甘き夜明けよ、来たれ   作:ノノギギ騎士団

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クルックスの手紙(1)
クルックスからカインハーストに送られた手紙の一通。
趣のある茶封筒は仄かに古の学舎、ビルゲンワースの
香りと月の香りが混然としている。

かすれた文字には一人の男の名が読み取れる。
それはレオーであろうか。



白い朝

 カインハーストの四季は、あってないようなものだ。

 夏だというのに外は吹雪き、湖の端は凍てつく。

 

 隣接する土地であるヘムウィックへ渡るための橋は、破壊されており誰も渡れない。対岸は常に深い霧に包まれ、セラフィは勿論、レオーでさえ対岸の森が見えたことがないと聞く。

 

(一歩前進だ。けれどクルックスには悪いことをしてしまったかな。今日のことを話して情報を共有しておこう。そうして、すこしずつ時計塔のマリアに近付いていく。分かるハズだ。僕にだって、きっと……)

 

 霧が風に流され凍てついた湖面が露わになった。

 ──氷を渡って向こうまで歩いて行けないだろうか。

 そんな思いで湖面を見ていると俄に氷を割る音が聞こえた。

 

「ん──な、に」

 

 音は、橋の真下から聞こえる。

 覗けば湖の中に何かがいた。

 やがて凍てついた氷を肘で割り、湖面から這い出てきた人物を見てセラフィは橋から身を乗り出して危うく落ちるところだった。

 

「鴉羽の騎士様、何をしていらっしゃるのか」

 

 彼が銀の兜を外すと大量の水が出てきた。

 セラフィは、恐怖しない性質だが人並みに驚くことはある。

 例えば、凍てついた湖で着衣水泳している人がいれば、当然驚く。

 橋を飛び降り、積雪の上で受け身を取ると彼のそばに寄った。

 

「なに……なに。な、何事ですか……?」

 

「急を要することだ。……まだ、すこし臭うか……」

 

「におい? どこを歩いていたのですか?」

 

「おす、いいや、下水道だ」

 

 恐らく「汚水溜まり」と言いかけたのだとセラフィは思った。

「……もし射手が逃げているならば、下水に逃げたかもしれない。正確には暗渠や下水……というか汚水溜まりなのだが……」とクルックスは言った。そして射手こと窶しのシモンは暗渠に近しい船渠にいた。ならば、彼を追っていた鴉もそこか更に下層である下水道や汚水溜まりにいたのだろう。

 間が悪ければ、彼と出くわしていたかもしれない。

 セラフィは、今さらながら自分の軽率さを恥じた。

 鴉は、水を吐き出しながら銀の手甲と足甲を外した。

 

「油断していたワケではなかったが今宵は──厳密には昨日の話だが──射手が上手だった。板に仕掛けがあり縄を引っ張ると板が開いて、お、下水道に落ちる仕組みだったようだ。まだ臭う気がする……」

 

 額に張りつく銀の髪を払い、鴉は苦々しい顔をした。

 鴉羽の装束は、水を含み普段より数倍膨らんで見えた。

 

「鴉羽の騎士様……寒くないのですか?」

 

 浅瀬の水をすくうと指に刺すような痛みがあった。それだけ寒いのだ。だが鴉は震えていなかった。

 

「私は寒さを感じない。今とて熱いほどだ」

 

「対岸から泳いできたのですか?」

 

「それは以前試して失敗した。そこに潜ったときの穴があるだろう」

 

「あ。本当だ」

 

「汚れを落とすために浸かっていただけだ」

 

「溺れていたのではないのですね。安心しました」

 

「……。鼻が麻痺している。臭いが分からん」

 

「だいたい汚れは落ちたように見えます。臭いも……大丈夫。あとで薬水に漬けておきましょう。貴方の大切な仕事着です。僕がお預かりしますね」

 

 セラフィは、濡れた鴉羽の装束を受け取った。

 鴉は、睫に触れた水を切ると立ち上がり、目を細めた。

 

「お前はこれまでどこにいたのか。便りも寄越さないとは。レオーが余計な首を切ることになった」

 

「ええ、反省しています。僕は夢中になるとどうにも周りのことを見落としてしまうようです。ご容赦を。今日は夢にいましたよ。それから下水道にもいました。クルックスが貴方の居場所を教えてくれたのです」

