新劇場版における3人目(?)の綾波レイのお話しです。一部で新劇における最大の謎と言われてる部分を勝手に妄想してみました。別に書いているお話しの没エピソードなのですが、せっかくなので単独で投稿させてしまいました。

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雪上に咲く華

 

 

 

 

 その少女は薄闇の中に浮かぶ巨大なガラス状の球体を見上げていた。

 その球体は微かに淡い光を放っていて、非常にゆっくりとした周期で明滅を繰り返している。それはまるで夜のせせらぎの中を舞う蛍の灯りのような、慎ましやな光。

 とても大きくて、淡い光の明滅を繰り返す以外は、ただのガラス玉のように見える球体。

 しかしよくよく目を凝らしてみれば、明るい時と暗い時の境目。ガラス玉の中を見通せる丁度良い光量の時。ほんの僅かな瞬間に、ガラス玉の中に浮かぶ「何か」がうっすらと見える。

 少女の瞳は。

 緋色に染まる少女の瞳は球体そのものではなく、僅かな間に浮かぶその「何か」を見つめていた。

 この場所にやってきてからずっと。

 直立不動のまま。

 飽きもせずに。

 数分に1度の瞬きを交えながら。

 

 

 少女の横に人影が立つ。

 薄闇の中に浮かぶ球体をじっと見上げていた少女。

 一度の瞬きの間に、空色の睫毛に縁どられた目の中の緋色の瞳は、隣に立つ人物に向けられ、しかし直後の瞬きの後は、再びその瞳は球体へと戻る。

 

 少女の横に立つ人影。

 少女の背よりも頭2つ分ほど高い男。

 くたびれたワイシャツにくたびれたズボン姿の男は、両手をズボンのポケットに入れたまま、猫背気味の首を後ろに傾け、少女に倣って薄闇の中に浮かぶ球体を見上げている。

 

「よく飽きもせずに何時間も眺めていられるもんだな」

 男の口から漏れた、のんびりとした声。

「はい…」

 少女の小さな口から、細く短い声が漏れ出る。

 男は瞬きの間に一度だけ少女を見て、球体を見つめ直す。その口に、柔らかな曲線を浮かべながら。

「これを見て、君は何を感じるのかな?」

 その問い掛けに、少女は瞬きを交えて視線を一旦下げ、そして再び瞬きを交えて視線を球体へと向ける。

「…分かりません…」

「分からないものを、何時間も眺めているのか?」

 その問い掛けに、少女は目を伏せて何も答えず黙りこくってしまう。

 その様子を横目で見つめていた男は苦笑する。

「悪い悪い。別に責めているわけじゃないんだ。今は自由時間だ。君の好きなように過ごしたらいい」

 少女はこくりと頷き、伏せていた視線を球体へと戻す。

 

 そのまま2人で黙って球体を見上げていて、5分。

 少女が、ぽつりと口を開く。

「先生は…」

 すぐ隣から声を掛けられ、男は視線を隣の少女へと落とす。

 山吹色のベストに白のブラウス、膝丈のスカートを纏った、空色髪の少女に。

 

 男が彼女「たち」の教育係を兼ねるようになってから約3か月が経った。最初は無口不愛想極まりなく、挨拶どころかこちらから話しかけても返事すらしてくれなかった彼女たちだが、根気よく声を掛け続けてきた結果、最近では彼女たちの方から話を振ってくれることも珍しくなくなってきた。

 

 男はこの3カ月で得られた成果を噛み締めるように口もとに笑みを浮かべながら、黙って少女の次の言葉を待つ。

「先生は…、これを見て…、何を…、感じるのですか…?」

「俺?」

 少女は隣の男の顔を見上げ、こくりと頷いた。

 

「そうだなー」

 男はポケットから出した両手を腰に当てて、今更のように真剣に球体を見つめる。

 1分ほど見つめていて。

 その間に、球体は3回ほど明滅を繰り返して。

 少女は、男の顔を見上げたまま黙って男の答えを待ち続けて。

 

「愛…、かな…?」

 男は簡潔に答えた。

 

「愛…、ですか…」

 少女は男が言った言葉を、そのまま繰り返す。

 

