それはとある日を切り取ったもの。その笑顔は何よりも眩しくて、そして私にとって、何よりも尊いもの。

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 午前七時、私は部屋の戸を叩く。毎日の日課の一つだ。

「お嬢様。お目覚めにてございますか?」

 返事は返らない。

 問いを投げてから三秒後に、私は戸を押し開けた。

「失礼いたします」

 部屋の広さはおよそ十帖。入ってすぐ見える窓の近くのデスク、向かって部屋中央からやや右にずれた位置に丸いティーテーブル、左を向けばクローゼットがある。そして部屋の隅の方に、左端のみやや壁から離された天蓋付きの大きなベッドがある。

 カーペットを踏んで迷いなくベッドへ向かう。

 きっと件のお姫様は魔法にかけられたように眠っているので、こうやって私が解いてあげねばならない。

 小さな屋根の下の布団から、チラリと見える髪の毛の先。相も変わらず朝から逃げようと潜っていらっしゃるようだ。

「お嬢様。お目覚めください」

 手を伸ばすと、目の前の布団はばね仕掛けかのように跳ね飛んで、中から起き抜けとは思えないほど活発な少女が姿を見せた。

「おはようエルザ!どう?びっくりした?」

 元気極まる姿に私はしばし呆気に取られていたが、一つのため息と共に切り替えて

「ええ、おはようございます。フレーズィエお嬢様」

 と、笑って挨拶を返した。

 

 フレーズィエ・フォン・シルベライセン。私、エルザが仕えるシルベライセン家のご息女で、今年で齢十になる。

 肩の辺りで揃えた新雪を思わせるやわらかな髪は、掬えばさらりと流れていく。凪の海の穏やかさを彷彿とさせる瞳は、それ故に無垢でずうっと見つめていれば吸い込まれそう。整った顔立ちは大変可愛らしく、童話の姫たちに勝るとも劣らない。ただ先のように年齢相応な部分がまだ抜けないせいかややおてんばだ。

 

「今朝は何時に起きられたのですか?」

 朝の日課の一つ、お嬢様の髪を梳かしながら尋ねた。

 その手触りはシルクのように滑らかで、撫でたときの心地よさと言ったらかなりのものだろう。行動に移したことは一度もないが。

「六時よ。あなたを驚かせる為に頑張ったの。光栄に思いなさい」

「ええ、ありがたい限りです」

 お嬢様の後ろに立っているので表情こそ窺い知れないが、その自慢げな言葉から察するに容易ではあった。きっと何にも勝るほど愛らしいのだろう。

「…それにしても、やはり綺麗な髪ですね」

 ふと、私はお嬢様の髪を眺めながらポツリと呟いた。

「ふふ、当然でしょ。髪はレディの命だもの。ただ一つ残念なのは、あなたと同じ髪色ではないことよね」

「それは、何故ですか?」

 私が聞き返すと、お嬢様は当然のような口調で返した。

「お揃いじゃないからよ。誰かとお揃いって素敵なことでしょ?」

 私はその言葉を聞いて、思わず笑いをこぼしてしまった。

「なによ、アタシ何か変なこと言った?」

 不満そうな口振りのお嬢様に、私は微笑みながら弁明した。

「いいえ、そのように思っていただいているとは存じ上げなかったものですので。恐縮です」

 聞いたお嬢様は、またくすりと笑った。

 

          ◇

 

「朝食の用意がございます。参りましょう」

 梳かし終え、お嬢様が寝巻きを着替えた頃にもう一度お呼びする。今度はお返事と共に素直に部屋からお出になって、私を先導するように廊下をとことこと歩いて行く。

「今朝のご様子を拝見した限り、本日の体調は良好そうで何よりです」

「ええ、今日のアタシは絶好調!今なら何でもできる気さえするわ!」

 そう仰って軽く跳ねられる姿は子ウサギのようだった。体力も有り余っているらしく、溢れ出る活力を幻視しかねないほどだった。

「でしたら天気も良いことですし、朝食後はお庭歩きなど如何でしょう」

 私の提案を聞くや否や、お嬢様は膝ほどまであるスカートを翻して振り返られた。その目は輝きに満ちていて、

「いいの!?やったぁ!いつぶりかしら!」

 と言いながら、喜びを全身で表現していた。純粋な笑顔で舞う姿は、やはりご息女とはいえまだ子どもらしいところは本当に子どもらしいのね、と改めて思うに易かった。

 もう一つ付け加えるように、私は申し上げる。

「それと、本日は舞踏会がございますので、ご存知をば」

 告げると、お嬢様は一瞬表情を強張らせたが、すぐにまた元の笑顔に戻られた。

「わかったわ、楽しみね」

 仰って、お嬢様はまた先程と同じように歩き出された。

 私の心の奥で、何かが軋んだ。

 

 お嬢様が食堂で朝食をお食べになっていると、誰かが遅れて部屋に入ってきた。誰かと言っても、見当なぞ最初からついているのだが。

「おはようございます、ご主人様」

 そこには綺麗にアイロンがけされたウイングカラーシャツにループタイを締め、ピンストライプのベストとスラックスをお召しになっている、細身の男性が立っていた。リムレスの眼鏡の奥の瞳はまるで深海のようで、お嬢様の瞳とはまた違った意味で吸い込まれそうな眼だ。

 名前をヴォルフガング・フォン・シルベライセン。フレーズィエお嬢様の父にして、当代のシルベライセン家当主その人だ。

「おはよう、エルザ。フレーズィエもおはよう」

「おはようございます、お父様!」

 お嬢様の返事を聞くと、ご主人様は無駄のない所作で席につかれた。

「聞いてお父様!アタシね、今日久しぶりにお庭歩きをするの!」

 お嬢様は満面の笑顔でご主人様に告げた。するとご主人様は口に運ぼうとしていたフレンチトーストを静止させて、

「そうか、楽しんでおいで」

 と微笑と共に返された。渋く低い声と薄くできた皺に年季を感じさせる。

 

