水族館の中でかなりの時間を費やした私達は、そのまま近場のカフェでケーキを食べて、それから普段は行かない距離にある雑貨店を回って、美樹さやかがかわいらしいハンカチを買った頃には日がやや落ちはじめ、最後に夕食をファミリーレストランで食べた頃にはかなり暗くなっていた。半日以上遊び続けた計算になり、流石に体力が尽きたのか二人は帰りのバスに乗るなり寝息を立てた。
今度は私が何かしたわけではない。はしゃいで笑って明るい時間を過ごして疲れ切っているだけだ。私も、かなり心を軽くして貰った。
バスの窓から外には少し前までほとんど馴染みの無い景色が広がっていた。道路上に並ぶ店舗も立ち寄った覚えの無い店構えばかりだったが、二人が眠ってからは少しずつ見知ったものに変わっていき、今はほとんど新鮮味の無い道路を通っている。
たった今くぐり抜けた高架は、いつだったかまどかと二人で渡った経験があった。それを過ぎた位置にあるバス停でずっと前に魔女を倒した事もあったが、それらしき危険な予兆は見られないまま、バスはその場を通過した。
知っている施設や利用した経験のある店舗が過ぎ、窓の先の景色は視界の中でぼんやりと流れ、外から差し込む光を背景にしたまどかの寝顔がくっきりと視界にあった。
お土産の入った紙袋、まどかの膝の上で大きさを示している。まどかの体の半分にも届く大きさの袋は抱えて歩かなければ運びにくく、私が持とうかと提案したが、まどかには遠慮されてしまった。
バスに揺れられ、まどかの身が小さく動いている。目を柔らかに瞑って気持ちの良さそうな寝顔を露わにしており、その姿は穏やか極まりなく見ていて安心を覚えるものだった。こうしていると、超越的な存在だとは誰も思わない。
柔らかそうな頬はほのかに紅潮し、唇はかわいらしい桜色で笑みを描いている。目は閉じているのに優しげな形を保っており、その顔立ちは太っているわけではなくても全体的にふんわりした印象を受ける。
じっと眺めていると、まどかの身が寄りかかってきた。寝返りのようなものだったらしく、私の肩を枕代わりに使ってきた。だが、やはり骨張った肩では寝心地がよくなかったのだろう。いまいち不満そうに寝息を乱し、顔を上げる。
「……あれ?」
「まどか、起きたのね」
「ほむらちゃん? あ、ごめん、寝ちゃってた……」
「いいえ。あれだけ遊んだんだもの」
「確かに今日はちょっとはしゃぎすぎたかな……あ、さやかちゃんも寝ちゃってる……」
「ええ。彼女も動き回っていたから、流石に体力が残っていないようね」
「ほむらちゃんは大丈夫?」
「私は、そうね。帰って眠れば大丈夫じゃないかしら」
美樹さやかの眠りはかなり深く、隣で会話をしていても、バスが揺れても彼女は私の肩を枕にし続けた。よだれを服に垂らされたが、腹は立たなかった。ここまで疲れさせている一因が私にもあるのだから、多少服を汚されたくらいで何だというのだろう。
記憶に無くとも私と戦っていて、忘れていても体力の消耗は消えていない。幸運にも彼女自身が治癒に長けていたが為に傷一つ残らなかったが、そうでなければ危うく身に覚えの無い怪我を誤魔化さなければならなかった。
「楽しかったね……なんだか、今日が終わっちゃうと思うと、ちょっと寂しくなっちゃうかも」
「……そうね」
透明な微笑みと瞳がきらめいて、まどかのそんな横顔はどこか大人びていた。バスが停まって知らない人が出入りし、エンジンの音が大きくなって人の会話に割り込んでくるが、私達の邪魔にはならなかった。
忘れさせたからこそ今のまどかは幸せそうだ。が、だからと言って無用な記憶を思い出させ、傷つけてしまった事実は無くならない。あんな顔をさせたくて現世に連れ戻したわけではなかった。
まどかを二度と苦しめないためには、どうしたらいいのか。物思いにふけっていると、手をぎゅっと握られた。
「まどか、何かあったの?」
「なんだか、ほむらちゃんが辛そうだったから」
