斐なさに腹がたつ。デンジは何も悪くない。なのに苦しめられている。全て自分のせいだった。マキマなら未然に防いだに違いない。
「ほぉぉ~? 哀れな悪魔! ならば丁度いい、ついでにこの宿主の末期の願いを叶えてやるとしよう! 我は特権、聖職は剥奪されず、温情なる方針のもと、めめめ免罪が確定しぃい、姦淫はぁ~、無罪となるぅうう!」
いいようにされるのも気に食わない。この醜い悪魔は、支配の悪魔たる私が簡単に屈して許しを請うと思っている。ふざけるな。お前の如き下衆を見上げてへりくだるわけがない。
「籠めよ、抑えよ、黙らせよ! そして人生を支配するぅう、それこそ我が教義の真髄なり!」
「やってみろッ!」
何よりも。
猛烈な反発心があった。
このような低劣な支配は断じて認められない。支配とは、もっと気高く崇高であるべきで。
私は、自分が認めた者以外には屈しない。
そして、醜悪な触手が伸びてきて――
バリィイイイーーーーーーーーーーンッ!!!
耳をつんざく破裂音、
「!?」
「な、なんだぁっ!?」
ガラス片とともに音が粉々になって全身にぶつかってくる。
突然、まったくの前触れなく、その女は現れた。
驚愕する孤立の悪魔、
身構えた神父の魔人、
倒れているだけのナユタ、
3人の視線を一身に集め、その女は傲岸不遜に笑った。
「フェミミミミ~~ンッ!」
右の拳を畳にめりこませ、ぎらつく瞳で悪魔と魔人をねめつけた。
ヒュパッと音が聞こえそうなキレのある動作で身を起こし、キャリアウーマン然した社会人バリバリの着こなしを整えた。
「――私はァっ、絶対正義の執行者ぁ! 冤罪の悪魔よぉーっ!」
「え、えんざい……だと?」
「わははー! マスコミよ、大々的にとりあげよ! 食らえっ、アルティメット・ブンシュソ・キャノーーン!」
びしィ!
紫色の発光が、狭いアパートの室内をあまねく染めあげる。
「ぎぃいええええ!?」
神父の魔人が仰け反った。
高圧電流を流されたかのように震えてべちゃりと倒れこむ。
「おぎょぎょぎょーっ!? ち、違うぅっ、俺は……いや、我はぁ……居場所のない子どもたちに……パパとママに貰えなかった愛情を代わりに与えようとしただけでぇえ!」
「黙れっ、強制わいせつ現行犯! ファイナル・シソチョウ・ビィーッム!」
「ぎやぁぁああああ!」
ぱっ、ぱっ、と紫色の光が輝いて、野太い悲鳴が反響した。
「な、何なの、これは……」
思わず零れた、自身の声。ナユタはハッとする。
冤罪の悪魔が助けに来た。
「どうやって来た……!?」
狼狽したのは、孤立の悪魔。
「ここは既に孤立した空間……例え用向きがあろうとも侵入する意思は保てないはず! 貴女はいったいどうやって我々を感知した!?」
冤罪は、ついと振り返る。
「ふっ、何言ってるかさっぱりわからないけど……私は、冤罪の悪魔!」
ズバァァン! と指を突きつけた。
「悪事はけして見逃さない! ある事ない事掘りだして、貶められたら私の勝ちよっ! 食らえ、ギガ・ゲソダイ・ドリルブレイクーーッ!」
「ぐぬっ…………ぬ? ……おや? 何とも……ないぞ……!?」
「くっ、悪魔には効き目が薄いか!」
冤罪の悪魔が飛びかかる。
が、その腕に、びゅるんと黄色い触手が巻きついた。
神父の悪魔、もう立ち直りつつある。
「はぁはぁ……そうだ、思い出した。こいつの光は、精神攻撃! 我々人外の者は、気を張っていればどうということはなく!」
「ちぃ!」
1対2。そして相手は、相性の悪い悪魔と魔人。
せっかく冤罪の悪魔が来たというのに戦況は何も変わっていない。圧倒的に不利であり、結末は何も変わらないだろう。
ナユタは動けない。
後ろ手に縛られて、口しか動かせない。
それだけ。
それだけできれば、充分だった。
敵の注意は冤罪の悪魔に向いている。その黄金よりも貴重な一瞬をついてナユタは身を跳ねさせた。頬をぶつけながら着地した先の、その男の胸からは、1本の紐が垂れていた。
スターター。
咥えて、あらん限りの力で引っ張った。
「ごめんね、デンジ……」
ブゥン
デンジの心臓が唸りをあげる。
だがすぐに魔人に察知された。
触手を振り回して冤罪の悪魔を壁に叩きつけ、先端に絡みつかせたナイフをデンジに振るった。大気を切り裂く不吉な擦過音。
間に合わない。
ナユタは唇を噛んで覚悟を決めた。
起動中のデンジの盾となる。
「――っ」
きつく瞼を閉じて身を固くする――
けれど、
