春先にしては冷たい風がレンガ調の外壁を駆け上がっていく。見上げたマンションはいつもより高く、水色の空に突き刺さっている感じがした。子供の頃は、このマンションが大きな大きなお城に思えたし怖かったのを思い出す。その時の感覚が少し蘇って来たのかも知れない。
「子供の頃から、変わらないな」
なんて思ったのは初めての事だった。外壁の塗装が欠けたり、金属の装飾が擦れたり、脇に植えてある植物が変わったり。小さな変化はあるが、鹿目まどかにとっては何も変わらない光景だった。
昔から変わらない、煌びやかなエントランス。金細工にお洒落な模様の絨毯。よく清掃が行き届いているのか、何年たっても内装は綺麗なままだ。
『お城の中みたい』
小さな頃にそう言って、さやかに笑われ「かわいいな〜」と撫でられたことをふと思い出す。
呼び鈴を鳴らすと、インターホン越しの彼女の声が誰もいないエントランスに響いた。機械越しの彼女はやけに慌ただしい。来る時間を伝えておいたのに、昼寝でもしていたのだろうか。
まどかからクスリと笑みがこぼれると、「どうぞ~」という彼女の声と共に、エントランスの扉が開いた。
エレベーターのボタンを押す。昔はつま先立ちをしないと届かなかった階のボタンも、その必要は無い。
年をとって、中学生になって……さやかほど背は伸びなかったが、大きくなった。
だけど大きくなっても、エントランスの自販機でジュースを買ったり、マンションの階段でさやかに手を引かれたり、屋上を探検したことも、全部覚えている。
何も変わらない。世界も、思い出も、何も変わっていない。そのはずだった。
さやかの住んでいる階から見下ろす街は、二人と同じく、大きくなっていた。背の高い建物や知らない建物が増え、道が増えた。よく通ったスーパーの看板は寂れ、無くなったりもしている。地平線の先に伸びていく街は、昔とは違う色に染まっている。
いつしか、住んでいる街は知らない街になっていた。小さな頃から何も変わっていないはずなのだ。だけど知らない。分からない。
さやかの部屋のインターホンに手をかけて、押すのを少し躊躇する。この感覚は慣れないままだった。この扉の奥にさやかがいて、あと一押しでさやかが飛び出してくる、それを考えるといつも鼓動が速くなる。何てこと無いはずなのに。一緒に登校して、一緒に授業を受けて、一緒にご飯を食べて、一緒に帰る、数え切れないほど繰返した日常に比べれば、取るに足らないハズなのに。
覚悟を決めてインターホンを鳴らすと、ドタドタと足音が近づき勢いよくドアが開く。
「まどか~我が嫁よ〜」
そうして抱きつかれる。漂うシャンプーの香り、小さな頃から変わらない匂い。自分より少しだけ大きくなった胸の感触に、首筋から伝わる体の温度。これも慣れない感覚だった。
「もー、さやかちゃんったら……お昼寝してたんでしょ?」
「おぉ!? いつの間に名探偵にジョブチェンジしたのかな?」
「ふふっ、髪の毛がボサボサだよ~」
「これはこれは、乙女としたことが」
抱きつかれたまま、さやかの髪を撫でる。自分とは違うさらさらとした髪。もっと長く伸ばしたら良いのに、なんていつも思う。
「さぁ上がって」と手を引かれる。あの頃と──子供の頃と変わらない。さやかはいつも、まどかの手を引き、まどかの前を歩く。だけど、さやかは自らの手の先を気遣うのは苦手なのかもしれない。まどかは時折そう思うのだった。
「粗茶ですが」
「ありがとう、さやかちゃん」
さやかの部屋に、ティーカップからふわりと逃げ出した紅茶の匂いが漂う。さやかの「さぁ、飲んで!飲んで!」と言わんばかりの視線に押され、ゆっくりと口付ける。
暖かい流動体が喉を伝い、仄かな香りが鼻を抜ける。さやかが淹れた”マミの紅茶”の様な味が口の中に広がる。
「どうかな……マミさんには遠く及ばないと思うけど……」
「とっても美味しいよ。でも……もうちょっとかな」
