何故か咲夜とフランドールが釣りに行く話です


東方創想話からの転載

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「何? みんなに断られたからダメ元で私を誘いに来た?」
「ええ。お嬢様からはちゃんと許可は頂いたのでどうでしょうか?」
「あーうん、いいよ」


結局、釣れるに越したことはない

 辺りは薄暗く、まだ朝日が昇る以前の時間帯。鳥達が囀る声も聞こえない程の静寂の世界に、草木を踏みしめる音が木霊する。

 その音を追随させるようにして、とある目的地へと向かう二つの人影、十六夜咲夜とフランドール・スカーレットの姿があった。

 

「ここですね。結構穴場なんですよ」

 

 どれ程歩いた頃だろうか、不意に咲夜がそう口にして足を止めた。それを見たフランドールも同じように歩みを止める。

 二人の眼前にあったのは一つの小川だった。一片の濁りもなく透き通ったそれは、緩やかな流れによって心地よい水音を運んでいる。

 咲夜はその川のほとりに立つと自らの力を用い、歪曲させた空間から二本の延べ竿を取り出した。

 

「仕掛けはもう済んでるので、後はエサをつければいいだけですよ」

 

 咲夜は先程竿を取り出したのと同じ様にして、いくつかの種類の餌や魚を入れる為の容器をフランドールの前に並べてみせた。

 どれもフランドールにとっては目新しい物であったのだろう。彼女はまじまじとその釣り道具達を眺め始め、関心を示していた。しかし、彼女の爛然としていた目は、途端に嫌悪を孕んだものへと変貌する。

 

「……え? 何この虫、これを餌に使うって事?」

「ええ、そうですよ。これをこの竿につけるんです」

「……触りたくないわ」

 

 咲夜が並べた餌の殆どは、蛆の様な大半の者が忌避する形状の幼虫達だった。種類によって大きさはまちまちであるものの、肌が粟立つ様な奇妙でグロテスクな動きはどれも一律であった。

 フランドール自身、別に虫が特別苦手という訳ではない。ではないのだが、一目見ただけで不快になる様相をした虫が大量に蠢いているのであるから、何も知らなかった彼女にとって霹靂を幻視する程には衝撃的であった。

 

「大丈夫ですよ。一見ぶよぶよしてそうですけど、意外と硬くてそんなに気持ち悪い触感じゃありません」

「そうじゃなくてねぇ……こんな気持ち悪い見た目のやつ触りたくないって事よ」

「虫なんてみんなこんなもんだと思うんですけどねぇ」

 

 それからフランドールは釣り餌に近付く事をしなくなった。視界に入れるのも不愉快であるのだ。そのため餌を付けるのは咲夜が行う事になり、結果釣り糸を垂らすまでの全ての準備を彼女がやる事となった。

 

「つけ終わりましたよ」

 

 咲夜のその一言で、漸く釣りという行為を始める時が訪れた。

 初めに、咲夜が見本を見せるといった形で、先に糸を川へと垂らす。それを見たフランドールも見よう見まねで、随分ぎこちなくではあるが、釣り糸を水面へと落とした。

 川面が波立ち、軽やかな水音が二つなる。そして徐に消えて、辺りはもう一度静けさに包まれた。

 

「何も起きないわ」

「まぁ魚が食いついてこなきゃする事は特にないですしね」

 

 何も無い、ただ川のせせらぎを聴くだけの暇な時間。

 しかし悪くはない。暇である事には慣れているし、環境が変わっただけでも充分刺激がある。

 フランドールは特に苦痛を感じる事もなく、半ば呆けながら釣り糸を眺め続ける。彼女はそれで満足だった。

 

「あっ、きました」

 

 アタリがきたと、咲夜が声を上げた。

 それが切っ掛けとなり、漠然とした意識が一気に現実に引き戻される。フランドールはその声に釣られて、咲夜の方に顔を向けた。

 咲夜が軽く竿を引く。それに連なり、垂れていた糸が引き上げられる。途端に水面が揺れたと思うと、暗がりの中ではあるが、魚影が浮き上がってくるのが確認できた。

 

「よっと」

 

 そして今、釣り上げられた魚は咲夜の手に収められていた。魚は彼女の手から逃れようと、自らの体を激しく暴れさせていた。

 

「これが生きた魚……」

「あぁ、そういえばフラン様は生きてる魚を見るのは初めてでしたよね」

「魚って水の中じゃなくても結構元気なのね。凄い飛び跳ねるじゃない」

「そうですよ。陸に上がったばかりのはみんな活きが良いんです」

 

 触ってみますかと、不意に咲夜が口にした。

 全く予期していない誘いだった。少し戸惑って、フランドールは魚を凝視する。

 変な触感だったらどうしようか。

 先程の釣り餌の事があった為か、未知の体験に対して過敏になっているようだった。

 それでも好奇心が勝り、フランドールは躊躇いながらも頷いてみせた。おずおずと魚に手を伸ばし、指先が魚体に触れる。

 

「それなりに硬いけどなんかぬめってるわね……」

「まぁ魚なんてみんなそんなもんですからね」

 

