玄関を開けると、まどかの生きている気配が詰まった空間が私を迎え入れてくれた。窓から差し込む和やかな光がお庭の草木と家族の団らんの場を照らし出し、外で家庭菜園をしているまどかのお父様の背中が目に入る。
ほんの少しだけコーヒーの香りがする中、綺麗に掃除された床に足を踏み入れると、そこは私の身体が映り込んでいそうなほどに光っていた。
「たっだいまー」
「お邪魔します……」
努めて柔らかい笑みを作ってまどかのお父様に挨拶を済ませ、洗面所で手指などを綺麗にするのを済ませてから、まどかの部屋へ向かう。勝手知ったるほどではないけれど、内装は知っていたから迷わない。案内してくれるより先に動かないように気をつけながら、その中へ。
かわいらしい色合いの模様が入ったカーテンで外の景色は見えなくても、麗らかな日差しの優しさが部屋の中を撫でている。ベッドの上に乗ったぬいぐるみの数はずっと前の世界で見た時より増えているものの、記憶の中の彼女の部屋とは少し違って荷物は僅かに少なく、引っ越してきてからまだ開けられていない箱が二つほど積まれていた。
まどかは私の背を押すようにベッドへ座らせると、ぱたぱたと嬉しそうに部屋を出て、お茶とお菓子を手に戻ってきた。
「マカロンは食べられる?」
「ええ、好きよ」
紫と桃色のマカロンが二つずつあって、私達は示し合わせたように片方の色を手に取った。恐らく味は同じだろうけど、色が違うだけで何となくの印象はずいぶんと異なる。
口当たりのよい甘さと柔らかな食感の重なり合う演奏の見事さよりも、隣にいるまどかと一緒に美味しいものを食べているのが遙かに重い事実として胸に落ちてきた。
ただ友達の家に遊びに来ただけ。それだけ。でも、まどかの部屋が存在する事にすら何かしらの感慨があった。彼女の存在が消えていた時はこの部屋に誰も居なかった筈だから。
「このマカロンおいしいね」
「ええ……あの、ありがとう」
甘みを心地良く味わっている間の私達は言葉をほとんど交わさなかったけれど、それで良い気がした。なぜって私は幸せだったし、まどかも笑顔だったからだ。
空気と一緒に甘みを味わい、口の中から滑らかなクリームのような後味すらすっかりと消えた時、まどかが私の横顔を見つめた。洗い立てのような純白のシーツを掴んで切なげな息を吐く姿がどうしても気になってしまう。
「何、かしら」
「んー……やっぱり、ほむらちゃんは美人さんだなあって」
「そんな事はない。あったとしても、まどかの方がずっと魅力的で間違いないわ」
「ほ、ほむらちゃんはわたしを持ち上げすぎじゃないかな……?」
やはり、今ひとつ信じられていないような顔をされてしまった。どちらかと言えば困っている風でもあり、あまり熱心に語りすぎてもいけないだろうと口を噤む。
まどかは可愛らしくも凜々しい時があり、非凡な勇気と強さを兼ね備え、他者に優しく手を差し伸べられるだけの慈悲深さすら持っている。例えどこの誰が彼女を普通の女の子だと言ったとしても、私にとっては何より大切な人だと考えるのに迷いはなかった。
そのようなまどかの良い所を幾らか掻い摘まんで伝えたつもりだけれど、言えば言うほどまどかを困らせてしまって、彼女は自分の頬をかく。
「え、えっと、ほむらちゃんは好きなお菓子とかある?」
「そうね……」
わざとらしく話を逸らしにきたまどかの意思は都合がよく、ここまでの会話をひとまず無かった事にして、私達はとりとめも無い世間話を始めた。
純粋に楽しいお喋りが続くと、あっという間に時間が過ぎていく。お菓子もすっかり食べきってお茶のお代わりまで貰い、まどかが何回か座り方を変えた頃になると、窓の外から窺える光が少しずつ落ちていくのが分かった。
時計はまだ夜を示さず、しかし漂う空気はすでに暗く、小さな欠伸すら耳に届く。
「ふぁぁ……ふぅぅ、ごめんね、なんだか眠くなってきちゃった」
「そう。なら私はこの辺りで失礼しましょうか」
