神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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第十話 『神の名』を持つウマ娘

 エアグルーヴとシンボリルドルフ。生徒会役員の二人は東京レース場で行われる全てのレースが終了した今も、来賓室に残っていた。

 

「……」

「……」

 

 しんと静まりかえった室内でどちらが声を上げるともせず、ただただうら寂しさの漂う静寂だけが満ちている。

 

「……会長」

「ああ」

「……私は、大変な失礼を働いてしまったのでしょうか」

 

 窓辺に立ち、夕焼けに染まるコースを見つめる生徒会長へソファに腰かけたままエアグルーヴは尋ねる。その声にいつもの張りと活力はなく、普段であれば気丈な彼女も今は傍目からでも気落ちしているのがよく分かった。

 

「やはり、気になるかい?」

「はい……」

 

 背を向けたまま答えるルドルフへ、彼女は弱弱しく頷いた。

 

 己の失言のせいで、ひりついた雰囲気でレースを観戦するはめになってしまい、無言のまま双眼鏡を覗き込んでいたシンザンに対し、恐懼(きょうく)のあまり身を縮こませ、自分の存在をできるだけ消すことだけに注力していた程である。

 

「何故、シンザン先輩があのような態度を示したのか──そのわけは分かってるね、エアグルーヴ」

「……あの方を『神讃(シンザン)』先輩と揶揄(やゆ)してまったためだと、そう解釈しています」

 

 シンザンの現役時代──時のURA理事長が彼女の名前に『神讃(シンザン)』の当て字で彼女の走り振りを称賛したことがあった。

 

 そしてその呼び名はシンザンの『五冠』達成と共に確固たるものとなり、彼女を呼び讃える敬称として全てのトゥインクル・シリーズ関係者たちの共通認識となっている。

 

 当然トレセン学園の生徒たち、特に高等部の上級生の間でも畏敬の念を込めてその名で呼び称することがあり……エアグルーヴもその一人であった。

 

「……概ね正しくはあるが、当たらずとも遠からずと言ったところか」

 

 少しの間を置き、ルドルフは目の前のガラスに手を添えたまま、自身の行いが裏目に出てしまい、落ち込んでいるエアグルーヴへ向き直る。

 

「彼女は、自分が『神』と呼ばれることを極度に忌諱(きい)しているんだ」

「神……とですか?」

 

 自分の元へそっと歩み寄ってくるルドルフを見つめながら、エアグルーヴは呟いた。

 

 トゥインクル・シリーズの歴史上、異名に帝や王、怪物と付くウマ娘は何人も現れてきた。

 

 だが神と謡われたウマ娘は、少なくともシンザンしか存在していないはずだ。それを誇るのなら分かるのだが、避ける意味とは……。

 

「ああ」

「あれだけの輝かしい功績を残されているのに、ですか? 会長はその理由をご存知なので?」

「いや。大方、予想はついてはいるが、直接本人に話を伺ったわけではないから憶測で語ることはできない……しかし彼女が神呼ばわりされることを避けているのは、事実だよ」

 

 (かぶり)を振るルドルフ。彼女ですら触れることを憚るような無礼を働いてしまったのかと、エアグルーヴは自責の念に駆られ俯いてしまう。

 

 

 

「──『帝道は己が意志で、神道(しんどう)他人(ひと)の意志で形作られる』」

 

 

 

 そんな彼女の様子を黙って前にするルドルフは突然格言めいた発言を口にする。

 

「それは?」

「以前、さる人物からいただいたお言葉でね」

「さる人物……」

 

 思わず顔を上げたエアグルーヴの隣に腰掛け、ルドルフは正面を見据えて言葉を続ける。

 

「私が三冠を制覇した際、先輩の所属していたチームのチーフトレーナーとお会いしたんだ。その折りに、私と先輩のレースへのスタンス──いや、信条の違いをそう評されたんだ」

「シンザン先輩のトレーナーから……」

 

