不器用な少年は雨の中で無抵抗で雨に打たれている人物と出会う。不思議に思い声をかけると林の中にある秘密にしていた基地のことを知られてしまう。
その人物は成り行きで毎週のように勝手に来るようになってしまった。最終的にはお互い打ち解けあって友達になっていき……

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雨の秘密基地で笑う君

 その日は土砂降りの雨だった。

 

 思い出したのはテスト勉強をしようとして、なぜか始めてしまった部屋の掃除で本棚から一冊の本を見つけたからだ。

 その本にタイトルはない。表紙の至る所にに細かい傷から染みがあって、本自体が古いのか色褪せているだけだ。

 

「こんな本、入れてたっけなぁ」

 

 小学生から自分だけが使っている本棚。一緒に住んでいる父さんは本を読む様な人間ではない。それなら自分の本なんだろう。

 その場で開く。長い間放置されていて乾いた紙に指の水分をとられながら、破けないように丁寧に捲る。

 

「……これ、日記か」

 

 ノートと同じ罫線にそって日付と天気が書いてあり。それに続いてその日の出来事が大雑把に書いてある。

 年数は書いていないけど、内容は小学生の頃の日記だ。

 

 懐かしい。

 

 それほど懐かしい物だった。小学生の頃には毎日つけていたのに、いつの間にか日記を書くという習慣がなくなっていた。

 書かなくなったのが面倒くさくなったからか、何か別のことがあったからなのかは今では覚えていないけど、これは大切な物だ。それだけは今でも覚えている。

 

 日記を持ちながら布団に腰をかける。

 自分の中で勉強する気はこれを一切なくなっている。

 

「これって?」

 

 小学生の多分一年生の頃からパラパラとページを捲っていって、日記の半分にさしかかる時に目が止まる。

 いや、止まってしまった。

 

『六月二十七日雨の日。今日初めてあの場所に他人が入った』

 

 別の日付はその歳なりに綺麗に書いていたのに、他とは違ってふてくれた文字が乱暴になっている。

 

 不思議で捲り進めていくと彗星と転校と大きく書かれているだけのページがたどり着いた。

 そのまま日記の次のページからは日付すらも記入されていない。

 二つの単語を境にこの日記は終わっている。

 

 最後の単語で心臓が高鳴った。

 胸を締めつけられる痛みが、俺が日記と一緒に大切な何かを忘れてしまったことを責めているみたいだ。

 

 もう一度視線を手元に移しあの場所に他人がと書かれたページに戻る。

 

 あの場所、彗星、転校。

 何回も読み返しながら、三つの単語をぐるぐると自分の中で回してパズルみたいに当てはめていく。

 

 ――ああ。そうだ、思い出した。

 

 この日記を、書かなくなった理由も大切に保管していたことも今になってやっと思い出した。

 

 あの子と出会ったは夏の雨の日だった。

 

 

 昨日からこの街には雨が降っていた。

 

 雨は住んでいる小さな街をまるごと呑み込んでしまうほどに強い。

 雪と見間違うほどの大粒の雨が、柔らかい雪とは違ってたたきつけるように降っている雨は合羽を着ていても当たれば痛かった。

 

「はぁっ、はぁっ」

 

 気がついたら息が切れている。

 いつもなら大丈夫だけど。十分に水分を吸いこんでしまった地面に足をとられては踏ん張るのを繰り返して、余計に疲れやすくなっていた。

 

 店も家もないこの通りは普段からあまり人が通らない。雨の日は今日みたいに俺が一人で走っているだけでこの町の人はここにはいない。

 

 自分の視界に誰もいないなら街は独り占めしている気分になる。

 昨日読んだ小説に書いてあった。

 頭の中でチカチカと小説のフレーズを思い出してしまう。もう帰りたいという気持ちも抑えながら前に進む。

 

 俺にはやることがあった。

 

 また息を切らしながら走る。大きな公園を横切って、アスファルトである程度舗装されている道を抜けると、いつもは視界いっぱいの土が泥に変わってしまっていた。

 

 目的地はまっすぐに進んだ先にある林。通りたくなくてもここを通らないといけない。

 覚悟して一歩踏み出すとぐちゃっと、音がした。道を踏んだ音なのか靴下の音なのか。

 どっちでもいいけど、不快だった。これを後、何回繰り返せばいいのか考えるだけで気が遠くなってしまう。

 

 不快に感じながらも我慢して走る。

 蛍光灯のついた光を目印にして夢中になりながらまっすぐ走った。

 

「……はぁっ、はぁっ。よし、やっと林だ! 早く中に入って確認しな――」

 

 自分で声をかけないと心が折れそうになりかけないほど体力を消費して走っていると、林の入り口が見えてきてその前に人のシルエットが立っていた。

 ここからだとかなり強い雨が降っているせいで、上手くその人を捉えることができない。

 俺はぼんやりとあれは人だなとその場で立ち止まり考える。

 

 この林の、あの場所は俺と父ちゃんしか知らないはず。だから、友人との待ち合わせとか何だろう。

 それでも、俺が人の横を通り過ぎてあの場所が見つかったらどうする? 悪い人だったら何かに利用されるんじゃないか?

