【完結】暁美ほむらは悪魔みたいないい子でした   作:曇天紫苑

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ものすごくか弱くてありえないほど強い

 余波で粉々になった水槽からは、しかし水が溢れたりはしない。それらは現実のものではなく、水は一瞬にして散弾めいた魔力の塊となって私に撃ち込まれた。

 最後のあがきとも呼ぶべき抵抗は私の翼で受け止め、羽の残骸が舞う。空中の黒い羽を押しのけて美樹さやかが飛び込んできた。目を光らせ、体中からなりふり構わず溢れる魔力が青く光った。

 へし折れた剣は床に放り捨てられ、鞘を握りしめて真っ直ぐ襲いかかってきた彼女を正面から迎え撃ち、上段から振り下ろされた鞘を腕で受け止めた。腕の重要な部分が折れるような音がした。

 二人と二つの魔力が衝突した事による衝撃が結界を軋ませ、床に流れ込んできた水は私達の姿を写す。美樹さやかの身についたかすり傷は瞬時に治されるが、体力までは回復できずに息が上がっていた。

 何事もなく立っているのは私で、魔力に吹き飛ばされて壁に背中を叩き付けたのが美樹さやかだ。

 

「……分かったでしょう。今のあなたじゃ、今の私には勝てないわ。勝てると思っていたの?」

 

 蓋を開けてみれば、私達の力の差は歴然だった。美樹さやかがどんなに必死でも、今の私の方がずっと強かった。だけど、戦いが始まると美樹さやかの気迫は膨れ、どれほどの魔力の差で圧倒しようと食い下がってきた。

 執念の追撃が私の脇腹に当たって鈍く痛みを発しているが、我慢できないほどではない。笑顔を作れるだけの余力は残っているのが幸いだった。

 

「っ……あんたは……いつまでこんな事を続けるつもり?」

「まどかが生きている限りは」

「本当にそんな事が出来るって思ってるの?」

 

 ふらつきながらも立ち上がり、鋭い眼光が睨み付けてくる。ふらつく身体は隙だらけで、行動を封じるのは簡単に見えるものだが、どんなに仕掛けても立ち上がる頑丈さは厄介だった。

 

「まどかは目を覚まそうとしてるのに、あんたは無理矢理寝かせようとするんだ」

「そうね」

「あんたが無理矢理作ったこの世界がどんなに不安定か、あんた自身が一番に分かってる筈だよ。これは、まどかが目を覚ませば終わってしまう夢みたいなもので、いずれ、綻びが産まれて……あんたが苦しむだけなのに」

「でも、私が終わらせない。決して、決して……」

 

 問答の中で考えた。勝つだけならば、私が美樹さやかに勝つだけならば簡単だった。技量に大差がないのだから、魔力の差で圧倒できてしまうのだ。しかし、意思だけで立ち上がってくる彼女を完全に制圧するのは難しかった。

 この戦いを終えるには、記憶か、命か、どちらかは奪わなければならない。命は論外だ。美樹さやかが居なくなれば、まどかは確実に探そうとしてしまう。

 

「うっ……こ、のぉ……」

 

 上手く動けなくなった彼女がついに壁際へ倒れ込んだ。座り込んで手をだらりと垂らし、顔だけは私をしっかりと見つめている。取り落とした剣が床にぶつかって音を立て、足下を流れる水に濡れていく。

 立ち上がろうと動いた太股を踏みつけ、剣呑な瞳と視線を交わした。ついさっき、かわいらしい動物の前で微笑み合った瞳がそこにある。

 

「足、退けてよ……痛いんだけど」

「イヤよ」

 

 立ち上がれなくなった美樹さやかの顔からは血の気が引いていた。だが、力強さはまだ残っている。

 

「……あなたとは一生分かり合えないわね。もう二度と記憶が戻らないように、今度こそ忘れさせるわ」

「そうやって思い詰めて出来た世界が、まどかを幸せにできるわけないでしょ。あんたのワガママにまどかを巻き込んで、それで満足なの。それで本当に幸せなの」

「ええ、満足よ? 安心しなさい、忘れてしまえばあなたも楽になれるわ」

「ああ、そう。じゃあ、あんた自身は何も忘れるつもりはないし、楽になるつもりもないって事?」

「……わかったような事を言わないで」

「いーや、何度でも言ってやるね。で? どうなのよ。本当に、これで、満足? 幸せ? 違うよね。あんたは、あんたの願いは自分に言い聞かせるような幸せなの?」

「知ってはいたけど、うるさい子ね、あなた。説教でもしているつもり?」

「ほら……そうやって逃げる」

 