 

「……私はお前を見なかったが?」

 

 すこし考え込む目をして鴉は昨日の記憶を思い出しているようだ。

 

「すれ違いになってしまったようです。射手には会いましたけれど僕も殺し損ねました。けれど傷は深い。死ぬほどではありませんが、しばらく何も射ることのできない体でしょう。手と足。手の傷はメスのように見えましたが……ひょっとして鴉羽の騎士様が?」

 

「私に刃を向けたのだ。殺し尽くさねばなるまい。そして私が仕損じた。お前を咎めることもなし。……それにしても近頃は射手といい、獣皮の狩人といい、視界にチラチラと煩わしい。特に獣皮の狩人。殺しても殺しても……。あれは月の香りの狩人と似た仕組みだとレオーは言う」

 

「では、策を講じなければなりませんね。作戦会議が必要です。まずは帰りましょう。鴉羽の騎士様には休息が必要です」

 

「手甲と足甲を持て。……夜が明けた。私達の時間は終わりだ」

 

 気が塞いだ声で彼は言う。

 そのうち濡れた袖と裾をぞんざいにめくった後で千景と銃をそれぞれに握り、彼は素足のまま歩き出した。

 

「そうだ。貴方を抱えてみましょうか? 筋力には多少の自信があります」

 

「女に背負われるなど騎士の名折れだ。昨年のレオーは行動不能になった時点で直ちに死ぬべきだった」

 

「貴方はいつも心にもないことをおっしゃる。そんな貴方を僕は抱いたって構いませんよ」

 

「お前は血の遺志集めよりも湖を赤く濁す仕事がしたいらしい」

 

 セラフィは、鴉羽の装束を両手一杯に抱えて彼の隣を歩いた。

 

「僕なりに考えた冗談なのに鴉羽の騎士様は笑ってくださらない。きっとセンスが悪いのだろうな。……おや? 言葉が多いことが気になるのですね。今の僕は気分が良いのです。明るいカインハーストを実は気に入っていますから」

 

 夜明けの光が、カインハーストの廃城を白く照らした。

 いつもは厄介な白い塊も、この時ばかりは花に似て美しく輝く。

 セラフィはこの時間が好きだったが、鴉の曖昧な曇り顔は変わらなかった。

 

「夜明けか。どれもこれも何もかもが煩わしい。……ヤーナムに夜明けなど似合わない」

 

「女王様の夜明けを信じていないのですか? あるいは、お父様の夜明けを?」

 

「言葉に気を付けよ。眠気がなければお前を五等分に腑分けるところだ」

 

「でも、夜明けは要らないとはそういう意味ではないのですか」

 

「『要らない』とは言っていない。『似合わない』と言ったのだ。軽率に聞き違えるな」

 

 なおも言い募ろうとしたセラフィの見上げる先で鴉は、空を見上げていた。

 

「……レオーが夢見る夜明けなど、月の香りが漂う夜明けなど、私には相応しくない……」

 

「鴉羽の騎士様は、何がお望みなのですか? そうだ。僕は知りません。女王様のことは大切に思っていらっしゃるのに、けれど、それが貴方の全てではない」

 

「私を殺せたら教えてやる。力無き者が知を求めるべきではない」

 

「後で教えてくれるのならば、今教えるのも同じではないですか」

 

 鴉は呆れたようだ。小さく息を吐く。それは白い呼気になった。

 

「結果だけ得て何になる。──いいや、違うのだな。そうか。お前は過程を経て生まれていないから分からないのだな。最初から欠けているのだから、いつも正しき形を失っている」

 

「それは『時間をかけて物事を成す』という意味ですか? ええ、僕には少々忍耐が足りないのかもしれません。テルミの辛抱強さを見習うべきなのでしょうね」

 

「そうしろ。生き急いで良いことなどなかろう」

 

「遅くて良いことも世間では見当たらないように思います。何かありますか? 僕にはまだ分からない」

 

「──お前は慎重さを身につけるがいい。恐怖を感じないということは、学習しないという意味ではないだろう。愚かなことを言って私を失望させるな」

 

