【完結】暁美ほむらは悪魔みたいないい子でした   作:曇天紫苑

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うたかたの夢

 

「はっ……!? はぁっ……! はぁ……! いだっ……!」

 

 ベッドから飛び起きようとして、壁に額をぶつけてしまった。それが今日の目覚めとなった。

 時間はまだ三時過ぎ、窓から見える空は暗く、星の光は微かなものだ。今日は月もほとんど姿を見せず、ただ空の上に存在感だけがあった。

 フローリングの床の上には一人用のベッドがあって、隣には勉強机、その上には電子機器が少し。狭い部屋の中にあるのはそれが全てだ。今現在の私に不必要なものを持たないようにしていたら、ひどく殺風景な部屋が出来上がってしまった。

 

「うっ……」

 

 寒々しさのあまり、気づけば自分の身を抱きしめていた。ネグリジェから露出した肩は特に寒くて、そろそろ長袖を出すべきかと思わせる。

 隙間風だろうか、窓は全て締めているのに熱が抜けていったかの様に全身は冷たく、部屋の中に居ながらにして凍えを体験させられる。

 こんな状況に陥るのもこれが初では無い。むしろ、ここのところは芯から凍り付くような寒気か、汗でぐっしょりと濡れる気持ち悪さのどちらかで目が覚める。それが日常だった。どちらにしても何かひどい夢を見ていたような気がするものの、記憶には残っていない。ただ、辛くて心の痛む、目を覚ました時に安堵さえ覚える悪夢だという一点に間違いはないだろう。

 そんなだから、飛び起きた後に何をするのかも決まり切っていた。顔をお湯で軽く洗って、重い足取りでお風呂場に足を踏み入れシャワーを顔から一気に浴びる。髪を纏めるのも億劫で、最近は魔法で乾かしていた。

 この長い髪とは魔法少女になる前からの付き合いだけれど、相手にするのが億劫になる日くらいある。親しき仲でもたまには距離を置く日があっていいだろうと、そういう日には決まって魔法でほとんどを解決させていた。

 温かなシャワーをしばらく浴びれば身体は勝手に温まってくるもので、やっと落ち着きを取り戻した頃には寒気もすっかり抜けていた。

 机の引き出しから一冊の薄い日記帳を取り出して開くも、そこには日付と、飛び起きた時間だけが記されているだけで、解決できそうな手がかりなど何一つとしてない。私にできるのは、ただ甘んじてこの悪夢を受け止めるだけだった。

 壁にかけた時計はまだ深夜を指しているが、睡眠欲はあまりない。

 少しの手足の運動で力を抜いても、やはり眠くはならなかった。それどころか凄い顔になっている。

 

「……はぁ」

 

 まどかをこの世に引きずり込んでから、物事はただ何事もなく過ぎていった。

 少なくとも、最初は夢を見て飛び起きたりはしなかった。私は今の結果に満足していて何一つ後悔していなかったし、今も悔いなんて覚えがない。自分の意思で決め、己の意思を押し通すのだと決めたのだから、何も迷う理由などない筈だ。

 まどかは確かにそこに居て、人に囲まれて笑ってる。それは私のあらゆる全てに優先されるのだから。彼女が泣いたり苦しんだりせず、穏やかな幸せの中で生きているだけで、私も十分に幸せだと言い切れるから。

 あの戦いも、悲しみも、まるで何もかも幻だったかのように穏やかな日常が繰り返し、絶望や希望などを想うよりも、明日の天気とまどかの幸せにばかり気が向くようになった頃、寝起きの悪さが私に襲いかかってきた。

 

 こうも何度も何度もおかしな目覚めを経験すれば、己の精神と肉体が何かしら悲鳴をあげているのではないかと邪推してしまう。

 学校には通っている。まどかともクラスメイトにはなった。誰も私の邪魔をしないし、まどかには何も気づかせない。けど、まどかを無理矢理現世に連れ戻した事を少しも気にしている節がないのかと考えると、完璧とは言い難かった。

 ああ、その通り。もっと気楽に気兼ねなく、何の壁もなく彼女と友達で居られるのなら、それはとても幸せな事だろう。全てを忘れて彼女達の輪に紛れ込めたらどれほど毎日が輝くのだろうか。しかし、自分の目的の為に何をしたのかも忘れられるなんて、絶対に有り得なかった。