 いっそ憐れむような目ですらあった。私は何か、何かしらの反論をしようと口を開いたが、結局は何も言えずに息だけが漏れた。

 私は幸せだ。幸せな暁美ほむらでなければならない。何故なら私は己の成したい欲望を叶え、やると決めた事を成し遂げたのだから。しかし、そう答えても彼女は納得しないという確信もあった。

 何も答えないまま彼女の頭に手を乗せた。やっぱり逃げるんだ、と顔が言っている。

 

「じゃあ、目が覚めたらもう少しお土産を見て帰りましょうか」

「……まどかの気持ちは、どうなるの」

「今更ね。それを踏みにじるから、私は悪魔なのよ?」

 

 手に力を入れた時、私達に近づいてくる足音と気配があった。魔法少女だろうか。

 構わず記憶を奪おうとして、気配の主に思い至った瞬間に息が止まる。

 

「さやかちゃん!」

 

 来ると身構えるより早くにまどかが結界の中へ飛び込んできて、すぐに美樹さやかをかき抱いた。

 力の抜けた美樹さやかが押し倒されかけ、まどかに抱き支えられて目を見開いた。

 

「大丈夫!? さやかちゃん!?」

「ま、まどか!? なんで!? い、いや、ここは危ないから離れて!」

「いいの! それより、怪我はない!?」

「だ、大丈夫だよ。じゃなくて、あんたは早くここを離れて……」

 

 美樹さやかが連れ込んだのだと思ったが、彼女も自分の状態などすっかり忘れ、ひどく慌てている。

 まどかは、結果の中にいるという事にもまるで頓着していない。ただただ美樹さやかを気遣い、心配し、大切に腕の中で守ろうとしている。結界内の水に足を濡らしてもまったく気にしなかった。

 美樹さやかの無事を一応は確認したところで、まどかはやっと顔を上げた。魔法少女の知識は忘れている筈なのに、結界内に対する疑問は一切浮かばない。代わりに私の顔を見て、彼女は口をぽかんと開けた。

 

「ほ、ほむらちゃん? なんで……?」

「どいて、まどか。貴女には関係のないことよ」

「か、関係なくないよ! だって、こんな、さやかちゃんとほむらちゃんは、仲良しだったのに、なんで」

「いいから」

「い、いいからって、よくないよ!」

 

 まどかは美樹さやかを抱きしめ、大事そうに、誰にも害されないようにその身を盾にして守っていた。これでは干渉できない。

 なぜ、まどかはここに侵入できたのか。私の人形達は何をやっていたのか。答えは返ってこない。

 

「どいて、まどか」

「……やだ!」

 

 凄んだくらいではまどかの心を揺るがせはせず、むしろ私という脅威から美樹さやかを守る為により一層腕の力を強めていた。

 こういう時のまどかが如何に手に負えないか。底知れない優しさは意思の強さに代わるのだ。この強さにかつて私はどれほど救われて、どれほど悩み苦しんだか!

 頑なな声に、これはもう力尽くで退けるしかないと理解できてしまった。自分の感情は一時無視し、まどかの記憶に干渉する意思を定め、行動に移そうとした所で感情のこもった視線が私を捉えた。

 怒りや憎しみじゃない。もっと強くて、優しい目をしていた。

 気づけば後ずさっていた。彼女の視線に貫かれている方が、美樹さやかのどの攻撃よりも重かった。ただ、逃げるわけにはいかなかった。まどかの威嚇とも慈悲とも理解とも取れる視線を受け入れ、一歩踏み込む。嫌われるのも仕方ない。

 

「美樹さやかに怪我をさせたりはしないって約束するわ。だから離れて」

「……だめ。今は絶対にだめ」

「どかないというのなら……怖い思いをしたくなければ早く離れなさい。でなければ、貴女にひどいことをする」

「やだ」

 

 呼吸を深めて何度か目を瞑り、まどかは落ち着きを得ている。美樹さやかを背に回して自分の身を盾にしているが、やはり私を見る目に敵意や嫌悪は見当たらなかった。

 一歩一歩近づくと、まどかは身を強ばらせた。その頬に触れると、まどかの身が小さく震える。だけど顔色に怯えは一つもなくて、透明な視線に圧倒された。

 

「分かってる」

「何を、言っているの?」

「分かってるんだよ。ほむらちゃんは優しい子だから……さやかちゃんを虐めるような人じゃないって。何か理由があるのならちゃんと聞くし、一緒に話そうよ。二人が仲直りできるなら、わたしも頑張る」