 初めて触った魚の感想はその程度だった。ぬめぬめしているのは少し気味が悪いと感じたが身構える程ではなかったと、フランドールは思った。

 もう充分に触り尽くした頃には、魚の動きは鈍くなってきていた。

 鮮度が落ちないように保存用の容器に魚を仕舞うと、咲夜とフランドールは再び川に向かって竿を振った。

 

 

 

 

 半刻程経った頃だろうか。

 未だフランドールにアタリがくる事はなかった。 その代わりと言ってか、咲夜はもう二十匹程釣り上げている。

 果たしてこの差は何なのかと、フランドールは疑念を抱く事しか出来なかった。

 

「ねえ咲夜」

「はい、なんでしょうか?」

「釣りってさ、そんなに釣れるもんなの?」

「さあ……? でも私はいつもこんな感じですよ。あ、またきました」

 

 何気なく会話をしている最中でも咲夜は一匹、また一匹と釣っていく。

 明らかに可笑しい。同じ餌を使っているというのに魚の食い付き方がまるで違う。

 いくら自分が素人だからと言ってもこんな事はあり得るのかと、フランドールはこの現象に納得がいかなかった。

 それに、少し悔しくもあった。

 自分一人で釣りに行って、何も釣れずにただ呆けているだけなら問題は無いのだが、隣でこうも差を見せつけられていると、何だか煽られているようで無性に腹が立ってくる。

 咲夜に悪気が無いのは分かるが、寧ろそれが余計に感情を逆撫でするのだ。

 

「あ、そろそろ日が出てくる時間ですね」

 

 咲夜の言葉を受け、我に返ったフランドールは東の空に目を向ける。

 確かに空が白み始めている。もう少しで皮膚が焼け出す頃だろうか。

 

「今日の所はこの位にしておきましょうか」

 

 フランドールはその提案を快く受け入れられなかった。

 まだ続けていたかった。

 意地でも一匹は釣ってやりたかったし、咲夜が何故あれほど大量に釣れるかの理由も知りたかった。

 そのどれもが果たされないままに帰還するのでは、満足がいかなかった。しかし、此処に居座り続ければ、直ぐにでも日の光に焼かれてしまうだろう。

 日傘を差そうにも竿が邪魔であるし、何よりもう睡魔が這い上がってきている。

 

「……分かったわ」

 

 もうなす術がないと理解したフランドールは、沸き立つ苛立ちを全て飲み込んで、力なく呟いた。

 フランドールの言葉を聞いた咲夜は、その場にあった釣り道具全てを、空間を操作して何処かに仕舞い込み、そしてまた何処からか日傘を取り出してフランドールの横に並んだ。

 

「では、そろそろ参りましょう」

 

 そして、二人はつい半刻前に通った道を戻り始めた。

 先程まであれ程暗く閑散としていたこの道は、今では鳥の囀りが飛び交い、生い茂った草木は朝日に照らされている。

 日の出という、たった一つの条件で世界が一変した様だとフランドールは思った。夜とは違った、自身を取り巻く環境が取り分け新鮮であった。

 

「……条件」

 

 ふと、ある事を思い付いた。

 この方法なら、今自身が抱えている疑問や悩みを全て解決できるかもしれない。

 フランドールはその閃きの為か、一瞬足が止まりかける。日傘の範囲からはみ出てしまい、身体が焼ける痛みに、慌てて日傘の中に身体を戻した。

 

「どうかしました?」

 

 その様子に違和感を覚えた咲夜は、フランドールの顔を覗く。

 その表情は薄らと微笑が溢れていて、何かを期待しているようであった。

 何の予兆も無く嬉々とした様相を見せる主人の妹。その彼女の意図を咲夜は汲むことが出来なかった。

 

「咲夜、また直ぐにでも休暇をとって頂戴」

 

 不意に、フランドールが咲夜に声を掛ける。

 休暇を促す発言ではあるものの、レミリアの様に咲夜を気遣って出る様なものではない。

 一体どういう真意があるのかと、咲夜はフランドールに問い掛けた。

 

「まぁ出来なくもないですけど、どうしてですか?」

「私が下手なのかを確かめる実験をするのよ」

 

 

 

 ♢♢♢

 

 

「それで私をまた釣りに誘ったという事なんですね」

 

 跳ねる魚の口元を捕らえながら、咲夜はそう言った。

 フランドールは、これで十六匹目の魚が入った咲夜の容器と、空である自身の容器とを見比べて溜息を吐く。

 此処は人里から少し外れた場所に在るとある川。前回の釣り場とは異なり、里の人間にも良く利用される様な川である。

 

「まぁそうなんだけどね……条件が変われば、なんて思ってたのが馬鹿らしくなってきたわ」

 

 フランドールが思案の末に至った策とは、釣り場を変える事であった。つまり、咲夜に釣れて自分が釣れないのは環境のせいであると仮定したのである。また、結果として自分が下手である事が発覚したとしても、幾つかの釣り場を転々とすれば流石に一匹は釣れるだろうという考えも含まれていた。

 

