歩夢短編   作: 龍也/星河琉


原作:ラブライブ!
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歩夢ちゃんの視点で描かれるお話

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明日に続く道さえも

 

「──紡ちゃんっ!!」

 

 縋るような、或いは希うような声音であった。明瞭ならざる夢現の境界にて半ば無意識のうちに発されたそれは夢幻に囚われていた歩夢の意識を完全に現実へと引き戻し、その時点になって漸く彼女は自身が眠っていたのだと自覚する。

 部屋は暗く、しかし窓から差し込んでくる外界の光のせいか周囲の状況を確認するに困ることはない。何のことはない、ただの自室だ。カーテンは開け放たれたままで、目だけを動かして外を見れば世界は既に夜であった。自らの声で無理矢理に起こされたためか微睡の残響は絶無で、されど歩夢は先刻見ていた夢の内容を瞭然としたヴィジョンとして想起することができる。

 回復体位めいた横向きの姿勢から寝返りを打つようにして天井を見る。うなじに触れるシーツが嫌に冷たくて、歩夢は己が泣いていたのだと悟る。眠っている間に滂沱するなど尋常ならざる事態だ。しかし歩夢の見た夢を考えれば、それも致し方ない事だと言える。

 同好会の活動を終えてから帰ってくるまでの事は、よく覚えていない。おかしな話だ。夢の内容ははっきりと覚えているというのに、覚醒時の行動が思い出せないなどと。普通なら逆であるのだろうが、或いはそれは歩夢の胸中に蟠る形容し難い感情が齎した逆転であるのだろうか。

 

「っ……」

 

 自らの腕で眼窩を隠す。当然ながら、歩夢の視界に広がったのは闇だ。一切の光の差さない、果てがあるのかすら、そもそも果てという概念があるのかさえ窺知できぬ無辺。だが、虚無ではない。光が遮られているために何もかもが不可視であるそこの中に在って、歩夢は在り得べからざる姿を幻視する。

 高階紡。物心付くよりも前から現在に至るまでいつも一緒で、それ故に全てを知っているのだと思っていた幼馴染の少年。だがそこに現れた紡の姿は歩夢の知るそれではない。まるで身元を隠すための加工が為された画像のような無貌に、長い三つ編みの先にはいつか歩夢が贈った髪留めではない、見知らぬそれがある。こんな人は知らない。そう言ってしまいたいのに、どうしてか彼女の感情を除く総てはその無貌を紡だと認識していた。

 知っている。紡の誕生日を。彼が母から受けてきた仕打ちの数々と、それを受けた彼が如何なる感情を抱えてきたのかを。彼の笑顔を。彼の癖を。彼の優しさを。彼の弱さを。彼の長髪の理由を。彼の好物を。

 

 ──だがそれらはもう、歩夢だけが知るものではない。

 

 知らない。紡が再びピアノを始めた事を。彼が不意の異性との接触であれほどまでに赤面するのだという事を。スクールアイドルフェスティバルに纏わる他校との会談の帰りに何をせつ菜と話していたのかを。

 

 ──それらを、歩夢ではない誰かが知っている。

 

 自分の知らない〝高階紡〟がいる。いや、違う。〝高階紡〟という少年に、自分の知らない一面がある。歩夢にはそれが理解できていて、納得はできていない。可笑しいだろうか。しかし、理解と納得は似ているようで全くの別物だ。理性と感情がひとりの人間の精神に内在する要素でありつつ全く別であるように。

 そしてその乖離はまるで遅効性の毒ででもあるかのように少女の精神をゆっくりと責め苛んでいく。それは今に始まった事ではなく紡と歩夢が共にスクールアイドルに惹かれ、世界を広げてからの事で、しかし歩夢がそれに気づいているのかは彼女のみぞ知る事だ。

 だが少なくとも──紡が歩夢以外の誰かと親しくしているのを見ると胸の裡に形容し難い感情が押し寄せてくるのは確かで、歩夢はそれへの適切な処方はおろか名前すら知らないままだ。だのに正体不明は留まる所を知らずその存在感を強め続けて、遂には歩夢の精神の外壁を食い破ろうとしている。