 我慢できる程度の誘惑と耐えられる程度の寂寥感には、今の私を揺るがすほどの強さがない。私は悪魔だから、己の行いに胸を張っていいのだ。

 

 そうしてぼんやりと起きたまま数時間以上が経ち、朝のシャワーを済ませて登校した私が真っ先にするのが、まどかの姿を確認する事だ。

 こうやって直に姿を見なくても、安全には気を配っている。万が一にも彼女の身に危険があってはいけないから。過保護だとか心配しすぎだとか、まどかは私の子供じゃない、だとか。そういう考えも多少はよぎった。しかし、今の私はそういう心配を誤魔化すつもりなんて欠片もなかった。

 だから直接姿を見る必要はなく、だけど、今の自分が何のために、どういう意図で存在しているのかを焼き付けておきたくて、こうして学校のある日はまどかの姿を目で追っている。彼女の席は私から四つ斜め上にあり、今は数人の友達に囲まれながら朗らかに話していた。

 

「それでね、昨日はなんだか変わった夢を見て……」

 

 話の内容を聞くつもりはなくても、耳に入ってくる情報は防げない。どんな夢を見たのかが気になって思わず聞き耳を立てると、近づいてきていた美樹さやかが私の前に立って視界を遮った。

 

「ちょっと、あんたどうしたの?」

「美樹さやか」

「はいはーい、美樹さやかちゃんですよー。で、その顔色はどうしたの?」

 

 明るく真っ直ぐな目つきと高めの身長で私を見下ろして、彼女はその健康な頭を傾けていた。眉を下げ、心配そうに近付けられる顔からは敵意を一欠片も感じない。

 

「顔色? 私の顔色に、何か問題があるのかしら?」

「あるから言ってるの。最近調子悪そうだったし、特に今日は一段と青ざめてるでしょ、寝不足?」

「……」

 

 思わず押し黙ってしまった。

 こんな風に、彼女が私に何の隔意も見せずに打ち解けた様子で話しかけてくるのも、私が今のような存在になってからだった。彼女に記憶がなく、私にも対立する理由がなく、結果として学校では空いた時間になんでもない話をして、ごく稀に下校に付き合うくらいの仲にはなった。

 その指にソウルジェムがあっても彼女は私に立ち向かってはこない。向けられるのは敵意でも剣でも正義感でもなくて、体調不良の友達を気遣う優しく真っ直ぐな善意だった。

 思わず笑みが漏れる。悪人らしい笑いが。

 

「ふふ、ありがとう……でも本当に、特に何も無いわよ?」

「分かりやすい嘘を言わないでよ。顔に出てるんだから分かるってば」

「……仮に少し顔色が悪くなっているとしても、あなたが気にする程ではないでしょう?」

「あたしの目には死にそうに見えるよ。きっと疲れてるんだって、少し休みなよ。ほら、行くよ」

 

 伸びてきた手を、その気になれば拒める。けれど妙に抵抗できず、肩を掴まれてやっと声を出せた。

 

「いえ、私は別に体調不良なんて」

「いーからいーから。そんな顔で平気とか言われても見てられないって」

「ちょっと。第一、あなたは保健委員じゃないでしょう?」

「別にそんな事は関係ない。それに、なんだかほっとけないっていうか」

「……大きなお世話よ」

「む、人が心配してるのに、何よそれ」

 

 不満げな彼女のキュッと閉じられた口に向かって、わざと小馬鹿にした笑みを一度だけ。実際に体調は悪くないのだから、私の事なんて放っておけばいい。

 だというのに、次の瞬間には美樹さやかは不敵に微笑んでいた。

 

「なーんてね、そんな顔色で強がられちゃ腹も立たないって」

「だから、あなたには関係ないことでしょうって、ちょ、ちょっとっ……」

「調子が悪くて気が立ってるんでしょ? 無理しないでよ、あたしが保健室まで連れて行くからさ」

 

