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増えなかったら据え置きです。
空気を裂く音が反響する。砂利がこすれ、衣が擦れ、微音はあれど、この場を支配するのはその高音だけだ。
ひたすらに続くその音は、だんだんとペースを増す。音を生み出している者の意志を反映するが如く、荒々しく、異音も増していく。
やがて音は、ズドンという低音を最後に止まる。男の呼吸音のみが響く。
「……何故だ」
息を整え、男はドスの聞いた声を相手に投げかける。苛立ちを隠せず、悔しさのにじみ出た声だった。
「何故、当たらねえ! 何故てめえは攻撃してこねえ!」
「答えろ!」と叫ぶ男に対し、返ってきたのは――ため息だった。
「"ヌル"すぎんのよ」
その声は高く幼く、不自然なまでに落ち着き、男の相手としてはあまりに異様だった。
敵を前にして彼女は、一切平常を崩さない。ポケットから包み紙を取り出し、中身を口に放り込む。
「待ってやる」と言わんばかりに風船を膨らませ、それがさらに男を苛立たせた。
「動きが遅い。狙いが見え見え。童貞臭い。筋が単純すぎる。童貞臭い。気が短い。あと童貞臭い。全体的に"ヌル"すぎんのよ、アンタ」
「うるっせえ! 何回童貞童貞言えば気が済むんだ、この詐欺幼女が!」
「誰が幼女だ」
――一瞬だった。男の気が逸れたその一瞬で、彼女は男の視界から消えた。
炸裂音。男の目には、一瞬火花が散ったように見えただろう。目をハリセンで叩かれたのだから。
「……てめ、そんな得物でっ」
「アンタなんかこの程度で十分よ。"ホンモノ"使うには、アンタは"ヌル"いのよ。わかったかしら、クソガキ」
「年上は敬いなさい」とフーセンガムを膨らませる、見た目は幼女。
激高し、男は得物――木刀を力任せに振るう。その軌跡は上段から下段に振るうのみで、幼女の言うとおり単純で素直だった。
単純故、そこに込められた力はすさまじい。木刀が地面に突き刺さると、衝撃音とともに土埃が舞う。
もちろん、既に幼女の姿はない。いつの間に移動したのか、今度は男の後頭部へ一撃。ハリセンの軽快な炸裂音が、場違いに響く。
幼女の武器が殺傷力のないものというのもあるだろう。それにしても男はタフで、彼女の後を追うように木刀を振るい続けた。
――彼は気付いているだろうか。彼の得物が、だんだんと複雑な軌跡を描いていることに。だんだんと緩急がついてきていることに。
彼女の意図に、彼は気付いているだろうか。
たっぷり30分、男は木刀をふるい続けた。文字通り足腰が立たなくなるまで、"指導"を受けた。
幼女は息を切らせることなく、味のしなくなったガムを包み紙に吐き出した。
「こんなもんね。それじゃ」
「ま、待ちやがれェ……俺ぁ、まだやれる……」
男は息も絶え絶えに言ったが、実行不可能であることは明白だった。
幼女はガードレールにかけておいたバッグを手に取ると、一度男の前に戻る。
「明日も同じ時間にここにきてやるわ。アンタが懲りないんなら、また相手してやるわよ」
「クソッ……この、詐欺幼女がぁ……」
「だから幼女言うなつってんでしょ。成人してるわよ」
バッグで男の顔面を叩くと、彼女は今度こそ立ち去った。
高架下の砂利道に、強面の学ラン男一人が横たわる。
「クソが……全然届きやしねえ……」
木刀を掲げ、己の無力を悔やむ。だが、その闘志が薄れることは、決してなかった。
「次だ。次は勝つ。それでダメならその次だ。次の次の次もだ。いつか、絶対勝ってやる!」
それは己自身に対する宣言だったのか。彼は想いを再確認する。
「勝って……アンタを俺の女にしてやるッ!」
「……聞こえてんのよ、バーカ」
見た目幼女の彼女は、高架下から響いてくるバカみたいな大声に、思わずうずくまった。こんな表情を誰かに見られるわけにはいかないのだ。
ダメだと思ってもにやけてしまう。頬が熱い。何度負けても挑戦してくる彼の気持ちが、嬉しくてたまらない。