この時間からまどかが眠そうにしているというのは珍しかった。話し続けて疲れをためてしまったのかもしれない。
私が居れば落ちついて睡眠に入れないだろうと立ち去ろうとするも、まどかの腕が私の掴んで離さなかった。
「ほむらちゃんっ」
「あうっ」
横から抱きつかれ、私達はごく自然にベッドの上に寝転がった。そのまま一気に布団が肩まで被さってくると、まどかは横向きで私と目を合わせてくる。
眠そうだけど、それ以上に澄んだ慈悲深い瞳の在りようは、彼女の存在をより一段と高次元に引き上げている感覚がある。思わず彼女に干渉する何かの存在を疑ったけれど、そのような気配は微塵もない。
お布団から起き上がろうと身じろぎしても解放してはくれなかった。逆に背中へ手を回されて、なだめるように胸の裏側を撫で回される。
「ほむらちゃんにも、一緒にお昼寝してほしいな」
「……なぜ、かしら?」
「うーん、あのね、ほむらちゃんもまだ眠り足りない気がして」
「別に体調が悪いわけじゃないわ。十分に休んで回復したわよ」
「でも疲れてるんだろうなって、そう見える事が多いから。心配になっちゃって」
今の私が享受するにはあまりにも贅沢な優しさばかりを与えてくれて、屈託のない笑顔で向き合ってくれる姿勢に、思わず声が出る。
「鹿目まどか」
「う、うん」
「……お気遣いには感謝するわ。けれど……友達みんなにここまで手厚い優しさを振りまくと、貴女が疲れてしまうわよ。だから……」
「でも、ほむらちゃんに辛そうな顔なんてして欲しくないもん」
「ありがとう、その気持ちだけで嬉しいわ。でも」
「一緒に寝るのって、わたしは好きなの。ほむらちゃんは、嫌?」
無駄な抵抗を試みた私の口が、半開きのまま固まった。眼前に現れたのは大人びた顔で、憂いの秘められた静かな表情だった。
「……それは」
「えいっ」
「きゃっ……!」
ベッドの中に潜り込まれて、被せられた布団の中でまどかと目が合った。
「だ、だから、まどか、少しは警戒をっ……」
「いいの」
頭が彼女の腕の中にすっかりと収まり、額がまどかのみぞおちの辺りに触れた。
彼女の存在感がいっぱいになって、そのまま頭を撫でられるのが本当に心地良い。逃れようと身をよじってみたけれど本気にはなれず、動こうとする度にひと撫でされて力が抜けた。 たちまち抵抗する気構えがなくなった。それどころか自然と眠気まで湧き上がり、まどかの垂れた瞳に見守られながら眠るのだと思うと、いつもより気分良く眠れる気がした。
「大丈夫、心配要らないよ」
まどかは何度かそう繰り返した。何に対して言っているのかはよく分からなかった。
+
「すぅ……すぅ……」
規則正しいまどかの寝息は、それだけで良質な睡眠を感じさせるほどに良いリズムを刻んでいる。
結局、夕食まで一緒にいただいてしまった。まどかのお父様もお母様も私を歓迎してくれて、タツヤくんを含めた五人での夕食には遠く昔に置いてきてしまったような味わいがあった。もちろんとても美味しかった。
こうしてまどかと眠っていたからか、少しだけ肩の力が抜ける。このまま、今日だけはまどかと二人で深い眠りに包まれていたいと素直に思えるくらいには。
静かに、静かに身を起こす。まどかを起こしてしまってはいけない。
お布団を足回りにかけたまま髪を撫でると、指先にまどかの髪が一本絡みついていた。密着して眠っていれば自然とお互いの髪が混ざり合っていたので、その中の一つなのだろう。
感謝したくて、感謝したくてたまらない。まどかが私のために使ってくれた時間は本当に過ぎるのが早く、あまりにもったいなさすぎて時間に止まって欲しくもあった。
「ありがとう……ちゃんと、休めたわ」
少し、自分が思い詰めすぎていたような。そのような覚えがある。
寝起きが悪かったからか、それとも考える事が多かったからか。今の自分になってからというものの、遮二無二で必死になって戦い続けていたあの頃に比べると多くの余分な時間があった。