「こうやって餌を垂らしてるだけなのに下手も何も無いと思うのだけどねぇ。絶対咲夜が可笑しい筈なのよ」

「いやいや、絶対フラン様が下手過ぎるんですよ。ここまでやってアタリすら来ない方が可笑しいですって」

「……そんなこと言わないで。私だって一匹くらい釣れるわ」

 

 とは言ったものの、もう三十分程粘った結果としては、やはりフランドールが一匹も釣れる事は無かった。ウキがほんの少しでも沈む様子すら見る事が出来なかったのだった。

 対して、咲夜の方は追加でもう六匹程釣り上げていた。フランドールとの差を見せつけるにしては充分過ぎる程であった。

 

「どうします? まだやりますか?」

「……」

「フラン様?」

「……川だから駄目なのよ。この川とかあんまり大きくないし、もっと魚がいる所じゃないと。そうだ、湖よ。湖ならもっと魚がいるでしょ? ほら咲夜、何か良いとこないの?」

 

 そう捲し立てるフランドールを見て咲夜は、主人の妹であるのにも関わらず、彼女を憐れだと感じてしまった。

 自身が下手であるということを認めようにも認められず、環境のせいであると言い訳をする事でしか取り繕えない彼女が可哀想に思えてきてならなかった。

 ここまでされたらもう仕方がない。

 フランドールが満足、というより諦めるまで、とことん彼女の要望に応えてやろうと、咲夜はそう決意した。

 

「分かりました。とっておきの場所にお連れしましょう」

「……それって何処にあるの?」

「山の神社のとこです」

 

 咲夜が提案した場所とは、守矢神社付近にある湖であった。

 

「山ねぇ……あ、そういえばうちの目の前にも湖があるけどあそこはどうなの?」

「あぁ、あの湖はですね」

 

 勿論、咲夜も湖と聞いて真っ先に思い浮かんだ場所は、紅魔館の目の前にある霧の湖であった。

 しかし、あの場所は魚が殆ど住んでいないとされている。一応ヌシのような存在がいると聞いた事があったが、初心者であるフランドールに釣らせるには無理があると思われた。

 咲夜がその旨を伝えるとフランドールは、山まで行くのは面倒であるが少しでも釣れる可能性を上げる為には仕方がないと、納得した様子を見せた。

 フランドールからの承諾を得た咲夜は、釣り道具を全て回収して出発できる準備を整えた。

 

「さて、時間も無くなってきた事ですし、少し急ぎましょうか」

「ん。面倒だろうけど、よろしく頼むわ」

「ええ、承知しました」

 

 咲夜はフランドールに背を向けてかがみ込んだ。フランドールはそのまま咲夜に体を預け、背負われる形となる。

 続いて、咲夜はかがんでいた体を起こし、今まさに飛び立とうという状態になった。

 瞬間、世界の時間が停止される。一切の音は消失し、ありとあらゆる物体の運動がなくなった。

 当然、背負われているフランドールも例外ではない。

 咲夜にとって今の彼女は無質量に等しく、背負っているという感覚すら無かった。

 

「えーと妖怪の山は……と」

 

 向かうは遠方に見える妖怪の山。飛んで行っても程々に時間はかかるだろう。

 しかし、今咲夜の意識が存在する世界に時間の概念は存在しない。目的の湖にたどり着く頃にだって一秒も経っていないのだ。

 こういう時に自分の能力は便利である、と咲夜は実感する。

 

「さ、行きますか」

 

 そして、いざ赴こうと自身の足を一歩踏み出した時、咲夜の両足は再び動くのを止めた。

 

「……お腹空いてきたから何か食べてから行こっと」

 

 

 

 

 次にフランドールの視界に映ったのは、咲夜の背中とその後ろにある広大な水の溜まり場だった。

 紅魔館前にある霧の湖と違って周囲は晴れ渡っており、湖を取り囲む木々の数々が目に映る。

 

「ここがとっておきの場所とやらね」

 

 咲夜の背中から降り、湖辺を歩きながらフランドールはそう言った。

 山という場所に訪れるのは初めてだからか、フランドールは注意が散漫していてあちらこちらに目を向けていた。

 何を思ったか、ふと夜空を見上げてみると、今まで見たこともない程の満天の星空が何処までも広がっていた。それも、麓にいた時よりもずっと近くに。

 

「山は星がきれいに見えるんですよ」

 

 堪えきれずに溜め息が漏れ出ている、そんなフランドールの様子を見て、咲夜は微笑みながらそう口にした。

 

「こうやって景色を楽しむのも釣りの醍醐味の一つですからね」

 

 魚を釣り上げることだけが全てではない。釣れない時間をどう楽しむかというのも大切であるのだ。

 先程まで釣れずに焦っていたフランドールに、咲夜はそう伝える。

 散々下手だの何だのと煽ってしまったが折角できた釣り仲間なのだ。こんなに早く釣りが嫌いになられては困ってしまう。

 しかし、当のフランドールは横目で咲夜を見ながら面白くないという顔をしていた。

 

「でも、咲夜は釣り上げるのに忙しくてそんなもの楽しむ暇ないでしょう?」

「……あ、そういえばそうでした」

 