 男は自分が言った答えにそれなりに満足しているらしい。

「ああ。愛だ。ある意味で究極の愛、だね」

 少女は視線を男の横顔から球体へと戻す。

 

「女は男のためにその身を捧げ、男は女のために世界を捧げた。破滅型の愛の、到達点という奴さ」

 

 ゆっくりと明滅を繰り返す球体。

 その明滅の合間に、球体の中に浮かび上がる何か。

 

 それは人の影。

 2人の影。

 2人で、1つの影。

 

 巨大なガラス状の球体。

 その中に、人が埋め込まれている。

 いや、漂っている。

 それは2人の男女。

 少年と、少女。

 

 少年は少女を抱き締め。

 少女は少年の腕に身を委ねて。

 

 少年と少女は、球体の中を揺蕩っている。

 ゆっくりと、少しずつ回転しながら。

 明滅する淡い光を全身に纏わせて、きらきらと光りながら。

 まるで光の乏しい深い深い海の底で、海流に任せてゆらゆらと漂う海月のように。

 

 それはまるで幻想的な一枚絵のよう。

 あるいは、水族館の巨大な水槽のよう。

 

 球体に閉じ込めれた少年と少女は、お互いの体を深く絡ませながら、目を閉じ、口を閉じ、耳も鼻も塞いで、静かに2人だけの世界を漂っている。

 

 

「これが…、愛、…ですか?」

 ぼんやりとした口調で言う少女に、男は苦笑いしながら顎をぽりぽりと掻く。

「あるいは、罰…、かもね…」

「罰…?」

「ああ。女は男に破滅の扉を開ける鍵を与え、そして男はその鍵で破滅の扉を開けてしまった。その罪に対する…ね」

 少女は、閉じ込められた球体の中で寄り添う少年と少女の顔をまじまじと見つめる。

 

「彼らは…、罰せられているようには見えません…」 

 ガラス面の向こうに見えるのは、穏やかな少年少女の顔。

「うん。そうだな」

 男も少女の言葉に同意する。

「ならば君にはどう見える?」

 そう問われ、少女は、球体の中の少年と、自分とよく似た顔の少女の顔を見つめ、問いに対する答えを見つけようとする。

 何度かの瞬きをして。

「…分かりません…」

 少女はぽつりと答えた。

「そっか…」

 隣の男性の顔を見上げる。

「先生…」

「何かな?」

「愛…、って、…何…ですか?」

 男は歯を見せて笑いながら、少女を見下ろした。

「こりゃまた、究極の質問だな。それが分かれば、俺はこの世界の全てを手に入れる事が出来るような気がするよ」

 男を見上げる少女は目を丸くする。

「先生にも…、分からない事…、あるんですか…?」

「むしろ分からないことだらけさ」

「へー…」

 少女は意外そうに呟きながら、目を小刻みに何度も瞬かせている。

 そんな少女の頭を、男はぽんぽんと軽く叩いた。

「んじゃ、これを宿題にしようか」

「宿題?」

 少女の小さな頭など鷲掴みにできそうなほどの男の大きな手にぽんぽんと頭を叩かれて、少女はくすぐったそうに肩を竦めながら聞き返す。

「そう。俺と君の宿題だ。先に「愛」ってのが何か分かった方が、相手に教えてやるってことでどうだろ?」

「私が…、先生に…、教える…?」

「ああ」

 少女は、その口もとに緩やかな曲線を描く。

「はい。分かりました」

 男はこの頃少女が少しずつ見せるようになってきた、花の蕾のような微笑みを満足そうに見つめ、そして腕時計を確認する。

「おっ。シンクロテストの時間だ。そろそろ行こうか」

「はい」

 少女は最後にもう一度だけ球体の中の男女を見つめ、そしてすでに歩き始めている男の背中を小走りで追いかけた。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この日も少女は薄闇の中で巨大な球体を見上げていた。

 その右手に、古びた文庫本を携えて。

 そしてこの日も男がやってきて、少女の隣に立つ。

 