「う……」

 

 真心と誠意と好意が流し込まれた。まどかは疑いようもなく本気で、私に寄り添おうとしてくれていた。その身からは見知った気配が漏れはじめている。

 頬の上で手を重ね合って、あくまで慈愛を注いでくれる。真剣な思いやりに、感情の凍り付かせた部分まで溶かされてしまいそうだった。

 だからこそ、まどかの腕を掴んで、無理矢理に引っ張った。

 

「……ぇっ……?」

「まどか」

 

 結界も、私達の姿も見られたのだ。何より彼女の雰囲気が円環の理に近づいたのは看過できるものじゃない。美樹さやかをどうするにせよ、まどかの記憶は消すしかない。できれば彼女に危害を加えるのは最後の手段にしておきたかった。

 

「それは、貴女には必要ないものよ」

「えっ。あっ……」

 

 記憶を消す魔法を、まどかに向けた。まだ状況を理解していない表情は抵抗を示さず、防ぐ手立てもありはしない。

 だが、飛び起きた美樹さやかが両足で床を踏みしめる音と同時に、私の腕を蹴り上げて魔法を妨害した。

 私からまどかを強引に奪って抱きしめ距離を取ると、今までは見せなかった怒りに燃えた双眸が真っ直ぐに立ち向かってきた。

 

「さっ、さやかちゃん」

「これ以上、こんな事は続けさせないって……言ってんのよ!」

 

 身の奥まで響く衝撃で腕が痺れるが、それは大した問題ではない。ぶんと腕を一振りして痛みを逃がし、痛覚を誤魔化して睨み返した。

 美樹さやかは当然のようにまどかを背にして、疲労した心身をねじ伏せながら剣を構えていた。どんなに敵が強くとも、決して背後にいる者には手を出させないと意地を張り、歯を食いしばって戦意を現す。私も、ああいう風に出来たらどんなに清々しいだろう。

 

「ふ、ふたりとも……もうやめて……」

「これ以上、まどかを悲しませるような事は……あたしが許さない!」

「……許さないから……あなたが許さないから、どうしたというの!」

 

 前傾姿勢になった美樹さやかが、腰を低くして息を深く吸った。こちらに突撃してくる前触れだ。

 今取れる迎撃の選択肢の中で使い慣れたものをと考えた時に銃が思い浮かぶが、これはまずい。まどかを巻き込む。次点として選択できるのは弓と矢で、それらを取り出して全力で魔力を込めた。

 絶対にまどかを巻き込まないように大きさを絞り、攻撃範囲を狭め、ただ美樹さやかを返り討ちにする為だけの大きさに割り切ったが、それでも黒い魔力が渦を巻いた。撃ち抜くのはソウルジェム以外であればどこでも良かった。

 

「ほ、ほむらちゃん……やめて……」

「貴女は関係ないわ。黙って見ていなさい」

 

 ほのかにこちらを恐れる視線へわざと醜悪な笑みで答えると、まどかは辛そうに俯いた。最初からこうするべきだったんだ。

 そんな光景にも美樹さやかは何も言及することはなく、己を一本の剣とするように打ち出そうと身構えている。私が隙を見せれば彼女はたちまち突撃し、的確に私を貫くだろう。けれど私も同じく、矢を射る準備はできている。

 私達はどちらも口を噤んで隙を窺い、一瞬を待った。どちらが先に動くか、まどかがオロオロと私と美樹さやかを交互に見つめ、もうやめるように言ってくれたが、どちらも聞き入れなかった。

 まどかの頼みでもこれだけは聞けない。恐らく、美樹さやかも同じ様に思っただろう。

 

「……一つ、聞くけど」

 

 見つめ合ってどれほど経過したのか、美樹さやかが声をかけてきた。そこに怒りはなかった。

 

「どうぞ?」

「あたしの事、友達だと思ってる?」

「……多分ね」

 

 素直な感想で答えたが、彼女はどう受け取ったのかは読み取れない。ただ、噛み締めるように目を伏せ、

 

「そ……っか!!」

 

 目を開くと同時に、美樹さやかは前に飛んだ。それはまさに突進、あるいは砲撃と表現するほどの勢いと衝撃をもたらし、足下の水は噴水のように跳ね、荒ぶる風と巨大な震えによって水槽が砕け散り、瞬く間に距離が狭まる。

