神が讃えしその駿駆   作:松武栗尾

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第十三話 三本目の『鉈』

 昼休みに入り、シンザンは一人腕を組んでカフェテリアの天井を見上げていた。

 

「……こないねぇ」

 

 何時ぞやのようにシンザンは後輩と待ち合わせをしていたのだが、未だその相手が姿を現さないことに彼女はぼやいてしまう。

 

 とはいえ昼休みになってからまだ五分も経っておらず、午前中のカリキュラムを終えた生徒や職員たちで周囲のテーブルがちらほら埋まり始めてきたばかり。今回に関しては単純にシンザンが()()()気が逸っているだけだった。

 

「今日はきてくれるって言ってたから大丈夫だと思うけど……」

 

 と、もどかしさでもぞもぞと体を動かすシンザンの元へ、つかつかと大股で歩み寄ってくる人影が。

 

「──休憩中のところ失礼します」

「んー? あら、エアグルーヴじゃない」

「少し、よろしいでしょうか」

 

 目元のアイシャドウが目を引く生徒会の副会長のエアグルーヴだった。

 

「もちろん良いけど、どうしたのよ?」

「先輩は『マツカゼ』という名前に覚えはございますか」

 

 その彼女がいきなりやってきたかと思えば、脈絡もなく切り出された問いに、シンザンはぴくりと耳を震わる。

 

「どうしてよ」

「今、学園の受付担当から連絡が入っていまして──『マツカゼ』という生徒から出前の注文があったという蕎麦屋が訪れている、と」

「……だとして、どうしてそれをわたしに聞きにきたわけ?」

「その蕎麦屋というのが、その……先日、先輩にお連れしていただいた『よしまつ』という蕎麦屋でしたので……」

 

 非常に気乗りしない面持ちで告げたエアグルーヴから、シンザンふいと目はを逸らす。

 

 『よしまつ』とはシンザンの現役時代、トレーナーやチームメイトたちと足繫く通った馴染みの蕎麦屋である。以前、エアグルーヴを怯えさせてしまったお詫びに連れて行った蕎麦屋でもあった。

 

「学園の生徒が出前を注文するのは校則に反しています。カフェテリアで食事の提供もされていますし、購買もあるのですから、できればそちらの方を使用していただけないかと……」

 

 店名を聞いてピンときたのだろう。だからこそエアグルーヴはわざわざ自分のところまで足を運んできたのだ。

 

「いやね、分かってはいたんだよ? ただ、昔はよく親分とトレーナーが出前頼んだ時に、一緒に注文してもらってたからさ……」

「私ごときがご指摘するのはおこがましいのは理解しています。ですが、他の生徒が真似しかねない行為は差し控えていただければ……」

「うん、次からはしないよ。だから今回は見逃してくれないかなぁ?」

 

 十割己に非があることを理解しているシンザンは観念して両手を合わせ、上目遣いにエアグルーヴを拝み見る。

 

 一生徒とはいえ相手は『五冠ウマ娘』。事後ということもあり大先輩から頼み込まれては流石の女帝も駄目とは言えなかった。

 

 それに彼女が出前を取った店の料理の素朴だがシンプルな味の良さを知っている身としては、仕方がないかとため息をつくしかない。

 

「今後はよろしくお願いします──しかし、何故今日に限って出前を取られたので? それに、わざわざ偽名を使う必要はないと思うのですが……」

「今日はどうしてもご馳走したい子がいたからさ。それに、あそこの出前を頼むときは昔っから使いたくなるんだよねぇ。この名前(マツカゼ)

「はあ……」

 

 後輩にご馳走をしたい、その答えに一つ心当たりがあったエアグルーヴはなるほど、と腑に落ちる。

 

 ……まあ偽名を使う意味は結局理解できなかったのでその点は曖昧な返事をするだけだったが。

 

「では、こちらに向かわせるよう受付には伝えますので」

 

 とにかく、目的は達成したし今後は控えるとの言質も取ったので、肩の荷が下りたエアグルーヴはすごすごと退散する。

 

 正直、先日のシンザンの地雷に触れたことで気圧された記憶が未だ彼女の脳裏に生々しく刻まれており……内心ビクビクしていたのだった。

 

「……悪いことしちゃったなぁ」

 

 それを察してシンザンもエアグルーヴに無駄な気を遣わせてしまったことを自省して頭に手をやって彼女を見送る。

 