 暫く2人して黙って球体を、正確にはその中を漂う少年と少女の姿を見つめていて。

 首が疲れてきた男は、ふと隣の少女の右手にある文庫本に目を向け、少しだけ目を丸くする。

 男の視線に気づき、少女はようやく球体から目を離し、男の視線を追って自身の右手にある文庫本を目にする。

「本。読むようになったのか」

「はい…」

「見せてもらってもいいかな」

「はい…」

 男は少女から受け取った文庫本の表紙を見つめる。

「これは?」

「真希波さんから貸してもらいました。「愛」が何か、分かるような本を貸してください、と」

 男の顔が、僅かばかり険しくなる。

「あいつめ。よりによってこんな本を…」

 

 表紙には、『幸福の王子』の表題。

 それは西洋の古い童話。ある王国の、王子(の銅像)と渡り鳥の交流を描いた物語。

 

「先生…?」

 少女に声を掛けられ、男は無意識のうちに寄せていた眉間の皺を消す。

「あ、いや。もう読み終わったかな?」

 少女はふるふると頭を横に振り、空色の短い髪を揺らせる。

「どんな物語だい?」

「はい。このお話しの中では、「夏」というとても暑い時期の後に、「冬」というとても寒い時期が来るようで、ツバメという鳥は寒い時期が来る前に暖かい国へ渡らなければならないそうなんです。でも、ツバメは王子のために冬が来ても、ずっとこの国に留まり続けたそうなんです」

「ツバメは…」

 男は少女に文庫本を返す。

「はい?」

 少女は男から文庫本を受け取りながら訊き返す。

「ツバメは…、何故冬が来てもその国に留まり続けたのか。君には分かるかな?」

 少女は文庫本の表紙を見つめて、暫し考え込む。

 そして、ゆっくりとした動作で、隣の男の顔を見上げた。

 一言一言確かめるように答える。

 

「王子の…、ことが…、好きだった…、から…?」

 

 その少女の答えに、男は頷きながら笑った。

「ああ。きっと、そうだろうね」

 少女は男の顔に向けていた視線を、今度はゆっくりと天井の方へと向ける。

 少女が投げた視線の先。

 巨大な、ガラス状の球体。

 その中に浮かぶ、少年と少女。

 少年の腕の中で眠っている少女の顔を、見つめる。

 

「彼女も…」

 少女はぽつりぽつりと言った。

「彼女も、あの男の子のことが、好き、だったの、でしょうか…」

 男も、少女の視線に導かれて球体の中を見つめた。

「ああ。きっと、そうだろう…」

 

 男は隣で球体を見上げている少女を見つめた。

 文庫本を胸に抱き締め、少し潤んだ瞳で、その視線の先で揺蕩うものを見つめる少女の横顔を。

 

 その瞳の奥にあるもの。

 それは少年の腕の中で眠る少女への憧憬か。

 少年への愛情を、自分の全てを捧げるという形で表現した少女への。

 

 男は、少女の肩に手を触れた。

 少しびっくりした様子で、少女は男の方に振り返る。

 男は、びっくりしてしまって肩を強張らせている少女の細い体を、そっと抱き締める。

 

 突然の抱擁に、少女はさらに全身をカチコチに凍らせてしまった。

 

 簡単に自分の腕の中に収まってしまった少女の体。

 男は身を屈めさせて、その顔を少女の顔へと近付ける。

 少女の耳元に、押し殺した声で囁いた。

 

「君はツバメじゃない…」

 

「え…?」

 

「君はツバメじゃない…。だから…」

 

 少女の今にも折れてしまいそうな身を、男の腕はさらに強く抱き締めた。

 

「誰のためでもない。自分のために…。翼を広げ、自由に羽ばたいたらいいんだ」

 

 強張っていた少女の体から、少しずつ力が抜けていく。

 だらんと下がった少女の腕。その右手には、古びた文庫本。

 膝も力なく折れ、彼女の体を抱き締める男の腕に、全てを預けた。

 

「先生…」

 

「なんだ…」

 

「ありがとう…。先生…」

 

 少女はそう呟きながら、だらんと下げていた両腕を自分と男の間に滑り込ませる。そして男の胸を少しだけ押し、男との間に隙間を作った。

 少女と男との間に、少しだけ距離が出来る。

 少女は男の顔を見上げ、小さく笑った。

 

「でも…、それは…、私には許されません…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この日も、少女は巨大なガラス状の球体があるこの場所に来ていた。