軽く柔らかな楽しさを顔に貼っていたつもりでも、あっさりと見破られてしまった。
「あの、何か悩みがあるとか? わたしにできることがあれば……」
「いいえ、別に何か辛いことがあったわけではないわ」
「本当? ほむらちゃん、なんだかさっきから塞ぎ込んでるように見えるの。頼りないかもしれないけど、もし教えて貰えるのなら……」
「……」
「わたしね、大切な友達には笑顔でいて欲しいの。だから……ね?」
手を握る力が強くなって、言葉を重ねる度にまどかの面持ちに宿る柔らかさが増していった。
手つきも声も言葉も、全てが的確に私の心の壁を通りぬけて突き刺さる。ぐ、と言葉に詰まって溢れかけた涙を魔力でコントロールして押さえ付けた。今までで一番無駄な魔力の使い方だった。
バスは見滝原に入り、停留所の名前でもう十分くらいあれば美樹さやかの家の近所に到着すると分かる。このまま黙っていれば、何も答えずに済むかもしれない。だけど、この場で不誠実を押し通すにはまどかの視線が真摯すぎた。
目を逸らそうとしても、はっきりと送られてくる真心の塊からは逃げられない。ならばいっそ本当に話しても良いのでは無いだろうか。
「……実は、その」
慎重に言葉を選んだ。まんざら嘘でもなく、しかしまどかの記憶を刺激しない範囲の語彙を探って。
「転校する、かもしれなくて」
「えっ!? ほむらちゃんが!? ……あ、ごめんバスの中だったね……」
ショックを受けてくれるとは思っていたけれど、まどかの反応は想像よりも大きかった。響きすぎた声でバスの乗客が何人か振り返り、ひどく恥ずかしそうに無意識に浮かせていた腰を下ろし、周りを気にしながら座り直していた。
「まだ決まったわけじゃないけれど……結構、離れた所で。もう、会えなくなるかもしれなくて」
「決まってないの? じゃあ、中止になるかもしれない、とか?」
「ええ、その可能性もないわけではないわね」
「……」
どう受け止めたのか、まどかは口を噤み、ただ手を握る力だけを強めた。私が本当とは言い難い物言いをしていると気づく素振りは見られず、少し俯き気味な表情をさせてしまった。想像していたよりも
次の停留所にバスが止まり、まどかは「そう、なんだ」とだけ呟いて、バスが次の信号で止まった時にふと顔を上げ、私と手に持った紙袋を見比べた。
「どうしたの?」
一度深く頷いたまどかが、そのまま紙袋を私に差し出した。大きなぬいぐるみが入っており、中から二つのつぶらな瞳が私を見つめていた。
「アザラシさんのぬいぐるみ、貰ってくれる?」
「……なぜ?」
「ほむらちゃん、悪い夢をよく見るみたいだから。これを抱きしめて寝たら、ちょっとは楽だと思うの」
「でも、これはまどかのお金で買ったのに」
「いいの。でも大事にしてあげて欲しいな」
「……ありがとう。なら……使わせて貰うわね」
ぬいぐるみを貰い受けると、まどかに横からそっと抱き寄せられた。
眠る美樹さやかの頬が私の肩からずり落ち、膝枕の格好になる。寝心地は最悪の筈だけれど、まだ起きてくる気配はない。
「もし、ほむらちゃんが他のところに行っても……忘れないからね」
「まどか……」
「絶対に忘れないから、ほむらちゃんもわたしを覚えていてくれる?」
「ええ。忘れないわ、約束する。うん……そう言って貰えるだけで、私は本当に幸せ者ね」
「私だって、そんな風に言ってくれる友達ができて、凄く幸せだよ」
真心のある面持ちで答えてくれたその声に、思わず反応してしまった。
「……本当に幸せ?」
「うん」
「そう……それなら、よかった」
幸せを口にした彼女は、実際には何も知らない。知られては幸せでいられない物事を見てしまう前に目を覆って隠しているからだ。
だとしても、まどかが幸せと言ってくれるような状況を作れたのなら、私にとってはそれだけで十分だった。
「うう……ペンギン……」
私の膝では安眠も長く続かず、美樹さやかは妙な寝言を漏らしながらもゆっくりと身を起こした。目をこすって大あくびを無防備に晒し、まるで自分の部屋に居るようなくつろぎぶりで伸びをすると、ぼんやりした目つきで私達を視界に入れた。