 同好会の皆の事は好きだ。友誼を抱いているのは間違いではないし、尊敬もしている。その筈なのに訳の分からない感情の波濤は歩夢を押し流して、足元が抜けたかのような異質な浮遊感を与える。或いはそれは、否応なく紡と離れ離れになるこれからさきの道行を暗示するかのように。

 

「嫌……そんなの、絶対嫌……!」

 

 もう夏の只中だというのにひどく寒くて、歩夢は己を抱き締める。けれどこびりつくような薄ら寒さは消えず、それどころか次第に強くなっていくような気さえする。であれば、それはやはり心因性のものなのだろう。紡を失うかも知れないという受け入れがたい、しかし嫌に鮮明な未来のヴィジョンがそうさせているのだ。

 手を伸ばし何かを掴むような仕草をしても歩夢の指は空を切るばかりで、そこには何もない。嘗てつないだ手の温もりさえ何処かに霧散していくかの如き心地は耐え難く、されど歩夢に抵抗する術はない。渇望の矛先は光の差さぬ闇。少女はただ、無明の酒に酔わされるのみ。

 道行は見えない。一寸先の道程すら判然とせぬが故に少女は震え、怯懦する。生まれてより隣に在った筈の手すら、今は見えない。見えないが故に探す。求める。だが求めれば求める程に分からなくなっていく。人が何かを探し求め、理解しようとするのは安心したいからだ。であれば、不明とは即ち恐怖である。

 己が思い描いた未来はおろか少し先のいつか、それこそ明日に続く道にすら踏み出せない。踏み出す勇気が、ない。だがその怯懦を、誰が責められようか。歩夢の抱く恐怖は全く正当なものだ。誰しも、独りは怖い。人間は独りでは生きられない。それを惰弱と罵り孤独への賛辞を嘯くならば、それは自らを無知蒙昧の下愚と宣するに等しい。

 その点、歩夢は幸運であったと言えよう。彼女の隣には常に寄り添い合い、支え合える相手がいた。だが無条件に寄り添われ、自らもまた無条件に寄り添ったが故に──そして、無垢にも隣人の変化を捉え受容する事ができなかったが故に、隣人が恐怖の中を独りでも踏み出す勇気を得たその瞬間、歩夢の描いていた停滞の共生は瓦解した。彼女の胸中に渦巻く混沌とは、つまりそういう事だ。渇望と恐怖、停滞と不明が綯い交ぜになった暗闇の中で、彼女は踏み出せず揺蕩っている。紡に近づく他者への聊か過剰にも思える反応など、そこから派生した枝葉でしかない。

 再び寝返りを打つ。そのまま無意識に手を伸ばしたのは、枕元に置いてあったスマートフォンだ。電源ボタンに触れて光が灯ったディスプレイの中では、時刻表示の奥でふたりが笑っている。この写真を撮ったのは、いつの事だっただろうか。逃避するかのように歩夢は逆行に思いを巡らせようとして、しかしそれを阻むかのように新たな表示が画面に現れる。メッセージアプリの通知だ。その上部には──〝紡ちゃん〟の文字。

 

「紡ちゃん……?」

 

 譫言のように呟き、一拍。弾かれるように立ち上がり、歩夢は足早に部屋を後にするのであった。

 


 

 ──或いは今まで、歩夢はずっと()()を否定したがっていたのかも知れない。彼女はせつ菜が嘘を吐くような人ではないと信じているし、故にこそ怯懦に呑まれている。しかし、いや、だからこそ、彼女は心の何処かでずっとそれが偽りでありと、何かの間違いであると思いたがっていたのだろう。でなければ、本当に今の紡には彼女の知らない一面があると認めてしまう事になるのだから。