 強めに手を引かれて思わず立ち上がってしまうと、美樹さやかが横から支えるように寄り添ってきた。制服越しの彼女の二の腕は柔らかく、しかし、頼もしいくらい力強い。

 その横顔には頼もしさがあり、彼女が生来持つであろう、善良で素直で、不器用なくらい真っ直ぐな感性の美点がうまく出ている。誰かを助けようと、あるいは守ろうとしている時の彼女はひどく格好良かった。

 彼女からそんな表情を引き出すほど、私の顔は惨状を晒しているのだろうか。もう少しお化粧で誤魔化せば良かったと悔いている内に、美樹さやかは私を教室のドアまで運び出している。

 

「あ……ほむらちゃん」

 

 通り過ぎざまにまどかは私を見ていた。私と美樹さやか、二人の組み合わせが意外だったわけでもないだろうに。

 何か言いたそうに手を前に出した彼女は、しかし結局は口を閉ざす。彼女の気配が遠ざかっていくのを背中で感じ、ほんのりとした寂しさを誤魔化し続けているとガラスに映った自分の顔が視界に入る。

 目の下の隈がひどくなり、退屈そうな無表情で固まった顔を見てしまう。なるほど、美樹さやかが保健室に連れ出そうとするのも納得させられる。

 思っていたよりも酷い顔色の悪さは、自分の不調を嫌でも突きつけてくるものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大切な事は二つだけ、まどかの幸せとその未来。そのためならば他のモノを踏みにじっても構わない。

 私の身勝手な意思がそう呟いた。それは、何かに答えるような心地だった。

 目を開けてみると見覚えのある保健室が視界に入る。そして、覚醒した意識と一緒に息苦しさがやってきた。

 

「ぐっ……ふぅ、はぁっ……!」

 

 胸をかきむしるように服を握り、荒い息を徐々に落ちつかせていると、やはり、何かひどい夢を見たような後味の悪さがよぎる。

 具体的な夢の中身は分からない。しかし、背中に冷たい汗が流れるような気持ちの悪さが雄弁に語ってくれている。

 そんな時、横から伸びてきたハンカチが私の額を拭ってくれた。視界に入れなくたって誰の手かくらいは分かった。

 

「ほむらちゃん」

 

 まどかがベッドの傍に座っている事は起きた瞬間に把握していて、驚かなかったと言えば嘘になる。顔には出さない程度に嬉しくて、瞳に溜まりかけた涙を堪えるのは相応の労力が要求された。

 彼女はベッドの横にある椅子にかわいらしく腰掛け、いつもの優しくてたおやかな顔を気遣いで一杯にしていた。

 

「大丈夫?」

「まどか……」

 

 時計を確認すると、私がここに連れられてきてからは少々の時間が過ぎており窓の外からはクラスメイトが下校している姿が遠目に見えた。

 まどかの足下には彼女の鞄がある。美樹さやかは一緒ではないのだろうか。

 

「どうして来たの?」

「すごく苦しそうだったから心配になっちゃって」

「……そう。ありがとう」

 

 受け答えの間もまどかは私の額に浮かんだ汗を拭い取ってくれた。見覚えのある白いカーテンで囲まれた中にいるのは、まどかと私の二人だけ。病院にも似た薬品らしい臭いの染みついた室内で寝ていると自分が入院している気分にさせられる。

 まどかは不思議と何も言わなかった。心配そうに私を見つめ、時折口を開くものの、意味の無い吐息を漏らすだけで黙ってしまう。彼女ほどのいい子が何か言いたそうにするのだから、それはもう気になった。どうしたんだろう?

 無言で待っていると、まどかは目を逸らして、何でもない事のように語り出した。

 

「ほむらちゃんは、どうして……えと、なんでもない」

「気になるから、言ってみて。変なことでも怒ったりはしないと約束するわ」

「……じゃあ……その」

 

 なんだろうか、不安などが顔に出ないようにと努力している内に、まどかはおずおずと口を開いた。

 

「どうして、わたしを見てるの?」

「それは……どういう意味かしら」

「あの……気のせいだったらごめんね。前から、よく目が合うと思ってて」

 

 嫌な汗が流れている気がする。私がまどかの姿を目で追っているのは正真正銘の事実だった。「そう」くらいの相槌を打ったけれど、心の中ではあたふたと言い訳めいたものが浮かんでは消えていく。

