【完結】暁美ほむらは悪魔みたいないい子でした   作:曇天紫苑

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その友情さえ嘘だとしても

 

 ショッピングモールの中で美樹さやかが私に迫ってくる。勢いに押されて一歩下がった私の前には二つの服があった。

 

「こっちとこっち、どっちが似合うかな!?」

「……そっち、じゃないかしら」

「そっか、ありがとう。よし……買ってくる!」

 

 そう言うと、美樹さやかは小走りでレジへ向かっていった。

 美樹さやかの服選びに付き合っていると、だんだんと彼女の服の好みに詳しくなって、普段は動きやすさを優先したスポーティな格好が多いのだが、たまに、体を派手に動かせなくても可愛らしさに突き抜けたがるきらいがある。

 今日は何故かまどかを抜きに、二人きりで買い物に出かけていた。佐倉杏子も来る筈だったが、彼女はあいにく地元に戻っている。

 私が美樹さやかと一緒に遊ぶ時は常にまどかが傍におり、私達双方の大切な友人として関係を結びつけてくれていたので、何か重要な歯車を損失しているとしか思えないほどの違和感があった。

 しかしながら、モールのソファに腰掛けて休んでいれば不思議と気にならなかった。美樹さやかと良好な関係を築いたのは打算と嘘に満ちていたが、それによる据わりの悪さは日に日に薄れてきている。

 それどころか、どうだろう。集合からランチに音楽にスイーツに衣服とお昼前から夕食の手前まで振り回されるのが楽しく思えてきている自分がいた。

 買い物を済ませた美樹さやかが姿を見せ、紙袋を握りしめて駆け寄ってきた。人の通りを流れるように抜けて私に近づいてくるのだが、その姿の明るいこと。絶望に身を浸していない彼女からは、雲ひとつない洗濯日和の陽気が漂っている。

 

「お待たせっ」

「無事に買えたのね」

「うん。やっぱり人に言われると踏ん切りがつくよ。あたし一人だったらもう何時間か迷ってたかも」

「そこまで悩まなくたって、似合わないという事は無いと思うけれど」

「あー! あんたそれ、自分が美人で何でも似合うからでしょ。あたしはあんたほど美人じゃないの」

「……そんな風に思った事はないわ。第一、あなたこそ十分に魅力的な容姿でしょう?」

「む……い、いや、あたしの外見は今はいいっ。それより、ほむらの見た目の話だよ……」

 

 私の容姿の話題なんて持ち込まれても困る。

 客観的に考えて私より美樹さやかの方がずっと容姿と性格を兼ね備えているのだ。

 だというのに、美樹さやかの視線は私の頭の上から靴の先までを動き回っている。

 

「やっぱり、そういう格好だと大人っぽくて、すごく美人! って感じだよね」

「……そうかしら」

 

 褒められた今のこの恰好は、私が自分で選んだものではない。

 少しばかり前にまどかが私の手を引き、美樹さやかと一緒になって私の服装をああでもない、こうでもないと話し合い、お金を出し合ってプレゼントしてくれたのがこの服と髪形だった。 

 白のフリルブラウスに、淡い紫と白の点で構成されたチェック柄のロングスカートは腰に黒のリボンを巻いて留めた。髪は三つ編みだが、以前とは違い全てを一房に纏めており、自分の髪が肩を超えて胸元に流れている。

 髪留めとして収まっている赤いリボンもまた、その時に貰った品物だ。まどかは予備だから気にしないでと言っていたけど、だからこそ、私にとっては贅沢すぎる贈り物だった。服装として最近では一番のお気に入りだ。

 

「そうそう。いつもより落ちついてる、いや、明るく落ちついてるって言えばいいのかな。本当によく似合ってるよ、本当にね」

「それは……ありがとう。気に入っていたから嬉しいわ」

「言っておくけど、お世辞とかじゃないからね。このブラウスのフリルとか、あたしだったら子供っぽくなっちゃうけど、あんたなら品があってかわいいし」

「……いえ、別に……」

「ん? ははあ、ひょっとして、照れてる?」

「そういう事では……ないけれど」

 