 痛いところを突かれてしまった、と咲夜は動揺する。

 フランドールの言葉通り、確かに咲夜は魚を釣り上げるという行為以外で釣りを楽しんだことなどただの一度でもなかった。

 竿を振れば魚はすぐにでも食らいついてくる。待つ時間など皆無に等しかった。そんな状況のなか、魚を釣り上げる以外にどう楽しむというのだろう。

 先程フランドールにした話も何処からか聞いた程度の話で、やはり自身から零れたものではなかった。

 あれは彼女の気に触る発言だったかもしれないと咲夜は自分の軽率さを恨めしく思った。

 

「贅沢な悩みね」

 

 一方のフランドールは吐き捨てるようにしてそう言った。

 如何にも気にしていないという風に取り繕っていたが、それでも咲夜に目を合わせようとはしなかった。

 フランドールの焦りと嫉妬、咲夜の失言。ほんの小さないざこざが彼女達の空気を濁らせる。

 少しだけ気不味い。それが二人の口を噤ませて、辺りを沈黙が支配する。

 

「……参ったわ」

 

 音として成り立ったかどうか分からない程の小声で、咲夜は呟いた。

 こんな状態で釣りを続けるというのは最悪な展開に他ならない。

 お互いに良い思い出にはなり得ず、フランドールに関しては慣れない外でこんな苦い経験をしたのなら釣りどころか外出すらしなくなるかもしれない。

 

「どうにかしてフラン様に機嫌を直してもらわないと」

 

 思考を巡らすが、中々名案は生まれなかった。

 自分の竿にアタリが来た時、時間を止めて彼女の竿と入れ替える事や既にフランドールの竿に魚を付けておくという考えが浮かんだが、どれも不自然で勘付かれた時のリスクが大きかった。

 結局、何も思い付かないまま咲夜はぎこちなくフランドールに竿を渡した。

 一番良い方法はフランドールが自力で魚を釣る事なのだが、正直な所期待は出来ない。

 咲夜は溜め息を零しながらフランドールを垣間見た。

 月明かりに照らされながら、小さく唇を噛み締める彼女の横顔が淡く映った。

 眉を顰め悔しさを滲ませるその表情に、咲夜は罪悪感で堪らなくなった。

 

「あ、あの」

「……どうしたの?」

「近くにいると邪魔になるかもしれないので、少し離れた所でやってきますね。何かあったら呼んでください」

 

 咲夜は最後の希望として、フランドール一人に釣りをさせる事にした。

 自分が近くにいなければフランドールの方に向かう魚が、もしかしたらいるかもしれないと思ったのだ。

 咲夜はフランドールが縦に首を振ったのを確認すると、時間を止めて移動しようとした。

 

「ちょっと、私んとこ湖で何やってるのよ」

 

 不意に二人の背後に何者かの気配が現れた。

 その気配から敵意は感じられなかったが、突然現れたそれに警戒の意識を引き上げる。

 その状態のまま二人がゆっくりと振り返ると、目玉のついた可笑しな帽子を被っている一人の少女の姿が在った。

 

「……ああ、貴方は」

 

 洩矢諏訪子。守矢神社を支えるニ柱の内の一人だった。

 

「なんで紅魔館とこのメイドがこんな時間に来てるのよ。それにこっちには見ない顔も居るし」

 

 フランドールをちらりと見た後、諏訪子は訝しげな表情をして咲夜を問い詰めた。

 日の出前から勝手に自分の住む土地にやってきている者がいるというのはそれだけで怪しいもので、彼女の言い分は尤もであろう。

 咲夜もその事を理解したようで、詰め寄られながらも諏訪子に弁解の余地を求めた。

 

「釣りをしに来たんですよ。ここなら良い具合に釣れると思いましてね」

「釣り?」

「ええ。こっちの妹様と一緒に」

「妹? へえ、あの吸血鬼の妹か」

 

 あの吸血鬼に妹がいるなんて知らなかったなぁ、と諏訪子は意外そうな顔をして、フランドールを覗き込む。

 そうして覗き込んだ矢先、彼女の顔色が怪訝なものへと変貌した。

 その後諏訪子は一度フランドールから視線を外すと、再度彼女を注視し始めた。自分が見たものが信じられないといった形だった。

 それでも、その表情を変える様子は見られない。依然としてその眉間に皺を寄せたままであった。

 

「……んん?」

「どうかしました?」

「ねえ、此処には釣りをしに来たって言ったわよね?」

「はい、そうですけど」

 

 そっかあ、と長い溜息を吐きながら、諏訪子はフランドールを呆れるような憐れむような、そんな複雑な視線を彼女に送った。

 フランドールは諏訪子から送られる視線に気付くと、様々な感情の混ざった彼女の表情に、ただ意味が分からないといった顔をして応えることしか出来なかった。

 

「あ、そうだ。咲夜、ちょっと貴方も顔見せて」

 

 ふと何かに気付いたかのように諏訪子は咲夜に目を向けた。

 先程のフランドールについてもそうだったが、果たして彼女は何をしているのだろうか。咲夜は疑問を覚えながらも、特段断る理由も無かったので諏訪子の方へと近づいた。

 

「あーはいはい。その辺でいいよ」

「えっと、これはどういう事ですか?」

 