 やがて食事を終えると、お嬢様は我先にと食堂から飛び出された。私も後を追おうとドアの取っ手に手をかけると、

「エルザ」

 と、私を呼び止める声があった。

「なんでございましょう、ご主人様」

「さっきの庭歩きの件はお前の提案か」

「はい、左様にてございます」

「そうか…」

 ご主人様は少し眉をひそませ、一息を置いて言葉を続けられた。

「いや、特に何と言うことはないんだ。わかった、お前も存分に楽しみ給え」

 微かな反響は、私の返事によって上塗りされた。

 部屋を出る前に聞こえた言葉を、私は反芻する。その声色から感情を察するには、含まれたものが複雑すぎて、私の知識量では足りなさ過ぎた。

「今日…だものな」

 

          ◇

 

「ねーえーエルザー、まだなのー?」

 ドアの向こうから声が響く。

「そんなにお急ぎにならなくても、お庭は逃げませんよ」

「時間は過ぎるのよ!早く!」

 庭に行く支度をする私を、既に準備万端であるお嬢様は無邪気に催促する。

 部屋の中は殺風景なもので、目立つものといえばベッドとデスク、あとはランプとデスク脇に置かれたトランクくらい。

 携帯用の鞄に最低限の救急道具や筆記具などを詰めて出ようとした時、私の手に何かが触れた。硬い感触だった。

 チラリと見るとそこには、手のひら程度の大きさでしかしやや薄い、写真を撮るための機械があった。

「これ…まだしまってなかったのね…」

 手に取って見てみる。軽い金属のボディの上側には丸いシャッターボタン。背面は大部分の面積をパネルが占め、残りには操作するための簡易なボタンが付いていた。

 電源を入れてみると、パネルは電子の画面を映した。数秒会社か製品のロゴが表示されたかと思うと、今度は表面からレンズが現れ、部屋の景色を捉えて見せた。

 はっきり言ってこれは新しいものではない。私がこの屋敷に来た六年前に、ほんの気まぐれで購入したものだ。

 最初こそお嬢様の成長記録をと思っていたが、如何せん私の撮影技術があんまりだったものだから、ずっと使わないでいたのだった。

 バッテリーの消耗を防ぐためにその間も時々充電はしていたけど、本体の方はずっと放ったらかしだったので、まさかまだ動くとは思わなかった。

「六年前…か…懐かしいな…」

「エルザー!はーやーくー!」

 お嬢様の声は、もう待てないと言わんばかりだった。

「はーい、ただいま参りますよー」

 私は手に持っていたそれを鞄に入れて、トランクを避けてお嬢様の元へ向かう。

「もう、遅いわよエルザ!」

 ドアを開けると、そこには頬を膨らませてお待ちになっているお嬢様の姿があった。

「申し訳ございません。少々準備に手間取ってしまいまして」

「むー…まあいいわ。今のアタシは気分がいいからね」

 そう仰ってお嬢様は髪を手で軽くなびかせた。それをなさるには、やや長さが足りないような気もしなくはないが、本人がそれで満足気なので心に留めることにした。

 

 外は心地の良い晴天。いくつか浮かぶ雲は、さながら空を泳いでいるようだ。日差しは適度に降り注ぎ、心地の良い暖かさが辺りに満ち満ちている。

「では参りましょうか」

 日傘をさして、お嬢様をその下に迎え入れる。

「ええ、エルザ。ちゃんとお庭の手入れはされてるんでしょうね?」

「勿論です。その点は抜かりございません」

「っふふ、期待してるわ」

 無邪気に笑うお嬢様の手を取って、二人で庭に歩き出す。

 シルベライセン家の館は、それそのものはあまり大きくはない。代わりに土地の大部分を巨大な庭が占めている。

 最初はそれほどではなかったらしいが、代を重ねる毎にあれよあれよと拡大していき、当代になる頃には庭園の域に至るまでになったそうだ。

「おや、メイドさん。おはようございます。それと…おお、これはこれはご息女様。お久しぶりです」

「久しぶり、庭師さん!」

 なのでこのように専属の庭師を数名雇って庭の維持をしている。

 ちなみに私が今しがた軽く会釈を返したこの方は、その中でも最も歴の長い方だ。一応指示役に就いているのは私なのだが、年数だけで言えば向こうの方が断然長いので、実際のところ庭のことは彼が筆頭となっている。

「今日は久しぶりにお庭歩きするのよ!徹底的に見てあげるから覚悟なさい!」

「ははは、こりゃあ緊張しますなぁ。そんじゃあ思う存分ご覧になってっておくんさい」

 そう照れ臭そうに笑って、彼は私たちを送り出した。

 

 並木は瑞々しい若葉をつけ、土には鮮やかな花々が彩られている。ちょうど植物たちが活力に満ちる時期、庭に生い茂るそれらは若々しさに溢れていた。

 そしてそれらは()()()()()()()()()美しさだ。枝は安全と景観を両立するように切られ、花は色や大きさがぶつかり合わないように配置されている。職人の技が光るとはこのことを言うのだろう。

 一方のお嬢様は久方ぶりだからか、その目は爛々としていた。一つ花を見つけては目を止め、一つ新芽を見つけては足を止めていた。

「エルザ、あの綺麗な花は何かしら?日にあまり当たってないように見えるけれど」

 といった質問も、今日だけで何度もなさっている。興味が絶えないご様子だ。

「スパティフィラムですね。直射日光に弱いので、あのように遮光下で育てているのです。ちなみに花言葉は上品な淑女、もしくは清らかな心です」

「ふうん…アタシにぴったりな花ね」

 そう仰って、またやや短くある髪をなびかせた。

「上品な淑女、という意味でしたら、今朝のあれは如何でしょうかね」

 けれど私がこう申し上げたら、お嬢様は石のように固まってしまった。

「ま、まああれよ、淑女ジョーク的なあれよ。いやですわ全くもう」

 わざとらしく笑ってお茶を濁そうとなさっている。どうやら一応自覚はおありのようだ。

 