 思ったより早かった。思ったよりは。準備していた通りに矢を構え、もう少しだけ引き絞る。

 流れ弾の危険が一切なく、確実に一撃で仕留められる距離まで、もうほんの僅か。美樹さやかは避けようとする素振りすらも見せない。こちらが何をしようと、ひたすら真っ直ぐ、私の元へ。

 命は取らないようにしよう。そう感じるのと、弦から指が同時に離れるのは同時だった。

 

「だめっ!」

 

 まどかの身が一瞬だけ光ったかと思うと、私の前へ現れた。

 

「っ!?」

「もうやめて!!」

 

 彼女の身から常識を遙かに超えた魔力が漏れてムチのようにしなり、私の腕を弾いた。

 射線が逸れ、矢が無関係な方向へと放たれる。同時に、まどかの身から溢れ出た光り輝く羽が鎖となって私の身体に巻き付き、全ての行動を封じ込めた。

 

 だが、己を弾丸とした美樹さやかは止まれなかった。切っ先を逸らす間はなく、このままではまどかの身を貫く。

 せめてまどかを突き飛ばそうとしたが、その程度の身動きすら封じ込められている。あくまで目的は私と美樹さやかの戦いをやめさせる事なのだろう。彼女の柔らかな背は、鋭利な刃物が刺さればひとたまりもないというのに。視界に広がるまどかの顔にあるのは、心配そうな、それでいて安堵したような安らかな物だけだった。

 

「まどっ」

 

 そして人に刃が刺さった音と、それから衝撃が伝わった。

 

「ぐっ、あ、っ……!」

 

 

 うめき声。

 しかし、まどかの身には傷一つない。突然に結界の中へ入り込んで来た女が、まどかと剣の間に身を滑らせていた。

 

「ッ……ああぁっ! このぉ!」

「え……!? なんであなたがっ!?」

 

 女が苦悶の叫びを吐き出すのと、美樹さやかの困惑の声が重なる。

 

「いっ……たいなぁもう!」

 

 その場の全員が見ている中、女はだらりと下がった腕を美樹さやかのソウルジェムに向け、顔を歪めて叫んだ。

 

「美樹さやかっ!」その声は狂っていた。「よこせ、その力を!」

 

 触れられるなり美樹さやかのソウルジェムから何か神々しい光が現れ、女の指に吸い込まれていった。それが円環の理の力だとひと目見て理解できた。

 失神した美樹さやかの身が崩れ落ち、床に倒れる前にまどかが走って抱きとめる。力を奪い取られるのは相当な負荷がかかったのか、美樹さやかの顔はひどく青ざめていた。

 

「さやかちゃん! ……さやかちゃん!」

 

 完全に気を失ってしまったらしく、美樹さやかは目を閉じて何も応えなかった。見た限りでは呼吸は止まっていない。意識を、あるいは円環の理を失ったからか、先ほどまでの驚異的な存在感は霧散している。

 

「う……ぐぅ!! ううぅ……その人はしばらく寝てるよ、まどかちゃん……」

 

 その場でへたり込んだ女が、自分の胸に突き刺さった剣を引き抜いて床に放り捨てた。落ちた刃はガラス製だったかのように音を立てて砕け散り、後には剣が使われたという痕跡すら残らない。

 剣は彼女の胸を貫いて、なのに不思議と血は飛び散らない。その背中は弱くても、同時に放たれる妙な気配がぐつぐつと煮立っている。

 女はふらつきながらも立ち上がっていた。今にも吐きそうな青い顔をしてこそいたが、瞳の奥にある泥がグルグルと蠢きながら輝くのは変わりない。

 

「はぁー、はは……やってやったよ、まったく……」

「え……?」

「なんでもないよ、まどかちゃん」

 

 ぎらりとした瞳が私に向けられたかと思えば、彼女は無理矢理に片目を瞑ってみせた。それがウインクを意味するのだと理解したのは少し遅れてからだ。

 

「まどかちゃんは、あんなものになる為に、産まれてきたんじゃない。鹿目さんの幸せは……そういうものじゃ、ないんだ……」

 

 よろよろと近づいてくる彼女の傷口からはなぜか一滴も血が漏れず、肉体など最初から持っていなかったように身体を魔力が構成していた。

 彼女は私の目の前で膝をつき、左の手の甲へうやうやしく触れてきた。そして、そこにあったダークオーブをひと撫ですると、己の唇をゆっくりとあてた。

 突然のキスを介して何かが私に流れ込んでくる。それは、美樹さやかが持っていた円環の理の力だった。同時に、目の前の女が溶けるようにして消えていく。

 