そうなってくると、空いた時間で未来を思い描き、そこで産まれた予測と不安に対して自分に何が出来るのかと考え込む時間も増えてくる。
人格面で自分が優れているとは思えないので、まどかの幸せは彼女を大切にしてくれる沢山の人に任せた。現にご家族はまどかを愛していたし、幸せな家庭なのはただ一日の夕食を共に過ごすだけでも察せられる。学校に居る時もそうだ、クラスメイトでまどかと仲の悪い人間なんて一人もいない。あんな優しい子を嫌う人が居たら許さない。どれほど確認してみても、まどかに悪感情を抱いている人間の存在は見られなかった。
私が手をつける余地なんてどこにもなくて、あるのはただまどかの屈託のない笑顔と、ただ平穏に過ぎゆく日常だけ。それがどんな宝石より貴重で高価な奇跡なのは、よくよく知っている。
そんな何より尊い日常を、誰かが傷つけるのではないかと目を光らせ続けた。いつ、どんな瞬間であっても敵の存在には気を配り続けた。円環の理からの干渉、インキュベーターの暗躍、魔獣の発生、魔法少女の接近、まどかに危害を加えようとする人間の活動、それから、まどかの生活を害するすべて。あらゆる可能性を想像して、やれる限りの精一杯は尽くしてきた。
ただ、思えば少しだけ、無理をしすぎたような気もする。
一ヶ月間の繰り返しという明確な区切りがあった時と同じ調子で自分を鼓舞し続けていると、そう遠くないうちに私は疲れ切って崩れ落ちてしまったかもしれない。私は、まどかが生きている限りずっとずっと警戒を続けなければいけないのに。
まどかがくれた優しい時間のお陰で、一つ二つ深呼吸ができた。けれど、それは私が戦わない事を意味しない。
「まどか」
眠る彼女に小さな小さな声をかけ、艶やかな髪をひっそりと撫でた。その何もかもが私にはもったいなさ過ぎる幸福に他ならない。
人に沢山優しくして、大切にして、己の身すら他者の為に捧げてしまえる魂は常に輝いて。こういった善意を振る舞える子だからこそ何としてでも助けたいと真摯になれる。
「んむぅ……」
「あっ……」
頬をゆっくりと撫でていたら、まどかの目が覚めそうになっていた。慌てて手を引っ込めようとしたけれど、まどかは私の指を掴まえて、そのまま己の頬に当てさせる。
私は導かれるように布団の中へ戻り、もう一度彼女を抱きしめて、同じように抱きしめ返された。本当に幸せな眠りが、私を包み込んだ。
+
朝の眩しい日差しから逃れるように木々の影を歩いていると、合流してきた美樹さやかがこちらの顔をまじまじと観察してきた。影のすぐ外側を歩くまどかが、私達に向かって小首を傾げているのが見えた。
「うーん」
一歩こちらに距離を詰めると、美樹さやかは唸った。もう少し顔を前に出せば鼻先が触れ合うほど近い。
あまり距離が近いのは得意ではなかった。それなり以上に仲良くなると、彼女は心だけでなく身体の距離感も一気に詰めてくるのだ。
「顔色は、うん、ちょっと良くなったね」
すぐ目の前にある美樹さやかの顔がより明るくなって、明瞭な快活さは見ているこちらの気分を軽くしてくれる。
「昨日はまどかの家でお泊まりだっけ?」
「そうそう、ほむらちゃんと二人で寝たんだよ」
心なしか、昨日よりもまどかとの間隔が狭い。
「へぇ……ね、ほむら、まどかの家のご飯はどうだった?」
「とても美味しかったわ。まどかのお父様は料理上手で、ええ、見習いたいくらいよ」
「だよね。うぁー、なんか久しぶりにまどかの家に泊まりたくなってきちゃったかも」
「来たい時はいつ言ってくれてもいいよ? さやかちゃんなら大歓迎!」
「ん、ありがと!」
丸一日まどかに世話を焼いて貰い、ここしばらく続いていた嫌な夢を見ずに済んでうなされて飛び起きる事も無くなり、身体が軽くなっているような気がする。
だから心というのは本当に厄介だった。どれほど定めた目的があっても軋む心の痛みと疲れは迫り、誤魔化しても誤魔化しても湧き出てくる。
「うんうん、まどかの家でしっかり休めたってわけだね」