「おはよう、さやかちゃん」
「さやか。これで涎を拭きなさい」
「ふぁぁぁ……あー……うん、ありがと……」
手渡したティッシュを使って口元を散漫な手つきで拭いて綺麗に整えると、かなり眠たげに大きな欠伸をして、もう一度私に寄りかかろうとしてくる。なんとか肩を掴んで姿勢を直させたが、手を放すとすぐに私の肩を使おうとしてきた。
「……ものすごく眠そうだね」
「うぅ、まどかぁー……もうちょっと寝たい……」
「ほら、もうすぐ家だよ。さ、立とう?」
「うーん……もうちょっとだけ、だめ……?」
「今から寝ちゃったら帰れなくなっちゃうよ。帰ってベッドで寝た方がいいと思う」
「ええー……このクッション使いたいー……」
「そこは私の二の腕よ……それから涎を押しつけるのはやめて」
顔を押しつけてくる美樹さやかを引き剥がす。服に染みがついただろうか。
「さやかちゃんを家まで送ってあげなきゃ」
「私も一緒に行くわ」
「うん、さやかちゃん、もう到着だよ」
「うう……わかった……」
バスのアナウンスが鳴り、渋々立ち上がった美樹さやかを連れて私達は出口へ足を向けた。腕にはまどかから貰ったぬいぐるみがあり、気分の良くなる手触りと本物より全体的にかわいらしく調整されたデザインは確かに癒やしの効果を持っている。
二人の背を追って歩きながら、思わずぬいぐるみを腕の中で抱きしめた。小さい子供のようだと思いながらも顔を押しつけ、少し息を吸ったが、無味無臭で何も感じる事はなかった。
+
美樹さやかを送り届けた私達は今日の始まりとはうって変わって静かに帰路へとついた。
彼女のご両親に眠そうな美樹さやかを引き渡しておいたので、今頃は早めにベッドの上か、それともお風呂に入っているか。一日の終わりを静かに、穏やかに迎えられればそれでいい。今日は私にとっても彼女にとっても色々とありすぎた。
言葉にも乗せず、態度にも示さなかったが、まどかは隣で何かを感じ取ったのか、美樹さやかの家から離れると同時に肩を寄せて、「一緒に帰ろうっ」と誘ってくれて、私は灯りに近づく虫のように傍で付き従った。
まどかの家はそう遠くもなく、幾分かの時間を並んで歩けば辿り着ける距離だったが、水族館で遊びすぎて遅れてしまった。空はほぼ完全に暗くなり、辛うじて雲が見えなくもないが、その上には綺麗な半月が存在感を露わにしていた。
幸い門限には何とか間に合っており、そう慌てる必要はなかった。
バスで話した内容が気になったのか、それともまどかも眠いのか、隣を歩いていても時折こちらを窺う視線を覚える程度で何も話しかけては来ない。
そうして言葉数の少ないまままどかの家に到着し、玄関の扉を開けるまどかの背中を見つめた。
「……じゃあ、おやすみなさい」
「ほむらちゃん」
私も帰ろうと身を翻したところ、まどかに呼び止められて勝手に体が聞き入れた。
「もう暗いから、よかったら今日は泊まっていかない?」
「いえ、ご家族に悪いわ」
「平気だよ。実はね、お泊まりして貰うかもって先に言ってあるから」
「……」
断る口実は幾らでもあった。直線に届く厚意を無碍にしても今更何か問題がある筈もなく、しかし、断る理由も特にはない。あるとすれば私の我儘だ。
気づけばまどかに手を握られており、彼女は輝かんばかりの真心がこめられた面持ちで答えを待っている。この顔を見てしまうと、断るという選択は自ずと消え去った。
「……まどかが構わないのなら……」
結局は折れて頷くと、まどかに迎え入れられて家の中に足を踏み入れた。
見知った内装に、照明の柔らかな白色と人の声の音色が迎え入れてくる。穏やかな野菜の香りと、ほのかな生活音、それから耳に入る笑い声。
思わず目を細め、この場に漂う幸せな家庭の空気を味わった。自分の家に帰ってきた時は当然明かりなど点いていないし、人の気配もない。こうして明るく人の気配に溢れ、おかえり、という言葉が聞こえてくる空間に居るのはいつも気分が良かった。