彼女が自分の気持ちに従うなら、わざと負けてもいいだろう。だがそれをするのが、男の気持ちを踏みにじる行為だということをわかっている。
だから彼女は何度でも相手になり、男が強くなれるように"指導"を続ける。いつか、実力で自分を倒せるようになるまで。
その日を夢見て、恋する乙女は表情を締め直して立ち上がる。その顔は、剣を指導する士の表情。これから仕事なのだから、色恋を引っ張ってはいられない。
「アタシも、待ってるよ」
最後にそう残して、彼女は自身の仕事場へと歩みを進めた。
二人の出会いは、この半月ほど前にさかのぼる。
※ ※ ※
男――新田龍之介は、所謂ところの番長であった。
不良のレッテルを張られ、事実言動は粗暴そのものであり、教師陣からはたびたび注意を受けていた。
もっとも、当人にその意識はない。弱者が搾取される様を見て見ぬふりができず、筋の通らぬ者に対しては拳でわからせるタイプであったため、周囲がそう認識するようになっただけだ。
学業成績は中の上。無免許運転も飲酒喫煙もしない、守らない法令はケンカのみであり、それも己の筋を通すために行われる。素行自体は決して悪いものではなかった。
だからこそ、他校の不良――本当の意味での不良からは目を付けられやすかった。
パッと見は彼らと同じようなものなのに、弱者から慕われ、警察のご厄介になることもないとなれば、「何故あいつだけが」と妬みの対象にもなるだろう。
このため、龍之介はたびたび果し合いの呼び出しを受けており、その日も彼にとって「いつも通りの厄介事」だった。
「バカなやつだよなぁ、新田ァ。果たし状の中身信じて、本当に一人で来るとはよォ」
「それともお前のバカに付き合ってくれる物好きはいなかったかァ? 大した人望だよなぁ、オイ!」
一対一の素手による勝負の申し出であったのに、現地に顔を出せば10人からなる男たちが、鉄パイプやらチェーンやら思い思いの武器を手にしている。
バカバカしくてため息をつく龍之介。彼は果たし状の中身など信じていなかったし、誰かを巻き込む気などなかった。これは自分に降りかかった火の粉であり、己の手で振り払うべきだと考えていただけだ。
彼はどれだけの数が相手であろうと、相手が何を持っていようと、拳のみで戦う。武器を使うなど卑怯者のすることであり、己はそうはならないと固く誓っていたからだ。
「御託はもういいか」
周囲を取り囲む男達の笑い声を意に介さず――あるいは、いい加減不快になってきたのかもしれない。
学ランのポケットに手を突っ込んだまま仁王立ちしていた龍之介は、握り拳という「得物」を取り出す。不良たちの笑い声が止まり、短い緊張が走る。
「雑魚はとっととかかってきやがれ。時間の無駄だ!」
「っせえ! "チョーシ"こいてんじゃねーぞ、クソがァ!」
「やっちまえ! 相手は一人だ!」
不良たちは卑怯上等、龍之介の後ろにいる男がチェーンを振り回して殴りかかり、彼の肩に直撃する。
ニヤリと笑う不良A。次の瞬間、彼は宙を舞った。ダメージを無視してチェーンをつかまれ、引っ張られ、そのまま顔面に重い一発を受けたのだ。
軽く一回バウンドするほど殴り飛ばされた不良Aは、アスファルトの地面に倒れ、ピクピクと痙攣する。意識がないことは誰の目にも明白だった。
たったの一発で、"ヤ"られる。――目の前に突き付けられた事実に、不良たちは戦慄した。その恐怖に従えるほど利口であるなら、この男たちは不良などやっていなかっただろう。
「次ィ! とっととかかってこいや!」
「っっっざけやがってェ!」
「ウゼエんだよ、コノヤロウ!」
今度は9人が一斉に襲い掛かり、正面の一人がカウンターで殴り飛ばされる。
もちろんその間に龍之介は鉄パイプやチェーンの殴打を受けることになるが、痛みは気合いで弾き飛ばす。体格に恵まれた彼はそもそもタフなので、こういった多少の無茶がきくのだ。
残り8人、そして不運にも肘が当たってもう一人減り、残り7人。
心底頭の悪い不良たちでも、形勢の悪さを感じ取る知能はあったらしく、さらに一人を犠牲に距離を取る。残り6人。
