気づいた時には、学校の通学路の上に立っていた。
天気もよく空は明るいというのに、そこには誰も歩いていない。いつもなら一緒に居てくれるまどかの姿もなく、私一人だけがぽつりと存在している。
誰か居ないかと学校へ向かって足を進めたけど、やっぱり、人の気配はない。
眼鏡越しに見える綺麗に舗装された道の傍には小さくて浅い川が流れ、植えられた木々が道を守っていて、水と木の清涼な空気が登下校中の気分を明るくしてくれて、とても好きだった。
まどかと一緒に学校へ通うようになって、この学校まで続く真っ直ぐな道が日に日に魅力を帯びて、この道を歩くのが毎日の楽しみの一つだ。
なのに、友達がいない通学路は寂しくて、だんだんとこの世界に一人だけ取り残されたような恐怖が首をもたげてきた。
「だ、誰かいませんかー……」
「いるよ」
「え、うひゃあ!」
慌てて振り返ってみると、そこには一人の女の人が立っており、喜びとも悲しみの綱引きでもしているような面持ちをしていた。
見滝原の制服を着込んでいるが、知らない人だ。別の学年なのかもしれない。
「驚かせたかな。心配しなくても、これは夢だよ。僕が見せてるただの夢」
「は、はあ。そうなんですか……これ、夢なんですね」
「うん。だから僕の事も気にしなくていいの」
どうやら、ここは夢の中らしい。
疑ってもおかしくないのに素直に受け容れられる。
「あなたとお喋りがしてみたくてね。お茶は用意があるし、椅子と机も準備しておいたんだ」
彼女が少し横へ避けると、そこにはパラソル付きの丸いテーブルがあり、空になったグラスだけが置かれていた。さっきまではなかった筈のものだ。
椅子は二つ用意されているのに彼女は何故か使わず、椅子を引いて後ろで立っている。
「まあ、座って」
彼女は椅子を引いて手招きしてきた。目が濁っているのがどことなく不安をかき立てるが、ここで逃げると何をされるか解らない恐怖感があり、恐る恐ると椅子へ近づいた。
腰掛けると、彼女は黙ってティースタンドとスコーンを持ちだしてくる。ジャムもセットで付けられていた。カボチャのケーキも乗せられており、どれも綺麗に整えられている。
私の前にお菓子の数々を並べ終えると、女はしゃがみ込んでテーブルに肘をつき、両頬に手を当てて覗き込んできた。視界に入ってくる顔は嫌に期待感に満ちており、不気味なまでに好意的な視線を浴びていて、ケーキやスコーンに手を付けるのが怖くなった。
「食べる?」
「いえ……大丈夫です」
「ふふ、美味しいのに」
彼女がパチリと指を鳴らすと、お菓子は全部消えてなくなった。一瞬、顔から感情が消えたのは気のせいだったと思いたい。もしも食べてしまったら私はどうなってしまったのだろう。
なぜか私の服装も変わっており、さっきまでは学生服だったのに今は白のワンピースに包まれていた。まどかと一緒に着た覚えのあるこの純白は、彼女の方が遙かに似合っていた。
「で、どうかな。まどかちゃんとは上手く行ってる?」
「……まどかと? えっと、どうしてですか?」
「前からずっと見ていたからね」
やはり、彼女は座ろうとしない。空いている椅子に座る人がもう決まっているかのように振る舞って、自分は地面に膝をついている。
嫌ににやけて語る様は見るからに怪しく、聞かれたからって素直に答えたら、まどかに迷惑をかけてしまうかもしれない。
夢の中であっても、不用意に答えると何かが起きてしまうような悪寒があった。
「……」
「不審だから言えないかな?」
こちらに手が伸びてきて顔を叩かれるんじゃないかと思い、とっさに顔を引いたが、彼女は何もしてこなかった。
「……おめでとう、とか言うべきかな。まどかちゃんと上手く行ってるようだしね」
「は、はあ……ありがとうございます……」
「うんうん、幸せそうでなによりだ」
そう言って微笑んでいる筈なのに、僅かな喜びすら伝わらない。
壊れて二度と直らない芸術品を見るように、ひどく残念そうに顔を覆って溜息まで吐いている。
「やっぱり何も覚えていないかあ」
「な、何を言ってるんですか?」
「ああ、大丈夫。こんな夢はすぐ終わるから気にしないでいいよ」