「ただいまー!」
「お邪魔します」
玄関からすぐのリビングにはまどかのお母様とお父様、それから弟のタツヤくんがいて、まどか、それから私に顔を見せている。
まどかのお母様は部屋着の格好で落ち着きをもって椅子に腰掛け、深みのある微笑みでこちらを迎える様は格好良く、頼もしさを覚えるくらいに力強い。まどかも、稀にあんな顔をしている。
「こんばんは、ほむらちゃん」
「遅くにすいません」
「いいっていいって!」
「うん、まどかから聞いてるからね。大丈夫だよ」
「あい!」
タツヤくんが手を挙げた。
ご両親に同意しているのだろうか。こちらから手を振って返すと、嬉しそうにはしゃいでくれた。
「ほむらちゃん、今日は泊まっていくのか?」
「はい。ごめんなさい、急に来てしまって」
気にしなくていいから、とまどかのお母様が鷹揚に手を振ってくれた。お父様も頷いてくれる。素敵なご家族だ。
挨拶を済ませてから綺麗な洗面台で手を洗い、一度荷物を片付けるからとまどかは小走りで自室に向かっていった。私が貰ったぬいぐるみも一旦はまどかに預けたが、やはり私よりまどかの方が似合った。
手を洗って戻ってくると、まどかのお父様はタツヤくんと一緒に遊んでいる。邪魔にならないように椅子へ座ると、まどかのお母様がこちらを覗き込んできた。
「その感じだと、今日はかなり楽しかったんだね」
「まどかと一緒に色々と回って……良い一日でした」
「そっか。ならどんな事をしたか、色々聞かせてくれるかな?」
「はい。何でも聞いてください」
「うん。それにしても、水族館……私も学生の頃は友達と行ったなあ」
大きく頷きながら、まどかのお母様は写真立てを手に取った。
白枠の、恐らくは前に来た時と同じであろう写真立てで、今度は誰が写っているのかが分かる位置にある。
恐らく何かの記念で撮ったのだろう。体操服で肩を組み合った写真だ。目に付くのは、まどかのお母様、それから早乙女先生、そして、もう一人。
「……この写真」
「ああ、それ? 私の若い頃の写真なんだ」
背景にあるのは学校で、ややデザインは変わっているものの私の通っている見滝原中学のそれだった。
まどかのお母様がすぐ隣で教えてくれた。これは今から二十年くらい前の写真らしい。
二十年前もまどかのお母様は堂々と背筋を伸ばした立ち姿だった。目元には強気な力強さがあり、今と比べると流石に荒々しさが目立つ。隣で寄り添うようにピースサインでポーズを取っているのも見覚えのある女性で、昔も今も変わらない穏やかそうな瞳がカメラを見つめている。
「あはは、子供の頃の写真を見られるのは、ちょっと恥ずかしいものだねえ」
「でも、まどかのお母様はこの頃から格好良かったんですね」
「いやいや。そんなことないって。ほむらちゃんの方がずっとカッコいいよ」
「そんな……こちらは、ひょっとして早乙女先生ですか?」
「あ、やっぱり分かる? あいつ、昔から全然変わらなくってね……」
「和子先生、昔からかわいいもんね」
自室からまどかが顔を出した。彼女はもう写真を見たのか、あまり深い興味は無さそうに通り過ぎ、冷蔵庫から取り出したお水を私に入れてくれた。
淡い紫のかわいらしいカップに注がれた水に、自分の顔が写る。困惑したような面持ちの自分が。
「ちょっと照れるなあ。この頃は、自分が今の歳になった頃の事なんて想像もできなかった。なってみるとあっけない物だけどね」
「……そうですか」
「ん、ほむらちゃん?」
「あ、いえ……なんでもないです」
この写真と現在の間には確かな年月が見えた。まだ、まどかのお母様が私達とそう変わらない年齢だった頃の写真なのだから印象が異なるのは当然だ。大人の顔をしているお二人と、写真の中の二人には大きな壁があった。
しかし、一番端に写っている人は全く変わっていなかった。違う点を挙げるなら、せいぜい、その目が今ほど濁っていないというだけで。
「じゃあ、この人」
「ああ、そいつは……」