衝撃は訪れなかった。
「……え?」
背中に密着している男の身体が熱く燃えていた。
どくんどくんと脈動が大気を震わせて、
ガソリンが血管を流れる振動を肌で感じていた。
ナユタは、目を開けた。
鋭いナイフが鼻先でぴたりと静止している。
力強く握りしめている右腕は、ナユタの背後から伸びていた。
「……今日は色々ありすぎてよぉ、な~んにも分かんねえけど……」
ぽたりぽたりと血が滴っている。
その右腕から、回転する悪魔の刃が飛びだした。
触手が断裂される。ナイフが落ちる。
「テメえらがムカつくヤツだって事だけは、はっきり分かったぜ」
魔人の短い悲鳴を聞きながら、デンジはゆっくりと立ち上がった。
左腕が優しく少女の身体を抱きしめる。強く、隙間なく。もう二度と離さないように。
見上げると、目が合った。
眉間の上から凶器を生やした電ノコ男。何人もの悪魔を葬ってきた地獄のヒーロー。
何一つ恐ろしくなかった。
ヴヴヴヴヴ
甲高い駆動音を纏わせながら、金属頭のチェンソーマンが吠えたてた。
「テメえら! 俺んナユタを泣かしてんじゃねええ!!」
チェンソーマンの上体がわずかに沈み、ナユタに更に密着する。前傾姿勢になった。
そこまでは分かった。
瞬間、
全身、腹の底から指の先まで、爆発的な衝撃に晒された。肺が押し潰されて空気が絞り出される。悲鳴さえ上げられない。上下感覚を失って身を固めることさえできず、巨人に弄ばれるがごとく慣性に蹂躙された。
気がつけば、目の前に黄色い肉塊があった。
手を伸ばせば触れられる程度の距離で、ぱくり、とヘソのあたりが裂けた。ぷちぷちと、ファスナーを開けるように切れ目が上がっていく。
血が噴きだす。
「ギャアアアアア!!」
返り血を浴び、魔人の悲鳴を聞きながら、ようやくナユタは事態を把握した。
チェンソーマンが、斬った。
その身にひっついてるナユタが理解できないほどの速度で詰め寄って、右腕のチェンソーで縦一文字に切り裂いた。
たたらを踏む魔人、傷口を押さえて呻いている。
「ナユタぁ、無事かァ~?」
頭上から、声。
「う、うん」
「だったらよぉ、ちぃとばかり待っててくれよ~」
ぶつん、とナユタの腕を縛っていた紐が切れた。
ゆっくりと少女の身体を下ろし、チェンソーマンは、自由になった左腕からも回転する刃をずるりと伸ばして唸らせた。
右腕、左腕、そして頭部。
3本のチェンソーが地獄の交響曲を奏でていた。
「あン野郎、ぶっ殺してやっからよぉお!」
トン、と前足を踏み出した。上半身を旋転、瞬間、輪郭がぶれる。
横一文字。
魔人の腹がばくりと裂けた。
「ガッガガガガガァ! きっ貴様、よくもォ! 極刑極刑、聖罰執行! 処処処すぅ~~!」
「やってみろよバァ~カ!!」
チェンソーが蛇になる。3本の鎌首が畳を這いながら詰め寄って、血をよこせと声よりもはっきりモノを言う。無慈悲な回転音が汚い触手を何本も撫で斬った。
だが、次の触手が生えてくる。
むりゅむりゅと何本も、何十本も、斬られた断面から煙のように増えていた。それは腹の傷口からも同様に、際限なく増え続けている。
更に、表面に十字架が浮かび上がる。
チェンソーとぶつかって火花が散った。
硬い。
斬れてはいるが、時間がかかる。
その間に魔人はどんどん体積を増している。
ジリ貧――焦りを覚えたナユタの真横から、冤罪の悪魔が抱きついた。
「早川さぁぁん! またあの人にフラれちゃったのぉお! 私どうしたらいいのぉ!?」
――は、
「はっ?」
「電話したのにど~して出てくれなかったのぉ!? ねえ、あの人の心を何とかしてええ!」
「な、なな……」
「一生のお願いだからあっ」
「それ今言うこと!?」
「だって諦められないんだもん!」
「後にして!」
「嫌! だってだって、私にとってあの人は一番大切なんだもん!」
「何、言ってんの……? そんなに好かれたいなら……あなたは……!」
苛立ちが頂点に達した。
「嫌われるような言動をしてはいけなかった!」
あ。
しまった、と思った。
馬鹿のように口をぽかんと開けっぱなしにしたまま動けない。
言ってはならないことを言ってしまった。
アパートの一室、黄色い血飛沫と火花が飛び散る修羅場のなかで、成人女性に涙目で抱きつかれながら、ナユタは胸のうちにじわじわと後悔が広がっていくのを感じていた。
つい飛び出てしまった言葉というものは、それ即ち本音でもあった。
「……もしもし、早川さーん?」