「どうした、もう終わりか!?」
「はっ、言ってろバーカ! テメーはもう"ツミ"だ!」
「近づけなきゃ殴れねえだろ、オラオラ!」
チェーンを持った3人が盾に、残りの3人が石を投げてくる。子供じみた攻撃手段ではあるが、武器を失った戦場でも有効なこの方法は、確かに厄介なものだ。
ド素人3人が投げる石は、命中率も威力も大したものではないが、当たればそこそこの痛打になる。これまでに蓄積した痛みもあって、長期戦になれば龍之介が不利だった。
ケンカが始まってから、初めて彼は舌打ちをする。それだけ厄介だと感じた証拠だ。それでも、彼は愚かなまでに一直線なのだ。
投石の何発かを体に受けながら、前進を止めない。それだけ不良たちは後退して距離を取るが、石を拾いながらの男たちと龍之介では、彼の方が速い。
徐々にその距離は縮まっていき、龍之介の攻撃の射程は近づく。男たちの振り回すチェーンが激しく唸る。
そんなときだった。
「ねえ、ちょっと。あんたたち、通行の邪魔なんだけど」
あまりにも場違いな、幼い少女の声が聞こえたのは。
* * *
彼女、如月六花は剣道少女――ならぬ、剣術少女だった。母方の祖父が古流剣術の道場主であり、彼女はおじいちゃんっこだった。
初めは、ただの手習いに。大好きなおじいちゃんと一緒に楽しめる剣術を、一緒に遊ぶだけの感覚で始めたものだった。
やがて剣術そのものに興味を持ったのは、紛れもなく祖父の血だっただろう。同時に、その頃には自分の周りの状況も認識できるようになっていた。
道場の経営は、決して芳しくない。剣術という技の性質上厳しくなりがちな鍛錬についてこれる門下生は少なく、もはや二人しか残っていない。
そして六花の目から見て、その二人も遠くないうちに辞めるだろうということは察していた。祖父の剣を継ぐ者がいなくなってしまう。
だから彼女は、決意した。
「おじいちゃん。おじいちゃんの技のすべてを、アタシに教えて」
代々受け継がれる剣を自分が継ぐ。母は剣に興味がなく、父はごく一般的な会社員。自分は一人っ子であり、親戚を見ても男児に恵まれておらず、もちろん彼女らは剣に興味を持たない。
六花が継ぐしか道はない。そのことは祖父も理解していた。だがそれは、愛する孫娘を死地に追いやるも同然なのだ。厳しい修業は、彼女の青春すらも奪い去るだろう。
祖父は、初めて厳しい言葉で六花を責めた。
「剣を甘く見るな。これは命を奪うための術だ。その真髄を得るには、命を奪う覚悟が要る。お前程度の小娘にできることではないぞ」
優しい祖父の、初めて見る厳しい態度に、六花は一瞬だけ詰まった。一瞬の逡巡で、自分の一生と祖父を天秤にかけた。
それが祖父の側に傾く程度に、彼女は祖父が大好きだったのだ。
「構わない。それでアタシの一生が剣一色になったって、後悔なんてしない。おじいちゃんの道をつなぐためだったら、人の命だって奪ってやる」
「……そう、か。厳しい修業になるが、音を上げることは許さんぞ」
「っ、はい、"師範"!」
祖父は理解した。孫娘が、自分のために一生を捧げる気でいることを。本当に命を奪う覚悟があることを。彼女が確かに自分の血を引いていることを、悟ったのだ。
こうして彼らは祖父と孫娘から、剣術師範とその門下生へと関係を変えた。
師匠としての祖父は、決して優しさを感じられるものではなかった。少しでも気が緩めば罵声が飛び、前日よりも剣の軌跡が鈍くなれば容赦なく打ち据えられた。
生傷が絶えることはなく、遊ぶ時間を取れないこともあって、友人は一人もできなかった。
――高校時代。教室に忘れ物を取りに行った際、クラスメートが自分の陰口で笑っているのを聞いた。
「如月さんって、ほんと気味悪いよね」
「わかるぅ。なんかいっつも怪我してるし、話しかけてもそっけないし」
「あたし聞いたんだけどォ、あの子の家ってマジモンの日本刀で人殺し教えてるらしいよ」
「うわっ、なにそれこわっ。人殺しがクラスメートとか最悪なんですけどー」
バンと音が響くほどの勢いで戸を開く。今まで陰口をたたいていた女子たちが六花を見て、さっと顔を青ざめさせる。