 少しして彼女の言葉通り、白い作務衣に身を包んだ男性が岡持ちを手にカフェテリアへに姿を現した。

 

「おーい、こっちこっち」

 

 しかしそれはそれ、これはこれだ。これから大事な約束があるのだから、とシンザンは意識を切り替え、手を振って出前を自分の元へ誘導する。

 

「お待たせしました。『よしまつ』ですー」

「どうもぉ、この間ぶりだね」

 

 突如現れた蕎麦屋ににわかにざわめく周囲の生徒たち。しかし彼女は注目されていることなど意に介さない。

 

「出前を頼まれるのは久しぶりですけどね。てっきり、トレーナー室の方へ案内されると思ってましたけど」

「んー、色々あってねぇ。そんなことより、ほら。お客が待ってるんだから」

 

 顔馴染みの蕎麦屋のあんちゃんと軽く雑談しながら、ポンポンとテーブルを叩いて注文の品を置くよう催促した。

 

「はいただいま。まず、せいろが三つですね。でこちらが──」

 

 一つ一つ岡持ちから出される料理を目視し、頷きながら注文と相違ないことを確認するシンザン。

 

「──タマ。タマ」

「んー。どないしたオグリン」

 

 たまたま通りがかった生徒の一人、芦毛の少女がシンザンと出前の交わすやり取りに気付いて足を止めた。

 

「あれを見てくれ」

「なんやねん藪から棒に……って。あれ、シンザン先輩とちゃうか?」

 

 どこかおっとりとした彼女──アイドルウマ娘として絶大な人気を博するオグリキャップに袖を引かれ、振り返ったタマと呼ばれた芦毛をした小柄な少女。白い稲妻の異名を持つタマモクロスが大先輩の存在に目を丸くする。

 

「シンザン先輩?」

「……自分、それ本気で言ってるんなら、冗談抜きで不味いで」

「そうか、それは気を付けないとな。そんなことよりも、タマ。テーブルの上に並ぶ食事を見てほしい」

 

 シンザンの名に特段反応を示さず、どころか彼女の存在を脇に置いたオグリに、普段から彼女の天然っぷりに慣れた突っ込みをかましているタマも流石に言葉を失ってしまう。

 

「結局は飯の話かい……」

「蕎麦に煮込みうどん、カツ丼にもつ煮にカレーライス……たまらない献立だな」

「……オグリン、垂れとる垂れとる」

「ん、ありがとう」

 

 涼しい表情とは裏腹に口元からちろりと涎を除かせるオグリへ、物も言えなくなったタマは指差して指摘する。

 

「しっかし、『五冠ウマ娘』とはいえ、わざわざ出前頼むなんて物好きなウマ娘やな」

 

 口元を拭った彼女を横目に「もつ煮頼んでないよ?」「大将からのサービスです」などと出前のあんちゃんと呑気に言葉を交わし、こちらに気付く様子のない大先輩の姿に気を取り直したタマはため息を溢した。

 

 トレセン学園は生徒たちへの食事は基本無料で提供している。わざわざ自腹を切って出前を取るとは、酔狂なことであると。

 

「それに一人であんな量食べれるんかいな」

 

 テーブルに並べられた食事の量は明らかに多く、二、三人前など軽く通り越し、五、六人前はあるだろう。一人で食せるキャパシティを優に超えている物量だった。

 

「? あのくらいなら普通に食べられると思うんだが……」

「飯のことに関しちゃ、自分の基準はアテにならへんって」

 

 見た目に見合わぬ大食漢であるオグリのとぼけた発言に、タマはぺちんと彼女の肩を叩いた。

 

「けど、確かに旨そうやな。頼んだらちょびっとだけ味見させてもらえたりせえへんやろか?」

「……聞いてみよう」

「なーんて、冗談なんやけど──って、は?」

「もし、あの量を一人で食べるつもりなら、私たちにも少し分けてもらえないか掛け合ってみよう」

「ちょっ、待いちや──!」

 

 『五冠バ』シンザンがわざわざ実費で頼んだ昼食を横取りするような真似など、できるはずもない。だが真に受けたオグリが花に誘われる蜜蜂のようにふらふらと寄っていくので、タマは慌てて制止するが彼女は止まらない。

 

「サービスかあ。相変わらず粋だね、大将は」

「取り込み中にすまない、先輩」

「今度お礼用意して置こうかなぁ──って」

 