訳知り顔の美樹さやかの言葉に思わず頷いてしまった。
「ほむらは我慢しちゃう方だから心配なんだよね」
「あなただって我慢する方だと思うけれど」
辛い気持ちを溜め込みがちなのはよく知っている。追い詰められるまで我慢した挙げ句、ひどく傷付き苦しんでいく姿を何度見てきたことだろう。
そうとは知らない美樹さやかは両手を冗談めかして振っている。
「いやいや、あたしは我慢なんてできないって、すぐに顔に出るし」
「顔に出やすいのは、そうね。前のテストの結果も分かりやすかったわ」
「あー! そういう事言っちゃうー? 憎たらしい事言っちゃって。そんなあんたにはー……」
私の歩く先に回り込むと、美樹さやかの髪は背後にある噴水のしぶきで艶やかな光を宿した。何やら両手の平を見せつけるように突き出し、おどけた顔をしている。
嫌な予感を覚えてまどかの顔色を窺うと、彼女は私達の事を嬉しそうに眺めていた。
「回復祝いだー!」
そう言うなり美樹さやかが飛びついてくる。非常に直線的で避けやすい筈なのに、肩を掴まれるまで何一つ動けず、彼女は私の後ろに回り込んで背中から私の脇腹に手を伸ばし、身体の柔らかい箇所を撫で始めた。
「相変わらず、羨ましいくらい細い腰してるよねっ!」
「え、ちょっとっ……! こ、こらっ、やめなさ、ふっ、ひゃっ」
「おおぅ、いいスタイルしてんねぇ、しってんねぇっ、ほらほら、腕を挙げてよっと」
「ひゃわっ!?」
腋に手を突っ込まれてくすぐられると変な声が出てしまい、それを聞いたまどかの意外そうに目を見開く様があまりにも気恥ずかしくて顔が熱くなる。
だというのに美樹さやかは止まらず、私の体の弱い部分を撫で回す事に余念がない。
「やめ、やめて、だめだって、言ってるでしょうっ。く、くすぐったいってっ」
服の上からでもくすぐったさに身が震えた。
何とか回るように美樹さやかから逃れて離れると、彼女の愉快そうな笑い声がやけに耳へ響く。嫌な気はしなかった。
「ごめんごめん、つい」
「つい、じゃないわ」
嫌ではなかったけれど驚かされた。そう抗議しても彼女はニッコリとした顔を崩さない。
まったく、と私が呆れている間に、背中越しのまどかの気配が今までより大きくなる。どうしたのだろうと振り返る前に、美樹さやかに肩を叩かれた。
「あはは、こういうスキンシップもたまには良いでしょ?」
「……そうね」
「うんうん。というわけで、まどかも、やっちゃって!」
「う、うん! えいっ!」
かけ声に合わせてまどかが私に飛びつき、重みと体温が共にやってきた。
「ひゃあっ!?」
「んっ、ほむらちゃんっ」
一瞬の衝撃から、まどかの確かな存在感が一杯に広がった。人を抱きしめる為にある両腕と、大切な人と手を繋ぐ為の指先が私の身を服の上から撫でて、私を捕まえてくれている。
背中にくっついたまどかの体を支えられる自分の魔力に、今だけは感謝した。まどかの指先は私の腹回りを撫でるが、くすぐったさは感じなかった。
「すっごい声を出しちゃってまあ……」
美樹さやかが胸元で腕を組んだ。私達を眺めて脱力したように息を吐き、小さく首を振っている。
「ほむらちゃんって、やっぱりかわいいっ」
「ん……びっくりしたわ」
「えへへ。ごめんね」
「……ふふ、構わないわ。こういう風に貴女と触れ合えるのは嬉しいから」
「まどかとあたしで露骨に態度が違うなあ……」
「でも、わたしはさやかちゃんとほむらちゃんみたいな仲の良さがちょっと羨ましいかも。気安いっていうか、遠慮がないっていうか」
「そう? ま、ないものねだりはよくないよね、っと」
小さな水たまりを蹴って、美樹さやかが手を叩く。思いのほか良い音がして周囲の人が一瞬だけ足を止め、それに気づいた美樹さやかは笑って誤魔化した。
「話は変わるんだけどさ」
「ええ」
「ちょっと先の話だけど、今度、まどかと水族館に行こうと思うんだ。割引券があるから、あと一人は一緒に行けるんだけど」