彼女らには一切取り合わず、六花は自分の席まで行き、机の中から忘れ物の教科書を取り出した。
「……アタシは、あんたらみたいに自分が恥ずかしくなるような生き方してないから。言いたきゃ勝手に好きなだけ言ってろ」
クラスメートを一瞥すらせず、そう言い残して彼女は教室を去った。しばらくすると、再び教室の中からささやきが聞こえる。断片的にしか聞こえなくても、自分への悪口であることは理解できた。
それが六花の心を全く傷つけなかったわけではない。祖父の剣に一生を捧げると誓った彼女も、心は年頃の女子であり、人の悪意を断てるほど強くはない。
それでも、彼女は涙を見せない。剣は彼女の誓いであったし、誇りであった。悪意をささやくだけの卑怯者より弱いなど、あってはならなかった。
そうして彼女は、青春のすべてを犠牲にして、成人を待たずして師範代となった。才能以上に、血のにじむ努力の結果だった。
「本当に、よくぞここまで、儂の剣を継いでくれた。……ここから先は己の剣を磨け」
病に侵され、もう長くない祖父が満足して逝けるように、必死に努力した。
今わの際で祖父がそばに求めたのは、愛する孫娘。彼女に、最後の指導を残した。
「代々、そうして極みに至った者が、師範となる。お前の道は、まだ半ばよ。それを、忘れるな」
「はい、師範。決して忘れず、精進致します」
「……うむ。お前なら、きっとやれる。ありがとう……そして、さらばだ、六花。我が愛する、孫娘よ……」
「っ……おじいちゃんっ!」
――幼い頃を除いて、如月六花が涙を流したのは、最愛の祖父が亡くなったときだけだった。
祖父の死からしばらくたち、六花は大学を卒業した。祖父の道場を引き継ぎ――師範代が若い女性というのもあってか――経営状況は立て直りつつあった。
全くの余談だが、彼女の道場の門を叩いた者は、まず師範代の幼女っぷりに驚き、笑って叩きのめされて逃げ帰る者と、むしろ喜んで入門する者と、最初から興奮して入門する者の三通りしかいなかった。
子供の頃からの鍛錬の弊害なのか、それとも父方の家系からなのか、六花は身長が140cmを超えず、顔も幼さが抜けなかった。一部の筋の者からは諸手で歓迎される属性持ちとなってしまったのだった。
それが故に祖父の代ではついぞ見られなかった道場の繁盛っぷりを見ることになっているのだから、思わずため息の一つも出よう。
その日も、実家の母の手伝いをし、道場を開く時間に間に合うように家を出て――巡り合ったのだ。
「ねえ、ちょっと。あんたたち、通行の邪魔なんだけど」
自分の行く道を塞ぐ、6人の男たち。見るからに不良という体であり、誰かと戦っている様子だ。あいにくと六花の身長では彼らの向こうは見ることができない。
男の一人がこちらを見、忌々しげに吐き捨てる。
「なんだ、ガキじゃねえか! 怪我したくなかったらすっこんでオボァ!?」
吐き捨て、られなかった。最初の一言でプッツンした六花は、ポケットから「あるもの」を取り出し、自然な動きで男の懐に入り込み、一撃を叩きこんだ。
「カフュ……!?」という異様な呼吸でその場に崩れ落ちる不良E。突然の出来事に、驚いた様子の不良たちが一斉にEの方を見る。
そこに立っていたのは、自分たちの腹ぐらいの身長しかない少女。彼女がただのボールペンを片手に、仲間の一人を昏倒させているところだった。
「な、なんだこのガギュッ!?」
「俺たちを誰だと思っデュア!」
「知るか、クソガキども。アタシの邪魔したあんたらが悪い」
子ども扱いされるのは、六花が何よりも嫌うことだった。それをよりにもよって見るからに頭の悪そうな不良どもに言われた日には、ボールペンであばら骨の隙間を貫くぐらいはしよう。
投石男たちが倒れ、チェーンを振り回していた不良どもが狼狽える。……そしてその隙を逃すほど、彼らの敵対者は容赦してくれなかった。
「オラァ!」
「チニャ!?」
「タワバ!」
「アベシ!」
きっかり一発ずつぶん殴り、向こうから現れた大男は残りの不良を蹴散らした。