今までとは違う反応だった。
水に口をつけて一気に飲み干すと、まどかのお母様はことんと小さな音を立ててコップを置き、そして写真を覗き込むと、懐かしさと、もう少し寂しげな何かが横顔に現れた。
「古い友達なんだ。君くらいの歳の頃に、この写真を撮った頃かな。その辺りで知り合って、それから何年かは一緒だったんだよ」
「じゃあ、今はどこに?」
「うーん……まあ、色々あってね」
あの女がそこにいた。
まどかのお母様に手を引かれ、おずおずと写真に残る姿は間違いない。私の知る姿より幾分か幼く、面持ちも弱々しかったけれど、写真越しにも分かる雰囲気は何一つ誤魔化しようもなかった。
「今、どこで何をしてるんだろうなあ」
「仲、良かったんですね」
「ん? そうだね……うん、友達だった。ちょっと変わってたけどね」
出会いも別れも沢山の過去を積み重ねてきた微笑みだった。
家庭菜園のある方向の窓にささやかな気配があり、ちらりと目を向けるとそこにあの女がいた。背を向けており、表情は窺えなかった。だが、肩が震えている。
その姿は私以外の誰の目にも見えていない。いや、タツヤくんには見えたのかも知れない。あの子が小首を傾げて窓際に歩いて行くと、女は逃げるように立ち去っていった。
「……きっと、この人もまどかのお母様を大切にしていたと思います」
「そうだね。ありがとう……よし! 私の話はこの辺にして、まどか、今日はどういう感じだった?」
「え? あ、水族館ならペンギンさんとアザラシさんがかわいくって……特にアザラシの赤ちゃんが……」
意気揚々と同じ机を囲んだ家族の会話に参加させて貰いながらも、写真の中にいる女の薄暗くも幸せそうな面持ちが目に入る。
あの女がなぜ私の元に来たのか、理解できた気がした。
+
真夜中にこっそりと、借りたパジャマを着たまま窓を開けて屋根に出た。振り向くと窓の向こうでぬいぐるみを抱いて眠るまどかの姿があり、楽しい夢でも見ているような微笑ましい顔をしている。安心しきった睡眠を妨げないように、極力音は立てなかった。
まどかの家は向かい側に木が立ち並んでおり、それが揺れると草の音が聞こえる。雲はなかったが空に見える星の数は少なく、半月はこちらを見下ろしていた。
周辺に住む人々もとっくに眠っているのか、草木を除けば静まりかえっている。こうしていると、私だけが誰も居ない世界に取り残されたような心地だった。
考えてみる。例えば、いつかまどかが誰かと結ばれて、その二人の間に子供ができたら私はどうするだろう。
そんな時、まどかの子供を守ろうとしている魔法少女がいたら、私は手を貸すだろうか。いや、相手がもっと大がかりな力を用いる事ができるのだとすれば、私は頭を下げて共闘を願っただろうか。
まどかの子供。想像してみると、思いのほか幸福感のある将来図が浮かんだ。確かに、そんな時がくるとしたら誰かに手を貸すくらい何もためらう理由などはない。
「……下手なお世辞はやめたほうがいいわ。わざとらしかった」
せめて理由を言ってくれればもう少しくらい信用できた。少しそう思ったけれど、人を頼る選択肢を今まで何度も捨ててきた私もまた、どうこうとは言えない身だった。
「お世辞じゃないのに」
肩に手を置く重みがあった。私の幻覚とは思えない。そこにはやはり、あの女が立っていた。まどかを起こさない為か、それともこの家にいる他の誰かに見られたくないのか、人差し指を立てて静かにして欲しいと頼み込んでくる。
「……間違えないでね。僕は本当に、暁美さんが凄いと思ってる。嘘じゃない」
「そう思う理由は特にないんじゃないかしら」
「あるさ。僕にはどうあったって君みたいにはなれないし、僕の理想のような人なんだから、お世辞でもなんでもない」
「でも、あなたが私に協力を提案した理由は」
「……まどかちゃんは、まだ、親元にいるべきだ」
不意に、女の声が陰る。
「確かに凄い子だよ。でも……あの子はまだ、鹿目さん……詢子に守られているべきだ。凄いとか凄くないとか、関係はない」