「鴉羽の騎士様がおっしゃることは、いつも僕には難しい。すこし。ええ、すこしだけ、ですけれど」

 

「易しい人生に何の意味があるものか。存分に苦しめ。過酷な運命だけがお前に相応しいのだ」

 

「頑張ります」

 

「レオーも応援している」

 

「僕は嬉しい。鴉羽の騎士様は? 応援して下さいますか? いえ、応援して下さるからといって僕が特別に頑張るとかそういうワケではありませんが──」

 

「お前がどこぞで赤いシミになろうが私の知るところではない」

 

「……貴方はいつもそうだ。心にもないことをおっしゃる。僕でなければ危うく気遣いの言葉を聞き逃してしまうところです。ご自分の言葉の拙さを分かっていらっしゃるのですか?」

 

 挑戦者となったセラフィが駆けだしたのは、鴉の抜刀より速かった。そのため命拾いした。

 

「お前が私に求めるのは教育であるらしい。月の香りに連なる者に対し、私は常に高き壁として在ろう。やはりレオーの見る目はアテにならん。私だけが教育者に向いている」

 

 まともな狩人であれば、背後から聞こえた声にゾッとする状況であったがセラフィは振り返らなかった。

 

「あ。しまった。今日の鴉羽の騎士様は軽装だ。逃げ切れない。しかし、今日の僕ならばやれる気がするな……!」

 

 鴉羽の装束を担ぎ、緊急避難所であるカインハーストの古工房を目指し、セラフィは雪を蹴り飛ばし全力で走った。

 長い目でみればいつもどおりの日常だ。

 

 汚水溜まりに落ちて、気落ちしていた鴉の注意を逸らすことに成功したので戦果は十分だ。彼は落ち込むとひどく長引くのだ。それに対してレオーはイライラするか、煙草を吸う量が増えて更に鴉を苛立たせることがある。悪循環だ。鴉の機嫌が『普通』であるに越したことは何もないのだ。

 

(いつもならば、そろそろ追いつかれるような。いや、逃げきれるか。まだ追いつかれていないということは加速に必要な『遺骨』の触媒たる水銀は使い切っているのだろう。ならば──!)

 

 勝機を見つけセラフィは笑った。

 そして逃げ切ったと思った矢先のことだ。血濡れた千景の投擲が迫りつつあることを知っていたとしても、やはり笑みを絶やすことはなかっただろう。

 人も獣も、悪夢の生物たちですら未踏の白い雪に鮮烈な紅が咲く。

 それでも。

 

「朝から若者は元気だな。おい、この色男。女の尻を追いかけるのは楽しいか? 楽しいよな~わかる~」

 

 腕と脇腹に負った傷を庇いながらレオーは、ようやく古工房の扉を開いた。

 間の悪いことに、ちょうどセラフィの死体が消える瞬間だった。

 喜びも束の間。毎度のことながら辟易もする。うんざりした顔で、やって来た鴉を出迎えた。

 姿を見るなり、彼は思わず「えっ」と声を漏らした。

 

「なんで、びちょ濡れなの? うわっ痴情のもつれで朝帰りとか最高にスキャンダラス……!」

 

「汚水溜まりに落ちたのだが?」

 

「あっそう大変だったな。でもせっかく帰ってきたセラフィをさっそく殺してもいい理由にはならないけどね?」

 

「教育の結果なのだが?」

 

「お前が教育を語るなんて本当に悪夢だよ。何を教育したつもりだ?」

 

 鴉が千景を拾い上げ振ると真っ赤な血が円弧を描いた。

 思案顔の彼は、黙っていると知的な青年に見える。そう見えるのは、この世界が狂っているからだろうとレオーは信じている。

 

「ふむ。命の儚さというものについて理解が深まったことだろう」

 

「儚い命にしているのはお前だけどね? おぉ、ヤーナムの終焉は近い。明日のカインハーストは夏の日差しで燦々だぜ」

 

「──ところでレオー様、この鍋を使ってもよろしいですか? 鴉羽の装束を薬水に漬けたいのですが」

 

 工房の中からセラフィが鍋を抱えて出てきた。

 もう夢から這い出てきたらしい。

 レオーは彼女の手から素早く鍋を取り上げた。

 