手をひらひら振って立ち上がると、女は私からやや距離を取る。数歩分だけ離れた頃に振り返った顔には、やはり無感情な微笑みが浮かんでいる。
夢の中の人なのだから当然といえば当然だけれど、どこから見ても面識のない人だった。姿形も声も初対面のそれで、相手の物言いだけが知り合いなのだと伝えてくる。
投げつけられるような好意の暴力に顔を合わせているのが辛くなって、そっと首を傾け視線を外す。すると、眼鏡がなぜかずり落ちて地面に転がり、広う間もなく溶けていった。眼鏡なしでは上手く見えない筈の視界は逆に鮮明となって、テーブルの上にあったグラスのドリンクが溢れて足下に流れ落ちる瞬間すらも見逃せなくなっていた。
夢の中だから、そういう事だってある。あったって不思議じゃない。だから気にしない方がいい。
言い聞かせながら胸に手を置き、嫌に激しい鼓動を感じた。まるで、何か自分の中の開けてはいけない引き出しをこじ開けられようとしているような。
「や、やめてくださいっ……」
「いっそ、無理矢理にでも戻せないかな……」
胸が苦しいのではなく、魂が苦痛を覚えているのだ。胸元を激しく握りしめてその場で俯いて何とか息を吐いた。それがどれほど続いたか、不意に全ての苦痛が止んだ。
すっかりと止んだ苦しみに顔を上げると、私の手を、誰かが握ってくれていた。やけに神々しくて、でも、よく私に触れてくれる指だった。
その指が誰のものなのか、私がわからないわけがない。
「まどか?」
姿は見えない。でも、確かに存在を感じる。私の手を握って、目の前の彼女を見つめている。そして、ゆっくりと静かに言い放つんだ「ほむらちゃんを、虐めないで」と。
女にもその声は聞こえたのだろうか。痺れるようにビクリと震え、大きな息を吐いて髪をかき乱すと、頭を押さえたまま地面に座り込んだ。
「……ごめん、君の内側に暁美さんが眠っているのを期待したんだ。無理矢理引きずり出そうとしたけど、やっぱり、君の中にはもう無いんだね」
「な、何を言ってるんですか?」
「私が貴女の助けになりたかった理由はね、友達の大切な娘に消えて欲しくないからだった。少なくとも、最初は。でも、貴女を尊敬していたのは本当だよ。何の嘘もない」
恐らく、私に話しかけているわけじゃないんだろう。遙か彼方、あるいは過去に向かって声をかけ続けている。
「でも、ああ……もはやあなたは暁美ほむらじゃない。あの、世界の何より尊い暁美さんは、もうそこにいない……できることなら、君を元の暁美さんに戻したかったけど……無理か」
女は立ち上がり、私から離れていった。
四歩、五歩、六歩と歩いた頃だろうか、彼女は急に首を傾けて振り返り、それまでで一番に明るい顔になった。
「でも、魔法少女でなくても悪魔でなくても、貴女はきっとあの暁美さんになれる」
「え……?」
「それまでは心配しなくていい。少なくとも君とまどかちゃんと、その家族くらいは私……僕の目が届く範囲だから。コレでも一応は人間を卒業した身だから、視界は広いんだ。例のあいつらにだって手出しはさせないよ……ああ、これは独り言。貴女はわからなくていいんだ。わかったら僕がまどかちゃんに怒られちゃう」
私の反応を一切待たず、女はまた歩き出した。その道の先には学校がある筈だけど、目的地はそこじゃないんだろう。
口からこぼれるような、調子のあまり合わない歌声がこちらまで流れてくる。
「忘れない」
「自分のためだけに、生きられなかった、淋しい人」
「私が」「あなたと」「知り合えたことを」
「私が」「あなたを」「愛してたことを」
「死ぬまで」「死ぬまで」「誇りにしたいから」
歌い終えた女は、振り返らずに足を止めた。
「ああ、そうだ」
背中が遠ざかり、もう声も届かないくらいの距離だというのに、近くで話しかけられているように声がよく響く。
「……今度こそ、まどかちゃんと一緒に……幸せにね。しばらく、私と会わずに済むように願ってるから」
そう言われた瞬間、空に、周囲に、地面に、テーブルに、小川に、グラスに、思い出が浮かんだ。
まどかの涙と悲しみに、それから死に顔と、まどかの嘆く声が響く。まどかと約束を交わす私の声や、まどかを助けられずに慟哭する私の姿も。目を覚ませと、自分の中にすでにないはずの物が叫んでいる。