 「お友達になりたかったからよ」とか「貴女が魅力的だからじゃないかしら」とか、他の人になら幾らでも言えるはずの妄言が、まどかに向かっては喉すら超えてくれなかった。そして、気のせいだと誤魔化す為の言葉すら少しも出てこなかった。

 やっぱり、いつも見られているというのは嫌だろう。少なくとも私なら嫌だし、優しいまどかだって理由は聞きたいに違いない。しかし、私がまどかに何をしたとか、悪魔だとか、そんな事を聞かせるのは無理だ。

 いっそ白いシーツを被って隠れてしまいたい。それでも、まどかの視線を無視はできなかった。

 

「……貴女は、見滝原も久しぶりだろうから戸惑う事も多いんじゃないかと思って」

「心配、してくれてたんだ」

「私も見滝原には転校で来たから、気になっていたの」

「え、そうだったの?」

「誰かに聞かなかった?」

「えっと……聞いたことはない、かな。でもそっか、ほむらちゃんもなんだね」

 

 一番の理由ではなくても、本音だった。彼女の来歴を改変したのは私で、それによってまどかが被ったあらゆる苦労の責任は私にある。身体的な安全とは別な所で、彼女の心が健やかである事は決して欠いてはいけない。

 まどかが困っていないか、まどかは辛い思いをしていないか、鈍い私だからこそ気になって仕方がない。

 

「気にしすぎていたようね、迷惑をかけてごめんなさい。貴女が平気ならやめるわ」

「やめるっていうか、あのね」

「……何?」

「わたしは、ほむらちゃんともっと仲良くなりたいな」

 

 脈を取るように私の手首へと指先をあて、それからゆっくりと両手で私の手を握り包み込んだ。

 てっきり距離を置かれると思っていただけに、まどかの優しい指先の感触は意外さを伴っている。

 

「嫌われてたんじゃなくて、わたしを気にかけてくれたんだよね? なら、もっと仲良くなりたい」

「……そんな風に簡単に心を許してはいけないわ。ちゃんと相手は選びなさい」

「えっ? 選んでるよ? ほむらちゃんと仲良くなりたいか、きちんと考えたもん」

「……」

 

 嬉しい。飛び上がってしまいそうなくらいに嬉しい言葉だった。真心のこもった視線が嘘ではないと教えてくれるのも気分がいい。

 

「鹿目まどか」

「え? あ、うん、どうしたの?」

「貴女がそう思ってくれたのなら……いいわ、よろしくお願いね」

「……うん!」

 

 両手の平を合わせあい、うんうんと頷き合って私達はくすくす笑った。

 まどかの好意を受け入れるにはほんの少しの覚悟を必要としたけれど、いざ言ってしまえばこんなに落ちつくものはない。

 顔と名前を知っているクラスメイトから友達に、その移ろいはまどかと私の間に漂っていた空気を一息で書き換え、まどかの笑みが友達相手へのそれに変わっていくのも分かる。

 屈託のない和やかで柔らかな笑顔があまりにもかわいらしくて、彼女の身の全てから溢れた明るさは私の肌をふんわりと撫で、くすぐったくも気持ちの良い温かさをくれる。

 愛らしい華やかさでいっぱいのお顔が私へと真っ直ぐに向けられれば、その彩りが私の心を遮るあらゆる防壁をすり抜け、通り抜け、奥深くまで広がって私を舞い上がらせてくれた。

 

「まどか、私……」

 

 何かを言いかけた私の声が途中で止まった。まどかが首を傾げているけれど、説明している暇はない。

 嫌な感覚が心の中で光って、警告が響いた。

 

「ごめんなさいっ!」

「ふわっ、ほむらちゃん!?」

 

 とっさに思い切り引き寄せ、その肩を抱いて腕の中に収める。

 油断なんて一切しないように気を張って周囲を観察すると、すぐ傍のまどかが身じろぎした。

 

「ど、どうしたの、急に」

「少し……じっとしていて」

「え、え? あの、ほむらちゃん」

 

 まどかは私の肩にしがみついた。想定していたよりは驚かれていない。嫌がられてもいないのは救いだった。

 そんな彼女に何も言えないのは心苦しいけれど、言うわけにはいかなかった。その場の空気は重々しくなっていき、息苦しさと重々しい気配が強まっていた。

 