「セラフィ! 俺様の可愛い夜警ちゃん!」

 

「ただいま帰投しました。市街探索に夢中になってしまい、便りが疎かになってしまいました。お許しください。……あと、その鍋を使いたいのですが」

 

「ハハハ、俺は怒ってないぞ! 全っ然、怒ってないし心配もしていなかったからな! サボタージュとは生意気だ! くれぐれも自惚れるなよ! おかえり! そして鍋で洗濯するのはやめようね!」

 

 レオーはセラフィの手の届かないところに鍋を置いてから、セラフィを抱き上げた。

 

「人間らしい生活をしているのはガワだけだったのか? 曲がりなりにも人間の食べ物を作る鍋で洗濯しようと思うお前に俺はビックリだよ。用途が違うのだ。洗濯用の器は、ンムム? どこにやったかな。しばらく使っていなかったから奥の方に──というか、セラフィがやっちゃダメだろ。鴉羽の装束なら鴉に洗濯させろ。こういう男はな、甘やかすと付け上がるんだ。俺が言うのだ間違いないぞ」

 

 当の鴉は「私は常にカインハーストの最高傑作なのだが?」等とのたまっている。

 

「うーん。僕には先達が自分を正しく認識できていると思いますね」

 

「言い忘れてた。これも付け加えよう。あの手の人間の断末魔は聞くに堪えないぞ。もうそりゃ酷い死に様を晒すことになる。グロい方向にヤバいヤツな」

 

「でも鴉羽の騎士様はお体を冷やしています。それにレオー様は怪我人のようだ。僕が働くべきでしょう。……帰参が遅れてしまいご心配をおかけしました。申し訳ありません。薬水の入れ物を探すより傷の手当てを先にした方がよさそうですね」

 

 いつもよりセラフィの体に触れる力が弱い。

 それだけ弱っているのだろう。

 レオーは、傷を負った脇腹を庇うように触れた。

 工房の小屋に戻りながら、セラフィの頭を撫でた。

 

「あ、あとでな。そうそう。お前が帰ってきたということはクルックスに会ったのか?」

 

「ええ。僕にカインハーストに戻るように言いました。貴方が僕を心配していることも教えてくれました」

 

「そうか。ふむ。クルックスは、えー、俺について何か言っていたか?」

 

「?……いえ、特には……いつもどおり丁寧でしたよ」

 

「『いつもどおり』ではないだろう。……嫌われちゃったかな」

 

「嫌われるほど彼と親しくなったのですか?」

 

「なったとも。三日かけて仲良くなったが三分で関係をご破算にしてしまった。かなり丁寧にヤったからさほど苦しまなかったハズだが……そういう問題ではないな。絶対に嫌われちゃったよなぁ。今度会ったら『レオー様、嫌い!』とか言われちゃうんだ。残念だ。俺は結構あいつのこと好きだったのになぁ。やっぱり処刑隊は滅ぼさないとなぁ。それから横やり入れた連盟の東洋人の中身を湖にぶち撒いて、教会には今日から毎日火炎瓶を投げ込もうな」

 

 セラフィはレオーがベッドに座るのを手伝った。彼は珍しいことにしょぼくれていた。

 

「僕はレオー様のことを大切に思っているのに……レオー様はクルックスのことを気に掛けていらっしゃるのだ……」

 

「可愛い嫉妬をするものではない」

 

 レオーは、セラフィの顎に触れると眦に口付けた。

 

「ん……レオー様……そうして誤魔化すのですか……」

 

「心が歪めば好意も受け取れなくなる。嫉妬などやめることだ。クルックスがお前の『きょうだい』だから俺は気に掛けているのだ。そうむくれるな。可愛いぞ」

 

「僕は……可愛くなりたいワケではありません。……。クルックスからお手紙を預かってきました。このまま暖炉に投げようかと思っていましたが、僕は嫉妬などしていないことの証明にレオー様にちゃんとお渡しします。こちらです」

 