 蕎麦屋の店主の計らいに顔を綻ばせていたシンザンへオグリが声をかけると、振り向いた彼女は意外そうな表情を浮かべてオグリを見上げた。

 

「おー。誰かと思えばオグリキャップじゃないの」

「私を知ってるのか?」

「そりゃあもちろん。自分を知らないウマ娘はそうそういないでしょう」

 

 まさかのスーパースターに声をかけられ、シンザンも思わず腰を浮かしてオグリの手を取って握手をしてしまう。

 

「わたしもラジオで聞いてたよ。自分の引退レース。それで、あのオグリちゃんが何の用?」

「それは嬉しいな。ところで、先輩はとても美味しそうな出前を頼んでるみたいだが……」

 

 言い淀む彼女の視線がテーブルの上に並ぶ蕎麦や煮込みうどんににちらちらと向けられることに気が付く。

 

「ああ、自分も食べたいの?」

「……うん。先輩が良ければ、なんだが」

「ごめんねぇ。実は先客がいてね、これはその子らと食べる予定なんだ」

「そう、か」

 

 困ったように頬を搔いたシンザンの残酷? な返答にしょんぼりと耳を垂らすオグリキャップ。

 

 

「とても美味しそうな蕎麦なのに……残念だ」

「アホ! ホンマに聞きにいくやつがおるかいな!」

 

 そんな彼女へ小柄な人影が飛び付く。焦ったタマモクロスが腕を掴んでオグリを引き戻そうとする。

 

「タマ……」

「お、今度はタマモクロスじゃない」

 

 先程の女帝に目の前の落ち込む芦毛と狼狽える芦毛。立て続けに現れるトゥインクル・シリーズの有名人を前にシンザンは他人事のように感想をこぼした。

 

「エアグルーヴといいオグリちゃんといいタマちゃんといい、今日は沢山のスターに会えるねぇ」

「けど、タマは我慢できるのか? 湯気の立ち上るカツ丼にもつ煮込みを。器に綺麗に盛られた山盛りの蕎麦を前にして……!」

「そういう問題ちゃうねん! か、堪忍してぇなシンザン先輩! オグリンは飯のことになると──」

「あのー、シンザンさん。勘定なんですけど……」

「おっと」

 

 漫才のように揉める二人を眺めていた彼女へ、弁明しようとしていたタマの叫びを遮って代金を要求する蕎麦屋のあんちゃんの声がかかる。

 

「忘れてたよ、ごめんなさいね。いくらだったっけ」

「五,八八〇円ですね」

「はいはい」

「──ちょいと周りが見えなくなっ、て……」

 

 タマの叫びに耳を傾けつつも、横から蕎麦屋のあんちゃんに代金を請求されたシンザンはゴソゴソと財布を取り出す。

 

「どうぞ」

「一万円ですねー」

「お釣りはいいよ。取っておいてちょうだい」

 

 一万円札──ユキチではなく何故か聖徳太子だった──を一枚抜き取り、映画でしか聞いたことのない粋な台詞を口にして手渡した。

 

「空の器は料理長に預けとくから、気が向いた時に取りにきて」

「分かりました──毎度です!」

 

 代金を受け取った蕎麦屋のあんちゃんも特に疑念を挟むような真似はせず、素直に頭を下げると岡持ちを手にカフェテリアから立ち去っていった。

 

「安心してよタマちゃん、別に気にしてないから。オグリちゃんもそんな悲しい顔しないでさ。機会があれば今度連れてってあげるから」

「っ、それは本当か?」

 

 背からすぐに視線を外してシンザンがそう言うと、タマに抑えられていたオグリは耳を立て、尻尾をふりふりしながら嬉しさを隠しきれずに顔を輝かせる。

 

「モチのロンよ。楽しみにしといてちょうだいな」

「ああ……! ありがとう、先輩──タマ、今度私たちに奢ってくれるそうだぞ……タマ?」

 

 静かにであるがはしゃぐオグリと対照的に、何故か固まったまま動かないタマを訝しんだ。

 

「タマちゃん? どうしたの?」

「……へん」

「なんだって?」

「隙間が……あらへんやん」

「「?」」

 

 魂が半分抜けたような顔で言う彼女に、オグリとシンザンは顔を見合わせ、首を傾げてしまう。

 