「あ、あれ? ご、ごめんね。からだが凄く寒くって」

「……」

 

 顔色が悪くなっていくまどかの身をしっかり抱いて、誰にも手を出せないように力を入れた。よりにもよって、まどかが傍に居る時に発生するなんて。

 

「ううっ……」

「まどかっ!」

 

 意識を失った彼女をとっさに受け止め、抱きしめながら様子を確かめた。

 大丈夫、息はしている。魂に何かされたわけでもない。ただ、気絶しただけ。

 確認すると同時にベッドを囲うカーテンがめくれ上がって、人の形をしていないモノ達が姿を見せた。それは魔法少女達から魔獣と呼ばれ、倒すべき敵として日夜争いを繰り広げている相手だった。

 この、おどろおどろしい気配が色づいたような不定形の魔獣達の視線がこちらを、まどかを見ている。明らかにまどかは狙われていた。

 

「っ……!」

 

 決して触れさせないように、まどかを抱きしめながら睨み付けた。

 それらは脅威という程の存在でもなく、今の私なら戦うまでもない相手だ。

 しかし、まどかに見られるわけにも行かず、息を整えながら目線を下げて彼女の様子を窺ったけれど、気を失ったままだった。

 彼女の目がなければ遠慮はいらない。ベッドから身を起こした今の姿勢のままで対処可能だから、静かに片付けようと力を入れる。

 すると魔獣の動きが完全に止まり、すぐに砕けて散った。想定した通りの結末。ただし、その力を使ったのは私ではなかった。

 

「失礼していいかな。いいよね?」

 

 その人間は何事か歌いながら保健室の窓を開けて入り込んできた。

 魔獣の残した気配をかき分けるようにしてこちらへ向かってくると、目が合った時点で足を止める。

 私の寝ていたベッドから二歩手前、そこでピタリと止まった彼女は、視線を私に這わせてきた。私の頭の先から顔へ向かい、続いて肩から足下までじっくりと移ってくる。

 数秒もすると、彼女はその場でひれ伏した。

 

「え?」

「ぁぁっ……」

 

 その人はぶるぶる震えて感嘆の声を漏らし、床に頭を何度も擦り付けた。明らかに異様だった。

 

「ぁっっ……暁美さんだ……きれいなひと……」

 

 全くの理解不能で、なおかつ不気味な独り言が嫌でも耳に入ってくる。

 

「……え?」

「あ、いえなんでも。その、頭を上げても?」

「確認しなくていいから、早く頭を上げて、いえ、立ち上がりなさい」

 

 平伏した頭を少しだけ上げ、彼女はゆっくりと腰を上げた。

 とりたてて目立つところのない顔をしている。髪は美樹さやかより少し短く、雑に乱れている。細く少年めいた起伏の少ない身体に見滝原の制服を着込んでいるが、どれほど顔を注視してもこんな生徒を見た覚えはなかった。

 スカートの端をひらりとつまみ、一礼する姿には気品などはなく、稚気と隠しきれない薄暗さが漏れている。薄らと濁った瞳に暗い悦びを浮かべ、その口元が漏れる喜悦を描く姿は不気味だった。

 気取った風だけれど、どこか根暗そう。自分の中で思い浮かんだ印象に、人の事を言えた身かと思い直す。

 

「はじめまして、暁美ほむらさん。僕の名前はどうでもいいから、気にせず流して欲しいな」

「魔法少女?」

「うんまあ、そういう感じ」

「……あなたは、見滝原の魔法少女ではないようだけれど」

「さて? 確かにずいぶんと遠くから来たけれど」

「なら、どこで私の名前を聞いたの?」

「あ、気になる? まあ、気になるよね。実は円環の理から降りてき……たぁっ!?」

 

 出現した私の使い魔が、槍をその子の喉元に向けた。

 私自身は眠るまどかを抱きしめて、決して渡すまいと腕の中で閉じ込める。

 突然の敵の出現だった。今まで見たことのない、明確に私の邪魔をする為に存在するであろう敵。その姿をしっかりと睨み付け、胸の中の困惑も脇へと追いやった。速やかに倒さなければ。

 

「ちょ、ちょっと! 僕はそういうのじゃなくって!」

 