「な、なにを」

「ごめん、きれいな手だから思わず……」

 

 悪びれもせず、消滅していく身体に頓着する素振りもまるでなく、ぐるぐるとした重苦しい感情をたたえた瞳が目に入る。

 女がほとんど半透明になったまま私に握手を求めてきた。迷わず応じると一瞬驚かれたものの、すぐに深く頭を下げてきた。

 

「おねがい。鹿目さんを……助けて……」

 

 言いたいことは全て伝えたと満足そうに彼女は消えた。

 まどかは目を見開いていた。美樹さやかを抱きしめ、何からも守ろうとしていたが、それでも目の前で起きた出来事をひどく苦しげに見つめていた。たった今消えた女の名前や経歴を、恐らくまどかは知っているのだろう。

 私が円環の理の力を手にしているからか、美樹さやかの張った結界はまだ生きていた。

 近づいてきていた魔獣達の討伐も終わっており、今回の戦いを全て無かった事にする為にも手早くこの状況を片付けなければならない。まどかには忘れて貰わなければ、と踏み込んだ時、美樹さやかを寝かせたまどかが両足でしっかりと床を踏みしめて立った。

 

「……ほむらちゃん」

 

 哀しみを滲ませながらも、真っ直ぐに目を合わせてきている。

 まどかの音色とも呼ぶべき声。私の名前を呼ぶ時の微妙な音の違いが、ついさっきまでとは全く異なった。

 私の中に在る魔力が蠢いた。まどかの声に反応していた。

 

 まどかの中に在るものが、私の中に在るものと共鳴している。 

 それは、己がかつて何者であったのかという記憶と力が一体化したものであって、まどかの中で不可分なものとして存在していた。

 残っていた。まどかには力が、何かを成す力がある。そんなモノは彼女を何一つ幸せにしてくれないというのに。

 

「まどかっ……!」

「ダメ……わたしの記憶を、取らないで……」

 

 はっきりとした拒絶だ。

 自分の心が砕ける音が聞こえた気がした。

 ごめんねって、口に出そうになる甘えた言葉を噛み殺し、まどかの腕を掴んで引っぱった。だが、抱きしめようとするとまどかの手が私の肩を押し、彼女は首を横に振った。

 

「……覚えている必要はないわ。記憶はとても残酷だもの」

「ほむらちゃん」

「まどか」

「ほむらちゃん、お願い。わたしの話を聞いて」

「……ダメよ」

 

 私の中に存在する、円環の理の力がざわついた。それは水が上から下へ流れるようにまどかを主としており、彼女に使われるのを待ちわびていた。

 まどかこそ、これほど強大で慈悲深い力を扱うのにふさわしい。そう思わせるのに十分な神聖さだった。

 でも私を待ってくれている。この想いに応えれば間違いなく今までの全てが許され、まどかと共にこの世から消えるのだろうと確信できるほど、まどかの目には慈悲がある。

 しかし、水が下から上へ流れるように抗うのが今の私だった。

 

「言ったはずよ。もう、ためらったりしないって」

 

 まどかの肩を掴んで腕の中に引くと、少し抵抗されたが、強引に距離を詰めた。

 もう諦めない。立ち止まらないって決めたから。

 

「だからあなたは、幾らでも私を責めていい。私の敵になっていいわ」

 

 投げかけた答えに対して、まどかの反応は予想していた通りに進む。声を荒げたりはせず、目線を下げた顔には曇りがあった。

 

「じゃあ、せめて答えて」

「……ええ、忘れる前に、一つくらいは」

「なら聞くね。ほむらちゃんは……どうしてこんな事をしたの?」

「どういう意味かしら」

「だって、あのまま来てくれればずっと一緒に居られたのに……わたしが迎えに来たの、迷惑だった……?」

 

 本当に不思議そうで、困惑すら見えた。

 やっぱり、まどかには伝わっていなかった。彼女には何も伝えていなかったから当然だけど。

 まどかにとって、円環の理である事は寂しいことでも辛いことでもないんだろう。

 ただそういうものとして胸を張って存在し続け、全ての魔法少女を見守り、その末路に慈悲をふりまくのは苦でもなんでもなく、家族と会えないとか、魔法少女以外の人達には存在を知られすらもしないとか、誰にも名前を呼んで貰えないとか、そんな事はきっと、円環の理にとっては無くて当たり前で、困りもしないんだろう。

 私がやっている事は単に迷惑なお節介で、一方的な意思の押しつけにすぎない。分かっていることだ。わかっていたのに、胸が痛んだ。

 