「あ、あの花知ってるわ!」

 駆け寄ったお嬢様の側には、小さな花が丸く花弁を開いて集まっていた。

「これ、ジニアと言うのでしょう?前に同じのを本で見たもの!」

「仰る通りです。流石ですね、お嬢様」

「ふふん、ハクシキと言ってちょうだい」

 お嬢様は得意げに笑った。

「ええ、博識でございます」

 そこでふと、先のことを思い出した。

「そうだお嬢様。折角久しぶりにお庭に出たのですし、記念に如何でしょう」

 肩にかけていた鞄から先程のカメラを出して見せた。

「カメラ!そんなものあったのね」

「ええ。ただ昔に買ったものなので、あまり性能は良いとは言えませんし、私の撮影技術も未熟ですので…」

「そんなこと気にする必要ないわ。エルザがそうしたいって言うなら、アタシはそれに応えてあげるだけよ」

 申し訳なさを払拭せんと、お嬢様は胸を張った。

「それに、このアタシを撮るのよ?必然的に良い写真になるというものだわ!」

 私はくしゃりと笑い、

「…では、僭越ながら一枚」

 お言葉に甘えて、カメラを起動させた。

 

「あははは!あっははははは!」

 お嬢様はまだ笑っていらっしゃる。いや、うん、原因はまあ私なのだけど…

「あなた、本っ当に写真撮るの下手なのね!あははははは!」

「申し訳ございません…」

 先程のこと。

 僭越ながら一枚、と言っておきながら、その壊滅的な撮影技術のおかげで一回で上手く撮ることができず、四回目でやっと及第点レベルになったのだ。今はそれまでの三つをご覧になってお嬢様が大笑いなさっているところ。

「ほんと、こんなに失敗する人初めて見たわ!見てこれ、ブレブレでもう何かわかんないくらいよ!これ?これがアタシ?あはははは!」

 思わず縮こまってしまう。

 事実その写真は確かにブレが酷い。疾走感を履き違えた何かみたいになっている。

 六年前から一度も撮っていないとなれば仕方のないことではあるけど、こう、なんと言うか、えも言われぬ悔しさがある。

 と、そろそろお嬢様が笑いだけじゃなく泡まで吹き出さんばかりになってきたので、一旦落ち着かせるとしよう。

「お嬢様、どうどう」

「犬じゃないわよ!」

 このキレのあるツッコミ。大笑いしていてもお嬢様はお嬢様だ。

 

 昼にさしかかってきたので、お庭歩きは終えることにした。

 屋敷内を見るに、ご主人様はいつの間にか外出なされたようだ。お庭歩き中にお姿を見なかったところを考えるに、どうやら裏の方からお出になったらしい。

 お手を洗いに行かれるお嬢様を見送って、私は食事の用意に取り掛かる。今日の昼食はあっさりめのパスタにしよう。

 

          ◇

 

 今はまだ昼下がり、けれどその部屋には月明かりがあった。

 水面に映る満月を思わせる、たおやかで優しい音。

 鍵盤の上で踊る細い指は、その紡ぎ手となっている。

 これはお嬢様の趣味。曰く、物心ついた時から触れているから実は結構歴は長いのよ、とのこと。

 しかしだからだろう、こんなにも心安らぐ音を奏でられるのは。

 

「相変わらずの演奏です、お嬢様」

「ふふ、当然。だってアタシだもん。にしても、ドビュッシーも良い譜を書いたものね。弾いていて心地良いわ」

 指で今弾いた譜面を辿るようになぞるお嬢様。

「お嬢様はドビュッシーがお気に入りなのですか?」

「否定はしないわ。けれど一番好きなのは、やっぱりモーツァルトね」

「モーツァルト、ですか?」

「ええ、あの人の“ああ、お母さん、あなたに申しましょうによる十二の変奏曲”は弾いていて一番心が躍るもの」

 それに、とお嬢様は言葉を繋げた。

「ヴォルフガングは、お父様と同じ名前だから」

「…ふふ、確かにそうですね」

「む、なんで笑うのよ」

 私の笑いが気に入らなかったのか、ややご立腹なご様子。

「いえ、お嬢様らしいかわいい理由だと思いまして」

「なによー、それ馬鹿にしてない?」

「いえいえ、滅相もございません。お次は何を弾かれますか?譜の用意は存分にございますが」

 お嬢様は、そうね、と語尾を伸ばしながら考えられ、

「ショパンのエチュードにしようかしら。作品にして十の三で」

 と、人差し指を立てながらお申し付けになった。

 

 しばらくして、戸を開ける音が演奏を止めた。

 それに最初に気づいたのはお嬢様の方だった。

「あ、お父様!」

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 スリーピースのスーツに身を包んだ紳士に、私は一礼を送る。

「ああ。ピアノを弾いていたのか、フレーズィエ」

「そうよ!お父様もお聴きになって!」

 お嬢様の笑みに対して、ご主人様は首を横に振られた。

「だめ…なの…?」

 晴れた表情は途端に曇った。だめだ、という低い声がそれをさらに翳らせる。

 しかしその声の後、ご主人様は部屋の隅へ歩を進められた。朝と同じ、無駄のない動きだ。

 そこにあるのは椅子。ちょうど今お嬢様がお掛けになっているものと同じものだ。背もたれのない、座高の調整ができるもの。

 ご主人様はそれをお持ちになったかと思うと、お嬢様の隣までお運びになり、

「今日は、連弾(こっち)にしたい」

 と微かに口角を上げられた。

 お嬢様の顔を埋め尽くした雲を晴らすには、それは十分過ぎるほどだった。

 