「ったはぁー」と大げさなリアクションでさやかは転ぶ。さやかがマミに紅茶を淹れ方を習いだしてから暫く経つ。確かに習いだしてから紅茶の味は見違える程に上達していた。それでもマミの味に一歩及ばない所も、さやからしい物だった。
紅茶だけではなく、お菓子作りの方面でも、さやかの味はマミの味に近づいていた。まどかの知っている”さやかの味”はもう消えたのだ。
「……そうだ、さやかちゃん。髪とかしてあげるよ」
「おやおや? 今日は積極的だね」
化粧台の二段目の引き出しからブラシを取り出すと、まどかはベッドに腰掛けた。さやかはスッポリとまどかの膝の間に収まる。
「お客様、今日はどうされますか?」
「うーん、お任せで!」
ごっこ遊びなんていつぶりだろう、まるで昔に戻った様な気分になる。さやかも「懐かしいね」なんて笑い、楽しそうに身を揺らす。
こうして、さやかの部屋に二人きりになることも久しぶりだった。中学二年生になって、魔法少女になって、友達も知り合いも沢山増えた。楽しいことも増えたし、大変なことも増えた。
そして、まどかの知らないことも増えた。
さやかの部屋を見渡すだけでも、そうだった。小さな頃から大まかな配置は変わってないが、所々に紛れた”異物”が目につく。
「ドライフラワー好きだったけ?」
「あー、あれね。ほむらがくれたんだ。『試しに作って見たんです』って」
「子犬の縫いぐるみも初めて見た……」
「杏子がゲーセンで取ってくれてね。アンタの為じゃねぇなんて言ってたけど、正直じゃないヤツよ」
「ははは」と、まどかは精一杯笑い、誤魔化す様に櫛を動かす。羨ましい程に、さやかの髪に絡まりは無く、するすると櫛に従う。
「さやかちゃんは、友達がいっぱいだね」
「それはまどかもでしょ?」
「そうかも知れないけど……。さやかちゃんには敵わないよ。さやかちゃんは皆に優しいから……。きっと、みんなさやかちゃんが大好きなんだよ」
「じゃあ、まどかもアタシの好き?」
まどかの手が一瞬だけ止まりかける。
『大好きだよ』
その言葉を思い浮かべ、喉を震わせる前に、「なーんて、聞かなくても分かってるよ」と、さやかは笑った。
『わたしは特別……なのかな?』
頭に浮かんだその言葉を、歯を食いしばり抑え込む。
つい最近まで、まどかはさやかの友達の中の特別だった。特別だったはずなのだ。さやかの事を一番知っていて、さやかの大親友の鹿目まどかだったはず。
何も変わらない。世界も、思い出も、何も変わっていない。そのはずだった。
きっと、さやかの中でも変わっていない。そう信じたい。信じたかった。
自分の膝の間に収まる”美樹さやか”は、自分の知っている”美樹さやか”であって欲しかった。
「それで、今日はなんの用なの? 『さやかちゃんの家に行ってい良い?』なんて珍しい」
「そのね……特に用はなくてね」
「へ?」
「さやかちゃんと二人で遊びたかったんだ……その、小さなころみたいに……」
心臓がばくばくと激しく動き、耳が、顔が熱い。なんてことないはずなのに、大親友と2人きりで遊ぶだけなのに、心は暴れる。
一方のさやかは、少し驚いた様に目をまん丸くすると二カッと笑う。まどかが好きな笑顔。
「へへっ、愛いやつめ~」
さやかはまどかを抱きしめ、ベッドに押し倒す。
背中にはベッドの柔らかい感触、正面からはさやかの温もり。子犬を撫でるように頭を撫でられ、思わず目を細める。
さやかは何も考えていないのだろう。通学路で戯れるときと同じく、まどかを小動物の様な可愛さで捕らえて、可愛がるのだろう。
それが、まどかにとってどう捉えられるのかなんて知らずに。
いつしか、”さやか”はまどかの知らない”さやか”になっていた。ずっと隣にいたはずなのに、ずっと見ていたはずなのに、まどかはさやかが分からなくなっていた。
まどかは、さやかを抱きしめ返す。”美樹さやか”の背中に手を回し、指を絡めて、身を寄せる。
ゆっくりと、しっかりと……