「嬉しかったわ。迷惑なんて少しも考えてない」

「なら、どうして?」

「……貴女の優しさを、誰も彼もに渡したくなかったから、かもね」

 この答えなら本心が伝わりはしない筈だ。嘘ではないのだから。

「貴女が魔法少女みんなのために存在するなんて、私が嫌だったんだもの」

 

 まどかの目が見開かれた。思い切り開かれた丸い瞳に明らかな哀しみが宿る。

 今の自分がどのような顔でこんな話をしているのかは分からなくても、まどかが好意的に捉えてくれるような表情ではないのは解りきっていた。別に構わない。まどかの反応が例え嫌悪や敵意だったとしても、平然と笑って返すつもりだった。

 

「ほむらちゃん」

 

 だから、まどかの面持ちが見る見るうちに曇っていったのは予想していなくて、抱きしめられるのを拒絶する間もなかった。

 いつかと同じく頭を撫でられ、髪に指が絡められる。背中をさする手つきには僅かな悪感情もない。いつも通りのそれが分かってしまうと身体が固まって何も出来なくなった。

 

「ごめんね」

「え」

「わたしが、あなたを追い詰めたのかな」

 

 きゅぅ、と腕の力が強まって、少し痛いくらい締め付けられる。背中から心臓の裏側をさすりながらの、甘えるようなまどかの頬ずり。僅かに踵を浮かせて背の高さを合わせ、そのまま私に体重を預けている。

 一体何が起きているんだろう。身体の動きを制限され、まどかの身を支えるだけの柱と化していると、よく知っていたぬくもりに加えて、ぐすぐすという嗚咽が身体に浸透して離れようにも離れられない。

 

「わたしが……ほむらちゃんを取り残して、ひとりぼっちにした、からなのかな……忘れてほしくないって思ったから、ほむらちゃんを苦しめたのかな……」

 

 抱きしめる力を弱めた彼女が顔を引いて、やっと表情が見えた。覚悟していた一切は訪れず、代わりに、悲痛が流れ出した泣き顔がそこにあった。

 

「私は、そんな、まどか……っ!」

「迎えに行くのが遅くなって、ごめんね……」

 

 見る見るうちに、まどかの背へと目映い翼が現出していく。頬を伝う涙の一滴一滴が光って彼女の顔に人間を超越した存在の輝きを照らしていった。

 もう泣き顔ではない。何か、自分が成すべき所を見いだしてしまった時の表情をしている。だがその瞳は金色で、立ち上る気配は私の知っているまどかに比べて、大きすぎた。

 本当に、まどかはもう人間ではなかった。魔法少女を通り越して、その遙か先にある景色の中で生きていた彼女の存在の格と言うべきだろうか、その力強さに比べれば、悪魔だとか名乗ったとしても私はそんな大仰なものではないと教え込まれているようだった。

 しかし、まどかは、まどか。どんな存在になろうと、やっぱり私の大事な友達なのだ。

 

 

「……忘れなさい……忘れてっ!」

 

 叫びをきっかけにして身に力を入れ、拘束と意思の間で痙攣する腕が引きちぎれても構わないくらい強引に持ち上げ、まどかの頭を抱き返した。

 抵抗されるより早く記憶を改変する魔法を起こし、直接触れた箇所から干渉をしかけた。

 普通なら一瞬で効果を発揮する筈の魔法でも円環の理は頑強で、ほんの少しの記憶の改変ですらかなりの抵抗を受けた。虚ろな瞳をしたまどかが、それでも私から一瞬たりとも目を逸らさずにいてくれて、思わず手を緩めてしまいそうな自分を叱責し続けた。

 

「ほ、むら、ちゃん……」

 

 何とかこの結界に入る前後の記憶だけを何事もなかったと改ざんし、まどかが眠って倒れ込んで、その身を繊細なガラス細工に触れるより丁寧に気をつけながら受け止めた。

 その場で座り込んで膝の間にまどかの顔を挟むようにして寝かせ、やっと呼吸が再開される。

 

「まどか」

「ん……みて、このこ、かわいい……」

「……寝ているのね。ああ……」

 

 こんな状況だというのに、彼女の寝顔は驚くほど落ちついていた。寝言でアザラシさんだとか、ペンギンさんだとかの名前が漏れ、夢の中では幸せを全身で享受しているのが目に見えて分かる。