 親子が織りなす連弾を聴きながら、私はふと昔を思い出す。

 聞くところによれば、最初にピアノに触れたのは三歳になった時だったらしい。ご主人様と奥様も元々弾かれていたらしいので、恐らくはその影響だろう。

 私が来た頃にはもう簡単な譜面なら難なく弾かれていたので、それは驚いたものだ。

 お嬢様が飽くることはなかった。いや、寧ろ弾けば弾くほどのめり込んでいくようだった。この世のあらゆる曲を弾かんとするような貪欲さだった。

 そのお姿をご覧になっていたご主人様と奥様は、ある日ご自身たちがお持ちだった楽譜を全てお嬢様に譲られた。全部好きに弾いていい、と。それがさらにお嬢様の欲を掻き立てた。じゃあ絶対に全部マスターしてやるわ、と意気込まれていた。

 …そういえば、奥様がお亡くなりになった時から、その傾向はぐんと強くなったように思える。

「エルザ、どうだった?」

 私の方を笑みながら向くお嬢様に、私もまた微笑みながら返した。

「…ええ、大変素晴らしかったです」

 微かな間の回想はそこで途切れた。

 

          ◇

 

 夕刻が近づく空を、私は窓越しに見る。

 ピアノの音はもうない。お嬢様はご主人様と共に何処かへ行かれたからだ。

 鏡面を思わせるピアノの表面には、私の後ろ姿が暗く反射していることだろう。

 取り留めのない思索をする、私の後ろ姿が。

 

 お嬢様の笑顔を時に記憶の棚から引っ張り出すことがある。意味はない。ただ、ふとした時にそれを思い出したくなるのだ。

 苦心することなく、私はそれを目に浮かべることができる。陽光を思わせる笑顔を。

 今もまたそうだ。お嬢様の笑顔を、外を眺めながら思い出している。

 あの沈み行く太陽に重ねながら、一つの感情と共に。

 

 この館に来てもう六年。最初にお嬢様とお会いした時、お嬢様は奥様の後ろにずうっと隠れて、怪訝と不安の混じったような視線で私をご覧になっていたっけ。当時はまだ四つ、無理もなかったけど、流石に打ち解けるのに半年もかかるとは思わなかった。…この切れ長と言われがちな目のせいだろうか。

 打ち解けた後は、お嬢様の天真爛漫さによく振り回された。今朝のあの調子の、さらに数段上ほど。齢を重ねるごとに落ち着いていってはいたものの、それは比べてややという程度。大した差異はない。

 けれど、だからこそ楽しい日々だった。トラブルも、イベントも、重ねた数だけ笑顔がある。重ねた数だけ、お嬢様との記憶がある。

 

 棚のアルバムに思い出が積もる。

 記録というには暖かすぎる。

 …持っていくには重すぎて、置いていくには募ったものが多すぎる。

 

「エルザ?」

 袖を引っ張る感覚が、私の意識を引き戻した。

 見れば、お嬢様の姿を確認できた。小さな手が私の袖をつまんでいる。

「どうしたの?顔が怖かったわ」

 仰るお嬢様の表情は不安げだ。その眼は波立つ海のよう。

「いえ、何でもございません」

 私はそれを振り払うように申し上げた。

「そう?…ならいいわ」

 お嬢様は複雑そうな笑みを浮かべられた。拭えた不安は、大体八割程度といった具合か。

 私は手を叩いてある提案を口にする。

「そうだ、今晩はお嬢様のお好きなものをお作りいたしましょう」

 聞くや否や、いいの?とお嬢様はお尋ねになった。残る二割を何処かに置き去った笑顔で。

 嬉しそうに何をリクエストするか考えるお嬢様に、私は安堵を覚える。お嬢様はやはり笑顔が最もお似合いだ。

 エプロンのポケットの膨らみをなぞりながら、それを思った。

「あ、じゃあいつか食べたあれがいいわ!ほら、極東で春が近くなったら食べる…モモノセック、だったかしら?その時に食べる華やかな…」

 拙い記憶を頼りに、思い出そうと独り言のように特徴を口にされている。

 その断片的な情報から、私は一つの料理名を推測した。

「もしかして、ちらし寿司ですか?」

「それそれ!それがいいわ!」

 お嬢様はにぱっと笑って肯定された。

「…かしこまりました。腕によりをかけて、最高のちらし寿司を提供いたしましょう!」

 正味を言えば、それはあまりに予想外な料理ではあったが、お嬢様のご所望とあれば応えるのが私だ。

 私の返事を聞いて、頼んだわ、とお嬢様は仰った。となれば私がやることはただ一つ。

 早速ちらし寿司に関する情報をかき集めることにしよう。

 

          ◇

 

 夕焼けを過ぎた、昏い空が包む館の中。

 廊下の闇を払うのは、窓から入る月明かりを除けば、人工の光以外に何もない。

 今宵は弦月。いたずらに弓を天に向け、雲間より光を微かに漏らすばかり。

 そんな道で少女はとある一室へと、一人のメイドによって誘われる。その少女とは何者か。この館のご息女その人だ。

 目的の部屋についたかと思えば、メイドはドアを開け、少女を中へ誘導する。

 その先に待ち受けていたもの、それは…

 