けして自覚してはならなかったのに。
今まではどうにか誤魔化していた。己の認識すら偽れていた。
嫌われるような言動をしてしまっても、どうにか手を尽くせば挽回は効くと信じていた。
他人を見下すような女でも、周囲を支配するような悪魔でも、
流れと勢いと義務感と既成事実を積み上げて囲ってしまえば好いたままでいてくれる――そんなふうに今までは自分を騙せていたのに。
ただ1点の真理に気付かされてしまった。
嫌われるような言動をしていたら、嫌われるのは当たり前。
他の何がどうとか関係ない。
身の回りの世話をしてくれるとか、
家事をしっかりやってくれるとか、
美味しい料理を作ってくれるとか、
デートに誘ってくれるとか、
可愛い嫉妬をしてくれるとか、
布団に潜りこんで性を意識させてくるとか、
他の男を引き合いにだして独占欲を煽ってくるとか、
ストレートに告白してくるとか、
そんなの、もう、全部が全部、蟷螂の斧でしかなかった。
好感度のプラスポイントを稼いだところで紙の盾にもなりはしない。
人を見下して、自由を奪い取り、尊厳を踏みにじってしまったらもう終わり。
何をやっても無駄でしかない。
――なのに。
そのはずなのに、どうしてデンジはまだ守ってくれている?
彼には自分の負の側面をさんざん見せた。
デンジの友人たちをも支配して弄んだ。
それなのに、どうして……?
呆然とする頭を、物理的にがくがくと揺さぶられた。
冤罪の悪魔だった。
「――ねえ、お願いだから! 諦めたくないの! あの人が好きだから!」
な、なんなのこいつ、さっきから……。
信じられない阿呆女。
だって、好きな男に本心から好意を伝えても逃げだされ、面と向かってはっきりと「うんざりだ!」と告げられているはずなのに未練がましく縋りついている。というか、今日も追い返されたと言っていた。こいつは一体何回フラれてるんだ?
無様すぎる。
みっともないにも程がある。
でも、
でも、
見下せないのは何故だろう。
勝ち目がないのに足掻く女を笑えないのは何故だろう。
それは、
「……分かった」
「えっ? 早川さん、なんて!?」
「何とかする……約束するから……」
「ほんとォォ!? ――っしゃあ! やる気出てきたァァ!!」
整った顔立ちを悪辣に歪ませて、冤罪の悪魔は両腕を振り上げた。
醜い。だが目を奪われる。
触手の群れに飛びかかり、チェンソーマンと並んで引き裂きにかかった。
一転攻勢。破壊が増殖の勢いを上回る。
「……ああ」
ナユタの身体の節々にじくじくと熱が走りだした。わけの分からぬ情動が交錯して痛みすら覚える。胸が熱くなる。
たまらずナユタも吠えた。
「デンジ!!」
「――ああっ!?」
右に左にチェンソーを振るいながら背中が叫ぶ。
ナユタはごくりと恐怖を飲みこんで、
「どうして私を守ってくれるの!?」
「なんだってー!?」
「だから……だから……デンジは私をどうしたいのっ!?」
「わけ分かんねーこと聞くなァ!」
「分からなくなんてない!」
血飛沫、肉片、ぎゅうんと伸びてきた触手がチェンソーマンの腹を打つ。
「うげーッ!」
「答えてっ!」
「そ、それ今聞くことォ!?」
「だって諦められないんだもん!」
チェンソーマンが跳びあがる。
両腕、頭、そして両脚からもチェンソーを振りかざし、勢いのまま触手の群れに突っこんだ。
ブチブチブチブチ――ゴリゴリリリ!
「オギョオオッ!? 痛痛痛ギャアアアア!!」
骨を断ずる振動が部屋中に響く。チェンソーの刃が魔人の身体に達した。
「ぶっちゃけっとよォォ! おめーの言ってるこたぁ、全っ然、1つも分かんねえんだよ!」
分厚い肉が裂ける音。骨の髄が混ざる音。
常人ならば聞くに堪えない旋律をBGMにして、デンジは叫んだ。
何も分からない、と。
ナユタは愕然とした。
「……分から、ない……?」
全身から力が抜ける。
ひゅるひゅると、魂から声が漏れてきた。
「ふざけないで……」
わなわなと、顎が震えだす。
到底受け入れがたい返答だった。
ナユタは全身の毛穴から激怒が立ち上っていくのをはっきりと自覚した。
――こっちは命を賭けたのだ。察しの悪いデンジでもきっちりと理解できるように周到に、くどいほど段階を踏みながら演技した。全てはデンジに最後の二択を迫るためだった。確実に誘導できるようにどれだけ頭を悩ませたか。死に物狂いだった。全てデンジを想うがためだった。
それが、
分からないぃ……?