 

 考えて考えて、時間が少しだけ経って雨がさらに強くなってから我に返った。

 

 ここに来たのは雨に濡れているかもしれない、あの場所を守るためなんだ。

 早く行かないと本当に手遅れになってしまうと、自然と焦りがでてきた。

 

 もしもだ。あの人が悪い人間なら、俺の後についてきてあの場所を知られるかもしれない。

 それでも、ドラマでよくある尾行でもされたら振り返って走り逃げればいい。捕まりそうになったら鞄の中に入っているひもを使って縛ればいい。固く結ぶ方法はこの間、本で読んだしきっと大丈夫だろ。

 

 ほんの少しだけ焦りが薄くなって一歩足を浮かせる。額からはおでこから出てきたのが汗のか、漏れた雨なのか分からない。肌にこびりついている。

 

 近づくにつれてきちんと認識できるようになったが、顔は知らない人だった。

 

 都会に行けばいるのかもしれないけど、ここら辺では珍しいクリーム色の髪と茶色の丸い瞳が特徴的だった。

 歳は同じくらいだろうか。身長は向こうの方が若干低い。見たことがないということは同じ小学校の生徒ではなさそう。

 

 それよりも驚いたのは、こんなにも雨が降っているのに雨合羽も傘も使っていないことだ。

 

 雨が降っているのに傘もささないで無抵抗に水滴を吸って、髪の毛も着ている服も重そうにしている。

 友人との待ち合わせをしていて立っているのだろうか?

 それにしては雨具を一つも持たないで一人で立っているのは不自然だ。

 

 そっと横を通り過ぎればいい。雨が降っているから意外と向こうは気がつかないで通れるかもしれない。

 多めに息を吸って、息を殺しながら横を通り過ぎようとした。

 

「……お前、どうしたんだよ傘もささないで」

 

「えっとボクのこと?」

 

 無視をしてもよかった。

 もう二度と会えない人だったら話しかけても意味のない行為かもしれないし、目の前の人物が想像していたよりも悪い人かもしれない。それでも、自分は話しかけてしまった。

 

 話しかけて目の前にいる人物の高い声にびっくりしつつ口を開く。

 

「なんでこんな場所にいるんだ?」

 

「……んー、なんとなく?」

 

 ニコニコと笑いながら曖昧に応える姿が、どこか痛々しさを感じる。

 人形みたいだなと、心の中で呟く。。

 

「……とりあえずついてこい」

 

 目の前のやつに貸せる雨を遮る道具を持っていない。

 あそこに行けば、確か傘があったはずだからと、考えて目の前のコイツに背中を押しながら歩かせた。

 自分から押したけど抵抗なく歩くコイツには得体のしれない恐怖がある。

 

「ねぇ、どこに行くの?」

 

 しばらくしてから、あっちから話しかけてきた。

 雨が相変わらず降っている中でも、くっきりと聞こえる高いソプラノの声。自分も少し前まではこんな高い声だった気がする。

 それでよくクラスメイトにいじられてたなとふと思い出した。

 

「秘密」

 

「秘密って、言われても」

 

 秘密は秘密だ。

 

 林の中、友達だった奴らにも教えなかった自分だけの場所。連れて行くけど名称は教えたくない。

 教えると、特別感が薄れてしまう。

 

「同い年くらいだろうけど君は知らない人だし。場所も分からないままついていくのはちょっと、誘拐とかになるんじゃないかな?」

 

 映画の見過ぎだよと、心の中で呟くけど、ほんの少し前の自分もそんなことを考えていたと思うと、結構恥ずかしくなる。

 

「あー、もう秘密基地だよ。秘密基地」

 

「秘密基地なんてここにあるの?」

 

「……昔、父ちゃんが作ってくれたんだ」

 

 うつむきながら乱暴に言った言葉が雨に遮られずに、上手く伝えられたことにほっとして続けてそう言った。

 

「へぇー」

 

「……これで満足か?」

 

「……うんうん、楽しそうだしついていくよ」

 

 さっきまでの表面的な笑顔じゃなくて、心からの笑顔だ。

 その顔にドキンと心臓が鳴った気がしたけど気のせいだと無視をする。

 

 雨に打たれながらお互いに黙々と歩く。さっきから会話はない。

 

 後何分で着くの? とか、本当に秘密基地なんてあるの? とか、雨で寒いとか。

 何かしら言えばいいのに、逆に言うと自分もそう言えばいいのに勇気がないから話しかけられない。

 

 そこからさらに十分無言で歩いてやっと秘密基地に着いた。

 

 大きさは子供が四人入っても窮屈にならないほどの大きさ。ベニヤ板が四方に貼り付けられて入り口には青いビニールシートで補強されたお世辞にもカッコイイとは言えない秘密基地。

 

 それでも俺はここを気に入っていた。

 