 図星だった。なんの悪感情もからかいもなく叩き付けられる褒め言葉を正面から受けると、聞けば聞くほど顔を逸らしたくなる。

 こうした形で褒められても昔は大抵聞き流していたが、一対一の場では聞かなかった事にするのは困難だった。適当に笑って流そうにも、意識してみるとこれが中々、作っていない笑顔というのは難しい。

 何度か試してみたものの、やはり無理だと無表情を貫いていると、美樹さやかが不意に両頬を掴んできた。

 

「もっと柔らかい表情にすればいいんだって。こう、むにむにーっと」 

「やめへ」

「おおっ、最高品質の柔らかさ」

「ひみが、わかはないわ」

「うんうん、こういう感じの方がいいよ。怖い顔とか、悪そうな顔とか、冷たそうな顔とか、そういうのは似合わないの」

「わらひが、いふ、ひょんなかおを、ひたと?」

「自覚があるかは知らないけど、結構そういう顔になってるんだって」

 

 ようやっと頬を解放されて、つままれた感触が色濃く残った肌に思わず手をやった。痛みはないが、不思議な気恥ずかしさとくすぐったさが残っている。きっと赤くなっているだろう。

 

「なんか、意外かも。こういう風に触ったら怒る方かと思ってた」

「特に気にはしないわ。歓迎もしないけれど」

「ふふ、あたし達、ようやく打ち解けてきたって感じ? あんたも杏子も前は結構気難しかったっけなぁ」

「……」

 

 思い返せば確かにひどいぎこちなさだったが、美樹さやかの調子に乗せられてからは勢い任せに距離が詰まっていった。 

 私が何者であるかさえ無視すれば、ようやっと私達は普通の友人というものになれていた。

 

「今日は付き合わせちゃって悪いね。ありがと」

「いえ……帰りましょうか」

 

 すぐ隣の美樹さやかと並んで、私達は帰路についた。

 美樹さやかの帰宅を見届けた時に、彼女の親御さんを改めて見る機会があった。ご両親とも彼女にどこか似ており、自分達の娘を大事そうに受け取っていた。

 どこをどう見ても遊び疲れた美樹さやかの、今にも閉じかけた瞳が私達を写し、ゆっくりと手を振って告げられた。「また明日」と。

 親御さんが半ばあきれ顔で彼女を支えて家の中へ連れて行った。扉の向こうからはいつも美樹さやかが漂わせている明快さ、眩しさがあって、彼女がどんな風に生きてきたのかをそれとなく伝えてくる。

 振り返った親御さんにお礼を言われて、頷きを返した時、私の心にはこの家庭が突然に暗い絶望に放り込まれた時の事を思い出した。

 

 

 かつて、美樹さやかの葬儀に参加した事があった。あれは悲惨な苦しみに満ちていた。

 振り返りたい思い出でなくても、当事者だった人達の顔を見てしまえば過去の光景が姿を見せる。

 誰も彼も揃って俯いており、身を震わせ、涙すら流せないほど絶望したご両親の姿を今も覚えている。事情を知る私とまどかだけが本当の死因を知っているのに、誰にも言えず、彼女の魔女を討った自分達に対する気分の悪さに吐いてしまいそうで、二人で手を握って相手の存在を確かめた。そうしなければ正気を保てなかった。

 葬儀の最後、崩れ落ちた志筑仁美が何度も何度も、誰かに謝っている声も思い出せてしまう。彼女は何も悪くないのに、それを教えられないのがひたすらに歯がゆかった。

 けれど、今は違う。今の美樹さやかは当たり前に帰宅して、家族に迎えられ、明日にはまた志筑仁美を含めたクラスメイトに向かって手を振り、当たり前の事として教室に足を踏み入れる。笑う事もあれば、泣くこともある。まどかと同じように。

 私は別に美樹さやかを救っていない。私が我儘を押し通した時に、偶然そこにいた彼女が巻き込まれただけだ。ただ、私が諦めてまどかを円環の理に戻せば、彼女もまた、家に帰れなくなる。その事実から目を逸らせなかった。

 