もしもフリをしているなら殺してやろうかとすら思う。
だがナユタには理解できてしまった。
デンジは現実逃避で誤魔化しているわけじゃない。
本当に、分かっていない。
納得していない、とかではない。
何かを咀嚼できていない。
「どうして!? 何が分からないっ!? あんなに、あんなに分かりやすく伝えたでしょ!?」
「おめえが言ったことォ、分っかんねぇんだよ!」
「だから、何が!」
「うががッ! ……あ、あのさぁナユタちゃん!? 今戦闘中なんですけどォ!?」
「うるさい! 答えて!」
「うおォりゃーーっ!」
ズバンズバンと無限に湧きでる触手を断ちながらデンジは吠える。足元から頭上から打ちつけてくる攻撃に晒されようと攻撃を止めない。満身創痍の削り合い。会話している余力などない。そんなデンジのために少女は自分から質問を投げつけた。
「私を殺すか! 私を支配するか! それだけの二択でしょう!?」
「あァ~~!?」
「デンジ! 私を殺すか!?」
「なんでだよ!」
「じゃあ、私を支配するのか!」
「なんでだよぉっ!?」
「――どっちかしかないって、分かるでしょ!?」
「だから! なんで! それしか! ねえんだよ!」
「はァ!?」
「なんで俺がナユタを傷つけなきゃいけねェンだよ!?」
「だって――!」
魂がわなないた。
「私は、このままだとあなたを支配してしまう!」
「すりゃあーーいいじゃねぇか!」
断末魔。
魔人の悲鳴が大気を震わせた。
巨大な肉塊が、どぅと倒れる。
敵を一匹倒してみせた。
そんなこと、どうでもよかった。
「……………………は?」
眩暈を覚えた。
足元がおぼつかない。ずぶずぶと沈みこんでいくように思える。世界が傾いて、動かしようのないはずの前提がまるごと消し飛んだ。
支配してもいい。
なにを、
何を、言ってるんだ。
「次は……テメえだぁーーっ!」
チェンソーマンは刃を振るう。壁際で眺めているだけだった孤立の悪魔を横に薙ぎ払う。
が、表面さえ斬れていなかった。
「んなっ!?」
「……ふふふ」
孤立の悪魔はせせら笑う。
「私は、孤立……。観測者であり傍観者。何者とも関係を築けない、ゆえに無害、ゆえに無敵……」
「はァァ~~? そんなンありかよぉ~~!?」
見れば、悪魔の身体は透けていた。後ろの壁が見える。
刃は、白い身体を通り抜けた。
壁だけが削られた。
よせばいいのにチェンソーマンはむきになって攻撃を繰り返した。全てを断ち切るはずのチェンソーは悪魔に傷をつけられず、アパートだけを破壊した。
「……あわっ! うちン壁がぁ~!」
ナユタは頭がおかしくなりそうだった。
真っ白。
脳内のシナプスが全部切れてしまったかもしれない。ロジック崩壊。思考の歩みは遅々として進まない。幼児にだって抜かされる。
「支配……していい……?」
なんだ、それ。
なにそれ?
意味が分からない。
「――なかなか面白かったですよ」
孤立の悪魔は、空虚な拍手を鳴らした。
ぱちぱち、と。他人事のように。
「今回はここまでですね……」
「なぁーに言ってやがる!」
「言ったでしょう? 私は、ただの傍観者。今回は趣味のためにほんのちょっぴり覗いてみただけです。私にはね、どこぞの国の思惑だの、誰かの人生なんて、関係ないのですよ。神父が死んだらそれで終わり。作戦は失敗です。おめでとう。貴方がたは平穏を守れました。賞賛に値します」
「はぁ~~~~? 何なのその自分本位な言い様はぁ? 気ん持ち悪ぅ~い!」
冤罪が、叫ぶ。
「金を払え! 文句を言うな! フェミミミミ~~ンッ!」
紫色の発光。
だが、通じない。
「では良き人生を……。さようなら」
孤立は肩を竦め、白々しく会釈した。
輪郭がさらにぼやけて透明度が増していく。
チェンソーと拳が突きたてられたが、やはり当たらなかった。
やがて白いデッサン人形もどきの身体は完全に消えてしまう。一歩も動かずに消滅してしまった。
「……おいおいおいおい、逃げられちまったぞぉ!?」
「ちっ」
2人は行き場のない拳を振るわせる。
荒れ果てた部屋を見回してもやはり見つからない。逃げられてしまった。
「おいナユタぁ!」
「…………え?」
ナユタはぼんやりと、口元をしまりのなく緩めたまま見上げる。
チェンソーマン。デンジが眼前に立っていた。ナユタの肩をがしりと掴む。
「ここでやっつけとかねえと喉に魚ん骨が刺さったような気分だ。どうにかなんねえ?」