 ビニールシートをくぐり雨が侵入していないことにほっとしつつ、靴と雨合羽を入り口で脱いでから、タンスの前まで歩いて引き出しを開ける。

 

「ほらっ」

 

 畳んであった青のタオルと普段は使わないピンクのタオルを取り出して、ピンク色の方を渡すと、入り口で辺りをキョロキョロとしていたコイツは素直に受け取る。

 

「ありがとう」

 

「なんであんな場所にいたかは知らないけどとりあえず雨が止むまで待ってればいい」

 

 真ん中に置いてあるテーブルの上にある電池式のランプを点けてそう言った。

 

 秘密基地の中には雨を防ぐ物はなかった。

 そういえばと前に来たときに突然夕方に雨が降ってしまって、置いてあった傘を持って帰ってしまっていた。

 

 もう一度雨が降っている中、濡れるのが分かっていて外に出すのは流石にかわいそうだと感じてしまう。

 

「そっか」

 

 淡泊な返事をしているけど、目がキラキラと輝いている。

 秘密基地の中にあるタンスや本棚を次々に視界に移していっていた。

 

「座っていいぞ」

 

 テーブルの前に座ると、コイツも隣に座る。

 お互いタオルで水気を乾かしたおかげで床に水が浸みることなく普通に座っている。

 

 意味もなく向かい合って見つめ合う。

 会話はない。隙間から入る雨の匂いと音が秘密基地に充満してお互いに無言だった。

 どれくらい時間が経ったか分からない。ざあざあと降っていた天井を叩きつける雨の音が少し止んできた頃。

 

「また、ここに来てもいい?」

 

「……いいけど」

 

 長時間、雨音を聞いていたせいか、あ、やばいと思っても手遅れで、つい許可をだしてしまった。

 

「そっか」

 

 ないはずの空を見上げて嬉しそうに呟く姿が綺麗で印象的だ。

 

 

「また来たのかお前」

 

「うん、来ちゃった」

 

 秘密基地の前で待っていたことに呆れ気味に言った。秘基地に入ると慣れたようにランプのスイッチを入れてニコニコになりながら当然のように隣に座る。

 あの日、自分から許可をだしてしまったせいで来ても追いだし辛くなった。

 

「で、今日は何を持ってきたんだ?」

 

「んー、お菓子」

 

 持っていたビニール袋を真ん中の机に置いて、菓子を向かい合い二人で無言になりながら食べ続ける。

 初めて会った日から何日かに一回、こうして俺の秘密基地でお菓子を食べたり持ってきた漫画を読んで一人で笑っていることもあった。

 

 日曜日。学校が休みの日は大体ここに来るとあの日に口を滑らせて、コイツは日曜日に毎週来ている。

 あの時と違って髪の毛は雨でガチガチになっていないでふわふわとしていた。

 自己紹介をした後に歳はお互いに同じ小学三年生らしく、お互いにタメ口で会話をしている。

 

 コイツを秘密基地に入れることは認めたわけじゃないけど、と考えながら一口、二口とお菓子を口に運ぶ。

 お菓子のサクサクとした食感がおいしい。

 

 三口目を食べようとして手を伸ばして何もつかめないまま手は空を切った。

 

「あれっ?」

 

「食べちゃったよ」

 

 最後の一枚をわざわざ俺に見せびらかしながら口の中に放り入れた。

 コイツが持ってきた物だから不満はないけどわざわざ見せびらかす意味はあるのか?

 

「ふふっ、物足りなさそうな顔してるね」

 

「まあ、ちょっとはお腹が減ったかな?」

 

「そこでこれっ」

 

 横に置いてある鞄からタッパーを取り出した。コイツが蓋を取ると、中にはシュークリームが六個置いてあった。

 

「普通のシュークリームじゃないか?」

 

「ちっちっち、少し違うんだな」

 

 目を細めて悪い顔をしていて、いつもの時間が始まったと考えながら素直に話を聞く。

 

 ここに来るのが慣れてきてから目の前のコイツは何かしらをやりたがる。

 急にトランプタワーを作ろうと誘ってきたり、どっちが早く折り紙で鶴を作れるか、とかくだらないことだ。

 

 初めはお互いにぎこちなかったけど、最近は慣れてきたし、俺もこの悪ノリは嫌いじゃなかった。

 

「その名も!」

 

「その名も?」

 

 すぅと、息を吸いこんで一呼吸置いてから声をだす。

 

「ロシアンルーレットシュークリーム!」

 

「ロシアンルーレット?」

 

「ルールは簡単、一個だけハズレのシュークリームがあるからそれを避けて食べるだけ」

 

「ハズレって何だよ?」

 

「ほらほら、いいから食べるよ」

 

 言われるがままに一つのシュークリームを手に取る。

 ハズレという言葉が気になったけど、手に取ったシュークリームは普通に見えた。

 

「ほら、一口で食べるよ」

 

「はいはい」

 

「いっせーのせっ――」

 

 言葉が聞こえたと共にシュークリームを口の中に入れる。

 カスタードクリームのこってりとした甘い味が口の中で広がった。

 

「別に普通じゃ?」

 

 何も言わないのを不審に思っていると、一人でぶるぶると震えて口を押さえていた。

 

「ひゃ、ひゃらい」

 

「ちょっと!? 大丈夫か?」

 

「み、水!」

 

 自分の鞄をあさって、飲み物がないことに気がついたのか、秘密基地の入り口を抜けてどこかに走り去って行ってしまった。

 

「辛かったら、残ったコレ食べればいいんじゃ?」

 

 入り口からは後ろ姿はとっくになかった。近くの公園で水を飲んでくるつもりなのか?