「そう。ところで、まどかと同い年の私はいいのかしら」
「貴女はいいんだよ。少なくとも貴女のご両親と僕に接点はない。だから構わない」
ずいぶんと最低な事を言われている。ただ、否定する理由も見つからなかった。
「例えまどかちゃんが誰かの為に命を捧げるとしても、それは今じゃないし、今じゃダメだ。何より、詢子から娘を奪うなんて……まどかちゃんは、望まれて、愛されて産まれた子なんだ。僕には、わかる。ずっと見ていたんだから」
「……」
「暁美さんも分かる筈だよ。僕達が魔女にならずともこの世の呪いは消えないし、悲しみも苦しみも消えない。何も解決しないんだ。ただ私達が苦しまずに死ねる、それだけの為にあの家族を壊していい訳がない……ああ、そうだね。本当はまどかちゃんの事に大して興味はない。詢子の娘だから、まどかちゃんにはまどかちゃんで居て欲しいんだよ」
かわいい子だけどね、と女は付け足した。
「鹿目まどかが去り、暁美ほむらが残る。そうじゃない。暁美ほむらが去り、鹿目まどかが残る。そうあるべきだと思うし、そうでなきゃ、いけない……僕がやるんだ。どんなにろくでもない魔法少女でも、生きている間にはできなかったなら、なおさら、やる」
自分の中で思いを煮詰めている人間の顔というのは、傍から見ていると危険以外の何者でもない。心なしか声にも濁りが増しているようにすら聞こえる。
この調子では、ソウルジェムを限界まで濁らせるのもそう長くはなかったのだろう。思い詰めて絶望的な顔をしたままで行動している姿は魔女を彷彿とさせた。
まどかのお母様がこの女の事を言い及んだのも、彼女が命を落としたからだろう。
しかし、こんな有様であっても彼女は一応、味方なのだ。
「幾つか質問するから、答えて貰えるかしら」
「もちろんいいよ。僕が知っている範囲の話なら何だって喜んで」
「じゃあ、あなたはまどかのお母様が学生だった頃に亡くなった魔法少女?」
「そうだね。いやあ、世の中の色々から解脱できたと思ったら、それが友達の娘だよ? どういう顔をすればいいのか分からなかった」
「……あなたは、体を持っていないのかしら」
「正解。この時代の魔法少女じゃないから帰る家も体もなかったってことで、僕は正式にはここに居ない。そもそも体が無い方が便利なんだよね」
「つまり、肉体がなくても、魂だけでこの世に留まれるのね?」
「そうなる。元々円環の理はこの世にあまねく存在する法則のようなもので、その一部である僕もその気になればかくあれるというわけ」
口ぶりからは、その気になれば肉体を手に入れる事も可能だというのが窺える。では、なぜ肉体がないのか。どういった理由があるにしても私にとってそこは重要ではなかった。
「つまり、円環の理の力があれば、身体が無くても、ソウルジェムすらなくてもこの世に存在し続けられる」
女は黙って神妙に頷いた。
「……そう」
屋根に座り込み、息を一つ。それだけで意思が固まっていく。あたかも熱せられた鉄が冷えて固まるように。
「昔……私は、とっくに人間をやめていると思っていたけれど」
胸に手を当てると、確かに鼓動があった。情けなくも足掻く己の体を生かしている根拠の一つは、意識してみると驚くほどにか弱く些細な動きを続けていた。
止まれ、と命じると、あっさりと止まった。意識に影響はない、肉体は魔力で動く。何の問題も起きなかった。肉体は入れ物で、私の魂は別にあるのだから。肉体すらも本当は必要ないのだ。
「本当にやめようと思うわ。私は、まどかを守るには脆弱すぎる」
風に当たったためか、徐々に冷たくなっていく指先で女の肩を掴み、こちらに向かせた。
濁った目の輝きが増していた。
「手を貸しなさい」
+
久しぶりに飛び起きて、己の頭を抱える。
また、ひどい悪夢を見た。いや、過去の記憶の反芻と表現するべきだろうか。私の記憶の中でも最悪のラベルが貼られた部屋、すでに開かずの間として存在していた筈のそれを、無理矢理にこじ開けられたような不快感だった。