 それは紛れもなく唾棄すべき逃避、自己欺瞞とでも言うべき行いである。だがそれを卑怯だと、詰れる者は誰ひとりとして在りはしないだろう。人間にとって変化とは時に苦痛であり、であれば停滞は甘美だ。その甘美を知る者を否応なしに変化の波に晒せば、そこに逃避が生まれるのも当然である。

 だが、逃避、欺瞞、そういった偽りは、決して真実に勝ることはない。どれだけ祈っても、どれだけ否定しても、真を白日の下にすれば、虚飾は露と消えるのが定めというもの。そう、それは丁度、久方ぶりに紡の部屋へと足を踏み入れた今の歩夢のように。

 

「紡ちゃん……それっ……」

「……もう一度、ピアノをやってみることにしたんだ。今なら、また始められるって思ったから」

 

 そう言う紡の視線の先にあったのは、一台の電子ピアノ。一見すると小綺麗で目新しい印象を受けるが、目立たない端々には隠しきれない劣化の痕跡がある。当然だ。それは嘗てピアノを習っていた紡が、自宅での練習のために使っていたピアノなのだから。

 だが紡は母からの圧力や姉に対する劣等感からピアノを辞めていた筈で、それなのに今、ピアノはまるで長い間そうであったかのように部屋の端に鎮座して歩夢にその存在を主張している。そこに埃のような放置の痕跡はなく、紡がピアノを大切に扱っているのは明白であった。

 紡の、男性らしからぬ線の細い指が鍵盤を叩く。電源が点いていないのか音色はなく、しかし歩夢はどうしてか在り得ざる旋律が聞こえてくるかのようであった。まるで、遠い過去の残響が今になって届いたかのように。

 

「歩夢に話したいことがあったんだ。けど、ブランクがある状態だと自信持てなくってさ。もっと弾けるようになってから伝えようって考えてたら、時間経っちゃっててね……」

 

 普段の粗野なそれとは異なる、優し気な口調。それは紡が歩夢の前でのみ見せる、それ故に未だ彼女しか知らぬ紡の一面で、けれどそれも今の歩夢の心に平穏を齎してはくれない。それどころかそれは今、自らの目の前にいるのが確かに高階紡その人なのだと彼女に再認させて、胸を強く締め上げる。

 そんな幼馴染の内心を知ってか知らずか、紡は鍵盤から手を放しその対面に座すベッドの方へと歩を進めていく。その足音が、嫌にはっきりと歩夢の耳朶を打つ。彼女の横を過ぎて、少年は背後へ。呼び止めるように、歩夢が呟く。

 

「……それって、ピアノのこと?」

「え、うん。それもあるんだけど……」

 

 それもある、と。再びピアノを始めた事を今日歩夢に伝えようとしていたのだと、紡は否定しなかった。瞬間、抗い難い情動が歩夢の鎌首をもたげて、そして、彼女はそれに逆らわなかった。

 

「だったら、どうしてせつ菜ちゃんには教えたの? 私には言えなくて、せつ菜ちゃんには……」

「んあ? 何でせつ菜さんが出てく……」

 

 訳が分からない、とでも言いたげな紡の声音。それは彼がこの場においてせつ菜の名前が出てくると全く予期していなかった、転じてある意味蚊帳の外にあると察するには十分で、しかしもう歩夢は止まらない。膨らみ続けてきた思いは既に決壊して、席を切ったように溢れてくる。

 紡の認識では歩夢は今まで彼が再びピアノを始めた事を知らず、今日招いたことで初めて知ったという事になっているのだろう。だが、現実は違う。歩夢は知っていたのだ。他ならぬ、せつ菜から伝え聞く形で。それは即ち、何らかの理由でせつ菜が歩夢よりも早く紡がピアノを始めたのだと知ったという事に他ならない。

 では、その理由とは何か。それを考えた時、歩夢の脳裏を過るのは合宿中に目撃した一幕。紡の胸板に顔を埋めるせつ菜と、赤面する紡。ふたりだけの世界に、異分子として迷い込んだ記憶だ。それが彼女に最悪の想像をさせて、爆発した思いは最早抑えようもなかった。