一般より低い六花の視点から見て、それはまさしく「巨人」だった。
学ランに纏われた、その上からでもわかる筋肉質な体躯。怪我をしているようだが、それを全く思わせないほど頑丈な体幹と、鋼の意志を映した鋭い目。
彼を見た瞬間六花は――かつて感じたことのない衝動に襲われた。
未経験の感覚に硬直する六花に、大男は屈んで目線を合わせ、心配そうに声をかける。
「すまない、巻き込んでしまった。怪我はないか?」
「……は、はい。大丈夫れす」
うまく呂律が回らない。目がチカチカする。彼女は一方的に不良を叩きのめしたのだから、怪我などが原因であるわけがない。
それは彼女の内側から湧き出た、初めての感情故に。青春をすべて剣に捧げた少女の、遅咲きの春。
如月六花は、大男――新田龍之介に、一目惚れの恋をしたのだ。
そして、そんな相手に。
「本当にすまない。君のような幼い子供に恐ろしい思いをさせてしまうとは、不覚の極みだ。……しかし、奴らは一体どうしっ!?」
一番嫌いな「子ども扱い」をされてしまえば、こうなる。
ほんの一瞬の動きで、六花はボールペンを大男のあばら骨の隙間に突き立てる。他の不良たちとは違い無様に昏倒しなかったのは、さすがのタフネスである。
膝をつき耐える大男に、六花は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「アタシはとっくに成人してるんだよ! どいつもこいつも、アタシを子ども扱いすんな!」
「……うそ、だろ。どう、見たって、幼稚園児……」
「っ、このくそばか! しんじゃえ!」
バッグで大男の頭をぶっ叩き、六花は走り出した。――こんなの、一時の気の迷いだ。あんなデリカシーのないやつに心を揺さぶられるのは、自分が未熟だからだ。
雑念を払おうとしても、頭からは大男の顔が、目力の強さが離れない。
彼女が顔の火照りを抑えるのに、しばらく時間が必要だった。
この日の彼女の道場では、いつにも増して厳しい稽古が行われた。
そして門下生は口を揃えてこう言った。「ありがとうございますッ!」と。
※ ※ ※
――俺が、ケンカに負けた。不意打ちだったとはいえ、あんな小さな少女の、たったの一撃で。
その事実は、これまでどんなケンカにも負けなしであった龍之介にとって、鉄パイプで殴られるよりもはるかに強烈な衝撃を与えた。
そもそもあれはケンカなどではなく、剣術の達人による一方的な蹂躙でしかなかったのだが、そんなことは問題ではない。彼が負けたということが、何よりも大きいのだ。
屈辱はある。油断した反省もある。そして、それを塗りつぶすほどの大きな高揚が、彼の中に湧きあがっていた。
「……面白ぇ」
自分よりも強い者がいる。何をされたのかもわからなかった。圧倒的な実力差を感じた。その相手が、普段ならば「守るべき者」と認識する弱者の姿をしていた。
それは未知への興奮に近かったのかもしれない。少なくとも、龍之介が名前も知らない初見の女性――見た目は幼女だが――に興味を持ったことに、間違いはなかった。
「面白い女だ。あんな女、見たことがねえ!」
荒々しい、獣のような獰猛な笑みは、彼女の感じたほのかな感情とはあまりにもかけ離れていただろう。無論、そんなことは龍之介が知る由もない。
新田龍之介という男は、本人の自覚はないが、これまで己のうちに秘める獣性を抑えて生きてきた。羊たちをおびえさせないよう眠る猟犬のように。
不良たちとの争いも、彼にとってはポメラニアンにじゃれつかれているにすぎなかった。根本的に生物としての格が違うと言っていいだろう。
そんな彼の前に、羊の姿に擬態した大鷲が現れたのだ。対等……否、格上の相手が。自身の獣性を解放してなお届きそうにない女が、存在したのだ。
「面白え!!」
彼と彼女に伸された不良の残骸など、最早目もくれていない。彼の目には、既に走り去ってこの場にはいない一人の女性しか映っていなかった。
その執着と恋心に、どれほどの差があるだろうか。
