曇り空が部屋に差し込む光を灰色に染め上げている。土曜の昼下がり、時計すら欠伸している。
私は、担当ウマ娘であるアグネスタキオンの今後の出走計画を考えていた。窓際に置かれた机の上に資料を広げ、悩みながらキーボードを叩く。
その時、私の耳を気だるげな声がくすぐった。
背後のソファではアグネスタキオンが寝転がりながら、何か冊子を読んでいた。
タキオンが私のトレーナー室に入り浸っているのは、もはや日常光景だろう。
「トレーナー君、仕事はまだ終わらないのかい」
「これはタキオンのためにやっている仕事だよ」
「そんな事は分かっている。私が聞きたいのは、いつまでパソコンに向き合うつもりなのか。さ」
「あと少しで一段落つくよ」
「じゃあもう少しだけ待つ事にしよう」
疑問符を浮かべた顔が画面にでも映っていたのだろうか。タキオンはパタパタと袖を振りながら
子供のような声で叫んだ。
「私はお昼から何も飲んでいないんだ!」
「じゃあ自分で水を飲めばいいでしょ」
「嫌だね。水は甘くないじゃないか」
「砂糖水にすればいいでしょ」
「あのね……私はカブトムシじゃないんだ」
その後も喉が渇いて死ぬ、しーぬーぞーなどと喚くタキオンを無視してパソコンに向き合っていると、突然視界が塞がれた。薬品の臭いが染み込んだ柔らかい布が私の顔に巻きつけられる。
「……ねえタキオン? 画面が見えない」
「じゃあ早く私のために紅茶を淹れてくれよー。あと、戸棚にクッキーがあったはずだろう」
このままでは終わる仕事も終わらないだろう。
私が渋々腰を上げると、タキオンは嬉しいのか何なのかよく分からない笑みで戸棚からクッキーを取り出していた。1人でこっそりと食べるつもりだったのだが、その企みは諦めるしかない。
ティードリッパーとサイフォンメーカーの微妙に違う2つの音、全く違う2つの香りが広がる。
私が温度計と睨み合いをする間、タキオンはまた元のようにソファで何かを読んでいる。
「さっきから何を読んでいるんだ?」
「ちょっとした実験器具のカタログだよ」
「実験器具。またなにか買うつもりなのか?」
「ご心配なく。ちゃんと私のクレジットで買っているさ。君に迷惑はかけていないよ」
少しだけ覗き込んでみると、それは英語で書かれていた。目的不明の機械と、意味不明な英文、そして理解不能な桁の数字に目眩がする。
出来上がったコーヒーをカップに移すと、芳醇な香りの湯気が立ち昇る。タキオンがそれを覗き込んで不快そうに顔をしかめた。湯気ですら苦いらしい。もう一方、紅茶の湯気に顔を近づけたがこれも違うらしい。それは砂糖を入れていないストレートティーだからだろう。
トレーナー室の狭いテーブルに紅茶とコーヒーが並び、クッキーの箱が置かれる。箱の中身が若干減っている事についてタキオンに問うが、決して己の犯行を認めようとはしなかった。
コーヒーを一口啜れば、香り高き味わいが胸に染み込む。タキオンの呆れ果てたた視線も、目を閉じれば気にならないし、コーヒーの味もより鮮明になって一石二鳥だ。
「それでだけどね、トレーナー君」
何かが水面を跳ねる音がして思わず目を開けると、ティーカップ一杯に角砂糖を入れるタキオンの姿があった。もはや紅茶ではなく、角砂糖の紅茶漬けだ。甘味以外の味はしないだろうそれを、実に美味しそうに飲み干すタキオン。笑顔に膨れる頬には大量の角砂糖が詰められるはずだ。
「君にお願いがあるんだ」
タキオンがクッキーを差し出した。コーヒーの苦みによく合う上品な甘さで、軽くて香ばしい味わいのクッキーが次々と私に手渡される。
その10個に1個がタキオンの口へと運ばれた。
私は十二分に警戒しながらクッキーを齧った。
「お願いというのは理事長への事なんだ」
「理事長?」
「ああ、これを見てくれ。このページのここだ」
タキオンが恐らく示しているであろう場所に注視する。長い袖の上から指は見えない。
そこには、何やら機械の写真が載っていた。
「これは、一体何の機械なんだ?」
「なあに、ただの庶民的で一般的な電磁波照射式細胞分離増殖装置だよ。珍しい物じゃない」
「さいぼうぶん……それはいくらするんだ?」
タキオンは今までは興味が無かったかのように、数字を数え始めた。千、万……百万……それより先は聞く気も失せた。
「まさか、それを学園に買わせようと言うのか?」
「いいや、そうじゃないさ。さっきも言っただろ? それくらいは私のクレジットで買っていると」
その言葉自体も、問い詰めたい情報に満ちていたが私はタキオンの二の矢を待った。
「私がね、欲しいのは場所なのだよ」
「場所?」
「そう、この機械は非常に大型でね。さらには専用の周辺設備が大量に必要だ。膨大な数のネットワーク回線も必要だし、変電設備も要求されるね」