 三冠を達成した折りに会ったということは、菊花賞が行われた京都レース場に居合わせたということ。

 

 史上初の無敗三冠がかかったクラシック最終戦。かつてトゥインクル・シリーズで伝説を築いたシンザン。その彼女を育てたトレーナーも、皇帝シンボリルドルフが歴史にその名を刻む瞬間を目撃したかったのだろうか。

 

「この言葉の意味が分かる時がくれば、先程の先輩が見せた態度の理由もきっと理解できると思う」

「会長……」

 

 含むよう言い終えると、ルドルフは優しげな表情を浮かべてエアグルーヴへ振り向いた。

 

「それと、君が最も心配している点──先輩の機嫌を損ねてしまったと考えているなら、それは杞憂だよエアグルーヴ」

「本当にそうでしょうか……?」

「ああ。でなければ退室される時に、彼女があのような言葉を君にかけると思うかい?」

 

 肩に手を添えてくるルドルフを見つめながら、エアグルーヴはシンザンの去り際の光景を思い出してみる。

 

 ダービートライアル。緊張の二分間を制したのはシンザンが応援していた、自らと同じ名を持つウマ娘であった。

 

 一生に一度の晴れ舞台。ダービーへの切符を少女が手に入れたことに対し、彼女は感慨深そうに感動を長い時間噛み締めた後、部屋から退室する際。

 

 

 

『……エアグルーヴ。今度、ご飯奢らせてちょうだいよ』

 

 

 

 と言い残して開け放たれていた扉を潜り抜けて去っていった。

 

 あの発言は彼女なりの謝罪だったのだろうか。しかし真意の程は分からない。

 

 ……余談ではあるが扉が既に開かれていたのは、自らと親しい仲である後輩がレースに勝利、ダービー出走を決めたことにミホシンザンが狂喜のあまりに来賓室の扉を蹴破って飛び出してしまったからである。

 

 見た目とその立ち振舞いから、ミホシンザンのことを物腰が穏やかで控えめな先輩という印象を持っていたエアグルーヴだったが、レースの勝敗が決した瞬間の彼女の苛烈振りに呆気に取られ、思わず引いてしまった程だ。

 

「……ふふっ。そうですね」

 

 どうしてもミホシンザンの取った行動の方に意識が向かってしまう。駄目だと理解していても吹き出しそうになり、顔が綻んでしまう。同時に彼女のお陰で張り詰めていた空気がほんの少し和らいだこともあり、エアグルーヴは感謝していた。

 

 表情に元気が戻ってきたことを確認し、目尻を下げながらルドルフも切り出す。

 

「私は君に謝らなければならない。あの時、咄嗟に君をフォローすることができず、すまなかった。それと、普段のトレーニングでのことだが……」

 

 そこまで言うと彼女は言葉尻を濁らせる。どうやらシンザンの指摘を気にしているようであった。

 

「そのことでしたら、ご心配には及びません」

「エアグルーヴ?」

 

 肩に置かれた手に自らの手を重ね合わせ、エアグルーヴは微かに陰の差したルドルフの双眸を覗き込んだ。

 

「私自身が現状に納得し、ぬるま湯に浸かっていただけのことです。それをシンザン先輩に気付かせていただいただけのこと──私のすることはあなたに振り向いてもらえるよう、より一層努力していくだけですから」

「っ、ああ……そうだな」

 

 挑むように口元を小さく歪ませると、彼女の意志を汲み取ったルドルフも余裕の色を滲ませて微笑んでみせる。

 

「切磋琢磨。今まで以上にお互いを高め合っていこう、エアグルーヴ」

「はい、こちらこそ──必ず、私に夢中にさせてみせますので、覚悟をしておいてくださいね。会長」

 

 

 

 

 

「…………」

 

 レース終了後。シンザンは変装道具も身に付けずに立ち食い蕎麦屋に立ち寄っていた。

 

「…………」

 

