目を瞑る事を求められたので素直に応じると、唇の先に何かが当てられる。視力を介さなくても少しくらいは見えるもので、まどかが指先にチョコレートを挟んで私の口元に運んできていた。
良い香りが鼻先にあって、幸せな甘みを演出している。
「はーい、ほむらちゃん、口を開けて」
「ん……」
言われるがままに口腔内を見せていると、舌の上に固いものが乗ってくる。ほんのりと溶けたチョコレートの味わいの癒やしと気恥ずかしさに口を閉じたくなるものだが、まどかの指先がまだ歯の間にあって、挟むわけにもいかない。
まどかの爪が唇にあたるが、気にしたような事も言わずに彼女はそっと手を引いた。
やっとの事で口を閉じて舌の上で転がすと、ミルクチョコレートの柔らかな後味が踊る。溶けるのを待っていては時間がかかりすぎるので、歯を立てて二つに割ってみると、中からドロドロとしたクリームが広がってきた。
果実に近い爽やかな舌触りだった。もう一度噛んでみればもっと沢山のクリームが舌と歯を愛でに現れ、口の中にある全てを撫で回っている。
「これ、何味だと思う?」
「……イチゴ?」
「正解っ! 口の中で溶けていく感じで、おいしいよねー」
幸福感に満ちたまどかはチョコレートを一つ取って食べ、かわいらしい声をあげながら頬に手を当てた。
二人でノートを広げて机に向かっていたが、今は休憩中である。思いのほか長めの休憩時間になったが、まどかもずいぶんと頑張っていたのだから大丈夫だろう。合間合間に休息を挟んだ方が良い。あまり熱心に教えすぎても疲れさせてしまう。
勉強の事でまどかが私を頼ってくるのはこれが初めてではない。あの一緒に眠った日以降は積極的になり、テスト前だからと一緒に勉強をする事にしたのだが、気づいた時にはまどかに教える立場となっていた。
なお、美樹さやかは集まりが勉強会だと知ると逃げたそうな顔をするので、参加頻度は高くなかった。気持ちは分かる。
実際のところ、私はそんなに頭が良くない。元々は大した学力を持っていなかったし、勉強に励んだのも一部は必要に駆られてのことだ。どの教科も満遍なくできるという印象を持たれている様だけれど、何であれ弱味を見せないように振る舞っていた時期の名残に過ぎない。
そんな張り子の虎である学力でも、私を信じて頼ってくれるまどかを裏切るわけにはいかず、最近は空いた時間のかなりの部分を勉強にあてていた。幸い、無駄な時間は沢山あった為に、張り子であっても虎を生きているように見せかける事はできた。彼女に教える時の言葉につっかえたりはせず、淀みなく分かりやすい言い回しを心がけられたように思う。
予習と復習を主体とした頻繁な勉強会は、まどかの学力に如実な功績を現している。このペースでは、いずれ追い抜いてくる筈だ。
「まどかは本当に真面目なのね」
「真面目? そんな事はないと思うよ」
「教えた事がきちんと身についているでしょう。真面目な姿勢で取り組めている証拠よ」
「それはね、ほむらちゃんの教え方がすごく分かりやすいからだよ」
「ありがとう。でも、貴女に凄くやる気があるのは事実よ。私の教え方より、受け取る貴女自身が真摯だから学べているの」
謙遜しながらも嬉しそうなのがとっても可愛らしい。何のお世辞でもなく、正面から勉強を頑張っているまどかの姿には感銘を受けるほどだった。
私の知っている彼女は、多くの人間がそうであるように勉強が苦手で、テスト前であってもこんなに張り切ってはいなかった。
何故なのかという私の視線を浴びた彼女は頬を掻いた。
「実はね、ほむらちゃんに教えて貰うのが楽しいのもあるの。勉強するのはおまけで、一緒に居るのが嬉しいからなんだ」
「そう。なら貴女がもっと楽しく学べるように頑張るわ」
胸のどこかに熱がこもって体を満たし、漏れる吐息に混ざりそうだ。
「勉強に戻りましょう」