 ただし、この日の少女は球体を見上げていない。

 少女は別の場所を見つめている。

 その視線の先。

 彼女の教育係である男が、一人の少年と立ち話をしている。

 白銀の髪の少年と、時に肩を揺らしながら談笑している彼。

 

 数分程少年と話し込んだ彼。

 最後に少年は男の腕をやや乱暴気味に叩く。男は照れたように、後ろ頭を掻いている。少年は軽く男に手を振って、その場を去っていった。男は少年の姿が見えなくなるまで少年の背中に向かって軽く頭を下げ続け、そして踵を返し、少女の方へとやってくる。

 いつものようにのんびりとした彼の足取り。

 でも、どこか軽い足取り。

 いつものように大らかな笑みを浮かべた彼の顔。

 でも、どこかウキウキとしている彼の顔。

 まるで、世界の全てを手に入れてしまったかのような、幸せそうな笑顔。

 

「よっ。今日もここか」

 男の挨拶に、少女は軽く頭を下げて応える。

 少女は少年が去っていった方を見ながら言った。

「何を、お話ししてたんですか?」

 男はニヤリと笑う。

「おっ。君が人のお喋りの内容を気にするなんて珍しいな」

 ちょっと揶揄うような男の口調に、少女は「別に」と目を伏せてしまう。

 不機嫌になってしまった様子の少女に、男は慌てて言葉を繋げる。

「ちょっと上司に報告を、ね」

「報告、ですか?」

「ああ。実はね」

 そして再び、まるで世界の全てを手に入れてしまったかのような、幸せな顔。

 

 

「俺、結婚したんだ」

 

 

 目をぱちくりとさせる少女。

 

「結婚、ですか?」

 

 「結婚」という制度は「外の世界」を殆ど知らない少女でも知っていた。

 そしてその「結婚」という2文字を耳にした途端、体中の血液が全て足もとに下がってしまったような感覚を覚えた。

 

 男の顔を、何度も目を瞬かせながら見上げる少女。

 小さな口が、パクパクと開閉している。

 

 その小刻みに開閉を繰り返す口から。

 

「おめ…で…とう…」

 

 漏れ出た言葉。

 

「…で、…いいんでしょう…か…」

 

 細切れに浮かび上がる少女の言葉に、男はにっこりと笑う。

 

「ははっ。この場合、おめでとう以外に何かあるのかな? ああ、結婚は人生の墓場とも言うらしいからな。ご愁傷様でもいいかもしれないね」

 少女は相変わらず目を瞬かせながら、「よく分からない」と首を傾げている。

「うん。ありがとう。君に祝ってもらえて、本当に嬉しいよ」

 男はそう言いながら、少女の頭をぽんぽんと軽く叩く。その手の薬指には、白金色の指輪が光っていた。

 男は相変わらず締まりのない笑顔を浮かべ続けながら言う。

「実はそれだけじゃないんだ。あと少ししたら、俺はパパになるらしい」

 その言葉に、再び少女の瞬きが回数を増していく。

「パパ…?」

「ああ。産まれた時はぜひ君も渚司令と一緒にうちに遊びに来たらいい。俺の子供を抱かせてやるから」

「子供を…抱く…。私が…?」

「ああ。俺と葛城…、じゃなかった。ミサトの子だ。こりゃ世界一可愛いに決まってるぞ」

 少女の目は、相変わらず激しく瞬きを繰り返している。

 

 ぽんぽんと、少女の頭を優しく叩いていた男の手が、突然、やや乱暴気味に少女の小さな頭を鷲掴みにして、ぐりぐりとその頭を左右に揺らせる。

「すまなかったなぁ~」

 暑苦しいほどの笑顔を少女の顔に近付けてくる彼。

 少女は身を竦めながら、「何が?」と視線で問い返す。

「俺の方が早く、「愛」ってのが何なのか、分かっちゃいそうだ」

「好きな人と一緒になることが、「愛」、ですか?」

「そうかもしれないね~」

 男はだらしない笑顔で答える。

「好きな人との間に子供ができることが、「愛」、ですか?」

「そうかもしんないね~」

 男はだらしない笑顔で答える。

 

 少女はまるで顔中の筋肉がふやけてしまったような男の笑顔をまじまじと見つめて。

 