 その背にあった翼は消えて無くなり、いつもの彼女が眠っている。髪を撫でても、そこに神聖なものは現れない。

 きちんと元のまどかに戻り、悲痛な顔色も消え去っていた。彼女を追い詰めたのは魔法少女の真実でも、希望や絶望でもない、私の行いなのだ。

 身体が息を求めてひどく乱れ、思わず服の胸元をかきむしり、気づけば拳を握りしめ、力をこめて空間を殴りつけていた。

 

「っ! ぅっ……!」

 

 何も無い空間に亀裂が走る。硬い壁を殴りつける衝撃が拳に伝わるが、構わず、もう一度、そしてもう一度。音はなく、私の息だけが残る。

 亀裂が穴にまでなりかけ、痺れる手で顔を覆った。そうしなければどうにかなってしまいそうだった。

 結局、まどかは私を責めなかった。それどころか、変わらず私を助けようと手を伸ばしてくれていたと思う。責任感と優しさを一体化して大切に取り込み、自分のものとしていた。

 

「どうしてっ……」

 

 まどかは決して、何か私に悪い事をしたわけではない。

 

「どうしてよっ……! どうして、あなたがそんな顔をするの……!」

「……あなたがっ! 苦しむひつようなんて……ない! のに……!」

 

 両手で覆った瞳が濡れて気持ち悪い。

 ここが結界の中なのが本当に幸いだった。感情が堪えきれずに漏れ出してしまう姿を誰かに見られはせずに済んだ。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 情けない己の涙を拭って、まどかを抱き上げた。乱れた思考は今もまとまりがなく、倒れた美樹さやか、何も残さず消えた女の存在が浮かんでは消えながら、まどかの苦しそうな表情は記憶の中で固定されて一切薄れない。

 女が最後に居た位置を見下ろしても、やはり痕跡の一つすら残っていなかった。遺体すら残らなかったのは、彼女が円環の理から来たからなのか。

 人の命が失われる所は何度も見てきた。誰かの手によって失われる命だけではなく、私自身もまた、両手の指よりずっと多くの人生を踏みにじってきた。

 中でも最も痛ましい記憶は今も頭の引き出しから飛び出しており、決して忘れる事を許されない。だから、今回だって激しく感情を乱されたりはしなかった。

 薄情だと思う。まどかの命を奪った時の苦しみに比べると、すんなりと飲み込めてしまった。

 

「……まどか」

 

 口から赤いものが垂れた。食いしばりすぎた歯が痛んだ。

 手落ちがあったと言わざるを得なかった。自分のした事がほころびを生むのは慣れていたのに、美樹さやかの記憶がとっくに戻っているとは気づきもしなかった。

 結果的に私の失敗で一人の魔法少女が傷を負い、美樹さやかに怪我をさせ、まどかに散々怖い思いをさせ、全く無関係な責任を背負わせた。全ての責任は私にあった。

 まどかを、それから美樹さやかを手近な椅子に座らせて、その足下に座り込む。外で行われていた魔獣との戦いは終わっており、使い魔達が結界の外の同じ位置で私達を囲んでいた。

 結界外の水族館内にある休憩用のソファと、まどか達を座らせた椅子は同じ位置にある。結界が解けても問題はない。

 戦いが終わっても今日という日は終わっていない。だから、二人を起こしてから何をするかを決めておかなければならない。予算を何とか捻出し、お土産を買って、夕食を一緒に楽しんで、このまま帰るのも良い。けれど、まどかと美樹さやかに頼んでもう一回水族館の中を回っても良いかもしれない。時間はまだ少し余裕があり、もう一度アザラシを眺めていれば気分転換にもなるだろう。とりとめもなく今日の予定を組み立てている間にも、美樹さやかに告げられた言葉が反芻されていく。

 俯きながら、床に残る水滴が引いていく様を視界に入れていると、視線を感じた。もう居ないはずの女の視線だった。

 

「勝った貴女の方がずっと悲壮な顔をしているのが、本当に……もう、本当に、素敵な人なんだからさ」

「……」

 

 これが罪悪感の見せる幻なのか、私のダークオーブに流し込まれた力なのかは分からない。分からなくとも、女はしゃがみ込んで私の顔を覗き込んでいた。

 受けた傷も痛みを堪える様子もなく、全くの無傷で佇んでいる。さっきまでの出来事を忘れたかのように浮ついた声で喜びをこぼし、こちらをじっくりと観察してくる。

 

「……助かったわ。まどかの盾になってくれて」

「いいって。そっちも僕がやるべき事だったし」

「それでもよ。あの時、まどかは私を拘束して円環の理に戻ろうとしていた。あなたが間に入らなければ危険だったわ」

「いや、僕が行かなくても貴女なら問題なかったって。現に、まどかちゃんの記憶操作も上手くやったわけだしね」

「……押し通しただけよ。上手くはない」

 

