嘆きの島では
イデア・シュラウドは眠っていた。冥府の眷属たる眠神ヒプノスに身を委ね、身一つよりも更に希薄な状態で自らの宿す青炎を辿る。古き血を辿って過去へ、そして地下へ。とうに空になってしまったあの玉座の御許へ。
思い起こす限り、イデア・シュラウドが一番初めにその豪奢で寒々しい椅子を見たのは七年前の、やはり夏至の夜のことだった。夢神モルペウスの支配地たる微睡みの中で、思い返せばあの椅子と、それから一歩前の少年だけがいやに現実感を伴っていた。何もかもそら寒い虚ろの淵でその少年──オルト・シュラウドが玉座へ座ろうとするのを、咄嗟に腕を掴んで引き戻したのが、自分と弟の歪な関係の始まりだったのだろう。夜が明けたときにベッドの上にあったのは、冷たくなったオルトの体と、青く燃える長髪のイデア、それからイデアが胸元に抱え込んでいた
神々の時代から今に至るまで受け継がれてきた地下の玉座の残り火が途絶え、完全に地上に移されたことは、誰の目にも明らかだった。
絶えることのない青の篝火は冥府の祝福であり、魂の不滅性を示すものだと、シュラウドはそう教わってきた。死者の国の王、冥神ハデスの祭儀において最重要視されていると言って過言ではない、決して途絶えることのない青の灯火。彼らの青血に乗って数千年も継がれてきた冥王の残火を前にしては、イデアもその箱船たる松明の一つでしかなく、そしてオルト・シュラウドもまた然り、だった。あの日までは。
地上に一人、地下に一人。万が一にも一方が途絶えれば他方から火を移して、
カレッジ三学年ももう終わろうかという、夏至のことだ。イデア・シュラウドは、大変珍しいことに宵の口から眠っていた。見るものが見れば、あるいは彼の弟が
イデアは──イデアの魂は、身一つに黒灰色の亜麻織物を身に纏って三つ辻に立っていた。周囲に明かりと言えば自身の髪ばかりで、月も星もない──そればかりか空と呼べるものがあるかも定かではない──その場所を、彼はただ「岐路」と呼んでいた。明らかに現実のものではないその場所は疑う余地なく、三つの顔持つ月女神にして魔術神たる辻路の
暫くして辺りの薄暗いのが一層光を失うと、イデアはようやく歩き始めた。
魂には呼吸の必要がないからか、自分の呼吸や脈動の音さえない、全くの静寂。冷たい、という感覚すらもない温感に欠ける道行き。一寸先はというほどではないにせよ、およそ先見えるとは言い難い暗がりの中で、しかしイデアはむしろ安堵してさえいた。うるさいくらいの
数分か、あるいは数時間か。疲労という概念から遠い
大理石の柱で支えられた建屋の中には、空の玉座と柱の一つに立てかけられた二叉戟だけがある、ようにイデアには見える。けれどイデアは知っている。髪が燃えるようになったあの夜、イデアに見えたのは宙に浮かぶ銀の器だけだった。祖父──先代の「地上の灯火」──には銀の器は見えず、その代わり周辺に神殿と同じ造りの柱が見えたと言っていた。奈落の底に通じる鍵や、この地下における食糧源である
石造りの椅子は、その上で燃える炎の青色も手伝って、この上もなく冷たい印象を受ける。背もたれ付きの灰白色の椅子は青光を反射してほとんど海か空の色にも見えた。皮肉なことだ、とイデアは内心で呟く。海の中とも空の下とも縁遠い地底の王権が、海空の色とは。肘置きと足置きには普通では到底考えられないような大粒の宝石(それも全部特級の魔法石と来た)が埋め込まれ、椅子の全面に
玉座の座面には人の座る代わりのようにスープ皿ほどの銀の杯が置かれており、青い炎はその中で煌々と燃えていた。七年前には僅かに火種が燻るばかりであったこの器も、今は篝火と呼ぶに相応しい勢いでもって冥界を照らす。