 そしてようやく、少女自身の顔にも、にっこりとした笑顔を浮かんだ。

 

「私も…、「愛」というものが…、何か…、分かったような気、します…」

 

 男もしまりのない顔で笑い返す。

 

「じゃあおあいこだな。この勝負は引き分けだ」

 

 宿題はいつ勝負事になったんだろう、と少女は首を傾げながらも笑う。

 

 男は腕時計を確認した。

「おっ。もうこんな時間だ。今日から俺は毎日定時で帰るって決めてるんでね。君はどうする?」

 男に問われ、少女は小さく頭を横に振る。

「私は、もう少し、ここに」

「そっか。ま、遅くならいうちに帰るんだぞ。じゃっ」

 男は少女に軽く手を振って、まるでスキップをするような足取りで立ち去っていった。

 

 

 

 

 男の後姿を見送る少女。

 その顔に、慎ましい笑みを湛えて。

 男の背中に向けて、ぽつりと呟く。

 

「おめでとうございます…。先生…」

 

 穏やかな笑みを浮かべる少女の顔。

 

 その少女の顔から、少しずつ笑みが消えていく。

 緩やかな曲線を描いていた口もとが、少しずつ引き締められていく。

 下唇を噛む。

 下顎が震え始める。

 眉尻が下がり。

 目が細くなり。

 

 ついに目尻から大粒の涙が零れ始めた所で、少女は咄嗟に両手で顔を覆った。

 顔を覆った手の隙間から見える口が、白い歯を噛みしめていた。

 細い肩が、激しく波打った。

 何度も鼻を啜り。

 口の端から嗚咽を漏らし。

 

 そして少女の口から零れ落ちた言葉。

 それは。

 

 

「ごめんなさい…」

 

 

 少女の戦慄いていた膝がついに折れ、少女の小さな体がその場に崩れ落ちる。

 床にぺたんと座り込んだ少女。

 

 

「ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…」

 

 

 そのまま前屈みになり、手で顔を覆いながら、空色の前髪で隠れた額を床に押し付けた。

 

 

「ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…」

 

 

 少女の指の隙間から零れ落ちた涙が、床を濡らしていく。

 

 

「ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…。

 

 ごめんなさい…」

 

 

 震える少女の背中を見つめているのは、まるで大きな瞳のような、ガラス状の球体だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

「ごめん…なさい…」

 

 それはまるで、あの文庫本で読んだ雪のようだった。

 

「ごめん…なさい…」

 

 王子(の銅像)の足もとで息絶えた渡り鳥。

 

「ごめん…なさい…」

 

 厳しい冬を越すことができず、こと切れてしまった渡り鳥。

 

「ごめん…なさい…」

 

 冬が訪れた王国に、しんしんと降り積もる白い雪。

 

「ごめん…なさい…」

 

 少女の体も、空から降り積もったまるで雪のような粒に覆われ、灰色に染まっている。

 

 

 

 赤褐色の空から降り注ぐ、灰色の雪。

 灰色の雪に覆われた、灰色の大地。

 

 その中に、ぽつんと少女は居た。

 地面に腰を下ろし、膝を抱え、背後にあるもの背中を預け、赤褐色の空を見上げながら一人、佇んでいた。

 

 彼女が背にしているもの。

 それは巨人。

 鋼の鎧を纏った巨人。

 半身を地面に埋め、すでに活動を停止している巨人にも、灰色の雪はしんしんと降り積もり、青を基調としていたその体を灰色に染めている。

 

 彼女が腰掛けているもの。

 それもやはり巨人だった。

 ただし、少女が背にしていた巨人とは比較にならない程の巨躯を誇る巨人。

 その巨人も大地に四つん這いになりながらやはり活動を停止しており、降り積もる灰色の雪で、本来は真っ白だった体を灰色に染め上げている。

 

 そんな様々な縮尺が出鱈目の空間の中で、ぽつんと佇んでいる少女。

 顎を上げ、赤褐色の空を見上げている少女。

 

 その空の中央には、ぽかんと開いた穴。

 まるでブラックホールのような穴。

 その穴は、少しずつ面積を広げ始めている。

 

 

 

 あのガラス状の球体の中に居た少年と少女が開き掛けた扉。

 