 咲夜の言葉に諏訪子は応えなかった。ただの一言も口にしないまま彼女は咲夜を見つめ続けていた。

 

「はーこっちもまた凄いね」

 

 暫くの間眺めていた諏訪子だったが、不意にそう口にした。

 そしてフランドールと咲夜を唸りながら見比べていた。

 

「あのー」

「ん? どうしたの?」

「いえ、どうして私達の顔を見始めたのか、流石に説明が欲しいと思いまして」

 

 未だに諏訪子が何をしているのか理解出来ずにいた二人にとっては早急に彼女からの説明が欲しかった。

 諏訪子の様子を見ている限り何かしらの答えは出ているようなので、自己完結したままで終わって欲しくなかったのだ。

 そうした二人の想いに、長らく集中していた諏訪子も漸く気付き始めたのだろう。諏訪子は咲夜の方に向き直ると、悪びれる様子を見せて軽い謝罪を繰り返した。

 

「あぁごめんごめん。言い忘れてたわ」

「さっきからずっと気になってたんですよ。それで、一体どういう事なんですか?」

「まぁ簡単に言うと、釣りにおける才能の度合いを測っていたのさ」

「釣りの才能……?」

 

 釣りの才能、確かに諏訪子はそう言った。

 

「本当にそんなものあるんですか?」

「正確に言うと魚が寄ってきやすいって感じだけどね。まぁ自覚はあるんじゃない?」

 

 よくよく考えてみると、思い浮かぶ場面はいくつもあった。

 同じ餌で釣りをしているのに、常に魚達が寄ってくる咲夜。反対に全く魚がやって来ないフランドール。

 二人のこの異常な差は、もし諏訪子の言葉が本当にであるとすれば、彼女の言う才能というものが関係しているのかもしれない。

 だがしかし、フランドールにその才能が無かったとしたら。

 焦る彼女にそんな事を聞かせられないと、咲夜は思った。

 

「ねぇ、それで結局その才能とやらはどうだったの」

 

 咲夜の心配を他所に、長らく口を閉ざしていたフランドールが、漸くその口を開いた。だが、その表情は酷く複雑だった。

 ここまで焦らされた事への苛立ち、自身の才能への恐れや不安。それらが混りに混ざった一概には言えない感情を、胸中に抱えての言葉だった。

 

「じゃあまずそこの妹君から言うけど」

「ええ、宜しく」

「はっきり言って、私が見た中で一番と言っていいほど才能が無い!」

 

 信じられない程魚に嫌われてるねと、諏訪子は一切の言葉を濁す事なくフランドールに向けて言った。

 お前は釣りになど全くと言っていい程に向いてないのだと、そう伝えたのだった。

 

「あ、ちょ、ちょっとそれは」

 

 咲夜の静止も間に合わず、諏訪子の言葉を最後までフランドールの耳に入っていった。

 最悪だ。余計な事を言いやがって。

 心の中で諏訪子に毒を吐きながら、咲夜はフランドールに掛ける言葉を探し始めた。

 釣れずに拗ねていたフランドールにとって、先程掛けられた言葉は明らかに追い討ちに他ならず、釣りをやめるというとどめになり得てしまう。

 だからこそ、何か声を掛けないといけない。しかし、こんな時に掛ける言葉など存在し得るのか。

 新たに出来た釣り仲間を失ってはいけないと試行錯誤していた筈が、全て空回りに終わってしまっている。その事実に咲夜は深く気を落とした。

 

「それで咲夜の方だけど」

「……私ですか?」

 

 焦燥に駆られる咲夜を顧みる様子もなく、諏訪子は咲夜に声を掛けた。

 

「さっきとは逆に今までで見た事ないくらい釣りの才能に満ち足りているよ。ほんと、意味分からないくらいに」

 

 曰く、魚という魚が咲夜に魅了されるらしい。彼女の放つオーラというか雰囲気が、魚達を導く光となっているそうだ。

 そこに釣り餌を投げ入れようものなら、入れ食い状態になるのは避けられない。

 事実、咲夜が魚を釣り上げるペースはあまりにも異常であったのだ。

 

「まぁ普通のやつが咲夜と一緒にやるならおこぼれで何匹かは釣れるかもしれないけど、そこの吸血鬼じゃあ話にならないわね」

 

 全くの凸凹コンビである。

 釣りの才能が完璧な者と一切の欠片すら無い者。覆しようも無いほどにこの差は絶望的であった。

 これでは自分が離れても何の意味も無かったのかと、咲夜は託していた僅かな希望が零れ落ちた事を悟った。

  

「……そう、なるほどねぇ」

 

 フランドール、そうぽつりと呟いた。聞き取れるのがやっとである程に小さな声であった。

 自身の前に突きつけられた現実を噛み締めて、辛うじて受け止めようとして、そうして絞り出された様な声だった。

 咲夜は、その独り言にも似た彼女の諦観を体現した言葉に何一つ返す事は出来なかった。今この時だけは、自身の才能が恨めしくて堪らなかった。

 

「ま、所詮貴方達がやってるのは娯楽なんだ。食べる物に困ってやってる訳じゃない。なら、何の成果も得られない事が確定してるこの行為を続けるのは流石に無駄が過ぎるってもんじゃない?」