「す…すっごい…!」

 まさしく、お嬢様の待ち望んでいたもの。

 寿司酢によって艶の出た炊き込みご飯が円形に整えられ、その上に敷き詰められるように錦糸卵が乗っている。

 キヌサヤと茹でられた海老が蕚を象り、脂の乗ったサーモンが見事な花を咲かせている。その周りを彩るのは桜でんぶといくら、そして花形に切り抜かれたにんじん。

 これこそ正真正銘、お嬢様が求めた花ちらし寿司だ。

「すごいすごいすごい!流石エルザね!」

「ふふっ、ご期待に添えて嬉しいです」

 それは嘘偽りない言葉だ。なんなら、内心一番喜んでるのは私だろう。

 なんて言うのも、私自身昔に一度見様見真似で作ったきりで、お嬢様の期待する通りのちらし寿司が作れるかどうか、といった状態だったからだ。

 

 改めて調べてみて驚いた。単にちらし寿司と言っても、その種類は少なくはなく、まして同一のものでも地域によって呼び方や作り方なども違うらしいのだから、最早わけがわからない。あの列島の中に国がいくつもあるのかと、あり得ざることを思ってしまったほどだ。

 そこでふと、本場からやって来ていたメイドが一人いたことに気づいた。以前作った時にはいなかった、ちょっと前に来た新人だ。

 すぐさま知恵を拝借せんと尋ねに行ったのだが、まさかいの一番に返ってきた言葉が、

「え、そうなんすか!?意外とめんどっちいんですね!知らなかったです!」

 だったのだから、それは頭痛がしたものだ。けれど続けて言うことに

「でもいいんじゃないですか、そんな細かいとこまで気にしなくて。うちらだって多分その辺気にしてないですし。ってかなんなら今初めて知りましたし。だから自由にやっていいと思いますよ。というか、昔に一度作ったその時、そこまで考えて作ってました?」

 とのことだったから、私の中でも何かが吹っ切れて、この花ちらし寿司を作るに至った。一応その子にも監修についてはもらったが。

 そして結果はこの通り。これを喜ばずしてどうするか。

 遅れてご主人様もお越しになった。テーブル上の料理をご覧になるや否や、感嘆のため息を漏らされた。

「これは…極東の祝いの品か。綺麗なものだな」

「恐れ入ります。どうぞ、お召し上がりください」

 椅子に座られたご主人様は、不意に手を合わせられた。

「ご主人様、それは一体なんでございましょう?」

「ああ、これは本場の風習の一つらしい。これだけ手の込んだものを作ったんだ、こちらからも相応の返事が必要だと思ってね」

 続けてご主人様は仰る。

「向こうでは、食事の前にこうやって手を合わせてこう言うのだそうだ」

 と、会釈程度頭を下げられた。

「いただきます」

 それは、低くも柔らかな声だった。

 聞いたことはあった。けれどその意味まではわからなかったが、今ので推察するに、どうやら作った人間への…この場合は私への感謝の意を持つらしい。そう思うと、何故だか照れ臭さを覚える。

 お嬢様も真似るように手を合わせられ

「いただきます」

 と、優しい声で仰った。

「…ええ、どうぞ」

 私の返事の後、お二方は同時にスプーンをお取りになった。

 一口分を掬って、まじまじと眺めるお嬢様。照明に照らされて一掃の輝きを放つそれを、しばしの間見つめたかと思えば、小さな口の中へひょいと入れた。

 途端にお嬢様は目を見開かれた。感激の様相が容易に見てとれる。

 スプーンを抜いて、ぐっと目を瞑りじっくりと味わわれている。小さく振られている左手は、踊る心の現れか。

 やがて飲み込まれて、ぷはっと溜まった息を逃がされる。直後に出るのは元気な、しかし作り手冥利に尽きる言葉。

「おいっしいー!!」

 反対に静かに食されているご主人様も、一度頷かれて、

「うん、これは美味だ。すごいじゃないか、エルザ」

 と、称賛の言葉をくださった。

「痛み入ります。ですがそのお言葉は、是非とももう一人にもお伝えください」

 そう言って視線を投げた先に、恐らくは今回最もな功労者たるメイドが一人、だいぶ自慢げな表情で佇んでいる。

 釣られるようにご主人様はそちらを向かれて、ほう、と一言おいてから仰る。

「そうか、君は本場の人間だったね」

「うす!なので今回スーパーアドバイザーさせていただきました!最後に食べたの結構前なんで不安でしたけど!」

 …待って、それ初耳なんだけど。

「はははは。いや、それなら君の記憶力は素晴らしいものだ。実は前に君の国でも食べたことがあるんだが、その時もこういった味だった。とても美味しいよ」

 優しい笑顔でお褒めになった。

「うす!あざます!」

「ちょっと、言葉遣い」

「あ、すんません…まだ慣れてないもんで色々…」

 思わずため息がこぼれたが、ご主人様はお気になさっていないご様子だ。

「でも確かに、あなたがいなければ作れなかったのも事実ね。ありがとう」

 労いの言葉を受け取って、憚る様子もなく彼女はへへへと笑った。今回の活躍を鑑みて、この場での無礼は私からは不問としよう。

「でもそれを形にするエルザも、アタシはすごいと思うわ。やり方があっても手腕がなければ意味ないもの」

 唐突にお嬢様が仰った。

 見れば、あっち一人だけもてはやされるのは納得いかない、といった顔だ。

「確かにその子もすごいけど、エルザの料理のスキルあってこそでしょ」

 お嬢様の言葉に、私はくすりと笑った。

「身に余るお言葉です、お嬢様」

 返すと、お嬢様は満足げに笑われて、また一口ちらし寿司をお食べになった。

 するとそそくさと件の功労者は私の近くまでやってきて、耳打つように小声で言った。

「よかったっすね、エルザさん」

 私は頷いて、言葉を返す。

「…ええ、本当に」

 温かな雰囲気が、なんとも心地よい。

 笑顔の咲くこの空間が、なんとも気持ちいい。

 …それ故に、軋みがつんざく。

 