 その開き掛けの扉を、完全に開くこと。

 

 それが、この出鱈目な空間の中でぽつんと一人で佇んでいる少女の生涯に与えられた、たった一つの役割。

 

 

 全ての儀式は滞りなく終了した。

 

 あとは、扉が完全に開くのを待つだけ。

 

 

 

「ごめん…なさい…」

 

 少女は空を見上げながら同じ言葉を繰り返す。

 

「ごめん…なさい…」

 

 開き始めた扉の隙間から顔を覗かせ始めた、完全なる「破局」を見つめながら。

 

「ごめん…なさい…」

 

 その顔が全て外に出た時。

 

「ごめん…なさい…」

 

 地上の全ての人々に降りかかるであろう究極の災禍に震えて。

 

「ごめん…なさい…」

 

 待ちわびた子を決して抱くことはできない、あの人のことを思って。

 

 

「ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…。

 

 ごめん…なさい…」

 

 

 

 

 

「君が謝る必要なんてない…」

 

 どこからか響いたその声。

 少女は弾かれたように、声がした方へと顔を向ける。

 

 灰色の大地に、ぽつんと立つ人影。

 

 少女の視線の先に、彼が立っていた。

 

 

「うはっ。それにしても凄い光景だな。冥途の土産にはぴったりだ」

 

 全身をまるで宇宙服のような防護服で固めた彼は、軽口を叩きながらのっしのっしと重い足取りで、少女のもとへと歩み寄っていく。

 

「なぜ…」

 

「しかしこの服を造った奴は実際に着て歩いてみたんだろうな。機動性というものをまるで考えちゃいないが」

 

「どうして…」

 

「おまけに通気性ゼロで汗臭いのなんのって。こんな臭いで君に近づいたら、嫌われちゃうかな?」

 

 少女の側に立った男は、そのままドスンと盛大に尻餅を付く形で、少女の横に腰を下ろす。

 男と少女の周りを、地面から巻き上げらた灰色の雪が、まるで鳥の羽毛のように漂っている。

 

 

 少女は目をまん丸に見開いたまま、隣に座った全面ガラス張りのヘルメット越しに見える男の横顔を見つめた。

 

「ダメです…」

 少女は震えた声で訴える。

「ダメです…、先生…。すぐに帰って…」

 男は防護服の手首にあるコントロールパネルの表示を見つめる。

「今更遅いさ。すでに既定のL瘴気被爆量を大幅にオーバーしている」

「先生…!」

 少女の顔が、悲痛に歪んだ。

「それにどのみちあの扉が…」

 男は赤褐色の空で広がりつつあるブラックホールのような穴に目を向けた。

「あの扉が開ききっちまえば、この地球上何処に居たって同じだろ?」

 男のその言葉に、少女は頭を激しく横に振る。

「でもここは違う…! ここは…先生の居るべき場所…じゃない…!」

 少女はたまらず腕を伸ばし、男の分厚い防護服の肩を掴んだ。

「先生の家族と…、一緒に居てあげて…! 最期の時まで…、あなたが愛した人と…!」

 

 

 最近、少しだけ笑うようになった彼女。

 昨日は、自分の結婚を祝福してくれて、にっこりと笑ってくれた彼女。

 殆ど表情を変えることがなかった3月前に比べれば、遥かに表情豊かになった彼女。

 感情豊かになることは良いことだ。

 

 でも。

 

 それでも。

 

 やっぱり女の子が泣いている姿というものは、見ていて気分の良いものじゃない。

 

 いつだって。

 どんな時だって。

 いくつになったって。

 

 女の子が泣いているところを見ると、胸が張り裂けそうになる。

 

 

 男は、分厚いグローブで覆われた両手で、泣き腫らした少女の両頬を、そっと包み込む。

 

「妻にはちゃんと別れを済ませてきたさ」

 男は心の中で、めちゃくちゃ怒られたけどな、と注釈を入れたが。

 

 ガラス張りのヘルメットの向こうでは、大粒の涙を零す少女の顔。

 ヘルメットのガラス面を、少女の額にこつんと当ててみる。

 彼女の教育係である自分の顔をしっかりと彼女に見せて。

 彼女を安心させたくて。

 