「どう……にか?」
2人は真正面から視線を交わしながら、心だけはまるで別の惑星にあるかのように隔たっていた。
ナユタに緊張感はない。
何故なら、仕留めきることに大きな意味はないからだ。敵が国家である以上、刺客はいくらでも来る。逃がしたところで大差はない。今回は追い返せただけでも御の字だろうとナユタは思う。
だがデンジは違うらしい。
「俺ぁ不死身だからいいけどよ、ナユタは違うだろ?」
「まぁ、そうだけど……」
「ぶっ倒しておかねえと安心して眠れねえぞ!」
「うん……そう……?」
「それに、見ろよこれ!」
大げさに腕を振り回す。その向こう側には、無残に切り裂かれた壁や、黄色い粘液にまみれたちゃぶ台、座布団、畳があった。
阿鼻叫喚の地獄絵図。憩いの早川家が台無しだった。
復旧するのにどれだけの時間と労力がかかるだろう。いや、直せるならまだいい。下手をすると大家に追い出される可能性もある。
「やべーぞこれ。なあ、やばいよなぁ?」
「追い出されるかも」
「だよなぁぁ……。だからよ、金が要るんだ!」
「かね?」
思わず目を瞬かせた。
「引越しする金だ! あの白い悪魔ぁぶっ殺して報奨金にしようぜぇ!」
「ああ……。そっか、お金か……」
じわじわと頭に染み渡る。あまりにも場違いで俗っぽい単語を聞いたおかげで脳みそが再起動した。
お金。
ナユタの管轄範囲。それをデンジに指摘されてしまうとは情けない。どうかしていた。
そして同時に、徐々にちらちらと小さな炎が胸の奥で燃え上がり始めていた。
孤立の悪魔め。
ここは小さいながらも2人の城だ。勝手な都合で引っ掻き回しておいてのうのうと帰れると思っている。そんな驕慢を許していいのか。否。断じて否だった。
「じゃあ、殺そっか」
「おう! ……って、どうやって?」
「あいつは私を甘く見た」
拳を、握りしめる。
見上げた瞳には決意が漲っていた。
ナユタの内なる悪魔が猛っている。許しておけない。沽券に関わる。
「私は、支配の悪魔。物事を掌握する力をもっている。あいつを見て、嗅いで、声を聞いて――実感と信条がだいたい分かった。もう把握出来ている。孤立なんてさせない」
「ええと、つまり……?」
「あいつを捕まえられるってこと」
ナユタは僅かに口元を吊り上げた。
「ねえ、デンジ」
金属頭のこめかみと思われる部分に両手を伸ばす。華奢な指先でそっと触れた。同じ目の高さへと下りてもらう。
頭のチェンソーの刃の先端がほんの少しだけ皮膚を傷つけて、一筋の血が眉間を垂れ落ちていったが、ナユタは目を閉じなかった。正面から見据え続けている。
「さっき、支配していいって言ったよね。あれってどういう意味?」
「あン?」
僅かに首を傾けた。
「デンジは、あほなの?」
「おー、あほだぜ、俺は。義務教育うけてねーからなァ……って、そういう意味じゃねえんだろ?」
「うん」
「そうだなぁ……」
チェンソーマンは、むむむ、と腕を組む。「上手く言えっか分かんねえけど……」とぼやきながら、やはりナユタから目を逸らさなかった。
「会社ぁ、作んだろ?」
ナユタは、支配の悪魔。
無防備な相手に近づいて、目を合わせると、容易に支配下におくことができる。
それでもチェンソーマン――デンジは目を逸らさなかった。
ナユタが支配してこないと思っているからではない。
ナユタはけしてデンジの嫌がることはしないと信じているからだ。
「俺が社長。ナユタは副社長。……それが俺たちの夢なんじゃねぇ~の?」
ともに同じ未来を見れるなら、手をとりあってもいけるだろう。悪意なんて持つはずがないし、相棒を抑えつけるような真似もするわけがない。
だから支配されてもいいんじゃね?――そんなふうにデンジは言っていた。
ナユタは笑った。
それはいったい、どんな支配だというのだろう。
「会社?」
「おう」
「そんなこと信じてたの?」
「……ええっ、嘘なんか!?」
「嘘じゃ、ないけど……あんなの軽口でしょ」
「まじかよ……」
大げさによろめいた少年。ナユタは改めて笑った。くすくすと、友達と冗談を言い合っているような、見た目の歳ごろ相応の無邪気な笑みだった。
「やっぱり、あほだ」
デンジはまるで眩んだように目を細める。告げた。
「好き」
「は?」
「俺も好きぃ!」
ナユタは呆れた。
「ここで言う? このタイミングで? そんなのダメ。やり直し」