イデアは首元に手をやると、魔力を纏わせた手で髪を纏めて、そのまま大半を千切り取った。物理的な実体を持たないからできる荒技だが、まさか短剣で髪を落とすわけにもいかない。いくらシュラウドでもこの場所で
完全に火が消えてしまっているようならともかく、髪そのものはただの媒体だ。イデアの魔力と冥府の篝火との間を他の何物よりもロスなく繋ぐ、それだけの。束ねて落とした髪を腕に絡めてひとまとまりの炎塊をつくる。皮膚伝いに魔力を流し入れると、冷たいばかりの炎が熱を持ったように感じられた。
炎塊は注がれる魔力に反比例するように体積を縮め、その明るさを増していった。溢れんばかりのエネルギーの証明のように青白に輝く焔に照らされるので分かりにくいが、光源の色味を差し引いてもイデアの顔色は段々と悪くなっていくように思えた。
イデアのように燃える青の髪を持つシュラウドを指して、
魂の奥底から、濃色の魔力を引き出す。深い青、黒よりも濃い紫、地下眠る琥珀金。血脈に乗って現代まで継がれた、
青炎の照らす彼の姿を見たとして、それをヒトと断じるものは少ないだろう。
地下の灯火は陽光にも月光にも縁遠い地下を照らすものでもあるが、もっぱら傷ついた死者の魂を癒やすためのものだった。
青白の炎塊は、更に魔力が注がれるに従って再び青に戻っていった。白く輝くまでの何倍もの魔力を吸い込んで元の通りの、髪の炎と同じ青に染まったところで、ようやくイデアは魔力を注ぐのを止めた。辺りを煌々と照らす掌中の炎を、篝火の内へと落とす。地下の炎に熱はない。青の冷炎は魂を焼くものでなく、むしろ傷口を埋めるものだ。篝火は同じ色の炎塊を吸い込んで一瞬だけ高く燃え上がると、また元のような強さで燃え始めた。
イデアは少しの間、玉座に触れようとかと手を伸ばし、しかしそれを実行する前に再び腕を降ろして踵を返した。この道を戻って目を覚ます頃には、夜は明けているだろう。そしてまた冬至の日まで
確かな事実としてはこれでまた一年、地下に燃料は要らなくなる。空も海もないこの地下で、水から守る
地下の篝火は本来この場所で、年に一度だけやって来る地上の灯火を待つ。イデアがあの時引き戻さなければオルト・シュラウドは、自分の宿す炎だけを明かりにして、ここで銀の器の火種が尽きないように気をつけるだけの日々を送るはずだった。ここで一人きりで、
いつか、できたらもう百年も後、イデアが死んだその時に。この地下に、弟が一緒にいればいいのにと思う。魂までとは言わない。せめて、機械の体と思考だけでも共にいてくれれば、いつまでだってここに座っていられる。実際のところがどうあれ、イデアが信じていられるそれを、古い時代なら信仰と呼んだかもしれない。
「ま、夢ですな。全部」
憶えのある三つ辻を過ぎるとイデアは瞼を閉じてそう言った。モルペウスの支配地ならざる、夢をイデア・シュラウドは知っている。起きて覚めない夢、未来と平面にそれぞれ向かうものを。そこでならイデアは何にだって成れるのだ。魔導工学博士にだって大企業のSEにだってなれるし、獣人にだって神様にだって女の子にだって転生者にだって黒髪碧眼のイケメンにだってなれる。
目を開ければそこはイグニハイド寮長室のベッドの中で、黄緑と薄紫のストライプカーテンの向こうからは朝日が透けていた。常になく長く眠った所為で余計に眠気が増しているイデアは、ベッド脇のデジタル時計で一限開始までまだまだ時間があるのを確認した後、これ幸いと掛け布団を頭の上まで引き上げて二度寝の体勢に入った。