 仕方なく残ったシュークリームを食べながらアイツが帰ってくるのを本を読みながら待った。

 

 

「君って大人びているよね」

 

「急にどうしたんだよ?」

 

 日曜日。秘密基地で本を読んでいるといきなり話しかけてきた。

 

「いやぁー、話し方とか大人っぽいって」

 

「まあ、たまに言われるけど」

 

「やっぱり、そうだよね!」

 

 唾が飛んで汚いと、叱りたくなったけどぐっとこらえて本を捲る。

 読んでいるページを指で抑えながら飲み物を一口飲んで本に戻ろうと視線を元に戻すとアイツの顔がドアップに見えた。

 

「うわっ」

 

「無視しないでよ」

 

 唇を尖らせながら、ほっぺたを膨らまさせていかにも不満げですと雰囲気をだしている。

 

「無視はしてないけど」

 

「じゃあ、顔をあわせ話そうよ」

 

「分かった、分かったちゃんと話すから」

 

 迫力に負けて本にしおりを挟んでテーブルの上に置く。手が自由だと両方を上にあげてヒラヒラとさせる。「それでいい」と言われて両手は上げたままにする。

 まるで、俺は強盗か何かの被害者だなと思ってしまう。

 

「それで、君の大人っぽい秘密だけど……」

 

「秘密だけど?」

 

「ずばり、本を読んでいるからじゃないかな」

 

「はぁ」

 

 どう返せばいいのかさっぱり分からない。

 そもそも、手を上げ続けている意味はあるのか疲れるから下げたいんだけど。

 

「いつも本ばかりを読んで、学校でもそうでしょ」

 

「まあ、否定はしないけど」

 

 やっぱりと、そんな表情をしている。

 

「そんなんだから、暗いんだよ。もうちょっと外に出なさい」

 

「……待って、それって俺が大人っぽいって話だよね? だんだん根が暗い奴の話になりかけているんだけどさ」

 

「そんなんどうだっていいじゃん!」

 

 いや、よくはないよ。

 

「いいかい? 明るかったら大抵のことは許されるんだよ?」

 

「お前みたいに」

 

「そう、ボクみたいに」

 

 ドンッ、とテーブルを揺らされても怒る気力が湧かない。というよりも、腕が疲れてそれどころじゃない。

 それに確かに明るくなった方がいいのかもしれない。コイツとじゃれているとポジティブな方が幸せなことが多そうだ。

 

「だから、たまには外でピクニックでもしない? いい天気だよ今日とか」

 

「いや、それは遠慮しとく」

 

「えー」

 

 コイツがただピクニックをしたいだけだった。

 ほんの少しでも納得した自分を殴りたい。

 

 

「ボクがここに来て迷惑じゃない? その、他の子とかと遊びたいとか?」

 

 知り合って二週間くらい経ったころに隣に座りながら急に聞いてきた。

 特にきっかけはない。ただいつも通りに当たり障りのない話していたときに急に。

 

「……俺さ。不器用だから仲がいい相手とかあんまりいないんだよ」

 

 迷惑なんて何を今さらなのにと、思いながらも、真剣な表情に圧されて俺はポツポツと話し始める。

 

 学校のクラスメイトとの仲が悪いわけじゃない。一緒に笑って、一緒に帰って。遊びに誘われることもあるし、誘うこともある。

 でも、それ以上でもそれ以下でもない。お互いが暇なときに利用し合う。そんな関係でしかない。俺はそんな関係が嫌いだった。

 

 驚いた表情をして、いつもの笑顔を貼り付けた顔じゃなくなる。

 

「ボクも似たもんだよ」

 

「そうなの?」

 

 自由すぎるけど話して面白いし、妙な安心感がある。どちらかといえば仲が良い人がたくさんいるイメージがあった。

 

「よく引っ越しをするからかなぁ」

 

 そういえばこの辺じゃいなさそうな顔だったからどこかから引っ越してきたのかと、納得をする。

 天井を見上げて俺には見えない何かを見ている。

 

「じゃあ、友達になろう」

 

 不器用な俺と目の前のコイツは意外とぴったりだとそう思える。

 間を最近になってあらわれた蝉の声が邪魔をするように高く鳴いて一瞬だけ支配をする。

 

「え?」

 

「えっ? て、何だよ」

 

 間違ったことを言ってしまったのだろうか?