 

 諏訪子にとってはこれは軽い助言程度で出た言葉だった。

 しかし、当のフランドールには重く自身の精神に覆い被ってくる。

 抱いていた自信が消えていく。自己を肯定する感情が失われていくのが分かる。

 諦めろという言葉が持つ本当の意味を、彼女は身をもって知ったのだった。

 そうしてただ無表情で立ち尽くす、そんなフランドールの様子を咲夜はやはり見つめることしか出来ない。

 大事な主人の妹よりも恵まれてしまった自分が掛ける言葉など、やはり存在し得ないのだ。

 

「……ふふっ」

 

 唐突にフランドールから笑みが零れた。

 聞き間違いではない。咲夜はそれを確かに耳にした。

 

「……そうねぇ。ご忠告、どうもありがとう」

「あ、うん。どういたしまして」

 

 その微笑みに続いて彼女の口から出た言葉に、咲夜は驚いた。

 沈みに沈んだフランドールの精神から出された言葉が純粋な感謝であった事が、意外でならなかった。

 

「貴方、案外あっさり受け止めるのね。今思い返せば結構きつい事言っちゃったし、もっと引き摺ると思ってたわ」

「……まあ、急に現れてきて才能がないだの諦めろだの散々言われて、そりゃあショックだったけども」

「あ、えーとごめんね?」

「でも確かに、少しの才能もない私が釣りをやるのは些か無駄が過ぎるかもしれない」

 

 やはり釣りをやめてしまうのか。

 その言葉に咲夜は肩を落として項垂れた。

 ただ外に出て楽しい事をしようと思って誘っただけなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

 

「正直、隣で咲夜が釣れてて私だけ全く釣れなかった時は嫌だったわね。何で釣れないかずっと疑問だったわ。でも、こうして原因が明確になって結構すっきりしてるの」

「フラン様……」

 

 少しだけ悲しそうにして笑うフランドールの姿を、咲夜はただ呆然と眺めていた。

 確かに、自分だけが何も得る事ができず、ましてや才能がないという事を正面から知らされたフランドールにとってこの日は辛いものであった。

 嫉妬を知り、焦燥を知り、そして諦念を知った。そんな負の感情だらけの一日。

 しかし、彼女はそんな酷い一日だとしてもどうにかして受け止めて前向きに捉えようとしていた。そうでもしないと、外に出て得た体験すべてが嫌な想い出に変わってしまいそうでならなかった。

 夜の静けさと共に佇む小川の姿、朝日に照らされる草木や此処で見たあの星空も、決して不快な気持ちで塗り替えたくなかったのだ。

 

「でも、それはそれとしてやっぱり嫌な思いしたのは変わらないのよねえ」

「そりゃそうよね。ずっと釣れなかった訳だし」

「そう、だからさ」

 

 不意にフランドールが咲夜へと視線を向けた。

 微笑みを浮かべたその表情は、何処か吹っ切れた様に爽やかだった。

 

「……フラン様?」

「私だけこんな思いをするのは割りに合わない。だから咲夜にも同じ目に合わせてやるのさ」

「えっと、つまりどういう事で?」

「貴方に釣れないという地獄を叩き込んでやるのよ」

 

 その晴れやかな笑顔に小さな悪意が垣間見えた。

 ただ、その悪意もいつもの彼女が戻ってきたような気がして、咲夜はひどく安心していた。彼女によるささやかな皮肉も快く受け入れてみせようと、そう思ったのだった。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 夜も更けた頃の霧の湖。湖を覆う霧は既に晴れ渡っており、昼間とは異なる顔を見せていた。

 この日は満月であり、穏やかに佇む湖を照らしている。流れる波に揺れながら水面に映る月、それを眺めながら咲夜は釣り糸を垂らしていた。

 

「どう? 釣れそう?」

 

 その隣では揶揄うようにして薄笑いを浮かべるフランドールの姿があった。

 頬杖をつきながら嬉しそうに目を細める彼女に、咲夜は苦笑いで応えるしかなかった。

 

「いいえ、全く。こんなに手応えがないのは初めてです」

「そう、良かったわ。新月には釣れる時があるって聞いたから万が一を考えて満月の日にしておいて正解だったわね。まさしく最高の気分よ」

 

 この霧の湖には魚は殆ど存在しない。

 実際に何匹ほど居るか確かめた者などいないので真相はどうなのか分からないが、事実ここの湖では殆ど釣れる事がないようである。

 ただし新月の日にのみ、ごく稀にではあるが巨大な魚がかかる事があるという噂があった。

 

「一匹も魚がいないんじゃ、いくら咲夜でも絶対に釣れないからねえ」

「釣れる可能性がゼロじゃない状態でありながらも私に釣らせないって訳ですね」

「そうよ。魚がいなきゃ釣りにならないしね」

 