「ゴメン、余りにも壮大すぎてよく分からないのだけど? いや、非現実的と言うべきか?」
「だからね、理事長に頼んでくれないか? 学園の広大な敷地の一角に国立大学並みの研究施設が欲しいから建ててくれないか、とね。建築費用を出したっていいよ」
私は堪えきれなくなって頭を抱えた。情報を処理できない。コーヒーを味わう余裕は無かった。
「いや待ってくれ。ひとつだけ聞かせて。どこからその資金が出ているんだ?」
タキオンは袖を口元に当てた。それはタキオンが深く考え込んでいる時の仕草だ。
閉じた瞳が、処理落ちしたコンピュータのように動かない。
「アメリカとドバイにいる私のスポンサーだよ」
その瞬間に私の脳内に溢れだしたのは、葉巻を加えた金持ち達がタキオンを取り囲む様子だった。部屋は下品な照明に満ちていて、異常な臭いが充満している。
考えたくも無い光景なのに、私はその妄想から目が離せなかった。
タキオンの視線に気づくまでは。
「……トレーナー君?」
「タキオン、頼む……体と心は大切にしてくれ」
「君、何かとても愚かな事を考えているだろ?」
「でも、スポンサーって……」
「だから、スポンサーだよ。私の研究を理解して協力し、援助してくれる人達さ」
「その人達はいつから……」
「URAファイナルズに勝った時からだね。一人はアメリカの製薬会社のCEO、もう一人はドバイの遺伝子研究機関で重役を務める人間からだったよ」
「分かるように教えてくれ」
「だから、差し出したのさ。私のカラダをね」
その言葉が、理性を吹き飛ばした。
私は、タキオンの肩を掴ソファに押し倒した。
そこからどうするべきなのかが分からなかった。どうしたいのかが自分にも分からなかった。
「トレーナー君……? 痛いよ、離してくれ」
私は、タキオンの事しか頭になかった。
「タキオンが、なんで、そんな事をするんだよ」
「君、落ち着きたまえ。興奮しているぞ」
「どうして自分を傷つけるんだ、なぜ君の脚をそんな事で汚すんだ、私が見たい限界の果ては……」
強く掴んだ肩が痛そうに呻いている。手のひらに骨が突き刺さるようだった。その瞳を見るだけで、私は後悔と怒りと悔しさで胸が一杯になった。自分の感情すら分からなくなっていた。
タキオンを守りたいという感情かもしれない。自分の中にいるもう1人の自分はそう思った。
私は、どうすれば良かったのだろうか。その答えはいくら探しても見つからない。
私に……何が出来たのだろうか……。
「いい加減に、したまえ!」
私は……タキオンに投げ飛ばされた。
打ち付けた背中が硬い床に跳ねて息が止まる。
「あのね……君、妄想癖が強すぎるよ。大体、我々に力で敵うわけが無いだろう」
「……っ、タキオン、私は君の事が……」
「とりあえず、これを飲みたまえ」
今度は私が押し倒される順番だった。
無理やり口にカプセルを押し込まれる。
途端に体から血の気が引いた。もう1人の自分と自分が重なり、指先の温度が戻る。
「今、何を飲ませて……いや、私は何をして……」
「ふむ……人間には効果が強すぎるようだね」
「何を、何を……言っているんだ?」
私が見つめるタキオンの脆い瞳が細く閉じた。そして、タキオンに抱きつかれた。
タキオンが囁くと、耳元で閃光が走った。
その言葉に耳を傾けるうちに、先程までの自分がありありと蘇ってくる。
「君の飲むコーヒーにある薬剤を混ぜてみたんだ」
「私のコーヒーに?」
その後タキオンが言った小難しい解説を要約すると、それはカフェインの効果を千倍にするという効果のようだ。つまり、私はカフェインの過剰摂取で急性的にああなったという事……らしい。
「さっき飲ませたのは、それを打ち消す薬剤だよ」
「つまり、実験だと?」
「ああ、実験だね」
「君はトレーナーに襲われかけたというのに?」
「その点については今後も改善が必要だね」
私はここ数週間の疲れが一気に噴出して動けなくなった。果てしない脱力感に襲われた。
「今後、二度とその薬を使わないでくれ」
「それは約束できないな」
「約束してくれ。もうあんな怖い思いは嫌だ」
「そこまで言うなら仕方がないね」
冷たいコーヒーカップがまだ微かに香っている。
これを淹れ直す力は今の私には無かった。
「本当に、危険な事はしていないんだよね」
「ああ。データの提供と実験の参加以外はね」
「そうか、それなら良かった。本当に良かった」
「君は過保護すぎるよ」
その目がとても優しくて、私はなぜか驚いた。
「……それでだけどね」
「研究施設の話なら絶対に無理だと思うけど」
「ああ、やっぱりそうか。仕方ない」
私はこんな日常の風景を恨みながら、空の冷たいカップに熱いコーヒーを注ぐ事を考えた。