 セラフィは、レオーにクルックスからの手紙を渡した。

 レオーが熱心に手紙を読んでいる間、鴉がセラフィの視界を通り過ぎていく。彼は煩わしそうに濡れたシャツを脱いだ。

 同じ程の背丈にある学徒コッペリアに比べ、すらりとした体つきの鴉だが、服を脱げば均整のとれた筋肉が現れる。

 狩人の体とは、仕掛け武器を扱う右半身ばかり鍛えられるものだが、カインハーストには例外があるようだ。

 ランプと暖炉の薄い光に照らされた若い彼の肉体は、廃城のそこかしこに置かれたどの彫像より美しい生を漲らせている。引き締まった体躯はしなやかで敏捷だ。触れるとその体は熱く、常人には毒に等しい血が流れていることをセラフィは昨年の異教の祭日から知っている。

 

(カインハーストの最も優れた刃は、どこもかしこも僕とは違うのだ……)

 

 もしも、自分が男性ならば彼のようになれたのだろうか。

 そんな感想を抱きながら自らの腕を揉み、何となく裸体の背を眺めていたセラフィはレオーに目をふわりと塞がれた。

 

「鴉、作業卓に膝掛けがあるからそれを羽織っていろ。若い女の前で恥知らずな真似をするものではない。下着くらい履いて歩け。──セラフィ、お前にはまだ早い」

 

「でも……んっ……。いいえ、レオー様がおっしゃるならそうします……」

 

「いい子だ。努力して年並みの羞恥心を持とうな。クルックスの方が恥じらいあるのはオジサンどうかと思う。……しかし、クルックス……意外と綺麗な文字を書くのだな。このあたり狩人に似ている。……内容は……ハハハ、可愛いことを言う。いいや、不思議だ。なんだって狩人からあんな仔が出来たのか。実に愛せる。愛せるなぁ……」

 

 ──む。

 セラフィは口を尖らせてレオーを見上げた。

 

「それは、僕よりクルックスの方が優れているという意味ですか?」

 

 嫉妬するなと言われた矢先だが、焦りがつい口をついた。

 

「答えを急くな。まだ朝だぞ。答えを急いでは昼になる。ただ違うだけなのだ。それは必ずしも優劣とはならない。特に『きょうだい』と比べるのは、やーめーろ。お前に愛すべき者がいるとすればカインハーストに連なる我らと月の香りに連なる彼らだけだろう。彼らがお前を愛おしむように、お前も彼らを愛するといい」

 

「それでも悔しいのです。……あまり僕の前でクルックス達を褒めることをおっしゃらないでいただきたい」

 

「ほう。心弱いことを言う」

 

 レオーの長い指がセラフィの髪をすくい、彼女のほんのり赤らんだ耳に掛けた。

 

「僕は、ほんの少しも彼らを妬みたくないだけです。だからこそ……。いいえ。お好きに褒め遊ばれるがよろしい。その試練、僕は乗り越えて見せましょう」

 

「……俺の持論だが、女性はすこし心弱いところがあった方が可愛げがあるように思える。たまには先達を頼ることだ。俺は頼られたいぞ」

 

「考えておきます。いえ、可愛くなりたいワケではないのですが……」

 

 セラフィの体を抱き寄せたレオーが優しく背中を撫でた。

 そして。

 

「お前のそういうところは好ましい。愛している」

 

 耳元で囁くのでセラフィも頷いた。

 

「ええ。はい。……。僕もですよ、レオー様……レオー様……僕の愛する先達……。お父様は皆のお父様なので、僕を抱きしめてはくれませんが……でも、貴方は違う。貴方は……貴方は、僕を……愛してくれる……」

 

 レオーが手紙を放り投げるようにテーブルに置いた。

 その雑な仕草に感じた歓びを誤魔化すように彼の体を抱きしめた。

 幸福の時間というものは、短い。

 

「──ところで私は空腹なのだが?」

 

 暖炉の前で火に当たっていた鴉が、小屋のなかで話すにしては大きな声で言った。

 

「おう。床の埃か椅子の脚でも食ってろ!」

 

 レオーが火傷痕を歪めて怒鳴った。 

 怪我のせいか今日のレオーは怒りの沸点が低い。

 抱きしめた時に初めて気付いたのだが、今日の彼はとても体が熱く呼吸が浅い、汗が見える。

 鴉よりもレオーの方が重傷のようだった。

 それでも、セラフィはいつもどおりの対応をすることにした。

 