          ◇

 

 やがてお食事が終わり、お嬢様はグラスの水を飲み干されて、

「エルザ、行くわよ」

 と残して、部屋をお出になった。

 米粒一つも残っていないお皿をシンクに置いて私は言う。

「ごめん、片付けお願いできる?」

「うっす!任せといてください!」

 快活な返事だった。頼んだわ、と付けるように言って、私は部屋を後にする。

 

 廊下に出ると、お嬢様はこちらを待つようにそこに立たれていた。

 そこに、笑顔はない。

 私の姿を確認するや否や、お嬢様は私に背を向け歩き出された。私は後を追って、半歩後ろにつく。

「お嬢様、どちらに向かわれるのですか?」

 私の問いは、お嬢様の足を止めさせた。

 どきりと、心が一瞬大きく鳴り響いたのを確かに感じた。

 お嬢様は、決まっているでしょう、と小さく、呟くように仰ってこちらに顔を向けられた。

 ふわりと髪が流れる。漂う雲のように緩やかに。

 見えたその目は凪いだ海のように平静で、けれど痛いほどに真剣だった。

 

「舞踏会に行くんでしょ。なら、準備が必要じゃない」

 

          ◆

 

 月が登り行く夜。私たちはとある二階の一室にいた。

 ここはドレスルーム。ありとあらゆる種類の衣装が取り揃えられ、うちのいくつかは展覧されるように飾られている。

 部屋の中央には窓を背にして姿見が置かれている。今、小さく華奢な体が着飾られているところを映しているものが、それだ。

 首からウェストにかけて、ホルターネックを用いつつ体のラインにフィットさせ、絞られたウェストからつま先にかかるほどに長く伸びた裾にかけて、フープスカートよろしく広がりが持たせられている。レースのアームロングは、腕にある唯一の装身だ。

「…素朴ね」

 小さく呟かれた。それは否定しようのない言葉だった。

 確かに雪をそのまま糸にして編んだようなプリンセスラインのドレスは、しかしドレスという名のみを得ただけの、中身の伴わぬ器のように虚な代物だ。

 お嬢様はチャンキーヒールに履き替えて、鏡の前でご自身の姿を確認される。

「これで終わり?」

 問うお嬢様のお声は、氷上の空気のように凛としていた。

「いえ、最後に一つ残っているものがあります」

 私はお嬢様に肉薄して肩を押さえ、

「リボンの装飾が、まだありませんので」

 ポケットからデリンジャーを抜いて、剥き出しの背中に押しつけた。

 

 重く鋭い金属音がした。撃鉄が雷管を叩きつける音。

 入り込む間はない。弾丸は幼気な体を時間差なく貫く。

 衝撃はその体を一瞬振るわせた。布越しに触れる肌が、その感覚をいやに細かく伝える。

 次にしたのはガラスの割れる音。目の前の反転世界に、一つの穴が穿たれたが故に鳴った、耳を裂くような騒音。

 できた虚空を中心に空間が乱雑に刻まれる。

「………あ……」

 声が零れた。意味を持てなかった声だ。

 ゆっくりと、お嬢様は目線を下げられる。

 最初に見えたのは恐らく破片。散らばった、銀膜を張ったガラスたち。

 次に見えたのはカーペット。床一面に広がる綿の海。

 そして、さらに目線を下げられた先、最後に見えたものは…孔。

 自らの体に空けられた小さな孔。

「……ああ…すっごい…綺麗な…」

 そこから溢れ出るものを目に写して、直後に出たそれは、端々が掠れた力のない声。

 そしてその声に乗ったものは澄み切った、ただ一つの感想でしかないものだった。

 

「………赤い…リボン……」

 

 その言葉を遺して、お嬢様の体は床に伏す。

 

 静寂があった。

 静寂だけが、無くならなかった。

 二度と動くことはない亡骸は、それこそその可愛らしさも相まって人形のようだ。カーペットに滲んでいく、生命をつなぐ役目を負っていた液体だけが、今やその反証の役割を担っているかのよう。

 接射創を見て、ああ、やはり私はやったのかと、虚な実感を食む。

 私は側に寄ってしゃがみ、お嬢様の頭に手を置いて、一度だけ撫でてみた。

 案の定その感触は至極心地良くて、故に今は、それが刺すように痛い。

 この行動に意味は無い。いや、正確には自分自身でさえ、何故やったのかわからない。ふと、無くした何かを探すようにそれを行ったのだ。

 

 程なくして、ドアを開ける音が聞こえた。

 その音はなんとも乱暴で、まるで蹴破らんとばかりの勢い。

「おい!今のは…!」

 驚きと焦りが混ざった声が、あがった息の合間合間から発されている。

 その直後、その声の主は息を呑んだ。

「フレー…ズィエ…」

 私はゆっくりと立ち上がって振り向き、その主…即ち我が仕える当主に顔を向けた。

「エルザ…お前…まさか…」

「ええ、私がやりました」

 ご主人様は一度歯軋りをされた。それは私への憤怒か、もしくは理解し得ぬ現状への苛立ちか。

「何故だ…何故だエルザ!()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!だがそれは薬殺であって、銃殺しろなどと誰が言った!」

「お嬢様自身ですよ」

 間髪入れずに私は告げる。

「…それはどういう…」

「そのままの意味ですよ。お嬢様が自ら撃ち殺せと仰ったのです」

 私は一度ゆっくりとまばたきした後、告解するように話し出した。

「三ヶ月前のことです…自室でお嬢様は唐突に切り出されました」

 