「ええぇーっ」
「後にして」
「嘘ぉーーん!」
深夜のアパートにデンジの悲鳴が木霊した。
@
「……」
「ねえ、先輩」
「……」
「なんスかね、これ」
「……いいじゃねえかよ、なぁ?」
「まあ、そうっすね」
「俺の言った通りだったろ?」
「そうっすね」
夜の早川家を望遠カメラで覗きこみながら、公安の監視員たちが零した。
駅前の高層マンション、その10階のワンルーム。
唐突に、孤立空間から解放された2人の監視員がまず始めたのは、救援要請でも緊急避難でもなく、仕事の続きだった。
早川家の監視。
2人はプロである。仕事に私情は挟まない。けして人間と悪魔の恋の行方を見届けたかったわけではない。
「はぁ~、くさっ。くさすぎておっさんにはきついわー」
「若いっていいっすねぇ」
2人は、ごつんと軽く拳を突き合わせた。
その傍らには走り書きのメモが破り捨てられていた。
誰にも見られることはなかった。
@
孤立の悪魔は、夜の住宅街を歩いていた。
透明になった悪魔は早川家をぬけだして、点々と灯る街灯の下を悠々と進んでいた。
表情に逃亡者の焦りは無い。彼の“孤立”の能力は無敵だったから。効力があるうちは、嗅覚に優れた犬であろうと、世界一の視力をもつダチョウであろうと、彼を認識するには至らない。事実、つい先ほども日本の公安職員たちの傍を通り過ぎたばかりだった。かの有名なデビルハンター・岸辺であろうとも堂々と道の真ん中を歩く孤立の悪魔を見つけることは叶わなかった。
ありとあらゆる全てが世俗という名の別世界。
悪魔は、凪いだ面持ちのまま思考を巡らせた。
地上は複雑で、面倒なことが多すぎる。
ただ生きるためだけに立場を主張して、他人との関係性を明確にしなければならない。地道に出会いを繰り返し、意味があるか分からない会話を積み重ねなければならない。別れてしまえば全てが無駄になるというのに、時間を浪費する意味が分からない。
だから、孤立していてもよいのだと思った。
面倒なことは全て避け、面白そうな他人の事件だけ覗き見ていればよい。
ノーリスク・ローリターン。
穏やかで優しい時間だけを過ごせれば満足だ。
(あの悪魔は、面白かった……)
支配の悪魔を思い出す。
少女の形をした幼い悪魔。
人間のように多彩な感情の機微があり、危機に晒されても揺るがぬ矜持を持っていた。
ああいう存在は面白い、と孤立の悪魔は思う。
鮮烈な意志をもつ者が逆境に抗い、他の意志とぶつかり合い、勝利して、あるいは敗北し、はたまた恋をして、激動の道を進んでいく様を眺めているのが好きだった。
自分は何もしない。
誰とも争わない。絆を深めたりしない。
ただ見ているだけでいい。ずっと都合の良い場面だけを眺めて、あたかも自分が体験したかのように悦に入っていたい。
それこそ我が人生。
……さて、今後はどうするか。下らぬ誘拐騒動の片棒を担ぐのはもう止めて、あの小さな悪魔の幸と不幸を堪能していくのも良いのかもしれない――
「あ、居た居た」
その、小さな悪魔の声がした。
振り返る。
ナユタと呼ばれていた少女が立っていた。
ゆっくりと、真っ直ぐと、孤立の悪魔へと進んでくる。
何を見つけたんだろうか? と孤立は思った。
一歩ずつ近寄ってくる少女の姿をただぼんやりと眺めていた。
自分は隔絶した存在。それぐらいは知っているだろう。まさか探しにくるほどの馬鹿ではあるまい。……とすると、いったい何の用向きだろうか。
病院、という単語が浮かんだが打ち消した。今は深夜。受付してくれるような時間ではない。
早川ナユタはそのまますたすたと歩を進め、たまたま孤立の悪魔の前まで寄ってきた。不思議なことに手の届く距離で止まった。
半身になって、膝を曲げた。
不可解だった。
後ろに振りかぶった右拳を握りしめながら、こんな独り言を零していた。
「学校で習った」と。
ずどん。
みぞおちに正拳突きが刺さる。
「――がはっ!?」
衝撃が、臓腑を走りぬける。
たたらを踏んで、わなないた。痺れが重く残り続けている。
驚天動地、ありえない事態が起きていた。
攻撃された……!?
孤立の悪魔は俗世から隔絶した存在。触れることはおろか見ることもできないはずだった。
だが。少女の両目はぴたりと寸分の狂いなく孤立の悪魔に据えられている。
「とるに足らない石ころ野郎。このまま帰れると思ったか?」
「な、な……」
いったい何が起きている……?