「とにかく、邪魔をしてすまなかった。わたしの予定は気にしなくてもいいから、その時はよろしく頼む」

「分かったよ。今度の休みにでも声かけたげるからねぇ」

 

 オグリは大きく頷き「『五冠ウマ娘』って、儲かるんやな……」と放心状態で呟くタマを支えながら、ホクホク顔で去っていった。

 

 ……タマがショックを受けた理由。それは札束でパンパンに膨れあがったシンザンの財布の中身を──それも帯封までされていた中身を覗いてしまったためだった、ということにオグリは終始気付くことはなかった。

 

 そんなことは露と知らず「カサマツは学食でも冷たい蕎麦を出していてくれてたんだが……中央でも提供してくれるよう、今度ルドルフに掛け合ってみよう」などと、オグリは呑気に学園の提供メニューの追加に夢を馳せる始末であった。

 

「……ようし。出前もきたし、後は後は主役を待つだけだぁ」

 

 遠ざかる二人の芦毛を視界から外し、色々あったが歓迎の準備が整ったところでふんっ、とシンザンは機嫌良く鼻息を一つつく。

 

 事ここに至ること早一ヶ月。

 

 最初の機会は会わせる顔がないと断られ、次の機会は自らのいたらなさで潰してしまった。

 

 だか今回は違う、今回こそは大丈夫なはずだ。こちら側もあちら側も手筈は整っている。今日がやってくるまで何度も確認は取った。今日こそはあの子の顔を見れるるはず。

 

 後は食事が冷める前にきてもらえれば──

 

「シンザン先輩」

 

 なんてことを考えていれば、自分の名を呼ぶ聞き慣れた声が鼓膜を叩き、待ってましたとばかりに彼女は振り向いた。

 

「やーっときたかぁ」

「すみません……またお待たせしてしまいました」

 

 視線の先にいた親しい後輩──ミホシンザンの申し訳なさそうな笑みを見つめながら、シンザンは分かる者にしか分からない変化で声を弾ませる。

 

「本当だよ全くー。この間も言ったけど偉くなっちゃってさぁ」

「この子を落ち着かせるのに時間がかかっちゃいまして……」

 

 そう言葉を続けたミホは鹿毛のロングストレートを揺らして後ろを振り返る。

 

「ほら。シンザン先輩にご挨拶は?」

「…………」

 

 自分の背から瞳だけを覗かせて大先輩を見つめる、肩の高さで濃い鹿毛を揃えた一人のウマ娘を彼女は促した。

 

 ミホの背に隠れる──とは言うが彼女より背が高いため、隠れられているとは言えなかった──少女は一瞬躊躇う素振りを見せたが、恐る恐るその姿をシンザンの前へと現した。

 

「ご、ごきげんよう。シンザンせんぱい」

 

 気位が高そうでいて、かつ幼さの残る顔を緊張と不安で強張らせながら、パッと見お転婆そうな印象とは裏腹の優雅なお辞儀をそのウマ娘は披露する。

 

「んんー、ご機嫌ようご機嫌よう」

 

 丁寧な挨拶を受けたシンザンはシンザンで、立ち上がるとご満悦の面持ちを浮かべた。他人には滅多に見せない、心からの笑顔である。

 

「きてくれてありがとう。わたしはね、こうして自分と会えるのをすっごく楽しみにしてたんだ」

 

 こうして対面できたことへの感謝を伝えつつ、隠しきれない喜びに浸りながらシンザンはミホと同じく己と同じ名を冠したもう一人の小女の肩を叩き、見上げて笑いかけた。

 

「さあ座って座って。出前頼んでおいたから好きなの選んでちょうだい。自分とは、沢山お話ししたいことがあるんだ────マイちゃん」

 

 

 

 

 

 新聞でその名を見たときから運命的な何かを感じていたマイシンザンと、偶然にも彼女と親しい間柄であったミホシンザンの二人とテーブルを挟んで、シンザンは気分良く蕎麦を啜りあげて先日のレースの話題を切り出した。

 

「この間のトライアル競争*1はすごかったねぇ。あの直線での走り。皐月賞の時の自分を見てたみたいで感動しちゃったよ」

「もう、お上手なんですから。シンザン先輩もこう言ってくれてるわよ?」

「わ、わたくしがダービーに出場する姿を、トレーナーとミホせんぱいに見ていただきたかっただけですわ……」

 