 かつての悲嘆を顔には出さずに帰路へつこうと歩いていると、私が一人になるタイミングを見計らっていたかのように、それは後ろから近づいてきた。気配の察知はさほど得意ではないけれど、慣れない熱を帯びた視線を浴びせられる居心地の悪さは相手の存在を察する材料として有効に機能する。

 誰かに注目されるような存在になると、こんな気分を毎日味わうんだろうか。あまりの濃厚さにすぐお腹を壊してしまいそうだ。相手が自分とそう接点のない人物ならなおさら健康に悪い。

 

「暁美さん!」

 

 私の振り返る瞬間を予測していたように、彼女は手を振り、うっとりと私へ呼びかけた。

 以前に会った時とは異なり、私服に身を包んでいる。ショートパンツから伸びるほっそりした足をタイツで覆い、あまりお洒落というわけでもない上着を身に着けており、街中で出会っても記憶に残らないであろう存在感を保っていた。

 

「いやー、あは、あははっ、服装にこだわりがなくって恥ずかしい限り。それに比べて暁美さんの美人なことときたら」

「……私達の事を見ていたの?」

「いや、通りがかっただけだよ。でも、まあ信じられないか」

 

 わざとらしく肩を竦めてその場でくるりと一回転し、こちらに向き直ると同時に一歩踏み込んで距離を詰めてくる。

 思わず一歩後退してしまった。

 

「で、さっきの彼女は美樹さやかさん? 仲が良いの?」

「いいえ。ただ、険悪になる必要もないでしょう」

「そっか、大切なお友だちってわけだ。でも、平気? 殺そうとした事もあるよね?」

「問題ないわ。それは別の世界の話で、今は関係ないもの」

 

 返答している間中、満面の笑顔から送られてくる視線は痛いほどだった。見抜かれてしまったかもしれない。

 しかし、彼女はそれ以上何も追求してこなかった。

 所々で私を非難しているように聞こえる一方で、むせかえるほど強烈な好意をほとんどの言葉の数々で浴びせられる。すでに私はこの場を去りたい気持ちでいっぱいだったが、相手の出自と、一応は味方であるという事実が感情的撤退を許してはくれない。

 私の顔に何を見いだしたのか、やたらと目を輝かせている。何が言いたいのかと尋ねるより早く、彼女は話題を変えてきた。

 

「そうそう。まどかちゃんのことなんだけど」

「……ええ、何かしら」

 

 このひどく怪しげな女に、まどかの何を問われるのか。

 身構えていた私の前で、それまでやけに気分が良さそうだった彼女の態度が唐突に落ち着きを伴い、眉を寄せ、声の調子を落としてくる。

 真摯さすら覚えさせるほど真面目な心配を顔色に乗せ、私の答えを待つ姿には浮ついた所が見られない。

 

「いつも接している貴女から見て、どう? まどかちゃんは、家族と上手く行ってるのかな。幸せなのかな」

「まどかのご家族なら問題ないでしょう。良い空気で、本当に幸せそうな家庭だもの。でなければ、まどかはあんなに笑ったりはしない」

「なら、いいんだけど」

「大丈夫よ、まどかは家族に愛されているんだから」

「貴女もね」

 

 とっさの言葉が出なかった。

 

「……それは」

「見ていれば分かる。貴女はちゃんと愛されてきた女の子だよ」

「……」

「ふっふっふっふ、ね、愛されている貴女だから、凄くいい人に育ったんだよ。まどかちゃんと同じだ」

 

 はっきりと見て取れた真摯さが雲散霧消する。

 散々に好意を投げつけ、答えに困る事を言われてしまうと、返答する言葉が上手く出せなかった。ひょっとすると、女はそんな私の様子を見て楽しんでいるのだろうか。

 そう思うとあまり良い気はしないが、私からの感情に女はまるで気づいた素振りもなく、飼い主を愛する犬のように私の周りを歩き回っている。問題は私が人間を飼うような悪趣味を持っていない事だ。

 

「どこかへ遊びにいかない? そこでお喋りでもしよう」

「……私と?」

「そう、貴女と。ワルプルギスの夜と戦う準備も今は必要がないんだし、これから誰かと会う約束もしていないよね? だったら、その貴重な空き時間をちょっとだけ、情報料代わりに僕へ使ってくれないかな?」