「うん。じゃあ次のページから……」
勉強の時間を再開してすぐに、聞こえてくるのはペンが走る音だけになる。まどかが躓くまでは自分の勉強も忘れない。現代文に英語、テストとは全く関係のない数学や化学と学ぶべきものは数多く、必要から学んだ幾つかを除けば私もまた、何かを修めたとは言えなかった。
しかし、外から近づいてくる魔獣の気配にはまったく辟易させられる。
まどかを狙って現れる奴らの脅威は無視できる種類のものではないので、使い魔を可及的速やかに送り込んで決着をつけた。どうしてまたこのような時にまで邪魔をするのか腹立たしくも、彼女の前で苛立ったりすれば不安を煽りかねない。そのように嫌な態度を取るのは、本当に必要な時だけにしておきたい。
窓から姿を覗かせた空は徐々に赤みを増しており、そこから産まれる温かみはこの部屋を心地良く彩っているけれど、問題は眠くなってしまう所だ。まどかだって授業中はたまに眠そうにしているのに、こうして一緒の机を囲むと不思議なほど元気にしている。
熱心に教科書を見つめる横顔を見ていると、全てが私の幻想ではないのかと思われた。とてもじゃないけれど、彼女がかつては精強なる超越存在であったなんて、誰が信じてくれるだろう。まどかは神聖な存在とは呼べない。呼びたくもない。
そんな彼女を、魔獣達が狙っている。あの陰気な女が語る姿と、こちらに向けられたおかしな目つきが否応にでも思い出される。
+
腰に片手をあて首を傾けた女の声は、かわいげも落ち着きも、それから頼もしさもなかったが、声のトーンは真剣だった。
半身を乗り出して視線だけを持ち上げ、私を見上げながらも口元は笑っている。祈られたかと思えば一気に距離を詰めてくるのだが、流れが読めない。
ひたすら慣れない類の相手だ。私が黙ったままでも一切めげる様子もなく、小声で「詳しい説明が必要かな」と呟いている。
「魔獣は、あれは、なんというか、魔女が居なくなった事でそれを埋め合わせる為に発生した世界の防衛機構というか……うーん、まあ、そういう感じのモノらしくってさ、貴女が連れて行ったまどかちゃんを取り返そうとしているんだね」
「……ええ」
「暁美さんの頑張りはどう足掻いても正道じゃないからさ。ひずみも歪みも出るというものでね、まあ、間違いなく万事丸く収まるのはまどかちゃんを円環の理に返すことだけど」
私に背を向け、肩から上だけで振り返ると、彼女は下手なウインクを飛ばしてきた。
「もちろん、大人しくまどかちゃんを明け渡す気なんて欠片もないよね?」
「……」
「僕にだって、貴女が引き下がる気が少しもないのはわかる」
「……」
「さっきから黙っているけど、大丈夫?」
「ええ。あなたからの情報について考えていただけよ」
膝から崩れ落ちて頭を抱えても良い情報の筈なのに、ほとんど衝撃はなく、驚きも少なかった。自分の行動がまどかを危機に陥らせてしまったのが分かっても、ああ、やっぱり、と思えてしまうくらいに。
同時に、スカートを掴んで震える拳を大人しくさせるのに労力が必要だったのも確かだった。人前でなければ拳を地面に叩き付け、痛みで動かなくなるまで続けていたかもしれない。
「あれらがまどかを狙っているとしても、彼女の安全は確保できる。全ての魔獣を滅ぼさなくても、今の私ならまどかを守り続けるくらいの力はあるから問題はないわ」
「でも、僕がここにいる」
私と正面から向き合って、彼女の瞳がしっかりと見つめてくる。
「それは、円環の理と君が敵対する明らかな根拠になるとは思えない?」
「……」
無言で続きを促すと、女の声は少しだけ遠のいた。
「魔獣からの干渉も問題だけど、もっと問題なのは円環の理だ。欠けた部分を取り戻そうと、君の作ったこの庭に手を出してくるだろう。いや、実際に手を出そうとしているんだ。僕が送り込まれたのがその証拠」