新田龍之介は、決してバカではない。もう一度言うが、学業成績は決して悪くない。もっと勉学に興味を持てば、さらに上だって狙えるだろう。
ただし、性質が獣であり、単純で素直だった。昨日と同じ時間、同じ場所に行けば、あの女性に会えると本気で思っていた。
彼女が偶然あの場所を通っただけなら、成り立たない仮定だが、そんなことは彼の頭にはない。ただ彼女との邂逅のみを求めた。
そして、それはこのケースに限り正答であった。
「……よぉ。また会ったな」
ここは彼女の実家から道場へ向かう道の途中であり、始業前には必ず通る。だから、彼がここで張っていれば、いつかは彼女に出会えるのだ。
昨日出会った不良(に見える)男に、彼女は一瞬驚き、すぐに鋭い目でにらみつけた。どうやら気持ちの整理はつけられたらしい。
「何の用? またぶちのめされたいわけ?」
「ああ、そうだ」
挑発のつもりの言葉に真っ直ぐに返され、彼女は面食らった様子だ。目つきから鋭さが抜ける。対照的に、龍之介の目はさらに鋭さを増した。
「アンタほど強い女、見たことがねえ。たとえぶちのめされたとしても挑みてえ。だからここに来た」
「……呆れた。あんだけ実力差を見せたら、普通関わらないでしょ。昨日も怪我だらけだったけど、アンタ、マゾなの?」
「さあな。んなこたぁどうでもいい。俺はただ、強いアンタに挑みてえ、それだけだ」
ただの戦闘狂。彼女の目にはそう映ったかもしれない。それを呼び起こしたのはほかでもない彼女であり、彼は彼女以外には目もくれていないのだが。
呆れのため息とともに、彼女は土手の下を指さして歩き出す。彼は、無言で彼女の後についた。
川沿いの道の高架下。土手の上とは違って人気もなく、早々邪魔は入らないだろう。
「アタシ、この後仕事だから、やるならとっととやるわよ」
「へへ……そうこなくっちゃな!」
彼女がバッグをガードレールにかけ、準備ができたと見るや否や、彼はすぐにもポケットから握り拳を出す。
対する彼女が取り出したのは――龍之介は今初めて目にしたが、昨日と同じボールペン。侮られていると見て、彼は苛立ちを全身から立ち上らせた。
「てめえ……舐めてんのか!?」
「アンタ程度なら、これで十分なのよ。どうせ昨日もなにされたかわかってないんでしょ」
「やってみろよ!」と吠え、彼は幼姿の女性に肉薄し――勝負は一瞬でついた。
「ゴフッ……!?」
「剣道三倍段って言ってね。まあアタシのは剣術なんだけど……無手のアンタじゃ、絶対アタシには敵わない」
彼の目には、拳をふるった瞬間に彼女が消えたように見えただろう。実際には身長差を使って前進回避で懐に潜り込み、手加減なしの突きを肺に叩き込んだ。
意識を刈り取るつもりで放たれた一撃は、さすがの龍之介をもってしてもただでは済まず……気合いで食いしばり、膝をつきながらも気絶を免れた。
予想外の展開に、彼女もわずかに驚きを見せる。
「今ので気絶しないんだ。イカれてるわね、アンタ」
「気絶、なんぞ、してる場合じゃ、ねえんだよ……ッ! 今度は、"観"たぜ……!」
肺の中の空気がすべて抜かれ、酸欠状態であるにも関わらず、彼は気合いのみで意識をつなぎ、震える手で彼女のボールペンを指さした。
「そいつが、アンタの、"剣"ってわけだ……!」
「……ほんと驚いたわ。ただの不良のバカじゃなかったのね」
「言っておくが……俺は別に、不良じゃねえ」
再度になるが、新田龍之介はケンカ以外の法令違反を行ったことはない。信号すら絶対に守る真面目系番長(結果論)なのだ。
そして考える頭を持つ彼は、今度こそ理解する。確かに素手の自分では、彼女に勝つことはできない。
「ボールペンを剣に使える達人で、こっちの攻撃が当たらないんじゃ、確かに勝ち目はなさそうだな」
「そうね。諦める?」
「……バカ言ってんじゃねえよ」
息の整った彼は、笑みを深める。獰猛に、より力強く。
「いや、バカは俺だった。武器なんぞ卑怯者の道具としか思ってなかったが……アンタのような達人がいることを知った」
