けれど、私は彼を知っている。
私は父の顔を見たことがない。
物心つく前に、父は亡くなったのだから。
私は父に会ったこともない。
そんな私に母は言う。父はとても立派だったと。
私には人に無い特別な力がある。
この力のせいで、赤子のころは大変な目にあったらしい。
命を狙われただとか。悪党の手で別人にされるとこだったとか。
耳を疑うような、それこそ絵本の御伽噺みたいな、波乱万丈があったのだとか。
全ては口伝だ。私の記憶に無い過去の遺物だ。
どれだけ耳にしたって実感など湧くはずもない。信じることだって出来やしない。
会ったことも無い父親に情なんて抱こうにも抱けないし、毎日毎日父の話をする母の多弁にうんざりするものだ。
普通は。
そう。普通は。
私は父の顔を知っている。
特異菌。私に宿る不思議な力。父が遺してくれた大切な宝物。
菌には情報を記憶する力がある。神経細胞と酷似したメカニズムを菌体が再現し、特異菌そのものがまるで脳のように、取り込んだ人間の残滓を覚えるのだ。
その性質を逆手に、私を生贄にして娘を蘇らせようと企んだ、マザー・ミランダという女がいた。
彼女は特異菌に記録された娘の情報を、私という器に転写しようと試みた。
結果は失敗に終わったけれど、ひとつの奇跡が私の中に流れ込むことになる。
マザー・ミランダは父を殺した。
心臓を引き抜き、握り潰して、生温い鮮紅を浴びながら高らかに嗤って。
父の血を、知らず知らずのうちにその身に取り込んだのだ。
父の肉体は私に宿る特異菌で出来ていた。
かつて母を救うため、狂気の家へ立ち向かった日。命を落としてしまった父は、幸運にも菌に適合することで蘇った。
父の血肉には、文字通りイーサン・ウィンターズの全てが刻まれている。
マザー・ミランダはそれを吸い取った。
父の血を。血に宿る愛までも。
『大丈夫。もう大丈夫だ、ローズ』
朽ちゆく体。崩れる命。刻限が迫る時計の針。
娘を救うため、限界を越えて酷使された父の体はいつ崩れてもおかしくない状態だった。
けれど父は笑っていた。
もう立ち上がれないくらい項垂れても、震える腕に力強く娘を抱いて、決してこの子を離さないと、刹那の時を精いっぱいに愛していた。
『ローズ。ローズマリー』
眩しくて。切なくて。零れ落ちそうな優しい笑顔で。
彼は、私の名をそっと口にした。
私は父の顔を見たことが無い。
けれど、私は父の顔を知っている。
私に流れる特異菌が、まるで父からの手紙のように彼の記憶を伝えてくれる。
瞳を閉じれば、隣にいるみたいに父の存在を感じられる。
家族を救うために、命を賭けて戦った、とっても素敵な彼の愛が。
イーサン・ウィンターズ。
それが私の父の名前。
ローズマリー・ウィンターズを救った、世界でたった一人の私の英雄。