 

「せつ菜ちゃんの方が大事なのっ⁉」

「っ! 違ぇよ!」

 

 振り向きざまに放たれた歩夢の絶叫と、それを否定する紡。今まで聞いたこともない程毅然とした声音に、思わず歩夢の肩が跳ねた。そのせいだろうか、暴発していた少女の感情は徐々にその体積を減じてきて、それでも熱量は変わらない。それどころか空いた部分には彼女自身ですら正体の分からぬ汚泥のような情動が入り込んできて、静かに、かつ確かに熱量を増していく。

 前後不覚。まさにその一言であった。今、歩夢は間違いなく紡の部屋で彼を目の前にしている筈なのに、どうしてか暗闇の中でたったひとり、底があるかすら分からない無明に突き落とされているかのような心地さえもする。であれば次に彼女が執った行動は、不明に怯える子供の駄々にも似ていよう。

 

「ごめん……おっきい声出して。歩夢に伝えたかったのは、もっと『先』のことなんだ」

「……っ」

「俺さ、夢が……」

「──嫌ぁっ!!」

 

 悲鳴。次いで部屋に響いたのは、ばふ、という気の抜けた音と、ベッドの軋み。気づけば紡の視界は歩夢ではなく自室の天井を映していて、鼻腔は嗅ぎなれている筈の、同時にまるで知らないような気さえもする甘い香りを捉えている。身体にかかるのは軽く、しかし確かな重み。

 押し倒されている。自身の現状を理解するのに、そう時間はかからなかった。だが、何故。現状は理解できていてもどうしてそうなったのかには思い至れず戸惑いのまま口を何度か開閉して、声を絞り出すまでに幾許かの静寂を要した。

 

「え……? 歩夢……?」

「……聞きたくないよ」

 

 震える声音。それはひどい拒絶を内包していて、きっとその事に紡は気付くまい。そもそもとして発している歩夢自身、その言葉は紡への懇願ではなく半ば独白の色合いを以て漏らしているのだから、それも致し方ない事であろう。

 ピアノ。そして、夢。無視できない可能性として考えていて、それでも否定したかった現実を前にして、歩夢が覚えたのは底知れぬ恐怖。であればその押し倒しは、さながら相手に縋る子供のようでもある。歩夢の下で紡が何事か言いながら身じろぎして、歩夢が腕により力を込めた。

 嗚呼、離れてしまう。紡が、何処かへ行ってしまう。彼はこの場にいる筈なのにそれは歩夢の中で確信としてあって、故にこそ彼女は紡を放そうとしない。放してしまえばその瞬間、全てが終わってしまうような気さえするから。

 

「私の夢を一緒に見てくれるって……ずっと隣にいてくれるって、言ったじゃない……」

「あ、歩夢……?」

 

 消え入りそうな声で歩夢が呟き、紡が戸惑いを漏らす。その言葉は、彼らが同好会に入る決心をした日に交わした誓いの祝詞。紡にその宣誓を違えたつもりはなく、しかし歩夢の認識は違う。

 人間にとって、不明とは即ち恐怖だ。歩夢にとってこれから先に道行は不明に塗れていて、それでもふたりならば歩いていけるのだと思っていた。今までも、そしてこれからも。

 だが紡は自らの夢を見つけて、自らの力で歩き出そうとしている。それが歩夢にはたまらなく怖くて、だからこそ縋るのだ。紡の肩口に埋めていた顔を上げ、耳元で囁く。

 

「私、紡ちゃんだけのスクールアイドルでいたい」

 

 ふぅ、と囁くように。そのせいだろうか、紡の身体が脱力して、瞬間、歩夢が自らの両脚を紡の脚へと絡めた。悲痛を通り越していっそ煽情的であるそれは、紡ですら初めて見る幼馴染の女性性。そして。

 

「だから──私だけの紡ちゃんでいて?」

 

 

 主張するように。捕らえるように。少女は想い人の首筋へと、口づけをひとつ落とすのであった。

 

 


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