「アンタの考えも間違いじゃないわよ。昨日あんたがやり合ってた連中が使ってるのは、ただの卑怯者の道具。でもアタシのは、アタシの人生そのものよ」
「――それがほしい」
思わず自身を抱く女性。彼の言葉に、何を思っただろうか。よく見れば口の端が緩んでいるのだが、"ソレ"で頭がいっぱいの彼が気付くことはない。
「アンタをアンタ足らしめている、その力がほしい。何故かは知らん。ともかくほしいと思った。それが、アンタに挑む理由だ」
「どこまでも戦闘狂ね、アンタ。ちょっとでも期待したアタシがバカだったわ」
「? アンタが俺に、何を望むってんだ」
「……口が滑ったのよ。忘れなさい」
表情を見せぬよう彼に背を向ける女性。龍之介は、機嫌を損ねてしまったかと黙り込む。
わずかな沈黙を破ったのは、女性の方だった。
「木刀。アンタ、持ってる?」
「いや……さっきも言ったが、俺は武器を卑怯だと思ってた。鉄パイプもチェーンも木刀も持ってねえよ」
「明日も来なさい。うちの道場で余ってるやつ、あげるから」
「だが、俺は……」
「あんたが持つ武器は卑怯者の道具じゃないでしょう。アタシに勝ちたいなら、そのぐらいしなさい」
龍之介は逡巡する。女性の言ではないが、拳で戦いぬけた彼のスタイルは、これまでの彼の人生そのものと言っていい。それを捨てろと彼女は言う。
だが、彼もわかっている。その手を取らなければ、今求めているものは、一生得られないことを。
逡巡し、彼は選んだ。
「……わかった。だが、覚悟しろよ。俺は、必ずアンタに勝つ」
「武器を持った程度で相手になる実力差じゃないんだけど。……期待しないで待っててあげるわ」
「ああ、待ってろ。……なんだ、アンタも戦闘狂じゃないか」
先ほどの言葉を思い出し、龍之介はクックッと笑う。彼がそんな風に笑ったのは初めてなのだが、彼自身気付いてはいなかった。
「なんでそうなるのよ。アタシは剣に生きてきただけ。戦いとかはどうでもいい」
「だが、俺が強くなるのを期待してるんだろう。なら、俺と同じだ」
「バッ……! アンタみたいな脳筋と一緒にすんな!」
顔を真っ赤にし、肋骨の隙間に一発ぶち込む女性。「グハッ!?」と空気を吐き出し、今度こそ龍之介は倒れた。
「あーもう、アンタと話してたら調子狂うわ! ともかく、明日も同じ時間にここに来ること! わかったわね!?」
「お、おう……」
一方的に約束をし、彼女はガードレールのバッグを乱暴に取り、立ち去ってしまった。そういえば仕事の時間だと言っていたなと、龍之介は思い出し……気付いた。
「名前、聞いてなかったな。まあ、今更か」
彼女に勝てたとき、初めて名前を聞くのもいいかと、彼は小さな「決意」をした。
+ + +
そうして龍之介と六花は逢瀬――というにはあまりに殺伐とした内容ではあるが――を重ね、そのたびに龍之介は強くなった。六花の指導は、確かなものだった。
ボールペンを使うと一撃で戦闘不能にしてしまうため、六花が武器をハリセンに変えてから、伸びはさらによくなった。龍之介が素直であったというのも大きいだろう。
最初の"稽古"から数えて、30回目。期間にしてひと月が経った頃だろう。
「っ」
「しゃあ!」
ハリセンが「木材に叩きつけられる炸裂音」が鳴り響く。この瞬間、龍之介は初めて六花の攻撃を受け止めることに成功した。
追撃を行うことも可能だったが、六花はあえて距離を取った。龍之介も、注意深く彼女を見て、深追いすることはしなかった。
"残身"という武芸においてきわめて重要な概念を、いつの間にか彼は得ていたのだ。
「及第点ね」
彼女は、そう評価を下した。たったのひと月で剣術の師範代からお墨付きを得られた。それがどれだけの偉業なのか、龍之介はまだ知らない。
「まだそんなもんか……遠いな、クソっ」
「当たり前でしょうが。アタシが20年近くかけてたどり着いた場所に、たったひと月で追いつかれたんじゃ、立つ瀬がないわよ」
「相変わらず見た目詐欺だな。その身長で大学出てるって、おかしいだろ」
「うっさい!」
余計なひと言で六花の怒りを買い、避ける間もなくハリセンを顔面に受ける龍之介。疲労もあって、思わず尻餅をつく。