「レオー様、いまの言葉は騎士として不適切です。訂正を求めます」

 

「あぁー……食料庫から肉を持って来ているのでテキトーに煮込んで三人で食べようなー……」

 

「はい。僕が作りますね。でも怪我の確認をしてからの方がよいと思います」

 

「……血は入れた。『穢れ』のカレル文字も蠢いてはいない。そのうち治るだろうさ」

 

 彼がチラリと見た作業用のテーブルには、使い終えた注射器が数本転がっている。

 セラフィは、レオーの手を取りベッドに横になるように促した。

 

「無理はダメです。先達は僕に比べれば、ずっと脆いのだ。傷が塞がるまで動かないでください」

 

「いや、しかしな……」

 

「必要なことは僕がやる。貴方が僕を憂うように僕の憂いを貴方は理解してください。それが愛というものでしょう。貴方が教えてくれたことです」

 

「しかしね、冷凍塩肉の輪切りを俺は料理と呼びたくないんだよ。人類の叡智はカインハーストにおいて後退の兆しがある。──おい鴉、元気だろ。着衣水泳できるくらいだもんな? 働けよ。この先、お前の大好きな労働の時間だぞ」

 

「髪が乾くまで動きたくない。食事くらい仕込んでおけ。貴様の計画性の欠如は私の瑕疵ではないのだが?」

 

「殺せるほど愛せるな。簡単に言ってくれる。お前は市井の主婦を全て敵に回したぞ。……やってみれば分かるだろうが、料理とは奥深いものだ。そう一朝一夕にな──」

 

 レオーはくどくどと鴉に説教をしているが、鴉にとっては暖炉が音を立てる乾いた木のパチパチという音の方が重要であるように見えた。

 彼らを傍目にセラフィは食料を一時的に置いている戸棚から塩漬けにされた肉の塊を取り出した。

 

「まるで僕に料理の才能がないようにおっしゃる。ただの経験不足です。教えてくだされば、きっと上手にできる」

 

 調理ができるように作業テーブルの医療器具を片付け、まな板を設置した。

 指示を仰ごうと振り返ったとき、レオーは限界を迎えつつあった。セラフィが帰ってきて安心したことも一因だろう。彼は辛そうに閉じかけた目を開けた。

 

「あぁそうだな。表層を切り取って肉を均等に切ったら、水を沸騰させた鍋に入れて、香草を入れるんだ。ときどき灰汁を取るんだぞ」

 

「もう一度お願いします。何の何を何で何です?」

 

「……お前は本当に可愛い。月の愛し仔よ。だからこそ、俺は深く愛せるのだ……」

 

 とうとうレオーには限界が訪れてしまったらしい。寝てしまった。

 鴉が体を震わせた。

 先ほど氷水に浸かった彼は、いま暖炉の火に当たっているのだから当然、震えているのは寒さではなかった。

 

「鴉羽の騎士様、いま笑ってますね?」

 

「お前は肉ごと暖炉にぶち込まれたいらしい」

 

「絶対笑っていらっしゃるのに。貴方は、そうして僕に微笑んでくれないのだ」

 

 セラフィは、ナイフを弄びながら料理を始めた。

 三人のうち二人は食事に頓着しない性格であることは、カインハーストにとって相対的に幸福なことであったかもしれない。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 セラフィが、レオーの期待に応えるため調理に躍起になっている間。

 置き去りにされた手紙は、いま鴉の手にあった。

 

 

 敬愛なるレオー様へ

 先ほど、貴方の憎しみの一片を俺は理解しました。

 譲れぬものがある時に誰かを傷つける必要性を俺も知っているように思います。

 先のことがあれど、今も変わらず貴方は俺の大切な古狩人です。

 我ら連盟の『淀み』が貴方の憎悪のなかに虫を見出すことがないよう祈っています。

 甘き夜明けよ、貴方に在れ。

 

 

 鴉は、手紙が収められていた封筒のなかに二枚目の手紙を見つけた。

 レオーが自身の怪我とセラフィの帰還の喜びで見落としてしまった追伸だった。

 

 

 P.S.