 二人の先輩を前に、蕎麦や煮込みうどん、カツ丼といったご馳走に緊張で手も着けられず、マイことマイシンザンは手放しの称賛に顔を赤らめ、もじもじと照れ臭そうに小声で返す。

 

 自分よりも上背のある体を縮こませるその姿に、シンザンも愛らしさと親近感を抱かずにはおれずどうも頬が緩んでしまう。

 

「あらぁ、健気なことだぁ」

「ダービーへの出走も決まって、やっとシンザン先輩に顔向けができるって大変だったんですよ。まあその流れでビンタされるとは思ってませんでしたけど」

「あ、あの時はミホせんぱいがシンザンせんぱいも応援にきてくれたなんて嘘をついたのがいけないのでして……っ!」

 

 以前張られた頬を手で抑えながらころころと笑ったミホへ立ち上がる勢いで慌てて弁明を試みるマイ。自身の尊敬する大大大先輩の手前、彼女は己の失態をほじくり返されたくなかったのだ。

 

「だからあの時は色々あったって──」

「まあまあ二人とも落ち着いて。そんなことよりもさ、この間知ったんだけどマイちゃんってわたしのレースも出てたんだって?」

「シ、シンザンせんぱいのレース? あっ、そ、それは……」

 

 二人して口喧嘩をしそうな勢いだったので、場を収めようとシンザンは話題を振ってみれば、マイの気勢がみるみるしぼみ口ごもってしまう。

 

「マイはシンザン記念(あのレース)のことを触れられたくないんですよ」

「あ、そうだったの」

「シンザン先輩の名を冠したレースに出れるーって、あの時はすごい焦れ込み様で。それはもう見事な逆噴射を──」

「もうやめてくださいまし……あのような恥を晒すのはもう沢山ですわ」

 

 恥ずかしさのあまり耳まで真っ赤にしてマイシンザンは顔を両手で覆う。

 

 彼女にとってクラシック級に上がって最初のレースであったシンザン記念。マイシンザン(その名)に違わぬ走りを、と気合いを入れて望んだもののお手本のような空回り。殿負けに泣いていたのだ。

 

「……なるほど、ミホにとっての会長と走った有マみたいなものかぁ」

「うっ」

 

 しれっと流れ弾を食らい、胸を抑えながらミホシンザンは顔を苦痛に歪める。

 

 似たような反応の二人に、なんだか親子を見てるみたいだ、とシンザンは微笑ましい気持ちが自然と湧いてくる。

 

「へへ、誰にだって思い出したくないレースの一つや二つはあるわな……で。本題だけど、ダービーまで二週間切ったけど、実際のところどうなのよ? 調子は」

 

 自分の気にかかった後輩から中々シンザン記念(自分のレース)を勝利する子が出てこないなー、と内心残念がりつつ、シンザンは気を取り直して身を乗り出し興味津々に本題を切り出した。

 

「──っ、ト、トレーナーさんとも相談してますが、まずまずといったところですわね……ミホ先輩」

 

 単刀直入に突っ込まれ、シンザンの鋭い眼差し──少なくとも本人はそう思っている──体つきこそ大人びているがまだ中等部のマイはその思惑通りに体を強張らせ、彼女ではなく親しい先輩であるミホへと返答する。

 

 伝説の『五冠ウマ娘』へ目を見て直接口答えするなど、少女にはまだまだ畏れ多かったのである。

 

 後輩の胸中を察するミホは被弾からどうにか立ち直り、会話の仲介を再開する。

 

「ま、まずまずみたいですよ」

「そう! それは良かった! こりゃあ本番が楽しみだぁ──しっかり応援させてもらうからね、マイちゃん」

「ですって、マイ」

「ぜ、全身全霊。ベストを尽くす所存ですわ」

 

 現地に馳せ参じるとまで言われ、暖かい言葉までもらえたマイはなおさら畏まりながらも、やはり嬉しさは隠し切れない。

 

「ふふ、今年のダービーはいつにも増して熱くなりそう……二人とも。この辺りでお話しは一旦このあたりで。先にお昼をいただいちゃいましょうか」

「そ、そうですわ。そういたしましょう」

 

 シンザンとマイとの間で首を左右に振り振りしながら、進んで二人の会話の橋渡しをする、優しげな面持ちをしたミホの勧めに少し気が解れ、小女は椅子の下で尻尾をフリフリして自身の目の前に置かれたカツ丼に口をつけようと箸を伸ばす。