 好きでも嫌いでもない相手に友達になろうなんて言われても自分だったらそういう反応をしてしまうかもしれない。

 

 急に不安で胸がいっぱいになる。力が意識していないのに入っていって、心臓が蝉にも負けない音で鳴り響く。

 

「ボクら友達じゃなかったの?」

 

 すました顔で、言われて強ばっていた力が抜ける。すでに友達認定されていたからこんなに距離感が近いのか。

 心の中で呟きに少しだけ疑問だ。

 

「友達って、こんな簡単に作れるものなのか?」

 

「簡単でもなんでも、そういうもんなんだよ。ボクは簡単でもいいんじゃないかな? 一度繋がった縁はまたいつかは巡り会える。それが何年後か分からないけど」

 

 雰囲気から感動的な話に持っていきたいのは分かる。

 それで終わらしても全然よかった。

 

「さっきまで友達がいないみたいな人の話し始信じるべき?」

 

「それは痛いところ突かれたかも」

 

 けど、コイツの口車にのせられるのはなんとなくいやだった。

 

 手を肩まで上げて降参とポーズをしてごろんと寝転がる。床に倒れたら、汚れると注意したかったけど、俺もつられて寝転がった。

 

「まあ、でもいいかも」

 

「なにがぁ?」

 

 近くにいるせいでこちらに向いたら柔らかい髪の毛がちくちくと顔に当たる。

 昔、父ちゃんに頬ずりされた硬い毛じゃなくて。優しく細かい毛が猫みたいと、思いながら顔を離す。

 

 近くから離れてもう大丈夫だと安心したところに、またちくちくとした。

 もう一回顔を遠くにしてもあの感覚がしてそれから逃げていると、気がついたら壁際まで追いつめられている。

 何で遠くに行ってもちくちくとするのか、なんとなく横を見ると真横にアイツが寝っ転がっていた。

 

「お前、わざとやってるだろ」

 

「どうかな? うふふ」

 

 悪ふざけの時間が始まったと、ため息をついて仰向けの状態になる。

 もう、指摘する気もおきない。

 

「甘えたかったのか?」

 

「そうかも」

 

 毛だけじゃなくて、性格も猫みたいだなと心の中で呟いて納得をする。

 

 変わらないんだと。

 言葉使いとかお互いの距離感とか、そういうんじゃなくて、知り合ってから一つも何かがコイツは変わらない。

 

「これから、改めてよろしくね」

 

「……あぁ、よろしくな」

 

 天井を見上げてのんびりと強ばっていた力を抜く。

 雨が降っている中でコイツと出会って。何だかんだ仲良くなって。

 

「……すぅすぅ」

 

 気がついたら寝息を立てて横で寝ている。起こそうともしたけど、いつも自由で笑顔を固めているやつの珍しい無防備な姿に、そんな気力も湧かなくなった。

 

 不器用な俺と、明るいけど不器用なコイツと友達になった瞬間だった。

 

 

「ねえねえ」

 

 いつも通りの日曜日。

 本を読んでいるにも関わらずに、話しかけてきた。

 

「夏休みどうするのさ?」

 

 コイツが話してくる内容は大抵はどうでもいいことばかりだから、殆ど無視をするけど、今日は本にしおりを挟んで片手で閉じる。

 

「いつもと変わらない。ここに来る回数が多くなるくらい」

 

「そっか! 夏休みの間ボクも秘密基地に着てもいい?」

 

「……そんなことを聞かなくても勝手に来るだろ」

 

「まあ、そうだけどさぁ」

 

 勝手に持ってきた黄色のクッションに腰をかける。

 何を考えているのか小指を立てながらこちらを見る。

 

「てっきり夏休みだし女の子を連れ込んだりするのかなぁとか思ってた。そうするとボク邪魔者じゃん?」

 

 何を言っているんだコイツと言いたくなったけど、言葉を呑み込む。

 悪ノリしているコイツに変な捉え方をされても嫌だ。

 

「……来るのは俺とお前だけ。それ以外の人は来ない」

 

 結局でてきたのはありきたりなものになった。

 

「俺にはお前しかいないってこと? 不覚にもときめいちゃった」

 

 もじもじと体を震わせている。若干、顔も赤らめている。

 それがふざけているようにも、本気でそうしているようにもどちらでも捉えられた。

 

「はぁ」

 

「ため息を吐くことないじゃん」

 

「お前らしいなと」

 

「そう? 照れるな」

 

 ニコニコと笑って、馬鹿にされていることに気づいていないのか?