「ほむらちゃんさえ良かったら、一緒に、どうかな? 三人で遊びに行きたいの」
迷うまでもなかった。誘ってくれるなら、喜んで受ける。
「……ええ、行きましょう」
「うん! 一緒にペンギンさんを見ようね。あの水族館には沢山居るって評判なの」
「あと、イルカとかアザラシね。さあ、そうと決まれば、予定を決めないと!」
美樹さやかの弾んだ声と軽い足取りに引っぱられながらも、何日に集合するのか、どこで集合するかを軽快に決め、予定はあっさりと定まった。
水族館で何が見たいかをまどかに問われて答えられず、まどかに合わせてペンギンと言ったが、見抜かれてしまったかもしれない。のんきにそんな事を考えながら、ふと時間を意識してみると、三人で話している間にすっかり学校が始まりかけている。
ちょっと急がないと遅刻気味になってしまうかもしれない。美樹さやかに無言で時計を指すと、彼女は声をあげた。
「あっ、やば、時間がないかも!」
「う、うんっ! さ、ほむらちゃんも急ご!」
「ええ……分かったわ」
美樹さやかは、私とまどかの手を握って駆けだした。
遅刻間際で焦り気味な二人とは違い、私の中にあるのはひたすら幸せな心地だけだった。これほど素晴らしい時間の中で遅刻がなんだというのだろう。
二人は明らかに私を気遣ってくれている。その意に気づけないほど恩知らずにはなれない。真実を知れば敵になるかもしれなくても、まどかも、美樹さやかですらも私を迎え入れていた。
水たまりに踏み込んだ靴がしぶきをあげ、私達の足まで跳ねる。ほのかに濡れた感触に顔を見合わせて笑い出した二人と一緒で、私の口元も自然と笑みを描いていた。
ああ、だというのに、こんな時間からまどかを狙って現れる魔獣達の邪魔なことときたらない。
カラスに啄まれて消えていく気配に、ついつい眉をひそめてしまった。
+
窓ガラスを通り抜けるようにして屋根に登り、現出した翼をはためかせて飛び上がった。今日の夜空は雲一つなく、半月の輝きも鮮やかだ。この時間でも見滝原市には活気が残り、人通りの多い所ではまだ起きている人達の灯りが明々としていた。そのせいか、星はあまり見えない。
今日は魔獣の気配もなく、ほとんどの人が平穏な一夜を過ごすのだろう。紛れ込むように現れた何体かは、事前に私の使い魔が打ち倒した。
しかし、目的地に向かう私の心は平穏とは行かなかった。
円環の理から来たものの気配が、確かに約束の場である丘の上にある。周囲に人気はなく、それ以外の獣の気配すら感じられない。
小高い丘に着地し、素早く悪魔へ変身しながら翼を畳むと、一歩一歩に力を込めて地を踏み進める。花を踏まないように舗装された道を曲がって迂回してまた進み続けると、気配の主がそこにいた。手すりに背を預けている女の身から溢れる存在感の中では、神聖さとおぞましさが同居していた。
彼女もまたこちらに気づき、ぱたぱたと大きく手を振ってきた。
「やぁっ、暁美さん!」
声を上げながらもこちらに駆けてくる。魔法少女の脚力ですぐに目の前まで来ると、彼女の濁ったままの瞳が光を灯した。
こうして見ると、背が一回り大きい為か幾らか年上に見える。見滝原の制服姿だけれど、あまり似合っていない。スカートの下は私と同じくタイツで覆われており、素肌の見える箇所はかなり少なかった。手首や顔はほんのりと日焼けを残しているが、それだけでは何も推測できない。
私でもひと目で察せる程にはしゃいでおり、機嫌は非常に良さそうだ。
しかし、私は身構えたままで気を抜いたりはしない。できない。その身から微かに感じられる円環の理の気配は懐かしく、愛おしく、そして同じ程度に忌々しかった。
「あなたは」
言いかけた時、女が硬直して声を響かせた。
「わっ……!!」
「え」
頭一つ揺らさないまま、目線だけが異常な速さで右往左往している。私の瞳、肩、指先から腕、脇腹から腋、胸を貫いて背中、太股から足の先を一周、腰回り、口元、髪へ来てまた瞳へ。痛みを錯覚するほど強い視線が刺さってくる。