 しかし。

 全面ガラス張りのヘルメットを被っている以上、これより先に、彼女の顔に近づくことはできない。

 

 

「ああもう。邪魔くさいな」

 男がヘルメットと防護服のつなぎ目を触ると、その首もとからプシュ、プシュ、と空気の漏れる音が立て続けに響いた。

 少女は悲鳴のような声を上げる。

「ダメ…! 先生…!ダメ…!」

 少女は両手でヘルメットと防護服の間の隙間を塞いだり、ヘルメットを上から押さえ込んだりして、何とか防護服の気密性を保とうとしたが、男の腕の力には逆らえず、ヘルメットは男の手によってゆっくりと防護服から離れていく。

 そして。

「ぷはっ! 生き返った!」

 ヘルメットを脱ぎ切った男は、ヘルメットを地面に投げ捨てると、胸を大きく上下させて深呼吸した。

「ああ、やっぱり空気は生に限る」

 肺の中に汚染された空気を目一杯吸い込んで。

 

 そしてすぐに左腕を少女の肩に回し、一気に少女の体を引き寄せて。

 

 少女の痩せた背中に両腕を回して。

 

 少女の細い体を抱き締めて。

 

 分厚い防護服を纏ったこの身で唯一露出している生身の場所。

 顔を、少女の横顔に摺り寄せて。

 少女の頬に、自身の頬を寄せて。

 

「人肌も…、生に限るな…」

 

 少女の冷たくなった頬を、直に感じて。

 

 

「先生…」

 

「大丈夫。妻の周りには頼れる仲間が大勢居る。だから大丈夫だ」

 

「先生…」

 

「でも君はこんな世界の片隅で、ひとりぼっちじゃないか。一人くらい、君の側に居る男が居たって、構わないだろ?」

 

「先生…」

 

「それに大切な教え子が泣いてるんだ。それだけで、俺がここに駆け付けるには十分過ぎる理由さ…」

 

「先生…」

 

 

 

 少女は3回ほど、大きく鼻を啜って。

 

「先生…。私…、先生のことが…、好き…」

 

 喉の奥から、絞り出すようにその言葉を伝えて。

 

「ああ。俺も君のことが、好きだよ…」

 

 

 すでに少女は「愛」が何であるかを知っている。

 だから、自分が言う「好き」と、彼が言う「好き」とが、決してイコールではないことは分かっている。

 少女が本当に欲しい彼の中での「好き」は、別の人に向けられていることも知っている。

 

 でも。

 それでも構わなかった。

 

 彼が今、この場所で口にした「好き」。

 それだけは、紛れもなく、ここに居る自分のためだけに用意してくれた言葉なのだから。

 

 

 少女は躊躇いがちに男の背中へと腕を伸ばす。

 

「私は、私の命を、先生のために、使いたい…」

 

 その少女の言葉を聴いて、男は下唇を噛みしめ、目を細め、眉根を寄せた。

 

 一度深く、瞼を閉じ。

 

 そして少女の体から少し離れ、少女の顔を正面からまっすぐに見つめ。

 

「一人にはさせないよ…。共に行こう…」

 

 少女は喜び半分、悲しみ半分の顔で男の顔を見つめ返す。

 「本当に?」とでも問うように、首を傾げてみる。

 

 男は、うん、うん、と。少女の不安を振り払うように、2度頷いた。

 

 少女は両眉を「ハ」の字に曲げながら、悲し気に笑った。

 そして鼻で3度、震えた深呼吸を繰り返し。

 涙で煌めく紅玉の瞳で男性を見つめ。

 そしてゆっくりと男の顔に近づき。

 空色の前髪に覆われた額を、男の額にこつんと押し当て。

 

 そして、落ち着いた声で男に訊ねた。

 

 

「先生は…、何を…、望むの…?」

 

 

 少女の問いに、男は些かの逡巡もなく、それでいてゆっくりと答える。

 

 

「妻と、子に…。今しばらくの、時間を…」

 

 

 男の鼻先を見つめていた少女は、視線を少し上げ、上目遣いで男の瞳を見つめる。

 

「それだけ…で、…いいの?」

 

 その問いに、男はどこか得意気に笑った。

 