 

 そんなことは気にしていないのかマイペースにパタパタと胸元を扇いで暑そうにしていた。

 外から聞こえる蝉の声が、蒸し暑い夏の初めを知らせてくれる。

 

「ところで急で悪いんだけど君は夏休みの宿題はさっさとやる派? それとも最終日にまとめてやる派?」

 

「本当に急だな」

 

 話の脈絡がない。強いていうなら今が夏くらいしか繋がりがなかった。

 

「そうだな、さっさと俺はやるかな?」

 

「ボクは自由工作が好きだなぁ」

 

 本当に話が繋がらない。言葉のキャッチボールくらいはして欲しかった。

 夏で頭がおかしくなったか? いや、それは元からか。

 

「俺はあんまり好きじゃない」

 

「君は不器用だからね」

 

 ここでの不器用は手の話だ。けして性格の話でない。

 

「君のことだからもう何を作るかは決めているんでしょ?」

 

 自分のことじゃないのにドヤ顔で聞いてくる。大げさでイラッとするが素直に応える。

 

「ああ、買ってもらったんだ」

 

「何かのキットとか?」

 

「本」

 

「……本?」

 

 不思議そうに首をかしげる。

 想像していたものと違って虚をつかれたようだ。

 最近になってから色んな表情を見えるようになった気がする。

 

「色々な作り方が書いてある本。それを買ってもらった」

 

「へぇー」

 

「……自分から聞いておいて興味なさそうだな」

 

「なんか、君らしいなって」

 

「そうか?」

 

 蝉の音に消えていったコイツの言葉が、馬鹿にされていないことを願った。

 

 

「あ゛あ゛あ゛」

 

「うるさい」

 

「えへへ、ごめん」

 

 扇風機に叫んでいる馬鹿にチョップを食らわせて黙らせる。

 

 秘密基地の外から聞こえてくる蝉の、ただでさえ暑苦しいのに声を聞きながら扇風機の前で二人で並んで座っていた。

 学校が夏休みになったおかげで午前から遊べるようになってから、秘密基地の中はポテトチップスやせんべいのお菓子の袋まみれで、どこを見ても綺麗な場所はない。

 

「なんか、甘い匂いするな。何か甘い物でも食べたか?」

 

 フルーツみたいな甘い匂い。

 扇風機の風に揺れてそんな香りがする。

 

「え、えっと特に食べてないかな?」

 

「じゃあ、香水ってやつ? あれは大人になったらつけるものって父ちゃん言ってたけど」

 

「んー、なんでだろう?」

 

 自分の体をくんくんと匂いを嗅いでいる。

 結局、自分の匂いがよく分からなかったみたいで首を傾げた。

 

「変な匂いかな?」

 

「別に」

 

「そっか! それならまあ」

 

 「それよりさ」いつも通りの自由さで急に話題を切り替えて話しかけてきた。

 

「来月の日曜日に彗星が流れるらしいんだ一緒に見ない?」

 

「彗星?」

 

「おやおや? 本の虫の君でも分からないのかぁ」

 

「……お前、初めて会ったときに比べて、大分ずうずうしくなったな」

 

「で、どうなの?」

 

 ああ、今日も無視してくるんだなと。

 

 むっとする気持ちを抑えながら少しだけだまりこむ。

 扇風機の首が曲がりアイツの服と髪を風が撫でる。

 ふんわりとした甘い匂いがまた感じる。

 

「彗星ねぇ」

 

 考えていたことを告げるわけにもいかずに、真面目に応える。

 

 彗星、彗星と、心の中で考えていく。目の前でコイツの顔がニヤニヤと変わっていって気持ち悪い。

 

「……珍しい流れ星みたいな物だろ確か?」

 

「ブッブー。違うよ」

 

「はぁ」

 

 目の前のコイツは両手を使ってバッテンにしている。鏡がなくても分かるくらいにしかめていた。

 

「彗星は何千年に一度しか見られないらしいよ! ボクらは幸運だね」

 

 嘘偽りなく嬉しそうにしているのは人間関係の薄い俺にでも分かる。

 嬉しそうな表情をみると、何でか俺も嬉しく感じる。

 

「いつくるか分からないけど、朝かもしれないし夜かもしれない。だからさ、くるまでここで見ようよ。きっと綺麗だよ」

 

「……ああ、見よう」

 

 秘密基地で朝からコイツと彗星を見る。

 普段やらないことだけど、たまにはいいかもな。

 

 

 

 

 

 不器用な自分でももしかしたら親友と呼べるかもしれない人間。

 これから先も友人として付き合っていく。そう、思っていたんだ。

 

「ボクさ。引っ越すことになっちゃった」

 

 そんな中で別れは突然だった。

 

 

 街灯のない暗くなった帰り道を一人で歩いている。道の真ん中に落ちている邪魔でもない石をつま先で蹴りながら。

 

 脳裏にちらつくのはさっきまでいた秘密基地の会話。

 

『引っ越しって夏休みでまた急だな』

 

『うん、急だね』

 

『……寂しくないの?』

 

『ボクは寂しいよ』

 

 突然のことでオウムみたいに同じ言葉だけで返事をしてくる。

 俺も大分混乱をしていて単調な言葉ばかり口にする。

 

『いつ』

 

『月曜』

 

 月曜日と、心の中で繰り返して何度も考える。

 

『彗星の次の日?』

 

『うん』

 

『そっか』

 

 今日を入れては四日くらい。あんまり時間は残されていない。

 

 ぼんやりとしたまま、気がついたら家に帰っていた。

 鍵で開けると、玄関に珍しく父ちゃんの靴が玄関に置いてある。

 