「それも、今の私ならまどかに接触される前に解決できるわ」
「とは言っても、貴女だってどう戦えばいいのかは分からない筈だよ。円環の理は欠けた状態にあるんだから、取り戻そうとする動きは予想していただろうけど……」
再び私から背を向けた彼女は話しながら幾らかを進み、足下の花々を避けて舗装された道にまで辿り着いた頃にこちらへ振り返った。
やけに嬉しげな面持ちで己の胸に拳を当て、首を傾けている。
「そこで、僕だ」
「……」
「円環の理は貴女の敵だけど、僕は貴女の味方だ。さっきも言ったけど持ち逃げしてきた力もある」
「どうやって持ち逃げしたのかしら。それに、円環の理から送られてきたのはあなたの他にも存在しないの?」
「それなら心配しなくていい。僕の知る限り、他にはいないよ。持ち逃げできたのは、単に僕がそういう使命を持って送り込まれてきただけで、強制力があるわけじゃないからね。使命なんか気にせず、暁美さんの側に着いたって問題ないというわけ」
どうかな、などと口にしながら差し出された手に応じられなかった。
その身から流れる力は円環の理で、力を貸すというのも嘘には見えない。見えないが、自分の目はあまり信頼できないものだった。
「僕の事は信頼できない?」
「……」
答えられずにいると、女は感じ入るように頷いた。
「ああ、確かに当然だ。僕を信じるわけがない。貴女からの信頼はそんなに格安で手に入ったりはしないだろうし、こういう事で付け入ってくるのはキュゥべえって前例もあるわけだしね。信頼しなくていいよ、僕を利用してくれればそれでいい。まずはお友達からー、って奴」
言葉の落ち着きとは裏腹に視線は私の両手に向かっており、突き刺さるような視線は痛みを幻視するほどだ。
目的を疑うだとか、言葉の真偽を見極めようだとか、そういった思考が働かなかったわけではない。けれど、それ以上に放たれる視線や熱っぽい顔色、全身で私への好意とも呼べる何らかの感情を表現しているのはあまりに近寄りがたかった。
「なら……行動で示して。そうした後でなら検討するわ」
「おおっ、いいの? 嬉しいな、本当に。なら手伝わせて貰うから、よろしくね?」
握手くらいなら、と思っていても、妙に興奮している姿を見ていると、応じるのに躊躇が産まれてしまう。
結局は指一本触れずに、女を通り過ぎて丘の端まで歩いたが、向こうも気にした素振りはなく、素通りした私の背に熱を帯びた視線が突き刺さってくる。
小高い丘から見下ろす景色は相変わらず人の営みで輝いており、起きている人も眠っている人もまとめて生命の鼓動を感じさせる。ここもまた、まどかが大切にし、守りたいと願った景色だった。
「……綺麗な景色だけど、暁美さんの方がずっと綺麗だよ」
「やめて」
荒唐無稽なお世辞を言われても嬉しいと思えるような神経はしていない。
「なぜ、私に力を貸そうとするの?」
「好きだから、って言ったよね」
「……なぜ、好きなの。あなたと私に接点はないわ」
「有り体に言えば、君ほど神様みたいないい子なら、ただ頑張っているだけで誰かの目に留まるってことだね」
「そう」
私のどこにも当てはまらないような褒め言葉には反応できず、髪をかき上げるだけでまともな答えは何も用意できなかった。
「必要になったら、言うわ」
女が頷いた。そういう気配は感じ取れた。
空気を読んだのか、満足したのか、彼女の気配が徐々に遠ざかっていき、私が振り向いた時にはもう姿は消えていた。
+
まどかは狙われている。他でもない、この世界に。
開いた教科書、置かれたペン。まどかの文字が並ぶノート。彼女の部屋にあるぬいぐるみ。学生服。これらの存在を否定しようとする働きがある。
「ほむらちゃん?」
「……なんでもないわ」
ごく自然に手を握ってくれた。その指を気づいた時には握り返していたのだが、一本一本がどれも私に絡みつき、包み込むような慈悲によって私を掴んで離さない。