自然と、露出した肩や腰回りを隠そうとしてしまった。そう思えば足回りも落ちつかず、背中を向けようにも大部分が素肌なのだから見せたくない。
最初にこの姿を取った時は、それはもう、感情の高ぶりと決意のままにひた走ったものだから気にならなかったけれど、例え戦う為の姿としてもこんなに派手な格好をするのは気恥ずかしくなるものだった。
この姿を取ったのがまずかった。ただでさえ……制服を着ている時でさえ! 泥のような目を黒く輝かせていた彼女に、この姿なんて見せるべきではなかった。
「……黙り込まないで貰えるかしら」
「はっ……! あ、ああ、はい、ん、だよね、ごめんなさい」
何とか正気の見られる声に戻ったものの、この姿のままでは明らかに会話すらままならない。昔の魔法少女としての服に戻すと、何やら残念そうな「ああっ」という呻き声が聞こえてきた。が、聞かなかった事にした。
良い物見たな、と言いたそうに何度も頷いているのが、あまりにも不可解だった。あの格好のどの辺りが素晴らしかったのだろう。深掘りすると底なし沼から伸びた手に足を引きずられるような心地にさせられそうだった。
「ちょっと意外かな。たぶん、今日は来ないと思ってた」
「なぜ?」
「今日も鹿目さんの家に泊まるのかなって」
なら、何故それを知っているのか。問い詰める気にはなれない。一面に広がる草原の中で、舗装された道だけは一つの緑もなく石が敷き詰められ、彼女はその道だけをくるくるふわふわ時にはステップを踏んで踊るようにして愉快そうに歩く。
「それでも、僕に会いに来てくれたんだね。本当に嬉しいよ。もちろん君が情報を求めて僕を利用しようって考えているのも凄く嬉しいんだ」
変わっている。素直に、それだけが彼女への印象だった。ほとんど初対面同然の私に対して、円環の理から来た筈の魔法少女がここまで友好的に振る舞う理由は微塵もない。
そこまで考えて、あるいは、と思う所が一つある。かつての私もまた、まどかと幾度も初対面を繰り返していた。
「あなたは昔、どこかで私と会っているの?」
「いいや? あいにく、僕の魔法は暁美さんみたいに凄くないからさ」
あっさりと否定してくるが、本当だろうか。私が知らないどこかの時間で、私と出会った魔法少女ならまだ少しは好意も理解できるというのに。
「気にしないでよ。僕は暁美さんに手を貸したい。本当にそれだけなんだ、暁美さんが凄く魅力的で大好きだから……待ちなよ、恋愛感情とかじゃないよ?」
おどけたように肩を竦めて言葉を付け加えつつも、熱っぽい視線は分かりやすい重みを秘めている。
「心から溢れるモノが、貴女をより綺麗にしているんだね」
この、気のせいでは決して片付けられない強烈な好意を露わにして、私の頭から足までのあらゆる全てを目に焼き付けているのが明らかな振る舞いに、どうすればいいのかが分からなくなる。敵には敵意を、感情を隠すべき相手には無感動をみせれば良いけれど、このような明け透けな好意に何を返せばよいのか。
ひとまず小さく相槌を打っておくと、そんな私の一挙動にすら感動的に身を震わせている。
「それにしても、ああ! 真正面から僕に会いに来る必要なんてなかったのに」
「細かい話をすると言ったのは、あなたよ」
「もっと敵意で一杯かと思っていたからね。いやいや! 嬉しくないわけではないよ?」
腰に片手を当てながらの、ひどく享楽的な声が響く。
「まったく、まったく、暁美さんは素直な良い子だね。そんな風じゃ、僕も口が緩んじゃう」
その場で私から背を向けて伸びをすると、彼女は愉快そうにくるりと回って私と目をあわせに来た。小首を傾げながらの視線が突き刺さるようだ。
「僕がなんなのかは前にも言った通り。円環の理から送り込まれてきたものさ」
「そこは聞いたわ。目的は、私の邪魔ではないようだけれど」
「送り込まれた理由は暁美さんの邪魔をする事で間違ってないけどね、僕自身はあなたを手助けしに来ただけだよ」