 また学舎でお会いしましょう。

 貴方とのお話は、とても楽しかった。

 今度はセラフィも一緒にお茶会を囲めると嬉しい。

 冬に蜂蜜を送ります。

 古狩人へ親愛を込めて。クルックスより。

 

 

 追伸の最後の一行を指でなぞる。

 それから、鴉は封筒と二枚の手紙を暖炉に放った。

 ポッと黄色の焔になり、それは燃えていった。

 

「セラフィ」

 

「はい、鴉羽の騎士様。食事の監督をする気分になりましたか?」

 

「いいや、違う。必要なものは『お茶会』だ」

 

 セラフィは目の前の鍋を見つめた。

 自分でもどう調理していたのか詳細は定かではないが、鍋の中身は全体的に黒っぽく濁っていた。

 鍋と鴉を交互に見てから、それでもセラフィは微笑んだ。

 

「鴉羽の騎士様がご所望ならば、お茶会をしましょう。ええ、お茶会。『楽しいお茶会。素敵なお茶会』。テルミのお陰で僕にも覚えがあります。『きょうだい』のお茶会はとても楽しいものでした。貴方とのお茶会もきっと楽しいものになる」

 

 セラフィは空想する。

 カインハーストのお茶会とは何だろうか。

 金の杯を血を満たし、小指の骨を囓るものであったとしても、三人で卓を囲むのならばきっと充実したものになるだろう。

 楽しげな予感に胸が高鳴る。

 

 だからこそ。

 彼女はいつの間にか作業台の上から手紙がなくなっていることに気付かなかった。

 長い時間の経った後で彼女は手紙の存在を目で探したが、いざ探そうと手足を動く直前、先達の言葉を思い出し、やがて気にしなくなった。

 

 悪夢に近い位相に存在するカインハーストにおいて、手紙は常に『散逸する存在』だったからだ。

 




白い朝

行水
 セラフィの前では汚水溜まりとは言いたくない鴉。臭いと言われたくないのかもしれない。セラフィを直葬したらレオーの前で「落ちたのだが?」と頑張ったアピールをします。何にせよ処刑隊、滅ぶべし。

可愛くなりたいワケではないセラフィ
「可愛いは弱い」という連想があるセラフィ。可愛いテルミが弱いため連想を補強してしまっています。ならば逆は「美しいは強い」だろうか。美と力を尊べと躾けられているセラフィにとって体現する鴉は強い憧れでもある。格好良くて強い。狩人として他に何を求めることがあるだろうか。セラフィが後に質問したクルックスは迷うことなく「人格」と答えました。つい最近出会った古狩人のデュラは理解できないまでも素晴らしい人格者だとクルックスは悟ったからです。MT5(マジで敵対する5秒前)
 お父様には憧れないのか? お父様は、強いよりも『死に難い』とかで……強さの分類が違うし……。啓蒙消費ビームなんて狩人様の戦い方じゃない……。
(注意:Bloodborneには啓蒙消費ビームはありません。ただし最新作ELDENRINGには発狂ビームと掴みかかり発狂着火があります。あまりに癖に刺さりますね直撃です)

手紙
 クルックスが古狩人を労った手紙は、当の本人まで辿り着かなかったらしい。
 セラフィが直接手渡ししたのに届かないとか想定外すぎてクルックスにはもうどうしようもない案件でしょう。
 さて。ヤーナムにおける手紙(招待状)は、それによって思いもしない人物がやってくることを女王様などはよく知っていますが、クルックスはまだ知らないようです。知識が無いのは彼にとって不幸なことに繋がるかもしれません。
 鴉はレオーに言われていた「病み人ではない異邦人の善性に触れるがよい」という言葉を思い出したのでしょう。あるいは、他人のものを取り上げることが趣味なので「親愛なる」言葉の群れを見て、やる気スイッチが入ったのかもしれません。
ついでに脳内辞書の名前も修正しました。
(誤)クルッテル(正)クルックス

次話テルミの大冒険
30話『献身的な病み人』から始まる暗殺者の朝編(全4話)を読んでいると更に楽しめる内容になっています。
 登場人物の復習がてら是非お読みいただき、脳の瞳を保護してお待ちを……と心弱いことを言ってしまう筆者を赦して……赦して、くれ……。
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