柔らかそうな頬や綺麗な唇には微笑みがほんわかと現れている。
本当に、ああ、本当にかわいらしい。この甘やかでいつまでも一緒に居たくなる状況の中で微睡むような心地になっていると、自分を強く持てと意識付けなければそのまま溶け消えてしまいそうだった。
「……今日のところは、おしまいにしましょうか」
「あれ? もう帰っちゃうの?」
ゆるやかに絡んだ私達の指をそっと解いて手を引くと、ひどく名残惜しく口の中には苦みが走る。私の幻覚でないのなら、まどかも同じように惜しむ顔を見せてくれたように思う。
「そろそろ夕食も近いでしょう。ご家族との時間は大切にしないと」
「だったら一緒にどう? きっと楽しいよ!」
「でも、作らなきゃいけない料理が急に一人分増えるのは大変よ。誘ってくれたのはありがとう、改めて、きちんと予定を立ててからにしましょう」
「そっか。うん、そうだよね……」
「それに」
「?」
「なんでもないわ」
残念そうに肩を落とされてしまうのは心苦しいが、やはりまどかには私などより家族との時間を過ごして欲しいと切に思う。これがかつて失われた団らんだったと知っているのは私だけで、彼女がそういう時間を楽しんでいると思うだけで何か大切なものを得たように感じられるのだ。
彼女の部屋から出ると、下の階からほのかな料理の香りが登ってくる。トマトソースらしき良い香りと一緒に届くリズミカルな包丁の音。今日のメニューはなんなのだろう。まどかのお父様ならきっと何でも美味しく料理して、素敵な夕食に出来るのだろう。
満足感にも似た感傷と共に一歩一歩と階段を下りて、素敵な家庭菜園の見える窓を通り過ぎ、その先に居るまどかのお母様に会釈と挨拶をする。
「お邪魔しました」
「ああっ、ほむらちゃん。もう帰るの?」
「はい、そろそろ帰らなきゃいけない時間なので」
結構な頻度で家にお邪魔している私を、まどかのご家族はいつだって歓迎してくれた。
まどかのお母様も仕事はお休みで、タツヤくんを膝に乗せている。
かなり長く飾られていたであろう少し色あせた写真立てを握り、懐かしそうに中を見つめていたが、私達が近づいてくるのに気づいて写真からは目を離していた。タツヤくんが写真を指し、「ママ!」と声をあげていた。
タツヤくんに向かって手を振ると、真似をして返してくれた。ごく自然な微笑みを作ったつもりだけど、できただろうか。
最初にまどかのご家族に自己紹介をした時、他のご家族の前では何とか耐えたけれど、タツヤくんには涙を見られてしまった。小さな男の子の心配する声に、大丈夫だよって言えたかどうかはもう覚えていない。
「いつもまどかがお世話になってるね、ありがとう」
「いいえ、苦ではありませんから。凄く楽しいです」
「もうっ、ママ、恥ずかしいからやめてよぉ」
「はははっ、お陰でまどかの勉強が捗るからね。お礼くらい言うって」
娘の頭を力強く撫で回しながら、まどかのお母様の眼差しに真剣なものが宿る。微笑みに深みが加わったのがよく分かる。
「大切にしなよ」
「うん……ほむらちゃんは大切な友達だもん」
「それならいいんだ」
あっけらかんとした態度と落ち着きには大人の魅力があり、私はこんなに魅力的な女性にはなれそうもない。
「……では、失礼します」
「ん、またね、ほむらちゃん」
自分の未来へ思いをはせながらも、ご家族とまどかにそれぞれ挨拶をして、見知った玄関へと向かうと、まどかのお父様も含めた四人で私を見送ってくれた。
玄関先に出てからも扉の前でしばらく動かずに居ると、「ママが学生だった頃の写真だよね?」なんて声が聞こえてくる。
やっぱり、まどかにはこの家が似合う。こみ上げてくる笑みを堪える必要は感じなかった。
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