 しかし、湯気を立てる蕎麦に口をつけることはせず、黙って(つゆ)の薄茶色の水面を見つめるだけである。

 

「──やっと見つけました」

 

 メインレースが終了したこともあり、客の入りもまばらとなった立ち食い蕎麦屋のカウンターに佇む彼女は、自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声に耳だけを向けて反応させる。

 

「……悪いねミホ。先に食べさせてもらってるよ」

「てっきり、マイの控室まで着いてきてくれていたと思っていたのに──蕎麦の温かいのをお願いします」

 

 左隣で食券を手渡す己と同じ名を持つ後輩へそう呟きながら、シンザンは自分の頼んでいた山菜蕎麦を啜り始める。

 

「……そりゃあ、自分とんでもなく興奮してたから、わたしを置いて先行っちゃったからねぇ──なんかほっぺが赤くなってるけど」

「サプライズでマイにシンザン先輩を紹介しようと思ったら、いなかったので『ミホ先輩の嘘つきっ』って、マイにビンタされちゃったんですよ」

「何、マイちゃんに頬張られたの」

 

 ミホシンザンへ目を向け、視界に入ってきた赤らんだ後輩の頬を訝しんでいると、納得のいかない表情で答えを返され、ああ、自分のせいなのかとシンザンは納得する。

 

「本当にやんちゃなんですから、あの子は……」

「二冠で天皇賞ウマ娘(楯持ち)の自分をどつけるなんて、元気でよろしいじゃないの」

「宥めるのが大変だったんですからね……そんなことより、どうしてマイに会ってあげなかったんですか? マイもですけど、先輩もあの子に会うのをとても楽しみにされていたのに」

 

 注文したきつね蕎麦を出され、店員に会釈して受け取りながら疑問を呈したミホシンザン。

 

 山菜と一緒に蕎麦を啜り、暫しの間を置いてからシンザンは答える。

 

「合わせられるわけないでしょうよ。手前勝手な都合を知るわけない後輩怖がらせた阿呆が、どの面下げてマイちゃんたちに会えっていうのさ」

「……エアグルーヴさんのこと、やっぱり気にされているのですか」

 

 その答えに、ミホシンザンは少し逡巡してから口を開いた。

 

「シンザン先輩は、今でも『神』と呼ばれるのはお好きじゃないんですね」

「……まあね」

 

 不意打ちとはいえ、昔であれば聞き流していたものを、久しぶりに神だなんて呼ばれてしまい動揺のあまり取り繕うことすらできなかったのは、我ながら情けない気持ちになってしまう。

 

「わたしが神だなんだって呼ばれることが好きじゃない理由は……言わなくても自分は分かるか」

「ええ、耳にタコができるくらい教えていただきましたから」

「わたしの努力はトレーナーの努力。わたしの勝利はトレーナーの勝利。わ──」

「──『わたしの栄誉はトレーナーの栄誉』、ですよね」

 

 シンザンが常日頃から胸に刻んでいる、最後の文言をミホシンザンに引き継がれる。

 

「んー。成長したねぇ、ミホ」

「天皇賞を勝たせていただいた時、シンザン先輩のおっしゃっていた言葉の意味がやっと理解できました」

「でしょう? ……わたしが、何事もなく引退まで走り切れたのも、親分が特注の蹄鉄を寝ずに考えてくれたお陰なんだから……本当、感謝しかないよ」

 

 そう言ってシンザンは空いた方の手で自分の脚をそっと撫でた。

 

 一時期、シンザンの脚部はとある欠点を抱えていた。地を蹴る際、()()()()()()()()()()()()()()()()()、実際のフォームと自分の感覚とにズレが生じてしまい自らの脚を蹴り付けてしまうという、類を見ない問題である。

 

 それによる負傷を防ぐにはいかにするか? そこで彼女のチーフトレーナーと担当トレーナーが三日三晩寝ることも忘れて考えられたのが、覆いとT字のブリッジが渡された特注の蹄鉄──『シンザン鉄』である。