 しかし、こうもアタリが来ないのは初めてであった。もうかれこれ三十分程はこうして糸を垂らしている。

 暇だなと、咲夜は思った。

 初めの内はこうして湖に浮かぶ月を眺めて暇を潰していたが、元来自身は景色を見て哀愁に浸るような人間でないということを思い出したのだった。

 深く考える様な悩みも持ち合わせていなければ、癒すための精神的苦痛だってない。

 何が景色を楽しむのも釣りの醍醐味の一つだ。何も楽しくないじゃないか。

 やはり軽率に適当な事を言う物じゃないと、咲夜は改めて反省する事にした。

 

「それで……私はどのくらいこうしていれば良いんでしょうか」

「早速飽きてきた? 駄目よ、これは仕返しなんだから。あと二時間くらいは続けてもらわなきゃ」

「そうですか……」

 

 あと二時間。その言葉に咲夜は軽く絶望を覚えた。

 ただフランドールはこの苦痛をずっと味わっていたのだ。従者の自分がそれに耐え切れなくてどうすると、どうにか気持ちを奮い立たせる。

 

「……あれ?」

 

 一瞬、ウキが小さく動いたような気がした。

 気を抜いていた為見逃してしまったが、確かにウキが僅かに沈んだように見えたのだ。

 

「どうかした?」

 

 咲夜の様子を不思議がってか、フランドールが咲夜の顔を覗き込んだ。

 瞬間、咲夜の姿が彼女の視界から消失した。

 フランドールが反射的に咲夜の姿を追うと、彼女は引き摺り込まれるようにして湖にその身を投げていた。

 水面は激しく波立ち、水飛沫が周囲に舞い散る。幸い、水底は足がつくほどであったようで咲夜は直ぐに顔を浮かび上がらせた。

 

「ちょっと、咲夜大丈夫?」

「ええ、何とか。ああ、お洋服がびしょびしょになっちゃった」

 

 水を含んで重くなった服を絞りながら、咲夜はフランドールのいる湖畔へと戻っていく。額に張り付く濡れた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、フランドールの隣に腰掛けた。

 全身から水を滴らせて不満げな顔を見せる、そんな咲夜を見てフランドールは少しだけ彼女に同情した。

 

「あーなんというか、流石にそこまでする気は無かったんだけどね」

「いや、違うんです。食いついてきた魚をちゃんと釣れなかった私が悪いんです」

「えっ、アタリきてたの」

「はい。相手の引きが強すぎて単純に力負けしました。多分あれ、私じゃ釣れませんね……」

 

 その証拠に竿ごと持っていかれてしまった。あの引き具合、人間の力程度ではかなり難易度が高い筈だ。

 油断していた事もあり、咲夜は時を止めるのも間に合わずに敢え無く敗北を喫したのである。

 

「一応予備の竿も何本かあるんですけど、正直あの強さの魚だとこっちの竿が持たないと思います」

「つまり、咲夜の力じゃ釣り上げられないって事ね」

「……ええ、残念ながら」

 

 打つ手が無い。自分では奴には敵わないのではないかと、咲夜は頭を抱える。

 これがフランドールによるちょっとした復讐であるというのは分かっている。本来ならアタリが来ることだってあってはならない。

 だからこそ、この万策尽きた状態で敗北を認める事が、フランドールに対しての贖罪になる筈なのだ。

 だと言うのに、咲夜は悔しさが滲み出るのを感じた。

 手元にはさっきまで握っていた竿の感覚がまだ残っていた。愛用の竿を連れていかれた事に憤りだって覚えている。

 このままで終わりたくない。なんとしても奴を釣り上げてやりたいという想いが、咲夜の胸に浮かび上がった。

 

「咲夜、さっきの奴釣りたい?」

 

 俯く咲夜に、フランドールが声を掛けた。

 咲夜の感情を感じ取ってか、その声は何処か優しげであった。

 

「……我が儘なのは分かってます。でも、やっぱり釣りたいです」

「そっか」

 

 そう一言呟いて、フランドールは湖に視線を向けた。

 水面に立つ波はまだ大きい。映る月も原型が分からない程に揺れ動いている。

 

「咲夜、そんなに時間は経ってない。まだそこまで遠くには行ってない筈よ」

「まだ間に合うって事ですか? でも」

「だから、奴を釣り上げるのは私がやるわ」

 

 咲夜は、驚きのあまり無意識に声を上げた。

 以前に散々な程に現実を見せつけられた彼女から出た言葉とは到底信じられなかった。

 

「大丈夫よ。私じゃ食いついてこないのは自分がよく分かってるから」

「……では一体どうやって?」

「共闘といくのよ。咲夜、貴方が奴の引きに一瞬でも耐えてくれれば、後は私が引き上げる」

 

 先程の咲夜は気を抜いていた事もあり、踏ん張る事すら出来なかったが、覚悟が済んでいるのであればその限りではないだろう。

 コンマ数秒も保てば充分。その間に吸血鬼の俊敏性と剛腕を持ってして相手を釣り上げる。それがフランドールによる策であった。

 

「つまり、初めての共同作業ってやつですね?」

「なんか違うと思うけど、まぁそんな感じかな」

 

 しかし、この策の一番の問題点は、いつアタリが来るか分からない上にその間常に集中をしていなくてはならないという事であった。

 咲夜の才能をもってしても、食い付くまでに三十分もの時間を掛けている。そして一度釣り上げるのに失敗してしまっているのだ。相手は確実に警戒を強めている筈で、本当に食い付いてくるのかも怪しい所であった。