「ああ…。俺の妻なら…、ミサトなら…。僅かに残された時間だけでも、未来へ繋げるための無限の可能性を引き出してくれるはずさ…」

 

 少女は涙に濡れた顔で、優しく笑った。

 

「ええ、分かったわ…」

 

 少女は改めて両腕を男の首に回す。

 男も両腕を、少女の痩せた背中に回す。

 

 灰色の雪がしんしんと降り注ぐ世界で。

 

 2人は互いに抱き締め合いながら。

 

 身を寄せ合って。

 

 互いの耳もとに互いの口を近づけ合って。

 

 分厚い防護服越しであっても、確かにお互いの温もりを感じ合って。

 

 

「ねえ、先生…」

 

「なんだい…」

 

「キス、して…ほしい…」

 

「心のない…、口づけになってしまうが…、それでもいいのかい…?」

 

「ええ。構わない…」

 

 

 あなたの大切な心は奪えなくても。

 

 あなたの大切な命のともし火は、私のものになるのだから…。

 

 

 抱き締め合っていた2人は今一度、体を離す。

 少女は左手で男の右手を握った。

 男の手を、自身の首もとへと誘導する。

 男の指が、少女の首へ。

 少女の首に嵌められた首輪に触れる。

 

「先生…」

 

「なんだい…」

 

「これ…。私の手では…、起動させること…、できない…」

 

 男の指が、金属製の首輪の表面にある凹凸に触れた。

 

 男は深い溜息を吐きながら顔を伏せた。

 

 何度か鼻を啜って。

 

 微かに奥歯を噛み締めて。

 

 そして顔を起こす。

 

 男は潤んだ瞳で少女を見つめながら。

 

 黙って頷いた。

 

 

 頷いてくれた男の顔を、少女は晴れやかな顔で見つめ返す。

 

「ありがとう…、先生…」

 

 少女がその顔に浮かべるのは、まるで世界の全てを手に入れてしまったかのような、幸せそうな笑み。

 

 

 男もにっこりと笑い返す。

 

「ありがとう…、アヤナミ…」

 

 

 

 少女は男の首に両腕を絡ませ。

 

 男は右手を少女の首に当てたまま、左腕を少女の背中に回し。

 

 少女は少し顎を上げたまま、静かに瞳を閉じて。

 

 男は、少女の顔にゆっくりと自身の顔を寄せ。

 

 

 そして静かに、唇は重なり合う。

 

 

 男の首に絡んだ少女の腕に力が籠もり。

 

 少女の右手が男の後頭部を押さえ、顔と顔を隙間なく、力強く寄せ合わせる。

 

 

 2人の唇が重なり合ってから、10秒後。

 

 男は、少女の首輪の表面にある凹凸を押した。

 

 ピッピッと、周期的に鳴り始める軽い電子音。

 

 電子音はまるでカウントダウンを刻むように、鳴る間隔を少しずつ狭めていき、やがて音と音との境目が無くなり、ピーと耳障りな一つの音に集約される。

 

 

 その間も、2人は黙ってお互いの唇を重ね合わせていた。

 

 

 灰色の雪が降り積もる世界で。

 

 

 2人だけの、静かな世界で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― 閃光が瞬く ―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― 灰色の雪の上に、2つの深紅の華が咲き誇った ―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、決定的な破局は訪れなかった。

 

 世界は。

 人類は。

 

 その日に訪れるはずだった決定的な破局を免れ、その後に続く緩やかな黄昏の時に身を委ねることになる。

 

 

 なぜ世界は。

 人類は。

 あの日の決定的な破局を免れたのか。

 

 なぜあの日。

 破局の扉は開け放たれなかったのか。

 

 なぜ世界は。

 人類は。

 未来へと繋がるか細い糸を失わなずに済んだのか。

 

 

 あの日。

 あの時。

 あのグラウンドゼロにおいて。

 

 

 何が起きたのか。

 

 誰が破局の扉を閉じたのか。

 

 誰がか細い糸を紡いだのか。

 

 

 それを語れる者は誰も居ない。

 

 真実を知る者は誰も居ない。

 

 

 

 

 それは、

    

    あの日、

 

       あの時、

 

          あの場所に居た者しか知りえない物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、2人だけの、秘密の物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい― 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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