 

 急な誘いだったが、言われた通り時間に余裕はあった。

 これは今を維持する為の戦いである、その為に、どうしても倒さなければならない敵はなく、まどかを取り巻く環境の平穏無事を保つ方法は万が一にもまどか自身の目についてはならない。端的に言えば、昔に比べれば圧倒的に暇だった。

 武装を整える時間も、手を借りられる魔法少女を選定する必要も今はない。そういう事情を見透かされているのも、何やらスケジュールを把握されている気がするのも背中に寒いモノがある。意識しすぎているのだろうか。 

 

「ねえ、どう? ちょっとの間でいいんだ。これから協力しようって関係なんだから、ダメ?」

「どうして」

「うん? 尊敬する人と話がしたいのはそんなにおかしな事かな? いや、本当に話がしたいだけなんだ。どこか落ち着ける場所でね」

 

 明らかに、期待に目を輝かせている。

 落ちつこうと息を整えているが、前のめりで興奮気味に、何度も落ちつきなく「どう?」と尋ねてくる。

 変質者だった。かつて同じ時間を繰り返した時、何も知らないまどかに奇異の目で見られた経験はあるが、彼女も今の私と似たような気分だったのかもしれない。かねてから色々と困らせた自覚はあったものの、今さら余計に申し訳ないと思った。

 しかし、信頼性はどうあれ、相手は協力者なのだ。

 そして確かに時間はあった。困ったことに。

 

「……行きましょう」

「え、いいの!? よしっ、時間は今から、場所は僕の案内。特に気負う事なく平服でお越しください、ってね……やった!」

 

 慇懃な一礼を済ませてから手を伸ばしてくるが、私がそれに答えないのも理解しているのだろう。すぐに手を引っ込め、私の少し前を、ちらちらと背後を気にしながら歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 徒歩で三十分ほど移動し、車の通りが多い大通りから小道に流れ、更にしばらく歩いたところへ案内されると、そこには二部屋分ほどの面積の建物が何軒か並んでおり、目的の場所は一番端にあった。

 彼女の薦めた場所は、看板に赤い飲み物の入ったグラスと黒猫の並んだ店舗で、入り口の周りには猫についての情報が沢山並べられている。保護された猫の里親について、猫に関する募金といった紙やパンフレットの間を通ってドアノブを引けば、鈴の音が鳴って歓迎を示す。鈴の音に反応したのか猫の鳴き声が続いた。

 まさしく、絵に描いたような猫カフェの風景だ。

 スリッパを履いて中に入ってみると、隣の部屋との壁が半分ほどガラス張りになっており、つぶらな瞳が私達を捉える。しかし、数秒もすれば飽きたのか部屋の中を自由に飛び回り、すやすやと眠り始める子も現れた。

 カフェスペースと猫と触れ合えるスペースが両立された店舗は扉一枚で両者を隔てており、ガラスの向こうの猫が思い思いに過ごしている部屋にはキャットタワーや箱状の小物入れが並べられていた。

 沢山の猫たちが隣の部屋で悠然と歩き、眠り、他の客に体を撫でさせている。にゃあにゃあと良い声で鳴いてとてもかわいらしく、ついつい嬉しくなってしまう。

 カフェスペースの壁には写真や猫を題材にした手芸が飾られ、今にも一斉に鳴き出しそうな圧迫感さえもある。猫たちが仔猫だった頃の写真も一緒に貼られており、間には健やかな成長への喜びが綴られていた。

 

「ここ、昔は喫茶店だったなぁ。向こうは厨房で、従業員の人が忙しなく働いていてね」

 

 私達のいるカフェスペース側は非常に簡素で、猫を見ることができるカウンター席が幾らかと、正方形のテーブル席が二つ。壁際の棚には猫に関係する本が幾らか納まっていたが、あまり読まれている様子がなく新品同然の真新しさを保っている。

 お店の従業員に案内されて近場のカウンター席に腰掛け、女の隣に座り込むと、背中に妙な寒気が走った。

 

「背筋がいいんだね」

「……」

 