「病気なのね、アタシ」

 こちらを確と見据えて仰った。

「なんの話でしょうか…?」

「とぼけないでよ。アタシ病気なんでしょ?それも、決して治ることはない」

 私は何も言えなかった。嘘の否定さえ、思い浮かばなかった。

 その沈黙をこそ、肯定を意味するには十分すぎた。

「…そ。やっぱりね」

「…何方から、お聞きになったのですか」

 恐る恐る私は聞いた。

「何方も何も、あなたたちからよ」

 私は思わず、えっ、と短い声を口から出してしまった。その言葉に、私の思考が一瞬停止してしまったせいだ。

「ごめんね、聞いちゃったの、エルザとお父様が私の病気について話してるとこ。立ち聞きしたのは謝るけど、でもアタシの中で合点はいったのよね。どうりで最近よく体調を崩すと思った、って」

「…申し訳ございません」

 私は深く首を垂れた。

「どうして謝るの」

「私が…そのような大事なことを隠していたからです」

「ならエルザ一人が謝るのは違うわ。そもそも責める気はないもの」

「しかし…!」

 言いかけた瞬間、私の頭に何かが触れた。いや、触れられた。

 それは優しい感触だった。今の私には、それを享受するのは相応しくないとさえ思うほどに。

 しかしそう思うのはきっと、その感触が何によるものなのか、わかってしまっているからだろう。

「いいのよ。いいの。治らないのならそれを受け入れるしかないじゃない。シルベライセンの娘として、その程度の度量はなくっちゃ」

 その感触は私の頭からゆっくりと頰へ流れる。

 お嬢様の手の温かさが、ほんのりと伝わってくる。

「ほら、顔を上げて、エルザ」

 聞いて、私は一呼吸ほどの間をおいて頭を上げた。

 見えたお嬢様の顔は、柔らかな微笑みを浮かべられていた。

「アタシはね、いいの。たとえアタシが死ぬことになっても。()()()()()()()()()()()()()()それでいいわ。悔いは…まあ、ないと言ったら嘘になっちゃうけど」

 一瞬、困ったように笑われた。けれどすぐにまた元の笑顔に戻って、お嬢様は続けられる。

「けどね、その死に方くらいは自分で決めたいの。お父様は言ってたわね、薬で安らかに、眠るように死なせてやりたいって。でもね、それはダメ」

 一歩、お嬢様は近づかれた。

「そんな死に方じゃ、アタシは納得しない」

 さらに一歩、二歩と歩み寄られ、お嬢様は私の腰に手を回されてぴとりとつかれた。

 私を見上げる上目は、故に愛らしさが増すはずなのに、しかし何故か底知れぬ不気味さを思ってしまう。

 お嬢様のお考えがわからないということが、その感情を掻き立てるのか。

 お嬢様は不敵な笑みを浮かべられ、私に告げられた。

「あなたが殺してよ、エルザ」

 驚きの渦中にいる私をよそに、お嬢様は仰り続ける。

「どんな痛みも苦しみも、あなたからなら耐えられる。あなたの手で直々に殺してくれるなら、アタシはきっとそれで…やっと、この運命を受け止められると思うの」

 私の胸にお嬢様は顔を埋められた。小さく震える体が、その意味を言葉以上に雄弁に語る。

 私は優しくお嬢様を抱きしめる。もしここに言葉を交わすのなら、きっとそれは、行動以上に意義を持ち得ることはない。

 温かな悲しさのある十数秒を経て、お嬢様は私から顔を離された。

 その時、私のエプロンの膨らみにお嬢様の手が触れた。

「…ふふっ、いいの持ってるじゃない」

 お嬢様はエプロンのポケットに手を入れられた。

 私の一瞬の驚愕を隙とばかりに、そこにある物を抜き取られた。

「これ、デリンジャーでしょ?」

 お嬢様の手にあるそれは仰る通り、四十一口径のレミントン・デリンジャー。護身用にとご主人様から渡された物だ。

「知ってるわ、本で読んだことがあるもの。昔にこれで死んだ偉い人がいたって…そうだ」

 いたずらを思いついた子どものようにお嬢様は笑われ、私の手をお取りになった。

「ねえ、もしもアタシを殺す時が来たら舞踏会があるって言って。ふふっ、素敵な余命宣告でしょ?それでね」

 デリンジャーが私の手のひらに当てられ、指が一本一本丁寧に曲げられる。

 ゆっくりと、普段よりも重く思える金属塊が握り込まれていく。

 五指全てでそれを持った時、お嬢様はその銃口をご自身の胸に押しつけられた。

 そして吸い込まれそうなその瞳で、毅然と告げられる。

 何より重く、何より強く、そして私にとって何よりも悲愴な、その命を。

 

「お願い。これで、アタシを撃ち抜いて」

 

「…私は承諾いたしました。ご主人様に申し上げなかったのはお嬢様の意向です。申し上げれば必ずお止めになるから、と」

 話している間、ご主人様が言葉を発されることは一度もなかった。

「これが事の全てです。私から申し上げることは、もうございません」

 そこで初めてご主人様は私から視線を外された。

 目を閉じられて、数秒の沈黙が挟まれる。

「…聞かせてくれ、エルザ」

「なんでございましょう」

「フレーズィエの最期は、どうだったんだ」

 重たい声の問いだった。

「そう…ですね」

 少しの間の後、私は問いの答えを提示した。

 …けどそれは、きっと言うのなら独言。答えと呼ぶには不釣り合い。けどその今際の際を形容するのなら、それ以上はない。

「舞踏会に行くお姫様のようでした」

「…そうか」

 ご主人様は全てを飲み込んだように静かに瞼を開けられた。

「エルザ、今日を以ってお前を解雇する。即刻この屋敷から出たまえ」

 その通告は、振り絞ったような重圧を以って発された。ご主人様の手を見ると、痛々しい程に握り込まれている。

「…失礼いたします」

 一礼をして、私は部屋から出る。

 

 廊下に出た直後に聞こえた、悲痛な叫び声を背にして。

 