少女が、一歩迫った。
今度は左の拳が振りかぶられて、
「くっ!」
腹を抑えながらも逆の腕で弾く。
素早く後退。目を瞬かせた。
幻ではなかった。
間違いなく現実だ。
小さな悪魔が立っている。こちらを認識している。攻撃さえできている。
「何てことだ……。まさかこの私と縁を繋げる者がいようとは……」
「知らなかったんだ? 私のこと」
ナユタと呼ばれた少女が胸を張る。
堂々と、誰に気兼ねすることもなく。
「私は、支配の悪魔」
宣言した。
「世界を支配できる力がある。それが例え、お前の如き度の越した低劣であろうとも、ね。……でも、安心なさい。私は自分が認めた者以外は支配しない。お前はただ邪魔なんだ――」
尋常ならざる目つきだった。
マネキン人形めいた頬をして、瞳の中では不可視の奔流が渦を巻いていた。狂気を孕んだ眼光。
孤立の悪魔は知っていた。
その目は、面持ちは、かつて人類を最悪の平和へと導こうとしていた悪魔と同じ。
いや、
少し違った。
鮮烈すぎる感情がただ一点に集められている。
それが何かは孤立の悪魔には分からない。分かりようがなかった。これまで誰とも深く関わろうとしてこなかった臆病者だったから。
「キミは何もわかってないのに……私達に手をだした……」
更に詰め寄ってくる支配の悪魔。
だが、攻撃される前に、少女の身体は孤立に突き飛ばされた。リーチが違った。攻撃の意思は届かない。
「――ははっ」
安堵に思わず笑みが零れる。
肉弾戦では負けようがない。
「……ふ、ふふ。驚いた。ああ、確かに驚きました。けれど、ここまでだ。これ以上はどうにもならない。……貴女は私を認識できる、それは動かしようのない事実……だが、それでどうやって私を倒す? その幼い少女の身体で!」
くつくつと肩を揺らしながら、指を差した。
「それとも武器でも使うつもりでしたかな? 言っておきますが、そんな物は通じません。私に届くのは、私を認識できる者だけです。武器は、私を認識できない、だから通り抜ける。……つまり、貴女は勝ちようがないのです!」
「私が倒すなんて言ってない」
「え?」
ブゥン
音がした。
心臓が唸りをあげる音。
脈動が大気を震わせて、ガソリンが血管を流れだす音。
振り向いた。
夜の街、乏しい街灯が照らしている道の真ん中に、1人の男が立っていた。
眉間の上から凶器を生やした電ノコ男。何人もの悪魔を葬ってきた地獄のヒーロー。
悪魔に最も恐れられる悪魔、チェンソーマン。
ヴヴヴヴヴ
目が合った。
鋭い牙が打ち鳴らされる。
「見ぃ~~つけたぁ!」
チェンソーマンが一歩踏みだした。
ゆっくりと、確実に、一歩ずつ歩み寄ってくる。
不吉な音が鳴っていた。
全ての悪魔を切り裂く、皆殺しの交響曲。
その目は、明らかに、寸分の狂いもなく、孤立の悪魔へと据えられていた。
紛れもなく、疑いようもない。確実に見えていた。
「ば、馬鹿な……どうして……!?」
後ずさろうとして、できなかった。
膝が震えて思うように動かない。
こんな恐怖は知らなかった。
逆境に抗ったこともない。誰かとぶつかり合ったこともない。勝利はおろか敗北の経験すらなく、凪いだ人生を進んできただけの悪魔に成せることは1つもない。
逃げだす決意すら下せずに、己を殺そうとする者の声を聞いていることしかできない。
「すげー色々見えるぜェ! これが全知全能ってヤツかぁ~~!?」
気付く。
そうだ、チェンソーマンに孤立の悪魔を見つけられる力があるわけがない。
だったらこれは――別の者の力。
他の誰かの力を借りている。
そして、そんな力を持っているのはただ1人。
早川ナユタしかいない。
「まっ、まさか……支配したのか!? 早川デンジを!?」
想定外だった。
数刻前に襲った公安の監視員、その報告書を見て、孤立の悪魔は決めつけていた。
早川ナユタは、けして早川デンジを支配できない、と。
だが、
「うん」
答えは、イエスだった。
「その通りだぜぇ~! 今の俺ぁ、絶賛ナユタちゃんに支配され中よォ~~!」
本人からも同意が返された。
孤立の身体が震えだす。
ありえない。
驚愕と恐怖が頭のてっぺんから足の爪先まで行き渡っていた。
「馬鹿な……そんなふうには見えないぞ! 今の彼は、早川デンジそのままじゃないか!?」
「おーよ、そのままだぜ!」
早川デンジ。支配下におかれているはずの少年が笑う。
「俺ぁ100%自由だぜ! そーした上でナユタの“しょーあくする力”を使わせてもらってるってわけ! ナユタが見つけて、俺がぶった斬る……最強のコンビが完成しちまったなアア~!」
「う、あ……」