 すぐ目の前にあるガラスの向こうで猫がこちらを見ていた。白と茶色のまだらな模様の毛並みはふんわりと柔らかそうに整えられていて、食べ物に困ってはいないのが分かる体型をしている。ややふてぶてしい面持ちで見下ろしてくる様もかわいげがあった。

 私と少しの間だけ目を合わせた猫はふっと顔を逸らし、すぐに私の隣へと目をやった。女もまた張り合うようにして視線を合わせ、じっと見つめ合っている。

 何をやっているのか分からないまま放っておくと、従業員の人がメニュー表を持ってやってきた。受け取って横に居る女の目前にかざしてみせると、やっと猫と目を合わせるのをやめ、どこか恭しくメニューを受け取った。

 

「意外とドリンクも種類があるんだ。どれにする?」

 

 手元にあるのは写真やイラストもなく、猫の肉球のマークをあしらっただけの紙一枚だ。

 並ぶ文字を眺めてみると、確かに思ったよりも種類があった。地元の特産品を使ったジュースも載っていたが、金額が少し高くてあまり手を出す気になれない。

 

「ひょっとして、代金が心配? 僕が出すから気にしないで。一応、お酒もあるけど頼む?」

「……? 私は未成年よ。頼めるわけないでしょう」

「ああ、聞いてみただけ。ふふ、そっか、なるほどねえ」

 

 何か含む物がありそうだがそこには触れず、グレープフルーツジュースと紅茶を注文して私達は猫の姿に癒やしを求めた。ガラスは薄らと私達の姿を映して少し邪魔だったものの、白猫がキャットタワーに飛び上がり、クッションの上で寝転がる姿が素敵だった。この瞬間だけは背中に乗った何かが軽くなっていくようで、身体の力が抜けていく。

 私達以外の客がいない為に聞こえてくるのは猫が歩いたり、走ったり、鳴いたりする音と水道や飲み物が注がれる音といった些細な生活音くらいのものだった。

 

「かわいい」

「……そうね。それで、あなたは何故私を見ているのかしら」

「ごめんごめん。今、暁美さんがいつもよりかわいくなったから、つい」

 

 猫の愛らしさを堪能する私の姿を、女が楽しんでいた。

 思わず溜息が出そうになった所でドリンクが運ばれてきて、二つのカップが私の前に並ぶ。グレープフルーツジュースを手に取って、残る方は女に渡す。濃く深い紫の中で凍りが泳いでおり、香りは私のよく知るものと変わりない。

 隣の女は紅茶のカップに触れて熱そうにしていた。一口飲んで砂糖をたっぷり加えてもう一度飲み直しており、満足そうに頷くとカップを置いて顔を近付けてくる。

 

「聞いてみたかったんだけど、いい?」

 

 内緒話のように寄り添って、肩に手を触れてきた。

 声は潜められていた。そんな事をしなくても私達は言葉を交わせるのに。

 ふと、ガラスの向こうで猫に食事を出していた従業員が唐突にうとうとと眠そうにしているのが目に入る。私達より二回りほど年上の女性で、その場で座り込んだかと思うと不自然なまでの速さで眠り始めた。おまけに、その周辺にいた猫も寝始めている。

 これはひょっとしてと女に尋ねようとすると、彼女はウインクを投げて答えた。

 

「人に聞かれる心配はなさそうね……一体、何を聞きたいの」

「貴女は、まどかちゃんのどこが好き?」

「……」

 

 最初から答えにくい質問を飛ばして、言葉に詰まった私の反応を堪能するように見つめてくる。

 

「全部? いや、簡単には答えられないかな? それとも、答えたくない?」

「答えたくないわ」

 

 見つめ返さずにグラスに両手で触れ、視界に入った猫が走り回る様を楽しんだ。頭から背中だけが真っ黒で他は真っ白な体毛と、いかにも人慣れした愛くるしい顔は見ていて飽きさせない。

 グラスの表面に映る自分の顔は妖しく揺れていた。ストローで少々飲んでみたけれど、味よりもすぐ傍から聞こえる感嘆とも興奮とも取れる吐息が先に来る。

 