見た夢の中身は不快どころの騒ぎではない。私が、人の命を奪った初めての経験、降っていた雨の冷たさ、引き金の重さ、己の口から漏れる押し殺した絶叫、絶望的な銃声、彼女のソウルジェムが割れて、彼女の身体から力が抜ける瞬間の恐怖までをまざまざと見せつけられ、逃げる事は許さないとばかりに何度も何度も、何度も何度も叩き付けられた。
目が覚める直前には、まどかの事切れる瞬間がコマ送りにできるほど記憶に焼き付けられていた。今も、その光景が離れてくれない。
「う……」
思わず口元を押さえた。そうする必要など欠片もないというのに。
追い打ちとばかりにまどかの目から光が消えたまさにその時がまざまざと浮かび上がり、とっさに洗面台へ駆け込んだ。しかし、何も吐き出せるものがない。
食事は変わらず取っているものの、それは今、自分の身体の中に入っていない。人間的な生理機能を削っていく過程ですっかり消えていた。あとは睡眠を取らなくなればいいのだが、今はまだ上手くいっていない。
ベッドに転がって、再び立ち上がると、傍らには私の体が取り残された。ぬいぐるみを抱いて寝顔を晒している。
不思議なもので、こうして肉体を捨てても違和感は何もなかった。今のこの、魔力と魂でできた体と呼べる何か、その両足で確かに歩き、手でモノを掴み、必要のない呼吸も癖のように続けていた。
魔法少女にとって肉体は外付けの端末にすぎない。インキュベーターがそのような事を言っていたのを思い出す。こうして実感してみると、確かに自分が魂で動いているのだと理解できた。
カーテンを開けてみると外は穏やかだった。魔獣も現れず、空気は清い。しかし、肉体という重荷を捨てたにしては妙に気分が重かった。
「ストレス発散でもする? 大丈夫? 生きてる?」
「もう死んでいるわ」
「なら良かった。二度は死なないね」
軽口混じりに女が座り込み、ぬいぐるみと私を見比べている。その体は、今の私と同じ状態にあった。
肉体が魔力によって修復できるなら、魔力で身体を編み上げることもできるはずだ。それを成した先例は今、私の隣に座っている。同じ事をするのは決して難しくなかった。
思えば、私が魔女になっていた時、そこにやってきたまどかや美樹さやか、それからお菓子の魔女は三人ともこの世に居なかった。魂はそこにあっても、身体はとっくに失われていた。しかし、彼女達は結界の中で存在しており、当たり前のように生活していたのだ。
「気分はよくなさそうだけど、上手く行ったかな?」
「ええ、十分に動かせているわ。これなら問題はなさそうね」
心なしかいつもより身軽で、床に足がついていないような非現実の感覚だ。精神体としてここにいる影響か、室内の体感温度は幾分低い。
「それにしても、かわいいパジャマなんだね」
「……普通よ?」
「暁美さんが着たらそれは普通じゃなくなるんだ」
上に薄手のノースリーブ、下にショートパンツを履いただけの簡素な格好だ。誰に見せるわけでもない為に、どちらも着け心地の良さ以外の拘りはない。
ただの地味な部屋着だ。ベッドの上にはそれを身に着けた私の体があり、女はベッドの上の肉体をひたすら凝視している。
「やっぱり……美人だね、暁美さん」
スイッチが入ったように声が濁り、目にあまり心地良くない感情が溢れ出した。
「ああぁ、暁美さんは羨ましいなぁ。こんなに綺麗なのに、その気になればどこへでも行けそうなのに。頑張り屋さんで、綺麗で、格好良くて、こんな人になれたらって、何度も思ったからね」
「変なことを言わないで」
「うん、ごめん。でもやっぱりいいな、いいな。羨ましい。本当に」
「……なぜそこまで気にするの」
「ほら、すごい筋肉を見たら触りたくなるでしょ? それと同じ」
返答を聞いて理解を諦めた。眠っている体に近寄った女はその腕を取って持ち上げ、ぷらぷらと揺らせて手首を握り「ほそーい」と呟いた。