 ああ、帰って来てたんだと考えながら自分の靴を脱ぐ。自分の靴と大雑把に放り出された父ちゃんの靴もきちんと揃えてからテレビの微かな音の方へ廊下を歩く。

 

「ただいま」

 

「おう、お帰り」

 

『と、天気は以上となります。続いては――』

 

 リビングの扉を開くと、家族が聞いても厳つくてびっくりする声。田舎特有のローカルニュース番組の明るいテーマソングが同時に聞こえた。

 

「父ちゃん、今日は帰ってくるの早いね」

 

「おう、仕事が早く終わってな。ご飯作ってあるから手を洗って食べろ」

 

 時間は時間は短針の七時を過ぎている。

 アイツと秘密基地でかみしめるように長い時間会話していた。

 

「うん、頂きます」

 

 手を洗ってから、ご飯をよそい揚げてあったホルモンとタレを絡ませる。

 今日のご飯はホルモン丼らしい。

 

 まだ、ほんのりと温かいカリカリのホルモンがタレとご飯に合っていてとても美味しい。

 ほんの二年前までは料理を作り慣れてなくて父ちゃんは指をしょっちゅう切っていたのに、今じゃ包丁を自分から買いに行くほど料理が好きになっている。

 

「にしても、せっかくの日曜日に雨とはなぁ」

 

 最後のホルモンが中々かみ切れなくて格闘していると、テレビを見ていた父ちゃんがぼんやりと言った。

 

「父ちゃん、来週の日曜日に雨が降るって本当?」

 

「ん、ああ。朝から土砂降りの雨らしいぞ。しかもちょうど何たら流れ星? とやら現れるらしいのになぁ」

 

 父ちゃん。流れ星じゃなくて彗星だよ、というのは上辺では心の中で焦る。

 来週の日曜日は約束した日。月曜日になったらアイツは引っ越してしまう。

 

「ま、その日は夏休みで学校はないんだし。危ないから外に出るなよ」

 

 父ちゃんにどんな返事をしたかは覚えていない。気がついたら自分の部屋に戻っていた。

 電気の消えた円形の蛍光灯の下でひもが自由に動いていた。多分自分で消したばっかりなんだろう。

 

「どうしよっかなぁ」

 

 意味がないのに蛍光灯の方に手を伸ばす。手が全然届かないことは分かっている。

 まぶたを閉じて、長い時間蛍光灯を見ていたせいでちかちかするけど、浮かぶのはアイツの顔だった。

 

 

「なあ、日曜日何だけど」

 

 相変わらず俺らは暇だってみたいで次の日も秘密基地で会っていた。

 

「彗星だよね」

 

「いや、だから」

 

「楽しみだなぁ」

 

 俺を遮るためなのか普段よりも声を大きい。

 その勢いに俺は喉から言葉が詰まって、絞りだそうにもこういう時にどうすればいいのか分からない。

 

「……そうだな」

 

「うん、君と見るの楽しみだよ」

 

 曇り一つない笑顔が現実を受け入れたくない子供と重なって見える。

 いや、見えるんじゃない。多分、雨が降ることをコイツは知っている

 いつも通りに一人で馬鹿騒ぎをして今日は普通に家に帰った。

 

 昨日みたいに父ちゃんはまだ帰っておらず、靴を脱いで自分の部屋に戻る。

 

 彗星がくるまで後二日。アイツが引っ越すまで後三日。

 

 時間はあまりにも短い。それでもアイツと俺が後悔がないようにやれることをやらないと。

 

 本棚まで歩いて、一冊の本を取り出すり

 ″不器用な君でもできる、簡単自由工作!″

 タイトルをやかましいと感じたけど今ほど頼れる物はなかった。

 

「……よし、やるか」

 

 あるページを机の上に広げて、部屋にある材料を集める。

 不器用な俺がどこまでできるか。

 

 

「……雨降っちゃったね」

 

 友人は秘密基地の前で傘をさして立っている。雨に紛れて寂しそうに言うその姿に心が痛む。

 

「……とりあえず入らないか?」

 

 最初はあんなに嫌だったのに、今となっては自分から秘密基地の中に入れようとしている自分に驚きながら覚悟を決める。

 このやりとりも今日で最後だから。

 

「入るって言ったって何するの?」

 

「いいから」

 

「分かったよ」

 

 青いビニールの入り口に先に入り、雨合羽と靴を脱ぐ。

 荷物を邪魔にならないように置いてからタンスの前まで行く。

 

「ほらっ」

 

 ピンク色の畳んであるタオルを渡す。

 

「初めて会った時と一緒だね」

 

「ああ、そうだな。とりあえず座ろうか」

 

「そうだね」

 

 テーブルに正面になるように座る。

 ぱちくりと目を瞬きをさせて、こういう時に何を言えばいいのか分からないまま天井を叩く雨の音を聞いている。

 

「本当は」

 

「本当はね」

 

 お互い同じタイミングで口が開く二人で笑ったう。

 

「話してくれ」

 

「うん、分かったよ」

 

 多分、お互いに話す内容は同じだ。

 