「私の想いも、心も、私のものよ。必要もないのに誰かに言いふらして見せびらかそうとは思わない。まどかは……ええ、大事な人。それだけ」

「そっか。うん、つまり暁美さんにとって、まどかちゃんは同じ質量の宝石より価値があって、その命はほかの全ての人より重いんだ」

「何も言ってないけれど」

「すごく大切そうに言うんだもの。分かりやすすぎる。でも、そうか、うん、うん。やっぱりまどかちゃんが大事なんだ」

 

 ジュースの味は非常に分かりやすく、いかにもよくある風味だった。

 値段なりの味わいを感じていると、猫が私達の前で寝転がり、ごろごろと回転してから顔を掻いた。お腹を見せてにゃあと一つ鳴いており、どうすれば人間が喜ぶのかを理解しているような素振りだった。

 かわいい、という呟きが隣から聞こえてくるが、これには全くの同意見だ。なんて可愛らしいんだろう。

 

「暁美さんはさ、これからどうするの?」

 

 猫のお腹に見とれていた女の口調は気安い質問といった体だったが、嫌でも分かってしまうほど重みのある声音で発せられていた。

 明日、明後日の予定を尋ねられている訳ではないのは問う声からも明らかで、私自身が今のようになった時からずっと頭の中にあった答えが思い浮かぶ。

 

「私は……まどかと離れた人生を送るつもりはないわ」

「じゃあ、まどかちゃんが生きている限りは一緒にいるの? 高校も同じ?」

「かもしれない。少なくとも、彼女から離れる事はないと思うわ」

「……そっか。自分の人生を送る気はないってわけだ。僕が暁美さんの友達なら止める所だろうし、家族なら怒るんだろうけど……羨ましいな」

 

 こんな事を羨ましく思うのはどうかしている。

 遊びか何かだと思っているのか、という疑いが女にも伝わったらしく、「ああ」という呟きを漏らすと、女はどこか遠くを見るようにガラスの向こうの猫へ視線を傾けた。眠っている筈の一匹が夢を見るような足取りで女の前まで歩いてくると、一つ鳴いてその場で丸まっていた。

 

「いやね、僕も人付き合いくらいしてはいたけど、自分が頑張らないといけない相手が見つけられなくて」

「それは、無理をして見つけなくてはならないこと?」

「見つけた方がいいとは思う。僕ら魔法少女は生きる為に戦うけど、ただ生きていく為だけの戦いは苦しいだけだよ。目標なり、生きて成し遂げたい事なり、何かしら欲しくてね。真っ先に思いついたのが大切な人をこの力で守ってあげたいって、事だったんだけど」

 

 一息つき、奥に居る猫に合わせて彼女が深く伸びをする。とてもかわいらしい。

 隣の女がにゃあんと声を発した。ハッと目を見開いて気まずそうに私を窺って僅かばかりの間だけ沈黙し、すぐに元の遠くを見るような様子へと戻る。

 

「幸いというか、なんというか、僕の人生は割と平穏無事でさ。魔法少女なんて大それた力が必要な苦境なんて訪れなかった。僕に幾ら戦う力があったとしても、戦う相手が居なきゃ不必要で、無価値だった」

「大切な人が追い込まれる事を望むなんて、あってはならないことよ」

「……だろうね」

 

 語り続けていた彼女の声がふいに止み、頭を傾けてこちらを見つめた。

 

「だから、貴女をずっと待ってた」

「どこで」

「円環の理の中で」

 

 端的すぎる答えに理解が及ばずにいると「分かりにくかったかな」と補足が加えられる。

 

「円環の理にいるとね、見えるんだ。そう、世界がね」

「まどかも、そんな事を言っていたわ」

「でしょ。だから僕には暁美さんを知る機会があった。自分の命を使っても良いと思えるくらい大切な友達の為に尽くす、暁美さんはそれに対してどこまでも真摯に取り組んできたよね。僕は知ってるよ、ずっと見ていた」

「見ていた? 私が生きてきた過程を、ずっと?」

「うん」

「私が、何をしたのかも?」

「うん。だから、好きになった。一生懸命で、真っ直ぐで、本当は気弱なのに頑張ってて。あと、顔がいいのも、髪が綺麗なのも、細身でカッコいいのも好きかな」

「……」

「あっ、ひょっとして、そんなお世辞を言っても心に響かないぞ、って思ってる? そんなに綺麗なお顔をしているのに。自己評価がひくーい」

 

