Abissale solitudine -海の底に消えた鍵- 作:紅 奈々
目が覚めると、璃王はふと枕元を探る。 手に固いモノが当たる感触を認めるとそれを手に取り、電源を入れた。
「はぁ、めんど」
画面に映った時間に気だるげに呟くと、璃王は起き上がってクシャクシャになった髪を手で軽く梳かす。
時刻は午前11時。 もう3時間目が始まっている時間だ。
今日の3時間目は理科だったような気がする。 記憶を手繰り寄せると、璃王は舌打ちした。
教科書、教室じゃねぇか面倒くさい。 しかも今は教室は閉まっているだろう。
教室から生徒が出払う時は、学級委員がドアを閉めてきっちり戸締まりしてから出て行く。
その為、教科書を教室に取りに行くことはできない。
(授業に遅れた上に手ぶら……また彼奴がウザいだろうなぁ……)
仕方ない、と璃王は手ぶらのままで理科室へ向かった。
―― ――
理科室に着いた璃王は、後ろの扉は棚などが置いてあって通り抜けが出来ない為、教室の前扉を開け、堂々と教師の前を通って席へ向かう。
璃王の姿を視認した教師は、ニヤニヤと嫌らしい笑みを隠そうともせずに璃王に向け、近付いてくる。
「お前、何回俺の授業に遅れてくる気だ?」
教師の面倒臭い説教タイムが始まる――。
璃王は、内心で深く溜息を吐いた。
「遅れた上に手ぶらとは。 そんなにやる気がないって事は授業を受けなくても余裕って事か?
なら、パラジクロロベンゼンの化学式と物性を答えて貰おうか」
憎たらしい笑みを向けてくる教師に「ニヤニヤとキモいんだよ」とか思っていると、何故か授業では習わないような問題を出題された。
(こいつのこういう所、本当に嫌になってくる。
生徒をいびって楽しむ趣味がある人間が教師のこの学校、本気でヤバくねぇか)
授業に遅れてくる璃王も大概ではあるが、生徒イビリを生きがいにしている教師も相当である。
(まぁ、答えられる筈がないか、中学では教えないような問題だし)
その心の声が璃王には駄々漏れで、溜息を吐いた。 こんなセコい教師、よく採用されたな、と。
あまりに下らないと思った璃王は思わず教師を凝視してしまった。
「パラ……何?」
「俺らで解んねぇんだから、彼奴が解るわけないじゃん」
ヒソヒソと周りの雑音が璃王の耳にすり抜ける。 学校では目立たないように平均よりも少し悪いくらいの成績を取っている璃王からすれば、これは「解りません」と答えるべき問題だ。
だが、周りの雑音に苛ついていた璃王は「目立たないように」という事よりも「こいつらと同類ってのは嫌だ」と言う感情を取った。
自分にも一応、自分の一族としてのプライドはあるつもりだ。
そうでなければ、ここまで虐められてない。
「早く答えんか」と言う教師に苛ついた璃王は、面倒くさげにサラッと答えた。
「C6H4Cl2。 物性は、融点53℃、沸点174℃。
常温で、昇華により強い臭気を発する白色の固体で、空気中では固体から気体へゆっくりと昇華する。 臭いが強いが故に空気中に極微量あるだけでも嗅ぎ分けることができる。
主な用途は防虫剤およびトイレの消臭ブロックである。
こんなとこで良いですかね」
「せ……席に着け……」
璃王が答えて最後に皮肉を飛ばすと、教師はまさかこの問題を解かれるなんて、と言いたげに灰になったように固まってしまった。
何なんだよ……と璃王は溜息を吐きながら席に座る。 流石にクラス以外の教室の部品には触れないらしく、璃王の席は何もされていなかった。
「あ、あのー、先生? 続き……」
「はっ! 次は教科書55ページ――」
あの教師は生徒に声を掛けられて我に返り、授業を再開した。
理科の授業はつまらなくて、璃王は窓の外を眺めていた。
理科室の窓はグラウンドに面しており、そこではテニスをしている男子の姿が見えた。
退屈な授業しかない中で唯一の楽しみなのか、男子生徒ははしゃぎながら楽しそうに生き生きと一つのボールを打ち返している。
その中で、黒紫の髪の男子がふと視界に入ってきた。 璃王の顔に影が掛かる。
イタリアに居た“あの人”の事を思い出したのだ。
脳裏に浮かぶ彼は、何故かいつも微笑みかけてくるかのように笑っている。 何故か彼の笑顔しか思い出せないのだ。
“リオン”と優しく微笑みかけてくる温かい声。
その声は未だに、璃王の耳の奥に焼き付いていた。