 何を思ったのか、女は黙って私の髪をいじりはじめた。

 後頭部から、ヘアバンドをなぞるように頭頂部、指の一本一本で髪を撫でながらもみあげをさらりと流し、うなじから後ろの髪を乱していく。私はされるがままだった。これくらいは、いい。

 左右で分かれた髪を一本に纏めてポニーテールに仕上げられた時、女が背後から囁いた。

 

「まどかちゃんにはひどい事をしちゃったねえ」

「……ええ」

「本当に、ひどい事をしちゃったね」

 

 嫌味なのか皮肉なのか、繰り返す言葉は深く感じ入る風だった。

 

「ああ、結界がそろそろ消えるか。僕は姿を消すから、何とか二人を誤魔化してね」

 

 言いたい事だけ言い終えて女は唐突に消えた。髪に触られている感触が消え去り、振り返った時には女はそこに居なかった。それまでと何も変わらない態度だった。

 幻にしてはやけにリアリティがあり、髪がポニーテールに変えられたのも気のせいではなかった。

 あるいは、とダークオーブに触れて眺める。

 いつも通りの紫色があるだけだ。持ち逃げしてきたという円環の理の力が流し込まれても、それだけでは大きな変化を感じない。ただ、私の魂とは別に、何か、まどかが傍にあるような気がするのだ。

 証拠はないが、きっと間違っていないだろう。ダークオーブを耳飾りに戻し、装束を元に戻すと、足下に感じていた水の感触が濡れた痕跡ごと消えていく。

 水滴すら残らず消え去った時には元の水族館に戻っており、他の客が私の前を通り過ぎた。周囲の人々からは私達は最初からここにいたように見えるのか、誰も結界から戻ってきた私達に反応していない。

 人形の使い魔達が二人の荷物を運んできたので、受け取ってからすぐに姿を隠すように指示を出し、見えなくなったのを見計らってやっとまどかと美樹さやかの肩をゆすった。

 

「起きて、二人とも」

「ふぁぁ……あれー?」

「んー……? あたし、なんで寝てるんだろ……」

 

 ソファで眠っていた二人が目をこする。まどかがきょろきょろと辺りを見回し、美樹さやかがあくびを一つ。

 

「二人とも、おはよう」

「ほむらちゃん? あれ?」

「休んでいる間に寝てしまったようね」

「そうだっけ? あ、でもお土産を買って、それで……」

「ここで一端休憩していたのよ」

「うわ、あたしは覚えてない。よっぽど疲れてたのかなあ」

 

 しきりに困惑しているが、幸い先ほどまでの記憶は綺麗に消えているらしい。二人が私を見る目は元通りで、痛いくらいの友好が注がれている。

 努めて今まで通りの雰囲気を取り繕った。何事も起きていなかったのだから、私も顔色を変えてはいけないだろう。慣れたもので、涙の跡は綺麗に消して張り詰めた空気を霧散させるのは難しくない。

 

「疲れたのなら、そろそろ帰りましょうか」

 

 しかし、笑えているのかの自信が、ほとんど持てなかった。

 

「ん……えっと」

「あー……よし」

 

 二人がほんの少しだけ顔を見合わせ、すぐに爛漫な様子で私の手を握る。

 

「ほむらちゃん」

「ほむら」

 

 揃って息をピッタリ合わせ、私を間に挟んで視線を交わし合い、同時に私の手を引いた。

 美樹さやかの気分の良い面持ちの中に、何やら優しい気遣いが漏れている。

 

「もう一回り行こうよ。あたしもまだまだ遊ぶ体力くらい残ってるし。まどかはどう?」

「うん! ほむらちゃんは平気?」

 

 こちらを見つめる視線を浴びるとそれだけで霧散させた筈のものが現れてしまいそうになる。やっぱり、私は笑顔が作れていなかったらしい。

 明らかに元気付けようとしてくれている二人に、素直な感謝の念を抱けた。おかしな態度を取らないように気をつけて、微笑むように努めた。

 

「……ええ」

「じゃ、決まりだね!」

 

 手を引かれながら考えた。まどかを助けようとすればするほど、私は沢山の人を傷つける。まどかを助けようとしていない時はそんな事もなく、ただ私が寂しい思いをするだけで済んでいた。とかく、私はまどかを守るのに向いていない。

 だからといって、やめるわけではないけれど。 

 

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