          ◇

 

 部屋の中は殺風景。目を引く物と言えばデスク脇に置かれた、荷物を詰めたトランクくらい。

 けれど私はそれを無視して、デスクの上のある物に手を伸ばす。

 それは一瞬を切り取り記録する金属の箱。私がこの館に来た時に買った、少し古いカメラ。

 まだしまっていなかったから、最後にそれをトランクに入れて、私はここを出るのだ。

 

 …しかしなんの気まぐれだろう。あるいは、最後に感傷に浸ろうとしたのだろうか。私はそれを起動して、これまでに撮った写真を見返し始めた。

 

 私はどんな顔をしていたんだろう。

 お嬢様を撃った時、ご主人様と会話していた時、自分がどんな表情だったのか、まるで思い出せない。何一つとしてわからない。その記憶だけが綺麗に抜け落ちているように。

 私は笑っていたのだろうか、それとも泣いていたのだろうか。憤慨が顔を歪めていたろうか、辛酸が顔に貼り付いていたろうか。

 …お嬢様との記憶も、こんな風に消えていってしまうのだろうか。

 人は、最初に声を忘れるらしい。次に顔を、最後に思い出を。

 なら私も、いずれ私を呼ぶあの声を忘れてしまうのだろうか。何度も向けてくれたあの笑顔も、次第に褪せて無くなってしまうのだろうか。そう思うと堪らなくなった。それは、何よりも恐ろしいことだから。

 大切な人が、大切だった人になって、いずれそのことさえ記憶の中から欠けていく。それを私は、意識することさえなくなっていく。これ以上に何を怖がろうか。私にはわからない。

 

 その時、時代が急に飛んだ。

 二十二の内の二十二枚目。ブレたり明るさを間違えたりした、見るには酷すぎる写真たちの最後。

 それは二十二枚の中で最も上手く撮れた一枚。

 唯一にして、最後の一枚。

 

 その写真に写っていたのは、寄り集まって咲き誇るジニアの花々。

 そしてそれを背に、木漏れ日の下でその何よりも明るく咲いた、愛しい笑顔。

 私が摘み取ってしまった、お嬢様の…

 

 私は壁にもたれかかって、崩れるようにへたり込み、膝を抱えた。

「………うっ……うああ………」

 目頭が熱い。喉の奥から何かが込み上げてくるような異物感がする。

 それを見た途端に、私の中で何かが破裂した。

 決して揺らぐまいと凍りつかせた心が、急に溶けた。

「……お嬢…様………」

 それを声とするにはあまりに不出来で、その形を保つにはあまりに歪。震えて、独り言とも呼べぬようなものしか、嗚咽の合間からは出てこなかった。

「…私……わ…たしは……」

 

 私にはその笑顔を向けられる資格なんてない。

 それは決して口にしてはいけないから、私は言葉を飲んで、ただ一人でこの服を濡らす。

 

 正子を目前にした、昏い空が包む館の中。

 部屋の闇を払うのは、窓から入る月明かりを除けば、他には何もない。

 今宵は弦月。いたずらに弓を天に向け、雲間より光を微かに漏らすばかり。

 

 夜を照らすにはなんとも心許ない、

 しかし、故にこの名残を慈しむような、

 

 そんな、片割れ月。

 




〜よしわかった人物紹介〜
・フレーズィエ・フォン・シルベライセン
お嬢様。キャラ造形の元は某ナニヤツフィール・フォン・アインツベルンに某レミリア・スダーレットを足した感じ。名前のフレーズィエはフリージアのドイツ語名。シルベライセンに関してはなんか語感が貴族っぽかったので採用。完全に元のキャラに名前の語感引っ張られてんじゃねーかと言われたら何も言えん。無邪気さと底知れなさを上手く出したかったけど多分上手くいってない。

・エルザ
メイド。キャラ造形の元は某フローレンシアの猟犬から軍人要素ぶっこ抜いて、某紅魔のメイド長をそこに入れた感じ。名前のエルザはドイツ人の名前調べてた時に見つけて、発音がエリザベートっぽかったから採用。但しキャラ的に言えばフレーズィエの方が近いと言える。多分。デリンジャーを使う描写があるのでメイド服をどんなスタイルにするか作者は最後まで悩んでいた。

・ヴォルフガング・フォン・シルベライセン
当主。キャラ造形の元は某御三家のうっかり担当の我が師と、某魔術師殺しの封印指定の親父を足して、そこに真っ当な人間性をふりかけた感じをイメージ。名前のヴォルフガングは作者自身がモーツァルト好きなのでそこから。最初はふくよかな感じの体格で書こうとしてたけど、なんかイメージとそぐわないので痩せさせた。

・奥様
奥様。セリフも姿の描写も一度もないが、考えるとしたら多分ロングヘアーに優しい感じの顔つきになると思う。

・ベテラン庭師
庭師。おっさん。元になったキャラはない。こういう人にスポット当てたストーリーは大体いい話になる。偏見ではある。

・日本から来たメイド
メイド。キャラ造形の元は某紅魔の門番。エルザと対比するようにしたかったのでちょっとアホっぽく砕けた口調にさせた。

・ちらし寿司
ちらし寿司。キャラ造形の元は某正義の味方少年の家の今日のご飯。何故これをリクエストしたのか、もっと言えば何故作者はこれを選んだのか、それは永遠の謎である。

・レミントン・デリンジャー
デリンジャー。元々ハイスタンダード・デリンジャーで書いてたけど、なんか色々トンデモになっちゃうからやめた。調べてみると多分この意味がよくわかると思う。

・作者
作者。この星新一著「古風な愛」のアイデアまるパクリ小説を書いた犯人。今回の執筆を経て「二度と何か縛って書くのはやりたくない」と思った。

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