「本当はね、気づいていたんだ」

 

 ぽつぽつと秘密基地にいる時間を少しでも長くいるために、目の前の人物はゆっくりと話していると思えた。

 

「雨が降ること?」

 

「うん、雨が降ること」

 

「……彗星の日に雨が降るんだからどこのテレビもラジオも何かしら言うよな」

 

「でも、言いだせなかった」

 

 涙を流す。

 

「いやだよ! こんなに楽しいのに。やっと友達ができたのに何もできないままさよならなんて」

 

 涙は止まらない。体を震わせて降り続いている雨が友人の悲しさを表しているみたいに。

 これが綺麗な物語なら晴れて、虹をだしながら彗星が見える。

 だけど俺らは綺麗な物語じゃなかった。主人公になれなかった不器用なはみだしもの。

 

「見ててくれ」

 

 物語の素敵な終わらせ方をさせてくれないなら、主人公じゃないなりの自分の最高な終わりを用意する。

 

 持ってきた荷物から物を取り出して友人に見えないようにテーブルの上まで運ぶ。

 そのまま明かり消すと、その上に濡れないために大切に包んであった円錐形の厚紙をランプの上に重ねてから、ランプのスイッチを入れた。

 

「うわぁ」

 

 そこには夜空が生まれた。

 

 歪な大きさの星や、そんな位置にはないであろうあまりにも密集した星たち。

 作った本人でも不格好であるとけど作った物でこれが一番マシな物だった。

 

「不器用だからあんまり上手なのはできなかったけど」

 

「うん」

 

 頷く友人を見て心がドクンと跳ね上がる。

 この心の揺れは別れの寂しさか、それとも――

 

「今、俺らの上を通っている彗星は大人になったらまた見れるらしい」

 

「うん」

 

「今日はニセモノの夜空しか用意できなかったけどさ」

 

「……うん」

 

 話しかける声がかすれている。

 

 怖い。否定されるのが、拒まれるのが。

 不器用な自分が人に言葉が正しく伝わるか分からない。歪になって違う解釈をされるかもしれない。

 

「だからさ、お前が引っ越した後に大人になってから二人でいつかは本当の彗星を見よう」

 

 感情を伝えるのは恥ずかしい。むかむかと心が熱くなってすぐに逃げ出したくなった。どうせ二度と会うことのない人にそんな勇気をだすのは間違いかもしれない。

 

 ――それでも伝えないといけない言葉がある。

 

「……俺はいつでも待ってるから」

 

 

 遅くまで会話した友人とはその日以降に会うことはなかった。

 当然だ、次の日には引っ越してしまったんだから。お互いに家の場所や電話番号を知っているわけでもないから、最後の挨拶はこの夜で終わった。

 

 

 あくびをこらえながらいつも通りにホームルームが始まるまで本を読む。

 ちらりと窓の朝練のやっている野球部が校庭でトンボをかけていた。テストがすぐそばまで来るのに本番の試合も近いらしいからクラスメイトの野球部がよく愚痴を話していた。

 

 昨日は結局、勉強をすることなく夜更かしをしてまで日記を何度も読み返してしまった。

 日記はあの子がいなくなった日を境に書くのを止まっていた。

 

 あの秘密基地にも行ってないことを思い出した。アイツがいなくなって、週に一度は行っていた秘密基地にもあれから一度も行っていない。

 

 どうしても行く気がおきなかった。

 いま行ったら蜘蛛の巣だらけになっているか、もしかしたら雨とかでぺしゃんこに潰れているかもなと、想像をして心の中で苦笑いをする。

 今度、様子を見に行かないと引っ越したあの子のためにも。

 

 そんなことを考えているとチャイムの音が鳴った。

 同時に担任の先生が教室に入ってくるきて何かを話していた。夏も近いおかげで生徒と同じ半袖のワイシャツを着ている。

 

 その担任がホームルームで何かを話して教室が一気に騒がしくなる。

 「えー」とか「この時期に?」とざわざわして近い席同士で話しをしている。俺の左隣の席は空席で右隣のやつも違う奴と話しこんでいて話を聞くことができない。

 

 いまいち状況がつかめないまま前を見ると、担任は静かにため息をして「静かに」と声をかけた。

 

「じゃあ、入ってきて自己紹介よろしく」

 

 その言葉でやっと転校生がくるのだと知って。少しだけ驚く。

 テスト前に転校してくるのかなり珍しい。

 

 ガラガラと音を立てながら扉は無雑作に開けられる。

 ふんわりとスカートを揺らして教室の入り口から一直線に入ってくる。

 ぼんやりと生徒の顔を確認しながら、一箇所を見た後に目を大きく開く。そして、笑顔になった。

 なんとなくこっち側の席を見ていた気もする。

 

「あっ」

 

 転校生が驚いた後になってから、俺も一緒になって驚いた。

 黒板の前に立つその姿に俺は見覚えがあったから。

 

「ボクの名前は――」

 

 茶色の目とクリーム色の髪の毛を揺らして、あの時と変わらない表情で彼女は笑った。

 


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