 青ざめた顔から笑顔が吹き飛び、必死で首を横に振っている。両手は顔の前でおろおろと揺れ、瞳と一緒に動いていた。槍と私に視線を行ったり来たりするばかりで、私の隙を突こうとはしない。

 

「円環の理から来たのでしょう?」

「いやそうだけど! 待って! 僕は味方だ! 味方だよ! 僕は貴女の手伝いがしたくて来たんだ、本当だよ」

「それを信じるほどの馬鹿だと思われているなら、協力を申し出られても困るわ」

 

 敵意を込めて見つめると、向こうから視線を合わせてきた。慌てた態度で咳払いをして妙に落ち着き払った顔を見せ、半笑いで頷いてくる。

 

「いんにゃ、まあ信じない。無理だろうね。僕も信じないと思う。でも、暁美さんが信じなくても僕は勝手に手伝うから気にしなくていいよ」

 

 口にする言葉とは裏腹に、その視線は単純に気持ちが悪かった。今は私の輪郭をなぞるように視線が這う。感極まったように頬へ手を当て、うっとりと顔色をとろけさせる姿に思わず身が下がった。気づけばまどかを腕で隠すように抱きしめており、彼女の寝息が間近で感じられた。

 

「いや、ある程度は警戒されると思っていたけれど、暁美さんがここまで追い詰められているなんて……なんて美しい、じゃなかった、悩ましい」

 

 ぞわぞわとしたモノが走るのが止められない。

 手が伸びてくる。うっとりとした顔に貼り付いた二つの目には異様な光が宿り、その中に映る私の顔はただ困惑していた。

 

「……顔が。顔が、近い。あまり近づかないで」

「おっと、ごめんなさい」

 

 こちらの言うままに引き下がり、距離を取ったまま依然として私を見つめてくる。

 人にじっと見られて、ここまで悪寒がするのは初めてだった。

 まどかの姿があちらの視界に極力入らないようにシーツで隠しながら、努めて無表情を維持していると、何故か感嘆の吐息を漏らされた。

 

「実物は想像の数倍美しいものだなあと思って」

 

 じっと、動かずに。その視線は私の胸に集中していた。

 思わず手で己の身体を隠そうとしてしまう。

 

「どこを見ているの」

「心臓を」彼女は何一つためらわずそう答えた。「一度病を抱えて、それから回復して、だけど、か弱いまま傷付いて、その果てに苦しみの中でも美しく鼓動する心臓を。あ、それから綺麗な体も見ていたけどね、ふふん」

 

 聞くに堪えない発言を頭の中で素通りさせていると、彼女はうっとりと続けた。

 

「耳を澄ませば貴女の心臓の音が聞こえそう。聞かせて貰えもらえたら嬉しいんだけど、胸に耳を当ててもいい?」

「そう言われて聞かせると思うのなら、あなたは自分を見つめ直した方がいいわ」

「だよねー」

 

 あっけらかんと言い返し、両手を頭の上に置いている。とぼけた様でいながらも瞳は爛々と濁っており、決して油断ならない色彩を放っていた。

 

「それで、味方というのはどういう意味?」

「もちろんそのままの理由だよ? 例えば、魔獣が円環の……違うか、貴女達を襲った理由も分かってる」

「……説明を聞いてもいいかしら」

「もちろん! 暁美さんの頼みなら断れないね」

 

 腰に手を当てて「まかせて」と言いたそうに得意げな顔となり、私の求めた説明を口にしようと女が口を開けた時、まどかが小さな声をあげた。

 眠たげな、同時に目覚めを予感させる吐息の漏れに私と女は同時に顔を見合わせ、女が首を横に振る。

 

「ああ残念、まどかちゃんが起きるかな。詳しい話はまた今度でいい?」

 

 入ってきた時と同じように窓枠へと手をかけて飛び乗り、振り返りながら小さく手を振ってくる。

 

「それじゃ僕はこの辺で。まどかちゃんへの説明はよろしくね。僕は面識がないから誤魔化せないんだ」

「待ちなさい、先に日取りを決めておくべきよ。場所と時間は……」

 

 まどかが起きるより早くにと早口気味に、一方的に決めた集合場所と時間を告げたが、女は一切嫌な顔もせずに頷きながら聞き入れた。それどころか、目に見えて幸せそうに両頬へ手を置いて、感極まったように震えている。