でも、それが鮮明に見えるより早く、誰かが「大丈夫だよ、ほむらちゃん」とささやいて、私の目を覆ってくれた。
+
たまに悪夢を見る。
でも、その苦痛は朝から届くまどかやさやかのメッセージでかき消されて、後には残らなかった。寝起きは辛いけれど、それが過ぎれば友達と過ごす楽しい日々が待っているから、寝るのが苦だとは思わない。病院のベッドで不安に包まれながら目を閉じるよりも、ずっとずっと幸せだった。
それでも今日の夢はひどかった。どんな内容だったかは、ぼんやりと思い出せる。
あの、恐ろしい目をした女の子。気になる所は沢山あったのに、身に着けていた指輪の宝石がひどく濁っていたのが嫌に記憶に残った。
「円環の理?」
妙に耳に慣れた単語だった。だけれど、どこで聞いたのかは全く思い出せず、どんなに記憶をひっくり返してもそれらしい意味合いが現れない。
漏れた欠伸を噛み殺し、眼鏡をかけて歯を磨き、朝の準備をしながらも夢の中で感じた恐怖は残り続けた。自分が自分である事を否定されるような、足下から自分が崩れてしまう怖気だった。何かを見せられた気がするのに、それは思い出せない。思い出さない方がいいんだろう。
ふと、髪を編んでいる時に怖気が強くなり、誰かに見られているような気がした。夢の中で向けられた視線とよく似ていて、でも、この家には他に誰も住んでいない。
心なし程度に急いで髪を整え、制服を着たら朝ご飯のパンがちょうど焼け、口にくわえたまま駆け足気味に誰も居ない家を出て通学路へと向かう。
しばらく走ると、合流場所でまどかとさやかが待ってくれていた。
前には志筑さんも居たけれど、彼女は恋人と一緒だから合流するのはもっと学校に近づいてからだ。私にもそんな相手が出来る日が来るんだろうか。思い描こうとしてみたけれど、どう頑張っても上手くいかなかった。
「ほむらー!」
「あ、ごめんなさいっ、遅くなっちゃって!」
後ろから抱きつかれるのも最近は慣れてきて、さやかの声が少し上から聞こえるのが心地良かった。
「今日はまた疲れてるんじゃない?」
「えっと、疲れる夢を見たからからもしれない、かな」
「ん? どんな?」
「なんだか声をかけられて……なんだろう、よく分からない事を言われて、気づいたら起きてたの」
昔ほどまどかに頼り切りじゃない。平気だよって笑いかける事だってできる。
ただ、上手く笑えなかった。
「起きた後も視線を感じたっていうか、なんだろう……」
「ほむらちゃん、ひょっとしてその視線、よく感じるの?」
「う、うーん……そう、かも」
「ほむら、あんたまさか不審者に付きまとわれてるんじゃ」
「え、ええっ……? そんな、まさか」
「いやいや、油断しちゃダメだよ。ほむらってかわいいし、狙ってる奴が居ても不思議じゃないって」
そんなわけない、と答えてはみたけれど、考えていく内にひょっとしたらそうなのかもしれないという恐怖感がこみ上げてきた。
言われてみれば一人で居る時に視線を向けられている事が多い。家で髪を解いている間や、眼鏡を外した瞬間は特に誰かが見ている様な気がして、家に居ても心が休まらない時間が増えていた。
まどかやさやかの心配が本当に当たっているなら、一体誰が私なんかを見ているのだろう。想像するだけでも怖くて、それが表情に出たのかさやかが私を横から抱きしめてくれた。
「ひとまず今は大丈夫、ここにはあたしも、まどかも居るからね。不審者だって狙ってこないよ。もし居たとしても、あたしが守ってあげるって。あたしは強いんだぞー?」
「ふぁっ……」
ウインクを飛ばして密着し、守るように腕の中へ入れてくれる。人が傍に居てくれて、怖がっていた自分が薄れていく。
ホッと息をつくと、脇腹をさやかの指先がなぞってきた。
「ふふ、あははっ、くすぐったい、もう、さやかっ」
「それにしても、ほむらはズルいくらい良い匂いだよねー」
「そんな、さやかの方が」
「いやいや、そこまで謙遜しなくても。毎日気合いを入れてお手入れするの大変でしょ? あたしはその辺りあんまりだしさ。この髪も、好きなんだよねー」