 彼女にそう言われずとも、お世辞ではないのは伝わってきた。常に送られるドロドロとした粘性の視線が全身に絡みつく幻視すら覚えるほど強い感情を送られてきては、本心から言われていると信じざるを得なかった。

 

「だから、僕は暁美さんを誇りに思ってる。貴女自身は、今の自分を誇れる?」

「……」

 

 その答えを返すのに、しばらく考えなければいけなかった。私があまりよくない存在なのは分かっていて、しかし、己の行動に悔いはない。どうあれ成すべき事は決まっているのだから、私は私が成すべきだと思った事に突き進んだだけだ。

 余りの過大評価にめまいがする。

 なるほど私はまどかを助けたくて何度も繰り返してきたし、今もまどかを在るべき場所から連れ出して世界を書き換えている。言葉だけ聞けば何やら立派に聞こえるが、その最中に私が必要に任せてやってきた罪の数々は決して無くならないし、円環の理から私を見ていたのなら、その全てを理解している筈なのだ。

 私は、他人に誇れるような事はしていない。尊敬を含む様々な好意をぶつけられるような人間ではない。誇れるような自分でもない。だけど、誇るべきかどうかで言えば、答えはただ一つ。

 

「ええ、誇れる。私は私が望む通りに動いて、己の望み通りに成し遂げた。誇ってもいいと思っているわ」

「そう思うなら悪そうな顔なんてやめて、堂々と胸を張ればいいのに」

「……私からも一ついいかしら」

「うん、聞いて聞いて。僕で役に立てるならなんなりと」

「あなたは、世界がまどかを元いた場所に戻そうとしていると言ったわね」

「その理解で合ってるよ」

「それは、その欠落は、同じ力を持った存在なら……代用できるもの?」

「……多分、可能だね。何故分かるかって? 僕が元々あそこに居た存在だからさ」

「そう。なら、例えば……」

 

 私がまどかの代わりを務める事はできないだろうか。人間性も魔法の力も彼女に遠く及ばなくても、私が間を埋める事で、少なくともまどかの人間性は現世に留め置ける。

 そうすれば私の存在は消え、後には何も知らない世界が残るだろう。けれど。

 私が居なくなったらインキュベーターは再び円環の理へ干渉しようと働き出すのだろうか。いや、間違いなくそうなる。それはとてつもなく恐ろしい事態を招く筈だ。私と、私が作り上げた力がどこまで正常性を維持できるものか、世界に溶けた私がどれくらい自分でいられるのかも全く不明で、不安要素は決して絶えない。

 でも、どんな問題点もまどかの命には、彼女の人生には代えられない。この決断で多くの命を奪う事になると分かっていても、それはまどかよりも優先されるべきではなかった。

 つまり、円環の理の欠落を埋めつつ、まどかの安全を確保する方法がどこかにあれば、迷う理由はどこにもない。

 

「暁美さん?」

「……いいえ、何でもないわ。気にしないで」

「そっか。なら内緒話はこの辺で、っと」

 

 彼女が指をパチリと鳴らすと、従業員が目を覚まし、辺りを見回して首を傾けていた。

 

「そうそう、水族館に行く約束をしたんだってね。こっそり着いていっていい?」

「止めはしないわ。でも、一緒に連れて行ったりはしない」

「いいよ。許可してくれて良かった。来るなと言われたら、それを無視しなきゃいけなくなるからね」

 

 立ち上がった彼女は不意に私の腰掛けたカウンターの前へお金を置いた。二人分のドリンク料金というには高い。彼女は壁に貼られた料金表を軽く叩き、そこに書いている「1時間1000円」の文字を指している。

 

「良かったら撫でていきなよ。気分がよくなる」

 

 撫でないのなら、このままお金は好きに使ってくれていいから。

 そう言い残し、彼女は私に背を向けて立ち去った。そして、店舗の扉から抜け出すように外に向かうと、その姿は窓越しにも見えなくなっていた。

 

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