 

 蹄鉄の重量それ自体で余りある力に制限を掛け、かつ負担を乗せた状態で実際の走りと己の感覚を擦り合わせていったことで、その問題は解決した。

 

 万が一脚を蹴り付けてしまうことがあっても、蹄鉄と同じ材質の覆いとT字ブリッジが保護の役割を担い、ぶつかり合って衝撃を緩和してくれた。しかし、蹄鉄同士が接触の際に火花が散ることもしばしば起こったものである。

 

 加えて、通常よりも負荷のかかる『シンザン鉄』を常に装着しての練習のお陰で、他のウマ娘よりも足腰が鍛えられたこともシンザンの『五冠』達成の要因の一つにもなっていた。

 

「トレーナーにも、色々教えてもらってさ。基礎的なことから勝負に対する姿勢とか、他の子にはほとんど教えたことのない、秘伝の技とかもね」

「……はい」

 

 かつての日々を思い起こすように遠くを見る眼差しをするシンザンの横顔を、同じ名を持つ後輩はただ見つめるだけ。

 

「親分たちだけじゃない。セッちゃん、アスカ、バリモっちゃん、カネケヤキ、ハク、ミハル──それに、ウメ」

 

 蕎麦を持ち上げ、汁を軽く切りながらかつて同じターフの上で競い合ったライバルたちの名前を口にする。他にも名を挙げたいウマ娘は多くいたが、あまりにも多すぎるため、同期などの数少ない少女たちに留めておく。

 

「皆速かった。皆が強かった。だから、わたしも強くなれた。それなのに……」

 

 シンザンにとって、『五冠バ』への道のりは戦いの歴史──自らを支えてくれたトレーナー、レースで己を負かしてやろうと、勝ちにいこうとする執念を抱き全力でぶつかってきてくれた強力なライバルたちとの大切な記憶であり、思い出であり、宝物である。

 

 そこで『神讃(シンザン)』と讃えられても、彼女には困ることしかできなかった。まあ本音を言うと名前をもじった軽い駄洒落のようなもので、メイクデビュー前後は『新参(シンザン)』なんて呼ばれてからかわれていたこともあって、ちょっとばかし気に入っていたのは事実だ。

 

 だから『神讃(シンザン)』はまだいい。だが『神バ』だとか『神の名を持つウマ娘』だとか『神脚』だとか呼ばれることは話が別になる。

 

 シンザンにとって『神讃(シンザン)』とは自分のことではない──自分をトレセン学園へと送り出してくれた両親、日々己の為に鍛錬をつけてくれたトレーナー、鎬を削り合ったライバル、レース場に足を運び応援してくれた観客、純粋な眼差しを向けてくる可愛い後輩──自分に関わってくれた全ての人々こそが『神讃(シンザン)』なのである。少なくとも、自分は真剣にそう捉えていた。

 

 

 

「──レースは自分一人だけじゃあ、成立しないのにね」

 

 

 

 そうごちると、シンザンは蕎麦を啜りあげる。

 

 自分に携わってくれたトレーナーや共に競った友人の存在を(ないがし)ろにされた挙げ句、自分の脚だけで今の結果を残し、彼ら彼女らの功績に目を当てられず、己だけが祭り上げられ、讃えられてしまう……シンザンにはそれが悲しくて仕方がなく──だからこそ神と呼ばれることが我慢ならなかった。

 

「…………」

 

 ミホシンザンは敬愛して止まない、偉大なる先輩の言葉にただただ黙って耳を傾ける。

 

 絶対にして孤高──『五冠バ』シンザンが胸の内に秘めた、シンザンというウマ娘の本音を知る数少ない一人として、彼女は沈黙を貫いたまま、油揚げに齧りついた。

 

 

 

 

 

「あふっ」

「大丈夫? ちょっと落ち着いて、水飲みなさいよ」

「ふ、ふみまへん……」

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