 考えれば考える程、不安になっていく。自分の我儘に付き合ってもらうどころか、その我儘を叶える事だって出来ないのではないかと。

 

「咲夜、ちょっと気にしすぎよ」

「……そうですか?」

「私に遠慮してるような気がしてならないのよ。らしくないわ」

「それじゃ、私が上の立場の方に遠慮しない女みたいじゃないですか」

「え、そうじゃないの?」

「酷い」

「まあ、私に対して悪いと思ってるのかは知らないけど、今はそれを引き摺る時じゃないでしょう」

 

 初めて自分で魚が釣れるかもしれないって私、結構楽しみにしてるのよ。屈託のない笑顔でフランドールはそう言った。

 その純粋な表情に、咲夜は自身の迷いが晴れるのを感じた。

 そう、所詮自分達のやってる釣りは娯楽に過ぎない。彼女のように純粋に楽しむ気持ちで臨めばいいのだ。

 不安は消え、自らの才能への自信が溢れていくのを感じる。

 来たる再戦の時が待ち遠しい。

 

「さて、咲夜。一番面倒な所は任せるわ。貴方のそのうんざりする才能、思う存分発揮しなさい!」

「ええ、承知しましたわ」

 

 フランドールの言葉に、咲夜は自信に満ちた笑顔で応えてみせた。

 予備の竿を取り出し、手慣れた手付きで仕掛けを完成させると、咲夜はかの敵が潜む湖に向かって竿を振るった。

 軽やかな水音が周囲に木霊する。餌が沈み行き、ウキが立つ姿が目に映る。

 あとどれ程待てば良いのだろうと、そんな考えはもう捨てた。

 日の出を迎えるその時まで、この竿を握り続けようと、咲夜は誓った。

 その瞬間だった。

 

「……もう来るの!?」

 

 餌を投げ入れてから一分もたっていない、そんな中でウキが急激に沈むのを感じた。

 予想外、しかし集中は途切れていない。

 咲夜はその食い付きに辛うじてアワセを行う。

 まさかこんなに早く機が訪れるとは。否、奴も再び戦いの火蓋を切る事を望んでいたのだ。そうでなければ、こんなにも早くやって来る筈が無い。

 これはあくまで咲夜の想像に過ぎないものであったが、それでも彼女にとってはこれは確信めいたものであった。

 

「フラン様!」

「分かってる!」

 

 咲夜の声よりも素早く、フランドールは既に竿を握っていた。

 彼女が竿を持った瞬間、一気に咲夜の負担が減っていった。それ程までに彼女の力は強靭であった。

 フランドールは自身の実力を遺憾無く発揮し、釣り竿を引き上げていく。

 しかし、相手はそれを耐え抜いていた。

 力自体では吸血鬼であるフランドールが遥かに上回る。だが、これは釣り竿の耐久力も考慮しなければならない。

 事実、竿は悲鳴を上げていた。軋む音は依然として大きくなり、道具としての死を迎えようとしている。

 あと一秒も持たない。それを悟ったフランドールは一か八か、自身の持つ全ての力を竿を握る腕に込めた。

 竿が変形に耐えきれず、幾つものひびを走らせる。

 だが、もうそんなものには構っていられない。フランドールは全身の緊張を更に高めるように、自身が絞り出せるであろう限界の叫びを上げた。

 

「あっ」

 

 瞬間、竿を引く腕が跳ね上がった。

 水飛沫、そして巨大な影が夜空に舞い上がり、月明かりに照らされて輝く光景が二人の視界に映った。

 その後、巨大な影は重力に引かれ、二人の背後にある地面に叩きつけられた。

 衝撃で大地が揺れる。鈍く重い音が湖全体に響きわたった。

 その様子を息も絶え絶えに、彼女達は見つめていた。

 暫く呆然としていた二人であったが、ふと我に返ると互いの顔に目を向けた。

 両者の顔が淡く映る。疲れ果てた酷い顔をしていた。二人とも、お互いのそういった顔を見るのは初めてだった。

 その顔を見るのがどういう訳か無性に面白かったのと、釣り上げた達成感や疲労具合が複雑に絡まり合って、二人は互いを見ながら無意識に笑みをこぼした。

 

 

 その後、一頻り充実した満足感を堪能して落ち着いた頃、フランドールは夜空に浮かぶ月をただ茫然と眺めていた。何をするでもなく、ただひたすらに。

 

「……どうかしました?」

 

 その様子を不思議がり、咲夜はフランドールに声を掛けた。

 フランドールはその声に反応してゆっくりと振り返り、咲夜のことを見つめ始める。そうして呆気に取られる咲夜に、フランドールは今まで見た事もない程に幸せそうな表情をして、こう言ってみせた。

 

「ねえ咲夜、釣りって面白いわね!」

 

 




「この魚、七メートルくらいありますね。初めて見ました」
「……淡水魚ってこんなに大きいんだっけ」
「良いじゃないですか。食べられる所いっぱいありますよ?」

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