Abissale solitudine -海の底に消えた鍵- 作:紅 奈々
下駄箱を開ければ、水浸しの上履きが入っていた。
「またかよ」と璃王は呆れる。 犯人は解っているので、水浸しの上履きは中の水を昇降口にぶちまけて、出入り口近くにある花壇の隅に隠しておく。
日当たりが良いから、今日の昼頃には乾いているだろう。
そして、掃除道具入れの上段に隠していた替えの上履きを取り出してそれを履き、教室へ向かった。
(毎度毎度飽きないよなぁ……暇人)
―― ――
廊下を歩いていると、各教室から教師の声が聞こえる。 今は授業中だから当然だ。
自分の教室へ着くと、後ろのドアから教室へ入っていった。 タイミング悪く黒板に向かっていた教師が振り向いて、教師と璃王の目が合う。
(やば。 面倒くせぇことになった)
璃王が身構えた時、教師の禿げ上がった額に青筋が浮かんだのが見えた。
「神谷、またお前は! お前もう中二だぞ!? 遅刻なんかして恥ずかしいとは思わないのか!
しかも連絡無しで! 今まで何をしていたか!!
そんなことで将来どうするんだ、まったく最近の若いモンは弛んどる! もう少し将来のことを考えて勤勉にだな……」
璃王を視界に入れるなり教師は璃王を怒鳴りつけ、延々と説教を垂れる。 それをウゼーと思いつつ璃王は自分の席へ歩いた。
教師からの説教も、中一の時からの為全く気にしてない。
璃王の机には、無数の小学生並みの落書きとその上に献花がされてあった。 ふうっ、と溜息が零れる。
「大体、俺がお前の年の頃は暗い中でも懐中電灯で机に齧り付いて必死に勉強してだな……」
教師のつまらない定型文の様な説教を右から左に聞き流す。
璃王は既に英才教育を幼少期から施されていた為、中学生で習う程度の知識は身についていた。 下手したら名門大学まで行ける程の学力を持っている。
なので、璃王にとって学校は「必ず通わないといけない所」ではない。 それでも通っているのは、日本が義務教育だからだ。
あと、休み過ぎていると雲雀が五月蠅いのもある。
「今の高校は金を積めば馬鹿でも通えるらしいが、そんな親不孝な……」
教師の説教を尻目に璃王が献花されている菊を見ながら「こいつら、菊の花言葉知ってんのかよ?」と思う。
色によって異なるが菊の花言葉は、高貴・清浄・高潔・僅かな愛・誠実・真実だ。
嫌がらせのつもりで添えるなら花言葉調べてから添えろよ、中途半端だな、と璃王が思っていたら、説教を垂れていた教師がいきなり怒鳴ってきた。
「……って、聞いているのか神谷!!」
教師の話を聞いていなかった璃王が「何か?」と言いたげなキョトンとした顔で教師を見ると、教師は「もう良い、座れ!」と黒板に向き直った。
璃王の机には、「死ね」や「消えろ」「学校に来るな」等のベタな落書きから、「最低男」「猫背ヤロー」「中二病」などの璃王の人格や外見を否定するような言葉が書いてある。
数えられない程に書いてあるのに加え、油性のマジックで書いてある為、消そうと思っても消えないし、消したり机を取り替えたとしてもまた書かれるのでキリがない。
消す労力も勿体ない。
璃王が席に着くと、教師が黒板を向いているタイミングで石入りの紙くずや暴言が書かれた紙くず、硝子なんかが投げつけられる。
基本的には避けなくても当たらないが、顔に向かってくるモノは教科書ではたき落とす。
この学校で自分の味方は恭だけ。 その恭には現状は話していないが、少なくとも「悪意のある攻撃をしてくる事がない」と言うだけでも璃王にとってはいいことだった。
「――かの有名な作家・夏目漱石は、この「I love you」をある言葉で表現した。
それを――ちょうどいい。
今日遅刻してきた神谷! 答えてみろ!」
「――あ?」
何処からか飛んできた石を教科書で叩き落としたタイミングで、ちょうど振り返ってきた教師と目が合った。
教科書を閉じて振り回していたようにしか見えない璃王に教師は再び、怒りに口元を引き攣らせるのだった。
「お前……遅刻した挙句、その態度は何だ?
遊んでる暇があったら早く答えんか!
夏目漱石が「I love you」をなんと――」
「「月が綺麗ですね」」
教師の言葉を遮って璃王が答えると、教師は口元を引き攣らせたまま「正解だ……」と言って沈黙した。
「夏目漱石」で「I love you」となると、「月が綺麗ですね」以外の答えはないだろう。
璃王は父親が日本人、母親が日本人とイタリア人のハーフの所謂クォーターである為、日本の作家の小説が実家に置いてある。
幼少期から本に囲まれて育った彼には、「解って当然」の問題だったのだ。
つまらない授業を聞き流して、2時間目は終わった。