そんな彼に彼女は馬乗りになって胸倉をつかむ。
「ア・タ・シ・が、そのこと気にしてるっていい加減わかってるでしょうが。なんなの、自殺志願者なの?」
「……すまん、全面的に俺が悪かった」
素直な龍之介だから、己に非があると思えば素直に謝る。そうすると六花は、ぐぅとうめいて勢いを削がれるしかない。
彼女は、すぐには立ち上がらない。この日は少し様子が違った。
「……名前」
うつむいて表情を隠し、彼女は男に尋ねる。というか命令する。
「あんたの名前、教えなさい」
「え。いや、それはまだ……」
「お・し・え・な・さい!」
「り、龍之介だ! 新田龍之介!」
りゅうのすけという音を、彼女はしっかり胸に刻み込む。一拍置いて、彼女は彼を睨みつけた。
「龍之介。師匠命令よ。目を瞑って歯を食いしばりなさい」
「あ、アンタは俺の師匠じゃないだろ……」
「こんだけ相手してやってんだから実質師匠よ! 言われた通りにしろ!」
「お、おう!」
有無を言わせぬ気迫。強くなっている実感があるため強く否定できなかった彼は、指示に従うほかなかった。
――彼女の気に障ることを言ってしまったことは事実だ。頬を叩かれる程度、甘んじて受け入れよう。
彼は粛々として沙汰を待つ。
彼の予想に反して、その感触は非常に柔らかなものだった。女性経験のない彼に、それを形容する言葉はない。
「もういいわよ」と言われ目を開けると、馬乗りになったまま顔を真っ赤にして目線を泳がせる自称師匠の姿があった。
「……いい。これは頑張った弟子への、師匠からのご褒美なのよ。勘違いしたら怒るからね」
「お、おう? なんだかよくわからんが……なにしたんだ?」
「っっっこのバカ弟子! そんなこと聞くんじゃないわよ!」
ハリセンで頭をひっぱたかれ、星が散る。彼女は足早にガードレールのバッグを取りに行く。
「じゃあね!」と去ろうとする師匠に対し、彼は問う。
「なあ、明日もここに来るよな!?」
「当たり前でしょ! あんたが一端になるまで、面倒見てやるわよ!」
「ああ! またな、"師匠"!」
改めてそう言われ、六花は顔を真っ赤にして走り去ってしまった。女心の機微がわかるほど、龍之介は鋭くなかった。
「……なんだかよくわからんけど、"師匠と弟子"か。今は、それで構わねえ」
一歩、前進できたんだ。確かな実感を胸に、彼は仰向けになる。木刀を握る剣だこだらけの手は力強く、確かに剣士のものになっていた。
ぐっと木刀を掲げ、改めて宣言する。己に対し、誓う。
「だが、俺はそれじゃ終わらねえ! 対等になって……アンタを追い越したとき! アンタを俺の女にする! 絶対だ!」
「だから聞こえてるんだってばぁ……」
ただでさえいっぱいいっぱいだった六花は、バカ弟子の大声での宣言でゆでだこのように真っ赤になり、その場にうずくまってしまった。嬉しさが閾値を超えると力が入らなくなることを、初めて知った。
勇気を出しての頬へのキスは気付かれず、そのくせ発言の一つ一つが心を揺さぶり、真っ直ぐに見てくる年下の男の子。
もういっそ自分の方から押し倒してしまえばいいんじゃないかと思ってしまうが、さすがにそこまでの勇気は持てないヘタれな六花であった。
「こりゃ、今日は遅刻かなぁ……」
顔の火照りはしばらく収まりそうにないし、膝に力も入らない。師範代が時間を守れなければ門下生に示しがつかないのだが……あの門下生たちならそれでもよさそうな気がする。
門下生は何人もいる。だけど、弟子は龍之介ただ一人なのだ。
「りゅうのすけ……アタシは待ってるんだからね。遅刻したら、絶対許さないんだから」
自分の遅刻は棚に上げ、六花は想いを紡いだ。
二人の恋物語は、まだスタート地点にすらたどり着いていない。
知人との会話中に出たお題で書いた短編に加筆したものです。
ちなみにお題を出した段階では、最初の場面転換の直前までしかありませんでした。
「切り結んでないじゃん」「あっ……(痴呆)」となって生まれたのがこの作品です。