頭を少し乱暴に撫でられた。私を安心させる為に、いつもより更に明るく楽しそうに振る舞ってくれている。
さやかのそういう優しさに触れると好きにならずにはいられなかった。その指に何か指輪めいたものを着けている気がしたけれど、よく分からない。
「さやかちゃんは、頼りになるもんね」
私達を横からニコニコ眺めていたまどかだけれど、声音には寂しさがこめられている。
慌てて首を横に振った。
「そ、そうじゃないの。まどかが頼りないとかじゃなくて……でも、なんでだろう、まどかには、その、頼って貰える自分になりたいの!」
「……えへへ。なら、わたしも頑張らないと。ほむらちゃんに頼って貰わなきゃね」
まどかは嬉しそうに手を握ってくれた。ごく当たり前に絡められる指先は絶妙に加減されていて、心地よさだけを与えてくれる。
「じゃあ、今日の放課後はほむらちゃんの家で本当に誰かが見てるのか確かめよっか」
「う、うん。でも、いいの? 怖くない?」
「平気っ。ほむらちゃんが怖い思いをする方がずっと嫌だもん」
「なら、あたしも一緒に行って良い? 三人居た方がいいかもしれないしね」
まどかに抱きしめて貰ったり、手を握ったりして貰うのが好きだった。そこに彼女が居て、私に優しくしてくれるのが何より雄弁に伝わってくるからだ。指から伝わる思いやりがいつだって私を幸せにして、助けてくれた。
「心配要らないよー。あんた達はあたしが守ってあげるからっ」
「わうっ、さやかちゃんっ」
さやかが後ろから私達の肩に手を回した。私達の真ん中で、大事な物を守るように抱き込んでくれて、そんな扱いに私とまどかは思わず目を見合わせた。
そして、同じタイミングで私達は小さな声を上げて笑い、三人で一緒にいるという今を噛み締めるようにくっついた。
「ありがとう……」
私は、すごく幸せものだった。壁なんてなくて、わたしを大切な友達として迎え入れてくれた。
どこかで「私にそんな幸せが許されていい筈がない」「あの子の守った全てを否定するのか」「思い出して」と囁く声が聞こえるような気がする。
まどかはわたしを受け入れてくれた。私の望みを叶えてくれた。そして一緒に学校へ行ける。それなのに。それなのに。どこかで声が聞こえるような、視線を覚えるような。
でも、まどかの手がわたしの耳を塞いで、声は聞こえなくなった。
「ま、まどかっ?」
「ふふ、ほむらちゃん。大丈夫?」
「う、うん。大丈夫……」
「そっか。良かったぁ……」
まどかは小さくつぶやいた。
「ほむらちゃんを怖がらせちゃダメだよ」
遠くて近いどこかに向かって話しかけているような、ここではないどこかを見ているような顔だった。
まどかが見せる顔としてはあまりにも寂しくて、思わず声をかけた。そうしなければ、まどかがどこかへ遠くへ行ってしまいそうだった。
「まどか?」
「なんでもないよ。ほら、学校へ行かなきゃ」
「ん、そうだねー」
こちらを向いたまどかの顔はいつになく大人びた精悍さすら漂わせていた。その口から出る言葉も優しさも何も変わらないのに、見惚れるくらいに力強くて。
私もこんな風になれたらいいなって、そう思ってしまった。
やっぱり私は、二人に比べてずっと見劣りする。二人と並んで励まされて手を引かれるように学校へ向かっていると、余計に自分がダメな子なんだと実感してしまう。
それでも、まどかは、さやかは私を大事な友達だと言ってくれた。
だからこそ、いつかは、と思う。いつかは私が、まどかを助けられるような強い子になりたいんだ。
その為にも、視線を感じるくらいで湧き上がる恐怖に屈するのはやめる。
夢の中で見た光景はほとんど覚えていないけど、切れ端くらいは残っていた。私と同じ姿をした人が、周りの人に全く物怖じせず、冷静な立ち振る舞いで堂々と髪をかき上げている様。
ああいう風に強くなるのが、今の私の目標なんだ。
「まどか、さやか」
「うん」
「何?」
「……二人とも、大好き」
今は頼ってばかりのダメな私でも、頑張って強くなって、まどかにカッコいいって言って貰える、名前負けしない燃え上がるような自分になるんだ。
まだ一人じゃ無理だけど、まどかとさやかが一緒なら勇気を持っていられる筈だから。
死ぬまで誇りにしたいから