本人の言とは異なり女の腕の方が幾分細いように見える。やつれた腕は私よりも健康を損ねているようであり、ここ数日で一気にそうなった事を思えば肉体が無くとも魂は素直に感情を示すものだった。
「その辺にしておきなさい。その体がどうあってもあなたには関係ないわ」
「関係はないけど気にはなるんだよね。人類の宝だよこれは。この華奢な肩の綺麗なことといったら。ほら、この髪も一本一本の質感って言えばいいのかな。それが心地良くて、ああ更にこの唇だね、唇。それから、ああ、この……柔らかそうなほっぺ」
「やめてと言っているの」
「ん……ごめん。調子に乗りすぎた」
強く、力をこめて声を出すと、私の頬に触れようとしていた女はおずおずと手を引っ込めた。
もはや自分の抜け殻に等しい体でも、無遠慮に触られれば不快なものを幻視する。ここ数日の間、女の物言いは加速的に遠慮がなくなっていた。詰め寄って、目的や行動の指針を吐かせたからかもしれない。
「……この体、役目が終わったら貰っていい? その、勝手な話だけど私への成功報酬として」
「そんなものを使って何をするつもり?」
「まあ……色々と?」
「却下よ」
「えー……こんなに綺麗なのに」
大事そうに、愛おしそうに私の身体を見つめている。
理解しがたい物言いで私を好ましいと告げてくる、そんな、姿さえも判然としない彼女だけが味方と数えていい存在なのは笑えるくらいに馬鹿らしい事実だった。そう、味方だ。
私の今後の行動と、その為に必要な手を借りる事を約束した。私達は友達ではなく、仲間でもない。友好関係と呼ぶのかすら怪しい。が、同じ目的の元に行動する味方ではあった。
すっ、と。女の表情から感情が唐突に消えた。
「で……覚悟は?」
「もちろんできているわ」
「本当に?」
「……」
「怖くても当たり前だよ、貴女の体なんだから」
「……そうね、少し、怖いかもしれない」
「でも、その恐怖も胸にしたって、暁美さんは止まらない」
「止まる方がずっと恐ろしいわ」
そうでなくっちゃ、とクスクス笑う女とは目を合わせないようにしながら、部屋の椅子に腰掛けて天井を見上げた。飾り気のない白い天井も、今日で見納めと思えば心に留まる。
まず、肉体を捨てて、より自由な行動を可能にする。そして、まどかの中に残っている円環の理の残滓も完全に奪い取って、以降は現世の関係を全て絶ち、私の全存在をまどかの維持に集中する。
全て、今までしていた事の延長線上だ。まどかと一緒に居るための生活を放棄するだけで何も変わらないと言っても良いだろう。そして、まどかに忘れられるのも悲しいほどに慣れているのだから平気だ。しかし、肉体を廃棄するのは胸からこみ上げてくる恐怖があった。
「あなたが確認しなくても、私はもう揺れない。そう決めたんだもの」
「……そっかあ。やっぱり素敵だね、暁美さん」
天井の僅かな汚れまで覚えたところで肉体へと戻る。
目を開いて身を起こすが、肉体が心なしか重かった。腐ってはいないかと手首の匂いをかいでみたが、特に問題はなかった。
「あれ、起きるの?」
「いいえ。また寝るわ……朝になったら、行きましょう」
「うん、お別れを言いに行くんだよね」
「……そうね、まどかには特に忘れて貰わないと」
人間としての私は消えるのだ。まどかに覚えていて貰ったら、彼女が私を探しはじめかねない。
きっかけがあれば、いずれ彼女は戻ってしまうだろう。私の存在はそのきっかけとして働きかねない以上、覚えていて貰えば破滅を招く。そして、まどかは元の存在へ戻る事をためらわないだろう。その時には、美樹さやかもまた元の存在へと戻り、二人して消えていってしまう。そうはさせない。
ずっとまどかと一緒に居たかった。まどかが傍に居てくれれば何だってできる、どこへだって行ける気がした。
だけど、まどかはかつての己を振り返らずに真っ直ぐ前を向いて生きいくには、足を引っぱって振り向かせてしまう私の存在など必要ない。何も迷う理由はないだろう。朝になればすぐにでも行動できる。
あまり、朝になって欲しくはなかったけれど。