チェンソーマンが電ノコを振り上げる。
ありえなかった。何もかもが。支配しておいて何も命じない、それどころか自らの能力を下賜……いや、共有している? そんなことができるのか? かつて詳細に綴られたマキマとその周辺の者たちの行動記録や考察にもそんな記載はなかった。あのマキマにもできなかったことを――いや、する必要のなかった行為を、早川ナユタはやっている……まるで対等と認めるような行為を、何故、人間如きに――
「私達の邪魔をしたんだから、死んで」
ザギギヴヴヴヴウヴーッ
切り裂かれた。
真っ二つだった。
孤立の悪魔は、人生の窮地においてすら正面から対抗しようとはせずに余計な思索を選択した。最期まで現実逃避だった。
哀れで、ちっぽけで、意味も価値も無い死に様だった。
@
デンジは言っていた。
支配してもよい、と。
それは魂を素手で触れさせるに等しい行為だった。
支配下におかれるということは、すべての選択権を差しだすということ。
生死はおろか、意思も、尊厳も委ねてしまう恐ろしさ――
記憶はあますことなく覗かれて、墓まで持っていきたかったはずの恥が晒される。
意に反する行為を強制されても抗えない。例え「大切な者を順番に殺していけ」や「知り合い全てにケツの穴を見せに行け」と命じられてしまっても。
――それらを説明しても、デンジは首を横に振らなかった。
「ナユタはそんなことしねえだろ?」
それだけの理由で。
孤立の悪魔を見つけて倒す、ただそれだけのために己の魂をナユタに触れされると言う。
無二の信頼が在った。
ナユタは確かに受け取った。
支配の力をデンジにかけると……驚愕の手応えだった。反意が無い。するりとデンジの魂の奥底まで染み渡った。受容しかなかった。
ナユタは、何故か己の魂が打ち震えているのを感じた。
こんな支配は初めてだった。
知能に劣るネズミでも、支配下に置かれることを望んでいる犬でも、ここまでスムーズに関係を結べない。魂には必ず防衛的な反発が存在する。すると、思っていた。
けれど違う相手が居た。
デンジだった。
ナユタは自身の権能を差しだした。
物事を掌握する力。
更には、見下した相手を支配する力。
……それだけでは、だめだと思った。
全然、足りない。
だって、デンジは全てを差しだしたんだから。
自分も全てを委ねなければ、フェアじゃない。
ナユタは文字通りの全てを差しだした。
悪魔としての力の全てを。
そして、自身の生殺与奪に関わる権限のみならず、ありとあらゆる選択権をデンジに委ねた。
デンジはナユタの全てを握り、ナユタはデンジの全てを握る。
もはや2人の間に“上”も“下”もなかった。
2人で1つ。
人間と悪魔が、信頼のみで繋がれていた。
「んだ、これ……」
夜の住宅街。
岸辺が見たのは、道の隅で座りこんでいるデンジとナユタ、そして傍らに転がっている、両断された白い悪魔の死体だった。
「……あのよ、今、何時だと思ってんだ? 夜の2時だぞ? 少しは老人を労われよ」
「はぁ、すんません」
「お前ンちでは黄色い悪魔が死んでいた。忙しすぎて、俺ぁそろそろ死ぬぞ」
「んなこと言ったって、こいつら夜に来たんだからしょうがないっしょ」
「面倒くせえな……」
トランシーバーを片手にぼやく。
「おい、お前らも今日は覚悟しとけよ。眠れると思うな」
「へいへい」
「おい、ナユタ。聞いてんのか?」
ナユタはぼんやりと夜空を見上げていた。煌く星の粒たちを視線でなぞりながらぼやく。
「ここはね、夜明けであるべきだと思う」
「……はァ?」
「夜の空も悪くないけど、締めくくりの情景はやっぱり夜明けがいいと思う。未来へと飛びたつ希望を連想させるような……。まぁ私は悪魔だし、夜になっちゃうのも仕方ないか」
岸辺とデンジは顔を見合わせた。
はて、と同時に首を傾げた。
「何言ってんだ、こいつ。変な精神攻撃でも受けたのか」
「ああ~~、いや、お年頃なんですよ」
「なんだそりゃ」
「女の子っすから」
「わけが分からん……。いったい昨夜は何があったんだ?」
「え~~~と、んんん……? ぶっちゃけ、俺もよく分かんねえんスよ」
「はぁ。うちの監視員らもこの白い奴に攻撃されて記憶がはっきりしねえって言うし、どうやって調書作ったもんか……」
疲れきった溜め息が真っ黒い大気へと溶けていく。
春先とはいえ、深夜は身を切るような冷たさだった。
デンジとナユタ、2人は身を寄せ合って夜空を見上げる。
暗黒の中では細々と、しかしけして塗りつぶされることなく星の光が輝いていた。
どうにか毎日更新に間に合いました。
褒めて!
次回更新はしばらく後。
後日談ってやつです。