 

「勝手に決めさせて貰ったわ。問題ないかしら」

「もちろんないよ。ああっ、まどかちゃんが起きちゃうね。僕、急ぐからこれで!」

 

 窓から女が去っていくと、その存在の痕跡はどこにも残らなかった。漂う臭いもシーツの白さも知っている通りの保健室のまま、直前に魔獣と戦っていたなんて恐らくは誰も気づかない。

 同時に、まどかの目が開く。ぼんやりした目が私を捉え、明瞭ではない声が私の名前を呼んでいる。

 

「ほむらちゃん……あ、あれ? ここ、わたし、どうして?」

「覚えていないの?」

「えっと……確か急に寒くなって、なんだか意識が遠くなって……」

 

 声音がはっきりとしてくると、まどかは一息をついた。息遣いに乱れはなく、目つきに疲労は見らず、いつも通りのほんわかとした、和やかさに満ち満ちた優しい瞳と顔色をしている。

 ひとまず、この場で何が起きていたのかを知覚している様子はない。

 

「貴女は疲れていたの。だから少しの間、休憩時間を取っていたのよ」

「ずっと見ててくれたの?」

「……ええ」

「そう、なんだ? ……えと、ありがとう、ほむらちゃん。大変だったよね」

「いえ……時間はあるから、お構いなく」

 

 淡々と答えたその時、まどかの目が僅かにきらりと輝いた。それが彼女の優しさの発露とも呼べる明るい光が溢れたのだと気づいた時には、既に両手が握られていた。 

 

「あの、さ」

 

 温かな手に包まれて、手の甲から指先がゆっくりと撫でられる。振り払おうと思いはしても実践はできず、無愛想な顔で答えるのが精一杯だった。

 そんな私の中途半端な対応に気を悪くする気配は一切なく、まどかが瞳を遠慮がちに覗き込んでくる。

 

「ほむらちゃんは、あの、勘違いだったらごめんね。ひょっとして、わたしと昔、どこかで」

「そんな事はないわ。勘違いよ」

「そ、そっか、ごめんね」

「いえ、別に構わない。それより身体はもう大丈夫かしら」

「う、うん! なんだかちょっとの間だけ調子が悪かっただけみたい」

 

 魔獣は幸いな事に彼女の心と体に影響を残さなかったらしく、すっかり元気そうだった。

 

「ほむらちゃんこそ少し元気になってくれたね。良かった」

 

 自分の事のように安心してくれるのが嬉しくて、目を逸らす。

 

「……まどかは、まだ帰らなくても大丈夫?」

「あっ、もうこんな時間。ほむらちゃんはどう? 帰れそう?」

「もう平気よ。体調も良いし、一人で帰れるわ」

 

 だからまどかは早く帰って家族と過ごす時間を大切にすればいい。私なんかに構う時間より、そちらの方が遙かに重要で忘れてはいけない筈だから。

 それでもまどかは私の瞳をじっくり見つめ、透明なまでに清い声を向けてくる。

 

「あのね、今日はこの後、予定とかある?」

「特にないわ」

「じゃあその、一緒に帰っていい、かな」

「え、ええ……ええ」

 

 しっかり繋がれた手を引かれ、まどかに導かれるように腰を上げた。

 保健室の中にある救急箱や薬剤の臭いも、綺麗に洗濯されたシーツも、それから窓の外から聞こえる運動部のかけ声も、どれ一つとして変わっていない。魔獣が現れたコトも、それを倒した女の存在すらも、まるで幻のようだった。

 しかし、幻などではない。まどかと並んで保健室の扉を開けて外へ出ながら、横を見れば彼女の顔があって微笑んでくれる事実にどうしようもなく心を浮き立たせつつも、その身を狙う何かの接近を見逃さないように身体へ力を入れた。




本作は十万字ほどで完結し、それを既に書き終えています。
これを書き始めた頃は半年以上前だったので、これを書いた時点ではまだ続編が出るとは知りませんでした。
幾つかのパロディがあるのは私に余裕があった証です。そちらについての話は色々と、本当に色々と思うところがありすぎたので、ここでは書きません。

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