 

「シンザン先輩も、マイとお話ししたいのは分かりますけど、頼んでくれたんですからお昼が冷める前に──」

「それもそうだね。けど、トライアル競争で良い走りをした子で、ダービーを勝った子ってあんまりいなかった気がするんだよなぁ」

「え」

 

 くるくると箸先で虚空に円を描きながらかまされた唐突のカミングアウトに、マイは弾かれたように顔を上げた。

 

「そ、それは本当のことでして?」

「正確にはトライアル競走で出走権を得た子でダービーに勝った子があんまりいない、だけどね」

「シンザン先輩っ」

 

 「なおさらではありませんの……」と顔を真っ青にして椅子から崩れ落ちそうになるマイ。彼女の肩を慌てて支え、ミホは無遠慮な発言をした先輩へ信じられないといった感情をありありと顔に浮かべる。

 

「どうしてこのタイミングで物騒なことをっ。しかもばっちり当てはまるジンクスを言うなんて、マイがショックを受けてるじゃありませんかっ」

 

 気を良くして口が軽くなった結果、余計な情報を滑らせてしまい強い非難の視線をミホから向けられて流石のシンザンもたじろいだ。

 

「ただでさえ空回りしがちな子なんです。今の不用意な発言が元で気持ちを乱されたらどうするんです? 皆が皆シンザン先輩のように心臓に毛が生えてるわけじゃ──」

「ご、ごめん……けど、わたしだって何も不安にさせるために言ったんじゃあないんだ」

 

 ミホの正論かつ思わぬ反論に、ちょっぴり焦ったシンザンは手振りをつけて誤解を解こうとする。

 

「じゃあどういった意図を持って今の発言を?」

「わたしはね、信じてるから。マイちゃんのことを」

「わたくしを、ですか……?」

「うん。トライアル競争の走り──あの走りを見て確信したよ。マイちゃんならダービーに勝てる」

 

 俯いていた顔を上げたマイへあっけらかんと言い放った先輩の言葉に、ミホは垂れ気味の瞳を瞬かせた。

 

 普段は思ったことを率直に言うタイプのシンザンだが、ことレースに関連する物事に関しては明確な物言いをしない。何故なら自分の言葉一つで周囲に与える影響の大きさを知っているからだ。

 

 その彼女が()()()()()()と断言した。

 

 最も親しくしている人物の一人であるミホだからこそ、シンザンがマイへ行った箔付けに驚きを隠せなかった。

 

「トライアル競争からのダービー出走の不利だとか、三強BNWが相手だとか、そんなものは関係ないね」

 

 そんな思いを知ってか知らずか、シンザンはかつてダービーへの夢半ばにし怪我によって出走を断たれ、人知れず悔し涙を流していた彼女の姿と、彼女が臨むことが叶わなかった舞台へ挑む、まだ幼さの残る自らと同じ名を抱いた少女の姿(マイ)を重ねる。

 

「マイちゃんが見せてくれた『鉈の切れ味』ってやつを、ダービーで世間様に見せつけてやりなさい」

 

 今まで見届けてきた数多の後輩たち──最もその栄冠に近いと言われていたミホですら果たせなかったマイシンザンのダービー制覇を信じ、その深い輝きを湛えた黒い瞳で見つめながらシンザンは力強く頷いた。

*1
NHK杯。一九九五年廃止




マイシンザン

トレセン学園の中等部所属
身長はゴールドシップよりやや高い
性格は気が強いところがあるが根は真面目な少女で、その真面目さ故に気合いが空回ることもある
同じ名を持つミホシンザンの天皇賞の走りに感動しトレセン学園に入学。彼女の影響でシンザンをそれこそ神様のように敬愛するようになった……が、畏れ多くて自分からは中々声をかけられない
知る人ぞ知る旧家の出身。実はやんごとなき方々との関係があるとかないとか……

ミホシンザンとシンザン。尊敬する二人の偉大な先輩に並び立ちたいとの大きな夢を抱いて最高の栄冠・日本ダービーへと挑む――ダービー出走、それが大いなる泰山の麓、スタート地点であると理解しながら

バナナが好きでデビュー時期の被ったビワハヤヒデとは同じ物好き同士意気投合している
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