いかにも頼もしげに腕を挙げて力こぶを見せる仕草を取るも、力強い様にはとても見えない。素直にその感想を伝えると、分かっていると言いたげに頷かれた。
「ところで、鹿目さん達の護衛は大丈夫?」
「そこは心配しなくていいわ」
「そう? なら信じるとしよう。そうそう本題だね、魔獣だったか」
どこから持ってきたのか単純な木製の椅子が一つだけあり、彼女が背もたれを掴んで私を手招きし、椅子を差し向けてくる。
白く塗られた椅子はどこでも見かけるような簡素な作りをしており、座り心地は最高とは呼べそうもなかった。
「これに座らない?」
「結構よ」
「そう遠慮しないで、どうぞどうぞ。嫌なら僕を椅子にしてもいいけれど」
「もっと必要ないから。それより、魔獣はなぜまどかを狙っているの? 知っている事を聞かせて」
私の拒否にも全く動じず、椅子を脇へと寄せた彼女はその場へと座り込んだ。正座をしてこちらを見上げる瞳には変わらず何か不定形の忌避感がある。
そうでなくても直球の好感を伝えてくる表情の明るさときたらない。
「……暁美さんだって、もう察しはついているんじゃないかな?」
「何を」
「そうでしょ。だって貴女は、鹿目まどかを救おうと必死に戦い続けた結果として、自分が何を起こしてしまったのかを知っている。自分のした事が裏目に出て、何も成し遂げられずに終わる事を知っている。円環の理はあなたが作ったも同然だ」
「ずいぶんと、好きに言ってくれるわね」
「でも、今までだって沢山の失敗を重ねてきたんだから、今回だけは万事が上手く行くなんて楽観視はできない……僕としては、上手く行って欲しいんだけど。まどかちゃんはいい子だしね」
嫌に確信のこもった声音で、私の思っている事は全て理解しているとでも言いたげだった。不思議と腹は立たなかった。
きっと、彼女からその時だけは笑みが消えていたからだろう。忌々しげに顔を歪め、失敗の可能性などあってはならないと言いたげな顔色からは、嘲りも茶化しも何も見当たらない。しばらくすれば笑みが戻ってきたが、不本意という姿がありありと出ていた。
「現状が私の失敗によって起こされた出来事なら……魔獣はやっぱり、円環の理を狙っているのね」
「正しくは、円環の理を正常な物に戻そうとしている作用の一つが魔獣の異常行動に繋がってるんだ」
先ほどまでは明々とした星が輝いていた筈の空に雲がかかり、隙間から差し込む月の明かりはどこか遠くを照らしていた。外灯は変わらず私達を照らしていたが、彼女は光の差さない影の中へ踊るように飛び込み、私だけが光を浴びる位置で立ち尽くした。
肩の上に鳥が乗ってきたが、それは私の使い魔だ。私の頭を啄むように叩くので片手で払ってやると、今度は人形達が私を取り囲む。外灯の丸い光の外側から投げ込まれた赤い何かが肩や頭に当たって、真っ赤な液体が垂れてきた。
「……そう」
俯きがちで声を漏らしていると、彼女が近づいてくる。
私の袖口からぽたぽたと垂れ流れた赤を這うように指ですくい取ると、彼女は何の躊躇いもなく、私の姿を見つめながら指に残る赤い物を口に運び、口腔内で感じ入るように転がして一言。
「…………うん、きれいだ……」
意味が分からない。
幻覚のようだった使い魔達も赤い液体も消えて無くなり、空は再び明るみを取り戻す。
何の事かと首を傾けていれば、それに気づいた彼女が恥ずかしげに目を逸らした。
「たぶん、分かりやすいと思うんだけど……僕は君が好き。憧れてるんだよね」
恐れ入るように一歩二歩と私から距離を置き、両手を祈る様に合わせている。
いや、本当に祈っているのかもしれない。誰に、かと言えば私に向かって祈っているのだろう。理解しがたく困惑しか存在しない結論が、今は間違いないように思える。
「僕は、貴女の使い魔になりたくて。だからその……持ち逃げしてきたんだよね。分け与えられた、円環の理を」
彼女の背後で、私の人形達が「処置無し」と首を振っていた。